99.秩序の書き換え 99-3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ホラーク大佐の指揮所は、主接触区画から数ブロック離れた、一時設置の軍警合同ノードに置かれていた。テーブルの上にあるのは、綺麗な作戦図なんかじゃない。警察署の座標、監視カメラの静止画、URNA の残存通信記録、サーモグラフィのマーカー、市政図面——そういうものがごちゃ混ぜになった泥の塊だ。だが、こういう泥の方が、規則は浮き出てくる。
暴徒の流れじゃない。 テロ型の襲撃でもない。 ましてや、街の中で武装したイカれ共が重火器を振り回しているだけでもない。
これは、前進、拒止、区画切断の能力を備えた外掃区だ。
「601-Actual より各 Sector Lead。交戦定義を更新する」 ホラークは送信ボタンを押し、落ち着いた声で告げる。 「目標は重装破障編成、局所拒止および事前測量に基づく推進能力を有する。繰り返す、警察的プロトコルをもって、その行動パターンを理解しようとするな。幹線の広い通り、広場の外周、工業支線の結節点を優先的に固めろ」
各セクターから短い応答が返ってくる。
「Sector Two copy.」
「Sector Four received.」
「Medical reroute south-east.」
「URNA front line degrading fast.」
副官が尋ねる。 「軍事異常レベルでの上申を?」
「即座にやれ」ホラークは言う。
「空軍の方は……?」
「まずは、入れるかどうかを確認させろ」
重装歩兵を見たことがないわけじゃない。都市で破障ユニット(はしょうユニット)が現れたとき、それが何を意味するかを知らないわけでもない。
だが今夜の問題は、火力だけじゃない。相手の動きが、気味が悪いほど「クリーン」だということだ。
奴らは街全体を追い回さない。価値のないエリアは食わない。計られ、計算され、効率よく目標を削れる区画だけを狙い撃ちしてくる。
これは暴走より厄介だ。乱れていない。むしろ、正確すぎる。
ほどなくして、空軍の前線リレーから報告が入る。
「Falcon-2 entering low approach. Visual on multiple urban fires, no stable friendly boundary, repeating, no stable friendly boundary.」
続いてミサイル警報。 その直後、無線の中でごく短い破裂音とノイズが弾ける。
残った機はすぐさま上昇し、離脱した。
「追撃状況は?」ホラークが問う。
副官は送られてきたログを見つめ、首を振る。 「なし。地上部隊は空を追わず、あくまで元の区画を保持しているだけです」
ホラークの目が、さらに冷たくなる。もし追ってきていたなら、まだ戦果拡大だと割り切れた。追わないということは、対空も、あくまで「道具としての」区域拒止。まるで業務の一環のような、割り切れた精度だ。
「記録しろ」彼は言う。「外掃区は携行型防空拒止能力を有する。航空支援は低空進入を禁ずる」
そして、最悪の光景がやってくる。
Sector Three は、本来なら幅のある大通りと、廃棄された工業支線の分岐点に、第2層の阻止ラインを築いていた。位置取り自体は間違っていない。視線は長く取れる。対装甲火器も置ける。後退線も明瞭。
ところが前線から最初に上がってきたのは接敵報告ではなく、「空間異常」だった。
「Sector Three より Actual。南東側の角で金属共振を確認。車両由来に非ず、通常の爆薬でもない。映像送る——」
映像が揺れ、それから止まる。
一面のガラスカーテンウォールが、見えない圧力に押し込まれるように内側へ折れ曲がり、反射層がずるりと半透明の歪んだ平面にねじ切られていく。派手な「異世界ゲート」なんかじゃない。どちらかと言えば、工業用の液圧プレスと計測フレームで、この場所に属さない孔を強引にこじ開けているような光景だ。
次の瞬間、その歪んだ投送孔から、BTR 装甲車が一台まるごと「吐き出され」た。タイヤが路面を掴み、サスペンションが荷重を食い、車体がわずかに沈む。まるで、あらかじめミリ単位で削り出された鋼鉄のブロックが、チェッカーボードのマス目にはめ込まれたみたいに。
指揮所の空気が、二秒だけ止まる。
ホラークはすぐに悟る。さきほどからの路幅計測、ドアの幅の採寸、階段の耐荷重、マンホールと車線幅の測定——あれは偵察なんかじゃない。「事前挿入口」のキャリブレーションだ。
