第二章:命懸けの契約 ―― 削られた魂の代償
台湾の台北を舞台にした、少し不気味な現代ファンタジーです。現実と虚構が混ざり合う夜の街を、ぜひお楽しみください。
一刀を浴びせられた激痛が、まだ消えない。
自分が何を失ったのかを確認する余裕すらなかった。巨大な衝撃に弾き飛ばされ、店から放り出される。背骨が砂利に叩きつけられた瞬間、肺の中の空気が強制的に絞り出され、喉から形にならない呻きが漏れた。
「行け! 振り返るな!」
JKの罵声が耳元で弾ける。それは叫びではない、猶予を一切許さない「命令」だった。
無様にバイクに跨る。手は震え、ハンドルを握るのがやっとだ。エンジンを吹かした瞬間、ふとガソリンメーターに目をやった――。空っぽだったはずのタンクが、あの「三分六厘」を白の旦那に剥ぎ取られた途端、奇跡のように満タンへと跳ね上がっていた。
どんな理屈なのか、その「三分六厘」が何なのかさえ分からない。ただ、エンジンが唸り、タイヤが回っている。ここを去らなければならない、それだけだ。
俺はアクセルを全開まで捻り込んだ。
バイクは怯えた獣のように飛び出し、白い砂利を蹴り上げる。果てしない上り坂が再び目の前に現れた。冷たい風が刃物のように頬を切り裂き、ヘルメットのシールドに張り付いた霧が高速で細い線へと引きちぎられる。目を細め、視線を前方――見渡す限りの白い路面へと釘付けにした。
そして、堪えきれずにバックミラーを覗き込んだ。
ほんの一瞬。
だがその一瞬が、俺の心臓を完全に停止させた。
腐食したネオンを掲げ、顔のない生物どもがひしめいていたあの金品店が、消えていた。
「裏界」の九龍城砦そのものが消滅し、代わりにそこにあったのは、漆黒の、凍てつくような参天の高台だった。闇の中で沈黙し、矗立するその輪郭は異常なほどに巨大で、この世にあるまじき古の建築物が、その質量すべてをもって俺を見下ろしているようだった。
高台には二つの看板が横たわっている。右側にある朽ち果てた看板には、日本の漢字が点滅していた。
「外貨両替」
そしてその真上。闇から滲み出た鮮血のような三つの赤文字が、古く、動かしがたい威圧感を放ちながら、俺の瞳に焼き付いた。
「望郷台」
アクセルを握る指が痙攣する。
望郷台。
俺は死に物狂いでアクセルを回した。
不意に、後部座席が沈み込んだ。
あの馴染みのある匂いが背中に張り付く。冷たく、生臭い、生者のものではない体温。黒い紋様に覆われた両手が、俺の腰を強く締め上げる。指先から伝わる寒気は、皮膚を通り越して臓器にまで突き刺さった。
「前を見な」
耳元で囁く彼女の声は、天気を説明するかのように冷静だった。
「死にたくないなら、黙って走らせなさい」
後ろを向く勇気なんてなかった。
前方の白い濃霧が晴れ始める。工事中だったコンクリートの橋脚が急速に再構成され、路面の砂利がエンジンの振動と共に引き潮のように消えていく。下からアスファルトの輪郭が浮き上がり、現像されるフィルムのように景色が変わった。坂の終点、霧の向こうから橙色の光が漏れてくる。
――信号機だ。
民権東路と復興北路の交差点。橙色の、温かみのある、排気音と都市の喧騒を纏った、あの凡庸で尊い「此岸」の色。
鼓膜を突き破るようなクラクションの音が炸裂した。
俺は唐突に、意識を引き戻される。
復興北路の停止線の前。後ろにいたタクシーの運転手が窓を開け、聞き取る気力もない罵声を浴びせてくる。正面の大直橋は煌々と明かりを灯し、橋の上の車流は穏やかに動いていた。歩行者には顔があり、街灯は街灯として、アスファルトはアスファルトとしてそこにある。
すべてが、あまりにも正常だった。
泣きたくなるほどに。
赤信号の前で立ち尽くす俺の脳内で、何かが回り始めた。
望郷台。
