第一章:切除 ―― 現実から切り離された夜
台湾の台北を舞台にした、少し不気味な現代ファンタジーです。現実と虚構が混ざり合う夜の街を、ぜひお楽しみください。
台北の夜は、真の意味で暗くなることはない。
この街には執拗なまでの習性がある。ネオン、街灯、コンビニの消えることのない白光。それらが闇を押し潰し、ほんのわずかな隙間にまで追いやるのだ。ここに二十数年も住んでいれば、その明るさには慣れっこだ。ベランダに立っていても、星がどんな形をしていたか思い出せなくなるほどに。
だが、あの夜だけは違った。
湿気が見えない手のように喉元を締め付ける。呼吸をするたび、腐敗した果実がゴミ箱の底で放つような、吐き気を催す甘い臭気が入り込んできた。
俺はバイクを走らせ、民権東路の車流に割り込む。ヘルメットのシールドには薄い水霧が張り付き、前方の信号や看板のネオン、歩行者の傘の影が、塗りたての絵具を雨で流したかのように滲んでいた。
すべては正常だった。
防備を固める必要などないほどに。
復興北路の交差点。右折。車身を倒し、膝が地面を掠めるほどに傾ける。湿った空気の中にエンジンの鼓動が重く響く。その、バンク角が最も深くなったわずか零点数秒の間、俺は「それ」を感じた。
見たのではない。感じたのだ。空気の中の何かが突然欠落し、世界の裏側がそっと入れ替わったかのような違和感を。
そして、すべての灯が消えた。
停電ではない。停電なら過程があるはずだ。電化製品の唸りが消え、誰かが悲鳴を上げ、スマホの画面が闇の中に点々と灯る。だが、これは違った。地下鉄駅の灯火は、最初から存在しなかったかのように、あまりにも鮮やかに、残像すら残さず消滅した。
代わりに現れたのは、橋脚だった。
地底を突き破って現れたかのような、灰色で巨大なコンクリートの柱。何の説明もなく、ただ沈黙して俺のライトの中に立ちはだかる。それは巨獣の死骸から抜き取られた肋骨のように、圧倒的な冷気を放っていた。
タイヤの下は、もうアスファルトではなかった。
「ササッ……」
音が違う。俺は視線を落とし、無意識にスロットルを握りしめた。白い砂利だ。細かく、どこまでも続き、光の縁で闇へと消えていく。まるで民権アンダーパスの底が、見知らぬ土地の土に入れ替えられたかのようだった。乾燥した、正体不明の鉱物の臭いが、先ほどの腐敗した甘い臭いと混ざり合い、胃の奥から吐き気がせり上がってくる。
地下道はまだそこにある。
だが、それはもう松山空港へは通じていない。
未完成のトンネルへと変貌していた。壁面からは水が滲み出し、剥き出しの鉄筋がコンクリートから突き出ている。折れた骨のように。天井に灯はなく、等間隔に吊るされた工事用ライトが、周囲を、手術室のような惨たらしい白さに染め上げていた。
そして、俺は「奴ら」を見た。
闇の中から現れた奴らは、整然とした列をなし、一歩、また一歩と進んでいた。足音は完全に同期し、メトロノームに操られているかのようだ。誰も喋らない。誰も顔を上げない。顎を胸に突き合わせるほど深くうなだれ、髪が顔を覆い隠している。
いや、隠しているのではなかった。
バイクを近づけてようやく気づいた。
奴らには、顔がなかった。
見えないのではない。光が足りないのではない。最初から存在しないのだ。五官があるべき場所の皮膚は、剥きたてのゆで卵のようになめらかで、平坦で、空白だった。俺のライトが奴らを照らしても、誰一人として反応しない。眩しさに目を細めることも、身をよじることもない。
奴らはただ歩き、静かに地底へと消えていく。
俺は呼吸を止め、壁際をすり抜けるようにして奴らの間を通り抜けた。
誰も振り向かない。俺の存在に気づいているのかさえ分からない。
地下道を抜けた瞬間、俺は前を見たことを後悔した。
大直橋は消えていた。
代わりに現れたのは、正常な言語では形容しがたい道だった。異常なほど広く、両端の境界は闇に溶けている。標識もガードレールもない。ただ果てしない上り坂が、夜色の中を静かに伸び、この街のものではない場所へと続いていた。
空気が変わる。
湿った夜風は消え、代わりに高山のような乾燥した、薄い空気が入り込んできた。飛行機に乗った時のように耳鳴りがし、眼球の奥が熱くなる。
その時、歩行者たちが一斉に首を巡らせた。
