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第三章:|秦廣王《しんこうおう》 ―― 冥界の第一審判官

生前、母が口癖のように言っていた言葉がある。

「人は善行を積まねばならない。さもなくば、死して鬼差(きさい)に舌を抜かれることになる」

当時の俺は、それを大人が子供を脅すための安っぽいお伽話だと思って聞き流していた。

だが、まさか死んでもいないのに、舌も付いたままで、俺がこの陰曹地府(いんそうじふ)の門前に立たされることになるとは夢にも思わなかった。

青紫色の霧の中にそびえ立つ、陰風に晒されたその場所を見上げ、俺は言いようのない悲哀に襲われた。恐怖ではない。「人生のどこで選択を誤ったのか」という、救いようのない困惑だ。いつか本当に寿命を全うして九泉(きゅうせん)の下へ行ったとき、俺は一体どんな顔をして先祖に合わせればいい? 現世にいるうちに、ここで「実習」をしてきましたとでも言うのか?

エレベーターを降りると、そこは酆都(ほうと)城の城楼へと直通する「黄泉路(よみじ)」だった。距離にすれば一キロもないだろう。

だが、四方八方から押し寄せる「隣人」たちが、俺の精神的な防波堤をあっさりと決壊させた。

ここ数週間で、俺は飯を食った回数よりも多くの幽霊を見てきた。それなりの耐性はついたつもりだったが、俺は間違っていた。目の前の光景は、これまで見てきたどの怪異ともスケールが違う。その嫌悪感は全方位から、立体的かつ無死角に襲いかかってきた。

断肢、流膿。溶けかけた蝋燭のように崩壊し、もはや人の形を留めていない「何か」が、意識だけを保ったまま地面を這いずり回っている。

「マー姐さん、助けて――!」

危うく「お師匠様(マスター)」と叫びそうになったが、間一髪でその言葉を飲み込み、最低限の尊厳を死守した。

俺の前を行く馬三娘が冷たく鼻で笑い、錆びついた西瓜刀(ナタ)を抜き放った。彼女が振り返り、四方から蠢き寄る影に向けて一喝する。

「魂を消し飛ばされたい奴から近寄りな。失せろ!」

その声は、沸騰した油の中に氷を叩き込んだかのようだった。

冤魂えんこんたちは血の気が引いたように後退りし、ブツブツと呪文のような声を漏らす。

馬面めめんが来た」「馬将軍だ」「なぜ生きた人間を連れている?」「あの男、顔色が真っ白だぞ」――最後の一言にだけは、反論の余地がなかった。

群衆が割れた隙間に、清朝の三品官の服を着た老人の幽霊が立ちはだかった。

官威を漂わせる落ち着いた佇まいだが、その右手には自らの生首が提げられていた。首の切断面は生々しく、罪人として斬首された当時のままであることが窺える。生首側の灰色の眼球が、低い位置から俺を凝視し、甲高い声を上げた。

「九百六十四年ぶりだ! (パオ)大人以来、二人目の生きた人間が……! なんという貴人だ、来世の幸せをどうかお守りください……!」

老人は手の中の生首を激しく揺らしながら、俺に向かって猛烈に拝み始めた。

「老いぼれが」馬三娘の刀が老人の喉元に突きつけられる。「これ以上近づけば、阿鼻地獄へ直行させてやる。私は公務中だ。邪魔する者は、誰であれ容赦せん」

鬼たちがそそくさと散り、俺は馬三娘の視界を遮るように、彼女の頭の真後ろだけを見つめて歩き続けた。


「いいか、三つのことを守れ。」

馬三娘が不意に足を止め、いつになく真剣な眼差しで俺を見た。

「一つ、私以外から渡された物を受け取るな。二つ、ここの飲食物に口をつけるな。そして三つ目――」

彼女が耳元で囁く。その冷気が鼓膜を凍りつかせた。

「お前にできないこと、あるいはしたくないことに、絶対に『頷く』な。」

ここにある「親切」はすべて、現世に帰るための足を縛る「鎖」になる。一口でも食べれば、一言でも応じれば、お前の体は地獄に繋ぎ止められるのだ。

俺は震え上がった。いつの間にか手に握らされていた「熱々の肉まん」を、全力で放り投げる。それは地面に落ちた瞬間、腐肉へと変わり、どす黒い煙を上げて消えた。

俺は残りの滞在期間中、絶対に両手をポケットから出さないと誓った。

城楼が近づくにつれ、重圧がのしかかる。

だが、馬三娘は城門の前で困ったように頭を掻いた。彼女の口から出たのは、意外な言葉だった。

「……悪い。予定が変わった。ウチの『ボス』が先にお前に会いたいそうだ。第一殿、秦広王(しんこうおう)