伝承では、亡者が黄泉路で最後に立ち寄る場所。連れ去られる死者が、現世を最後に振り返る高台だ。そして、あの「当」の字を掲げ、呻き声を上げる布袋を詰め込んだ質屋――あれは死者のための両替所だ。現世の金じゃない。「功徳」。生前に積み上げ、持っていくことはできず、だが使わざるを得ない人生最後の残高。
さっき俺が支払った「三分六厘」は、通行料でも入場料でも、生者が払うような代物でもなかった。
それは、「生者」という身分を切り売りした外貨だったんだ。
後ろのタクシーが再びクラクションを鳴らす。青信号だ。
どうやって家まで辿り着いたか、記憶にない。
鉄の扉が閉まる音だけを覚えている。その「ゴン」という響きはいつもより重く、何かの宣告のようだった。ヘルメットを壁に掛け、震える手のまま、靴も脱がずにドアに寄りかかる。背中に伝わる冷たさを感じながら、呼吸のリズムを取り戻そうと必死だった。
今夜の出来事は、全部夢だ。
きっとそうだ。
疲れすぎたんだ。最近のストレスで、運転中に居眠りでもして、酷くリアルな悪夢を見ただけ――。
「おい、遅かったな」
その声は細い針のように、リビングの方から俺の脊髄に突き刺さった。
呼吸が止まる。
蛍光灯がチカつき、リビングの光が一瞬だけ青白く変わった。誰もいないはずのソファに、あのセーラー服の少女が我が物顔で座っている。足を組み、顎を少し上げ、「待ちくたびれたぞ」と言わんばかりの視線を俺に向けて。
刃こぼれし、不気味な黒霧を纏ったあのスイカ包丁が、テーブルの上に無造作に置かれていた。俺のテレビのリモコンと並んで。
俺の脳は、その瞬間二つの事象を同時に処理していた。一つ、リビングが不明な生物に占領されたこと。二つ、そのあまりにシュールな光景への困惑――イケアのテーブルの上で並ぶ、包丁とリモコン。
「お、お前……何の真似だ?」
声が震えた。自分でも嫌になるほどに。
「そう力むな」
彼女は顎で床を指した。「見ろ」
視線を落とす。
灯りに照らされた彼女の足元には、影があった。薄いが、確実に存在する影。彼女の動きに合わせて微かに揺れている。俺が気づいたのを見て、彼女は口角を吊り上げた。それは笑いというより、予想通りの反応を楽しんでいるような、歪な満足感だった。
「現世では一時的に『凝態』できる。さもなきゃ、どうやってシャバで生活しろってんだ? 最近の歩きスマホの連中みたいに、透けて通り抜けられろとでも?」
彼女はゆっくりと顔を上げた。乱れた黒髪に隠れていたその瞳が、灯りの下で露わになる。深灰色の、温度を一切感じさせない、磨かれた石のような瞳。だがその奥深くで、何かが緩やかに蠢いている。
彼女は深く息を吸い込んだ。
その動作は、見ていて不快だった。あまりにも「享受」しているように見えたからだ。上質な酒の香りを鼻腔で楽しみ、陶酔に浸る愛好家のように。彼女の眉がわずかに解け、顔にはどこか退廃的な満足感が浮かぶ。
「ほう……怒ってるのか? 憤怒の純度がこれほど高いとは……『裏界』じゃ一級品だ。美味いぞ」
俺の怒りは、その瞬間、氷へと変わった。
この女。俺の感情をバイキング形式の餌か何かだと思っていやがる。
俺は深呼吸し、せめて鼓動よりはマシな声で問いかけた。
「……一体、何の用だ?」
「ビジネスだ」
彼女は前置きなしに言い放った。「お前のあの『三分六厘』、取り戻したくはないか? ……なんなら、もっと稼がせてやってもいいが?」
彼女は無理やり「可愛い笑顔」を作ってみせた。蝋のように青白いその顔に浮かんだ表情は、一度も「微笑み」を練習したことがない怪物が、見よう見まねで真似ているようで、ただただ不気味だった。
彼女は指を一本ずつ折り曲げ始めた。まるで裁判官が罪状を読み上げるかのように。
「現状を整理してやろう。第一に、貴様は今日『裏界』に迷い込んだ。第二に、あろうことか金鶏山に足を踏み入れた。これはあっちの結界に穴が開いている証拠だ――あのトンネルがただの工事現場だとでも思っていたのか? 『すべての道はローマに通ず』と言うが、貴様が選んだのは黄泉路だったってわけだ」