「601-Actual より全セクター」彼は一語ずつ区切って告げる。 「敵は投送能力を有することを確認。繰り返す、敵は投送能力を有する。既存の外掃区境界の推定は、直ちに修正しろ。街路の連続性を前提にした阻止ラインの前提は、全て無効だ」
その一文が出た瞬間、プラハ全体の軍事地図が、半分破り捨てられたも同然になった。
***
こっちに、もうこれ以上「様子を見る」理由は残っていなかった。
第一陣が先に出る。二人ずつ、手に持つのは「どう見ても重要そうには見えない」荷物だけ。サービス用エレベーターで降りていく速度も、夜中に部屋を替える宿泊客そのものだ。第二陣の三人は、貨物用エレベーターで駐車フロアへと抜ける。エリザヴェータは、その時間差を秒単位で見ている。最後に残るのが、俺とエリザヴェータとヴィクトリアだ。
俺は窓辺に立って、外をひと目見る。新市街は、まだきちんと明かりが点いている。遠くでは、何台かの車がゆっくりと進路を変え、迂回していくのが見える。
事情を知らない連中は、ただ「今夜は大きな事故が起きて、いくつかの区画が一時封鎖されただけだ」と思うだろう。そのうち警察車両や軍の車列がもっと増えてきて、全部をまた「秩序」の中に押し戻してくれる——そう信じるはずだ。
だが、そんなことにはならない。
今夜、本当に死ぬのは、どこか一角の街区じゃない。この都市で「暴力とは何か」を定義してきた、その権利そのものだ。
「行くぞ」エリザヴェータが言う。
俺たちは、最後に本来は点いていてはいけない灯りを落とし、「人がまだいるように見せかける」ダミーの灯りだけ二つ残す。
それから、スイートの中にある、本来は設備保守員しか使わない細い扉から外に出る。扉の先は通常の廊下ではなく、外壁に沿って走るメンテナンス用の狭いキャットウォークだ。足元は、数十メートルはあろうかという中庭の吹き抜けの空間。
吹き上がってくる風が、熱い煙と、粉塵と、燃料の匂いと、遠くで何か重機じみたものが途切れず稼働しているような、低い振動を運んでくる。
ヴィクトリアが先に足を踏み出す。足取りは、驚くほど安定していた。
その背中を追いながら、俺は冷たい手すりに掌を当てる。その感触で、妙にはっきりする。
俺たちは今、危険から「逃げ出している」わけじゃない。もうすぐ閉じ切るマス目から、まだ完全には閉じていない別のマス目へと、ただ場所を移しているだけだ。
キャットウォークの端まで出ると、プラハの夜景がほとんど一望できた。
旧市街の方の鐘の音は、もう消えている。いくつかの幹線道路は、互いに繋がりを失った暗い断片に切り刻まれている。サイレンはまだ鳴っているが、もはや救助なんて言葉を連想させない。ただ、ちぎれた神経がぴくぴく震えているだけだ。
もっと遠く、外掃区の境界付近。さっき投送されてきたばかりの BTR のシルエットが、火光に一瞬だけ浮かび上がる。そばでは何体かのリヴァイアサン装甲擲弾兵が、ごく短い距離を調整するように位置を変え、停止し、周囲を見回し、向きを変え、また前へと押し出していく。
速くはない。焦ってもいない。それでも一目でわかる。あのリズムの中に入り込んだものは、何ひとつ無傷では済まない。
奴らには、プラハ全域を追いかけ回す必要なんかない。ただ、「選ばれた場所」を、先に狩り場に変えてしまえばいい。
「東へ行く」俺は言う。
エリザヴェータがひと言だけ訊く。 「まずは第一の収束輪より逃れる、ということじゃな?」
「ああ。まずは第一輪の収束から外れる」
風の中に立つヴィクトリアの髪が、大きく乱される。顔色は、血の気が引いたみたいに真っ白だ。だが、その目は、さっき工房から撤退したときよりも、はるかに硬かった。
あれは立ち直りなんかじゃない。もっと冷たい何かが、そこに生えてきたのだ。
彼女は、ほとんど囁きのような声で言う。
「プラハには、もう"止まっていられる場所"なんて残ってないわ」
俺は彼女を慰めなかった。慰める資格なんか、ない。
だって、彼女の言うことは、そのまま事実だからだ。
俺たちは「生き延びた」わけじゃない。ただ、第一輪の封じ込めから、一時的に抜け出しただけだ。
まだ生きてはいる。まだ動ける。だが、この都市全体の中に、「セーフハウス」と呼べる場所は、今この瞬間から一つも残っていない。
俺は二人を連れて下へ降り、新市街のオフィス街と、古い工業地帯の縁が重なって生まれた陰の中へと潜り込んでいく。
背後のプラハには、まだ灯りが点いている。
だが、秩序の方は——とっくに、先に死んでいた。
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