怒りではない。見えない糸で引かれたかのような、同期した動き。奴らは俺に向け、喉の奥から湿り気と生臭さを帯びた、古の儀式の詠唱のような声を漏らした。
隣のライダーがバイクを止めた。
彼はヘルメットを脱ぎ、座席に置いた。割れ物を扱うような、緩慢な動作。
彼の顔を見た瞬間、俺は視線を逸らした。恐ろしいのではない。あまりにも「空」だったからだ。中身をぶちまけられた容器のように、人の形だけを残して、そこにはもう何も入っていない。
男は、唸り声を上げる「顔のない奴」の一人に近づいた。
銀光が一閃する。
鮮血が白い砂の上に飛び散った。異常なほど鮮やかで、世界の彩度を限界まで引き上げたかのような赤。男は一瞥もせず、再びエンジンをかけて闇へと消えた。
「化け物だ……! 化け物がいる!」
絶望的な悲鳴が地下道で反復し、いつまでも消えない。
俺の脳はショートした。
どうやってそこを離れたか覚えていない。ただスロットルを死に物狂いで回し、気づけば左側の山林の暗闇の中にいた。
スマホの画面が点いた瞬間、電子ノイズが弾けた。
『前方……直行して……黄泉へ。当ルートは……現実から……切除されました。頭を下げたままにしてください。頭を下げたままに……』
スマホから漏れる赤光が、周囲の樹木を傷口の内側のような色に染め上げる。
俺は道に迷ったのではない。
俺は、この街の「現実」から、徹底的に抹消されたのだ。
漆黒の山道に、彼女は唐突に現れた。
黒いセーラー服を纏った少女。その服は死色を帯び、古い血痕のような斑点にまみれている。
彼女の右腕は、ありえない角度に折れ曲がっていた。その断たれた腕が震えながら、左側の藪に埋もれた小道を指し示す。
逃げろと本能が叫んでいるのに、俺の指は勝手にアクセルを回した。
小道の両脇に立つのは、樹木ではなかった。
それは骨だ。巨大な骨骸が地底に突き刺さり、腐敗した衣類が風もないのに揺れている。
そして、俺はその「ビル」へと入った。
いや、ビルではない。壁は煉瓦でもコンクリートでもなく、蠢く「肉の塊」だった。不均一な鼓動を刻み、巨大な生き物の腹腔のように呼吸を繰り返している。
肉壁には台北の門牌(住所表示)が無数に埋め込まれていた。「忠孝東路」「南京西路」……俺の知る街が、ここではただの臓物のラベルだ。
これが「裏界」。
人間の悪意が発酵し、形を成したゴミ捨て場。
俺の手が、勝手に店の扉を押し開けた。
湿り気を帯びた「生温かい」体温が押し寄せる。それは、無数の死体が密閉空間にひしめき合って放つ熱だった。
店内にひしめく奴らの眼窩には、黄金色の蟲がぎっしりと詰まり、蠢いていた。
「生き物だ……」「血の通った生き物だ……」
低語が漏れ、黒い涎が滴る。
「人の物に勝手に触るな、と母親に教わらなかったのか?」
背後から冷たい声が響いた。
セーラー服の少女――馬三娘だ。彼女の腕にあるのは、刺青ではない。皮膚の下で脈動する梵字と歯車の術式。
「白のおじさん、どこにいるの?」
店奥から現れたのは、乾燥した蜜柑の皮のような肌を持つ老人。
彼は俺を見ると、その濁った瞳を激しく震わせた。それは恐怖ではなく、老獪な「強欲」だった。
「生きた人間か……。娘よ、わしの『功徳の秤』を持ってきな」
カウンターに叩きつけられたのは、人の脊椎を削り出した漆黒の秤。刻印されているのは銅の星ではなく、黄ばんだ人間の歯だ。
「さあ、手を乗せな。安心しろ……今のところは、腕を切り落としたりはしないさ。規矩は守ってもらわんとな」
俺は震える手で財布を取り出した。「い、いくらだ? 数千元(台湾ドル)ならある……」
「ははははは!」
店内の怪異たちが、一斉に野獣のような嘲笑を上げた。
「八両七銭三分六厘。ほう、綺麗すぎる貴人の命数だな。規費として三分六厘、頂くとするか」
少女が錆びついた西瓜刀を抜き放つ。
「待て、何をする――!」
叫びが漏れるより早く、銀光が俺の肩を貫いた。
肉が裂ける感触はない。代わりに襲ってきたのは、魂そのものを無理やりハサミで切り取られたような、底知れぬ「空虚」だった。
俺の意識は液状化し、闇へと崩落していった――。
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