彼女は、電子ノイズの混じった歪な笑い声を上げた。死んだように静まり返ったリビングに、不快な残響が幾重にも広がる。
「第三に。これから幽霊を拝む機会が増えるかは分からんが、生身の体で陰界を一周したんだ、どうなるか分かるか? ……これからは嫌でも『奴ら』を感じ取ることになるだろうな」
彼女は一拍置き、その言葉が俺の心に沈み切るのを待ってから続けた。
「だが、貴様の命格は清らかだ。――八両七銭。生者の中では大した量じゃないが、裏界の基準なら十分な『元手』になる。つまりだな……」
彼女は指を組み、わずかに身を乗り出した。「貴様は今、使い古されたスマホだが、まだ充電は残っている。なら、少しはその価値を役立ててみないか?」
「具体的に、」俺はテーブルの上のスイカ包丁を見つめ、額から冷や汗を流しながら問うた。「何をすればいい?」
「原則として、特に何もなければ呼びはしない」
彼女は少し間を置いて、温度のない事実を付け加えた。
「だが、覚悟はしておけ。お呼びがかかる時は、決まって『神話級』の事態だ」
俺は沈黙した。
リビングの蛍光灯がジーッと鳴り、窓の外からは民権東路の車の走行音がガラス越しに聞こえてくる。あんなにリアルで、あんなに遠い。
俺はスイカ包丁を見つめ、ソファに座る影のある少女を見つめ、人間味の一切ない深灰色の瞳を見つめた。
俺は力なくドア枠にもたれかかった。
「……分かったよ」
身売り契約にサインしたばかりの奴のような声が出た。
「認める。だが条件だ。俺の日常生活には干渉するな。昼間は仕事がある。用があるなら夜にしろ」
彼女の目が、パッと輝いた。感動ではない。取引が成立し、査定額が一致したことを確認した時の輝きだ。
「上出来だ」彼女の声は驚くほど軽やかだった。「ようやく代理人が手に入った。前回雇ったのは、確か宋の時代だったか」
その「宋時代の不運な男」が最後どうなったかなんて、聞きたくもなかった。俺はただ玄関に立ち尽くし、その詳細が思考の底に沈み、二度と浮き上がってこないように祈った。
「明日の夜、現地の『戸部』へ認証に連れて行く」
彼女はソファから立ち上がり、傘でも片付けるような動作でスイカ包丁を手に取った。
「よろしく頼むぞ……相棒」
投げられた名刺を、俺は反射的に受け取った。
次の瞬間、彼女の姿がノイズの走るテレビのように点滅し、消失間際の信号のように二、三度揺らめいて、完全に消えた。
リビングに静寂が戻る。
手の中の名刺に目を落とした。
金箔押しで、極めて古風なデザイン。紙の質感は何とも言い難い。紙というより、薄くて強靭な、生物由来の素材に近い。そこにはこう記されていた。
【鬼差・馬面】
靴も脱がず、電気もつけたまま、俺は玄関に立っていた。窓の外の台北は、いつも通り動いている。車の流れ、コンビニの白い光、どこかのビルから漏れるテレビの音。この街は、今ここで何が起きたのかを全く知らず、興味すらない。
名刺を裏返してみたが、白紙だった。
三秒ほど見つめて、ある考えがよぎる。「写真を撮っておこう」。
だが、撮って誰に見せる? スマホの連絡先には誰もいない。これを送って「地府の名刺だ」と言ったところで、狂ったと思われるか、仕事のしすぎだと心配されるのが関の山だ。
だから、撮らなかった。
俺は名刺を立て、財布の中にある期限切れの悠遊カードの隣に差し込んだ。
窓から下を見下ろす。俺のバイクはまだそこにある。
自分の手首に触れてみた。何もない。傷跡も、刺青も、証拠になるようなものは何一つ。
ただ、何かが足りなかった。
俺はそこに立ち尽くし、その「何か」を探そうとした。暗い部屋の中で、どこかにあるはずのスイッチを探すみたいに。壁を這わせる手。左、右、上、もう少し上――。
だが、何もない。スイッチは消えていた。見つけられないんじゃない。そこにはもう、存在しないんだ。
けれど、その失われたものが元々何だったのか、俺には説明がつかない。