だ。」

俺の持ち(チップ)はゼロだ。完全なるゼロ。

俺は木偶人形のように頷くしかなかった。


そこに現れたのは、巨大な黄金の蓮華(れんげ)だった。

「それに乗れ。済公(さいこう)から借りてきた代物だ。」

蓮華は猛スピードで疾走し、霧を切り裂く。

「これを持っておけ。観世音菩薩の『浄瓶水』だ。耐えられなくなったら一滴だけ飲め。命は助かる。」

俺は震える手でそれを受け取った。「……一気に全部飲んじゃダメ?」

「ダメだ。」「半分なら?」「ダメだと言っている。」

やがて、鼻腔を焼くような濃厚な血の臭いが立ち込める。

目の前に現れたのは、亡者たちが震え上がるはずの威厳に満ちた第一殿――。

「……いや、これはどう見ても、巨大なチェーン系スーパーじゃないか。」

大ホールには、黒い執事服に身を包んだ「審判官」たちが並んでいた。彼らの手には、コンビニで見かけるような赤外線スキャナーが握られている。

亡者が前に出るたび、審判官はその額を「ピッ」とスキャンする。

周世傑(ジョウ・シージェ)、二十七歳。詐欺、窃盗罪。抜舌地獄にて三百五十九年、その後、油鍋地獄へ。次の方。」

報菜単(お品書き)を読み上げるような淡々とした口調。

「殺人罪だと!? 現世で無期懲役を食らったんだぞ! 二重処罰じゃないか!」

抵抗する巨漢の男も、システムの一部のように淡々とア鼻叫喚地獄へと引きずられていく。

そして、その審判官の一人が、列の後方にいた俺を指し示した。

俺の脳内は真っ白になり、足が勝手に、機械的にそのスキャナーの前へと進んでいった。

「『ピッ――』」

赤い光が俺の額を掠める。眉間から細い針が入り込み、脳内をスキャンして情報を吸い出したような、冷たい感覚が走った。

審判官の眉が跳ね上がった。スキャナーからは、読み取りエラーを知らせる不快なノイズが鳴り響く。

何度スキャンしても、結果は同じだった。

ホールが静まり返る。審判官のモニターに映し出されていたのは、刑期でも罪名でもなかった。ただ、無機質な白い文字が、安っぽく点滅していただけだ。

【システムエラー:権限が不足しています】

審判官の瞳に、軽蔑を塗りつぶすほどの「恐怖」が宿る。俺は、どのカテゴリーにも分類できない「バグ」になったのだ。

背後で馬三娘が小さく溜息をついた。

「一分一厘でも(しち)に入っている限り、こいつらに『精算』はできない。忘れるな、お前は今、抵押ていおうされた大貴人なんだからな……」


ホールは一瞬にして静まり返った。スキャナーが吐き出した「ピー――システムエラー」という警告音が、出口を求めて反復し続けている。

ここは地府第一殿。世界中の魂を処理する、銀行よりも厳密な生死の帳簿システムだ。ここでは「フリーズ」などという言葉は存在しない。

だが、審判官の顔は青ざめ、額からは脂汗が滴っていた。まるで、理解不能なバグに直面したプログラマーの絶望そのものだった。

馬三娘(マー・サンニャン)が淡々と一枚のカードを差し出す。スキャンされた画面に表示されたのは、たった三文字。

大貴人だいぎじん

「日本製のコンプレッサーと同じさ。滅多にお目にかかれるもんじゃない。」

馬三娘が俺の耳元で囁く。「ソーシャルゲームで言えば、貴人はSSR。大貴人はURだ。……お前はURなんだよ。」

その時、虚空から染み出すような、重厚で逃げ場のない声が響いた。

「八両七銭の貴人か……」

「ドサッ」という音と共に、さっきまで俺を地獄へ放り込もうとしていた審判官が、黒石の床に膝をついた。

「大貴人様がお越しとは露知らず! この通りでございます!」

額を叩きつける音がホールに響く中、俺はただ困惑に溺れていた。

その時、空無だった壁面に無機質なアクリル看板が現れた。そこには冷たい日光灯の光で『OFFICE』と書かれている。

現れたのは、紫のヘビ革スーツに身を包んだ、オールバックの男――秦広王(しんこうおう)だった。

周泰(ジョウ・タイ)、それ以上タイルを割るなら、修繕費はお前の徳の俸禄から差し引くぞ。」

王の声は、冷蔵庫の奥から取り出した氷のように冷たかった。彼はそのまま俺を促す。「入れ。ドアを閉めろ。」

磨りガラスのドアが閉まった瞬間、台北の湿った熱気は遮断された。

そこは、高度なサーバー室と死を祀る祭壇が融合した『電子の霊堂』だった。

秦広王は巨大なデスクに座り、葉巻の煙を燻らせていた。

「座れ。……最近、少々困ったことが起きてな。大貴人には見苦しいところを見せた。」

彼はこちらの顔をまともに見ない。その目は、機材の減価償却を計算するような、冷徹な査定の目だった。

「お前の管轄(エリア)城隍(じょうこう)が殺された。……知っていたか?」

俺の体は椅子に縛り付けられたように硬直した。

「お前の誤進入(エラー)を利用して、陽間への穴を開けようとした奴がいる。……命は助けてやる。だが、死罪は免れても活罪(かつざい)は逃れられん。お前には、やってもらう仕事がある。」

秦広王はデスクに一束の事件ファイルを放った。

「失った功徳は、自分の働きで買い戻せ。お前は今日から、冥界の陽間における『使い走り(エージェント)』だ。」

彼はキーボードを叩き続ける。その音は、乾いた骨を爪で掻きむしるような不気味な響きだった。

「馬三娘、こいつを民生東路へ連れて行け。短期滞在の期限を過ぎた不法残留者が暴れている。陽間の『鍾馗(しょうき)特戦隊』ですら、返り討ちに遭ったそうだ。」

秦広王は二度と顔を上げなかった。

俺はこの巨大な機械に組み込まれた、最新の『予備部品』に過ぎないのだ。


俺はその事件ファイルをじっと見つめていた。脳内は、言葉にできない空白で満たされていた。

馬三娘が俺の隣に立ち、淡々と言い放った。

「行くよ、相棒(パートナー)。最初の仕事が待ってる。」

彼女は「最初」と言った。「唯一の」ではない。

ふと思った。俺の人生は、これからとても長いのかもしれないし、あるいは、とてつもなく短いのかもしれない。

だが、今夜を境に――決して退屈することだけはないだろう。


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― 新着の感想 ―
「日本製のコンプレッサーと同じさ。滅多にお目にかかれるもんじゃない。」という例えについての感想 難しい例えだ。 一番レアなのは「日本製の武器」だったりするのカナ?
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