……思うに、三十を過ぎたエンジニアって生き物は、「魂を抵押に入れられた」なんて事態に直面したとき、真っ先に泣くのではなく、ふっと笑いたくなってしまうものらしい。
そんな風にして、奇妙なほど「平穏」な日々が二週間ほど過ぎた。
リビングには時折、出所不明の寒気が染み出すようになった。まるで誰かが「望郷台」の温度をパッキングして持ち帰り、エアコンの吹き出し口にこっそり詰め込んだみたいに。
馬面――あの黒髪ロングのセーラー服少女は、あれから俺を「感情のバイキング」として貪り食うことはなかった。大抵はどこかの隅に静かに佇んでいるか、ソファに座って深灰色の瞳でどこか遠くを見つめている。おかげでリビングは、「客が来ている」のか「幽霊が出ている」のか分からない、曖昧な空気に包まれていた。
だがある日、彼女はおもむろに、靴を履いて出勤しようとする俺にこう告げた。
「家に、事務机が一台足りないわ」
俺は顔を上げ、彼女の血の気のない顔を見つめ、探るように聞き返した。
「……それって、『神棚』のことか?」
彼女は答えなかった。ただ冷ややかに、瞬き一つせず俺を射抜く。その視線で脊髄まで凍りつきそうになった俺は、慌てて愚かな質問を飲み込み、潔く頷いてみせた。
翌日、俺は観念して近くの仏具店へ行き、実木の神卓を担いで帰ってきた。
その重さは、樹齢五百年はあろうかという老い楠から切り出されたんじゃないかと疑うほどだった。家まで運ぶ道中、二度は膝が砕けそうになった。自分の「八兩七銭」という命格を思い出し、せっかくの元手を使う前に肉餅に押し潰されるんじゃないかと、本気で心配になったくらいだ。
俺は机をリビングの隅に据え、床に座り込んで荒い息を吐いた。
馬面はどこからか木製の位牌を取り出し、何も言わずに卓の中央に置いた。彼女は優雅に、だが機械的な動作で大理石の天板の上に二本の赤い蝋燭を灯す。暗紅色の火がリビングで揺らめき、四方の壁がじわりと血を流しているように見えた。
天井で踊る蝋燭の影。俺は床で膝を抱えて座りながら、唐突にあることに気づいた――。
その光景は、どう転んでも教科書通りの「死者を弔う構図」そのものだった。
俺は位牌に歩み寄り、そこに淡く刻まれた文字を覗き込んだ。
【馬 一 春 之 位】
「馬一春?」思わずその名を口にしていた。
「私の真名だ」馬面が振り返る。赤い蝋燭の火が彼女の瞳の中で跳ね、神聖とも邪気ともつかない光を放っていた。「貴様と手を組むという、私なりの誠意だと受け取れ」
彼女は指先で芯を軽く弄んだ。揺らめく火炎は彼女の肌に触れんばかりだが、熱を帯びる様子はない。
「真名は漏らしてはならない。生辰八字と同じだ。悪意ある者に知られれば、厄介なことになる。だから外では、私を『馬面』か『馬三娘』と呼べ」
冷徹だった彼女の声に、火影のせいか、どこか説明のつかない「枯れた響き」が混じっていた。長く重いものを詰め込んできた容器が、ふとした角度で微かな亀裂を覗かせるような、そんな響き。
俺は、その「枯れ」の正体をあえて追求しなかった。
我が家の近所でもっとも目立つランドマークといえば、間違いなく行天宮だ。
だが、午前一時。馬面が俺を誘い出したのは、その背後にそびえるオフィスビル――この地区の戸政事務所だった。昼間は転入届を出す人々でごった返す場所も、今は固く閉ざされ、鉛色の死寂を纏っている。街灯の光さえ、どこか青白い。
「おい……行天宮、今夜はお祭りか何かか? えらく賑やかじゃないか」
俺は廟の方角を振り返った。あちらは灯火が爛々と輝き、銅鑼や太鼓、読経の音がかすかに響いてくる。その喧騒たるや、まるで正午の市場のようだった。
馬三娘は不機嫌そうに俺を睨みつけた。セーラー服のスカーフが夜風にパタパタと踊る。
「バカか。今は午前一時だぞ。そんな時間に誰が祭りをやる?」彼女は一拍置き、こう付け加えた。「――あれは、『上』の連中の営業時間だ」
彼女は「上」という言葉を強調した。背筋に冷たいものが走る。この文脈での「上」が、二階のことを指していないのは明白だった。
「いいから、無駄口を叩かずに入れ」
彼女が手を伸ばし、鷲掴みにするように俺の襟首を掴んだ。反応する暇もなかった。俺の体は彼女に引きずられるようにして、固く閉ざされたシャッターを「透過」した。
形容しがたい感覚だった。冷たいゼリーの層をくぐり抜けたような、その零点数秒の間に全身の熱量を奪い去られたような感覚。皮膚の下を電流が走るような微かな麻痺を覚え、気づけば俺は建物の中に立っていた。背後のシャッターは何事もなかったかのように閉じられたままだ。
俺は自分の手を見つめた。手はある。五体満足だ。
「検品は後回しだ」馬面はすでに前を歩いていた。「ついてこい」
ビルの内部は漆黒に包まれ、非常口の緑色のライトだけが、もぬけの殻となった受付カウンターを幽玄に照らしていた。整然と並ぶ番号札の発行機、各種申請書が貼られた掲示板、几帳面に並べられたプラスチックの椅子――。昼間の「秩序」がそのまま残っているからこそ、この深夜の暗闇の中では、その整然さがかえって不安を煽る。まるで、観客が去った後の舞台セットに見捨てられたかのように。
馬三娘はロビーの中央で立ち止まり、床を力強く踏みつけた。
その足音は大きくはなかったが、凄まじい威圧感――「何かが来た」という実在の重みが、彼女の華奢な体から噴き出し、空間の空気を数センチほど沈み込ませた。
「守将はいずこか!」
言葉が終わるか否か、金属がぶつかり合う鋭い音が響いた。武具が虚空から凝縮し、錆びついた甲冑を纏った兵士の一団が大理石の床から這い出してきた。煙が人の形を成したような彼らは、一様に冷たく腐朽した気配を纏っている。甲冑の年代は定かではないが、刻まれた無数の傷跡が、彼らが永きにわたりここに立ち続けてきたことを物語っていた。
先頭の兵士が片膝を突き、空虚なホールに甲冑の擦れる音が反響する。
「酆都内牙・第十六守備分隊隊長、林在河、馬将軍に拝謁いたします!」
その刹那、彼の視線が俺へと流れた。
視線は止まり、一秒。そして急速に「憤怒」へと凍りついた。彼が手にした長槍を猛然と床に突き立てると、その「ギィン」という衝撃音に俺の心臓は跳ね上がった。
「何奴だ! 陽界の活物が、証も持たずこの地に踏み入るとは――陰陽の理に背く者、速やかに退け!」
「ガシャン」と音を立て、十数本の長槍が一斉に俺を指した。凍てつく矛先が喉元に突きつけられる。腐りかけた鉄錆の臭いと、死の冷気が同時に押し寄せ、俺は生唾を飲み込むことさえ躊躇った。喉が動けば、その瞬間に何かに触れてしまいそうだったからだ。
馬三娘は心底面倒そうに手を振ると、セーラー服の袖口から――どこの異空間から出したのか――古びた帛書を取り出し、放り投げた。
「『上』の意向だ」
林在河は疑わしげにそれを受け取り、広げて目を落とす。
数行読み進めたところで、その青紫色の顔に見たこともない表情が浮かんだ。怒りでも不満でもない、あり得べからざる記述を目にしたことへの真実の「愕然」だ。彼は顔を上げ、再び俺を見た。その瞳には、荒謬、困惑、そして骨の髄まで染み渡るような「不可信」が混在していた。
「これ……下官を揶揄っておられるのではあるまいな?」 彼の声が一段低くなった。「この活物を、陰間巡検司の候補に据えると? 正気の沙汰では――」
「はぁ?」
俺の脳より先に、口が動いていた。
俺はこの戸政事務所に来たことがある。
一年ほど前、亡くなった母の除籍手続きに来た時だ。あの日の午後、俺は三番窓口に一時間ほど座り、番号札の発行機の電子音を聞きながら、書き方もよく分からない書類を埋めた。ある欄の空白に「死亡」の二文字を書き込んだ。
はっきりと覚えている。ここのエレベーターは、上にしか行かない。
あの日、俺は三番窓口で「死亡」と書き、立ち上がり、椅子を戻して、そのまま歩いて外に出た。誰も「大丈夫か」なんて聞いてはくれなかった。
だが今、俺はこのエレベーターの中にいる。かれこれ十分は下り続けている。表示パネルの階数表示は疾うに消え、代わりに乱数のように明滅する赤い「梵字」が躍っていた。数秒おきに切り替わるその文字は一つとして読めないが、切り替わるたびにエレベーターの照明が、呼吸をするようにチカチカと点滅する。
「これ……マジで地府まで行くのかよ……」
俺は情けない顔で鏡に映る自分を見た。紙のように真っ白な顔色は、隣に立つ馬面と大差ない。
彼女は俺の隣で、ただ「邪悪」としか形容しようのない笑みを浮かべていた。無機質な灰色の瞳が、躍動する赤い梵字を見つめている。その眼差しは、罠にかかったばかりのネズミを見下ろすような、残酷なまでの静寂に満ちていた。
「正解だ。――地獄へようこそ」
彼女は事も無げにその言葉を口にした。まるで「ただの地下鉄だ」とでも言うような、ありふれた口調で。
俺は、彼女を三秒間沈黙させるほどの表情を浮かべていたらしい。
彼女は、これ以上俺にそんな歪んだツラをさせておくのは実益がないと判断したのか、見物人のような余裕を引っ込めた。代わりに、新兵を前にした教官のような、極めて少量の忍耐を孕んだ口調で話し始めた。
「これまでの経緯を説明してやろう。一日中そんな湿っぽいツラをされては、こちらの食欲まで失せるからな」
彼女は向き直り、鏡を背にして腕を組んだ。「いいか。陰陽の両界が、どうやって隔てられているか知っているか?」
俺はでんでん太鼓のように首を横に振った。
「貴様ら陽界の人間が好む言い方をするなら――陰陽とは二つの異なる次元の並行世界だ。それらを隔てる狭間の亀裂を、我々は『管道』と呼んでいる」彼女は一拍置いた。「あの日、トンネルを抜けた後に見たものを覚えているか?」
覚えている。死ぬまで忘れられない。白い砂利、顔のない歩行者、地面に落ちた鮮血の彩度を越えた赤、そしてあのライダーの空洞のような顔。
「あの日貴様が見た、金鶏山や望郷台以外の歪んだモノども――それらすべては『管道』の内部に属するものだ」馬面の語調は平坦だった。何度も読み返した報告書を復唱するように。「だが、管道は厳密に言えば、まだ陽界の範疇にある。鬼差は基本、あそこには立ち入らない」
「嘘だろ?」俺は思わず口を挟んだ。「あんな化け物じみた場所が、まだ陽界だってのか?」
「だからこそ、それはシステム上の脆弱性なのだ」彼女の視線が俺の顔に止まった。自分でも気づいていないであろう、微かな慈悲を湛えて。「空間が重なり合ったことで、陽界の表皮が剥がれ落ち、底にある管道の構造が露出した。奴らは常に貴様らの足元に存在している。普段は見えないだけだ」
彼女がさらに言葉を続けようとした、その時――。
「チン――」
澄んだ通知音が響き、長い残響を伴って、広大な石室の中で増幅されたかのように鳴り渡った。
エレベーターが緩やかに停止する。扉が左右へと滑り出した。
俺は本能のままに一歩踏み出し、そして足を止めた。
眼前に広がっていたのは、俺の知るいかなる空間でもなかった。
それは、一つの「城」だった。
青紫色の霧に包まれた古城。城壁の高さは霧の彼方へと消え、その頂を見ることは叶わない。ただ、重厚な城磚が一層、また一層と積み重なり、蒼色の虚空へと吸い込まれていく様が見えるだけだ。高くそびえ立つ城門の両脇には、提灯が列をなしている。それは温かな橙色ではなく、冷気を孕んだ幽玄な蒼。城門へと続く石畳の道を、細長く、青白く照らし出していた。
そこに、人がいた。数えきれないほどの影が霧の中で蠢き、長蛇の列をなしている。緩やかに、音もなく、それは遠方から流れ着く終わりのない河のようだった。
馬面は俺の隣に立ち、駅名を告げるかのような抑揚のない声で言った。
「ようこそ……我が管轄の、酆都城へ」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




