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S2第二十三章 駐日代表処――三万の亡霊の帰宿

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

AM 07:15 W大阪ダブリューおおさか、客室。

隙間から差し込む朝光は、温もりなど微塵も運んではこなかった。それは呉の黒泥よりも重苦しい、ある種の災厄の予感だった。

意識が浮上した瞬間、胸の上に驚くべき弾力と温熱を感じた。目を開ければ、そこには俺に跨るシキの姿。白シャツのボタンは中ほどに二つ留まっているだけで、はだけた襟元から覗く褐色の肌が、俺の寝間着に直接触れている。解けたポニーテールが枕に散り、彼女は領地を守る豹のような鋭い眼差しで、当然のように俺を見下ろしていた。

「起きたか?」

シキの声は寝起き特有の掠れを帯びていた。退く気配など皆無。むしろわざと重心を沈めて俺を圧し潰しにかかる。

「昨夜は隣で亡霊どもが泣き喚くもんだから、頭が痛くてな。ここが一番落ち着くんだ。……よく眠れたか、士達シーダー?」

「……シキ、とりあえず降りろ。ベッドが沈みすぎて壊れる」

冷や汗が止まらない。

これは色仕掛けなどではない。野性による狩りだ。この火辣スパイシーな巡緝員をどかそうと手を伸ばした、その時だった。「カチャリ」と、無情な音が響く。

ドアの向こうに立っていたのは、老高ラオガオではない。林雨瞳リン・ユートンだった。

彼女は昨夜の黒いトレンチコートを優雅に纏い、湯気の立つアールグレイのカップを手にしていた。その後ろでは、洗面器を抱えた神代弥生じんだい やよいが立ち尽くしている。弥生の顔は蒼白から一瞬で火が噴いたように赤く染まり、ショックのあまり呼吸を乱した。彼女の周囲で、白檀の香りが乱れた霊圧と共に爆ぜる。

「……どうやら、お二人の『モーニング・ハント』の邪魔をしてしまったようね」

ユートンは茶を一口啜った。眼鏡の奥の火眼金睛かがんきんせいこそ発動していないが、部屋の空気は一瞬にして氷点下まで叩き落とされた。その冷徹な眼差しは、新田唯の軍刀よりも深く背筋を凍らせる。

「シーダー。舞鶴へ急ぐのは亡霊たちのためだと思っていたけれど。まさか大阪で、先に自分を『成仏』させていたなんてね」

「リ、リンさん! こ、これはきっと誤解です……っ」

弥生が涙目になって取りなそうとする。だが、シキは挑発するように俺の首に腕を回した。半透明のシャツの下で、野性的な張力が露わになる。

「誤解もクソもあるか」

シキはユートンを射抜き、火気を含んだ声で言い放った。「この男は私の獲物だ。文句があるのか?」

「バンッ――!」

最後尾にいた新田唯にった ゆいが、ついに限界を迎えた。冷硬なその顔は高圧電流に触れたかのように引き攣っている。抜刀こそしなかったが、職業軍人が「社会のゴミ」を見る時のような極限の蔑視が、彼女の全身を震わせていた。

「これが貴様ら台湾人のやり方か……」

新田は奥歯を噛み締め、氷の礫のような声を絞り出す。

周士達ジョウ・シーダー、貴様……反吐が出る」

ユイさん、十把一絡(じっぱひとからげ) げにしないで。それは彼個人の問題だから。すべての台湾人を道連れにしないでちょうだい」

いつの間にか廊下に現れた葉綺安イェ・キアンが、例の重苦しい魔法瓶を提げ、葬儀でも眺めるような冷ややかな目で俺を見た。

「それほどシキと一晩中”天井の雨漏り跡を数える遊び”に興じる気力があるなら、今日の三万柱の名單リストはあんた一人で背負いなさい」

一分後。俺はユートンの「氷の重力」によってベッドから引きずり出され、頭にシキの不満げな肘打ちを喰らっていた。

……クソッタレ。冤罪もいいところだ、マジで。



AM 08:30 ホテルのレストラン、朝食ビュッフェ

レストランに降り注ぐ陽光は燦々と輝いていたが、俺自身はまるで取調室に座らされている気分だった。

目の前では、橋本健一はしもと けんいち老高ラオガオの二人が赤い目で座っている。この中年二人組は何が起きたのかを完全に察しており、橋本にいたっては「お前の気持ちはわかるぞ」と言わんばかりのクソ忌々しい眼差しでコーヒーカップを掲げてみせた。禁煙飴をあいつの鼻の穴に突っ込んでやりたい。

「食ったら行くぞ」

俺は俯いてトーストを口に押し込んだ。

「シーダー、右手の具合はどう? 痛む?」

林雨瞳リン・ユートンが優雅に焼き魚を切り分けながら、毛が逆立つほど穏やかな口調で尋ねてくる。「それとも、シキさんの『物理的な癒やし』があれば、もう包帯なんて必要ないのかしら?」

「……頼むから、黙って魚を食ってくれ」

俺は立ち上がり、冷たく凍てつく死神の指輪を右手に握りしめた。

「行くぞ。代表処オフィスへ」

俺は完全に崩壊した人格的信用を背負いながら、中之島なかのしまへと向かうワンボックスカーへと向かった。

AM 09:15 大阪、中之島フェスティバルタワー

黒いワンボックスカーが、肥後橋駅近くの中之島フェスティバルタワー前に静かに停車した。雲を突くような近代的なビル。そのガラスカーテンウォールが眩しい太陽を反射し、周囲には仕立てのいいスーツに靴を磨き上げた大阪の金融エリートたちが溢れている。

俺はドアを開け、この高級な街並みにはあまりに不釣り合いな、右手の厚い包帯を晒しながら降り立った。口には新しい禁煙飴を放り込み、車内での二十分間に及ぶユートンの「眼差しによる処刑」で逆立った神経を鎮めようと試みる。

「……ジョウさん、ここが事務所オフィスなんですか?」

神代弥生じんだい やよいが車を降りた。紺色のニットワンピースが微風に揺れる。朝の「客室でのハプニング」の余韻のせいで、彼女はいまだに俺と目を合わせようとせず、俯き加減に肩をすくめて歩いていたが、それが逆に通りすがりのサラリーマンたちの足を止めさせていた。

葉綺安イェ・キアンは黙って三枚のリベットが入った魔法瓶を持ち上げた。彼女は先程の騒ぎには加わらず、その瞳には三万の同胞たちの重量だけを宿していた。瓶は相変わらず沈黙を守っていたが、この繁華な大阪の街にあって、韓国語や台語が入り混じる微かな囁きは、余計に耳障りに響いた。

橋本はサングラスをかけ、列の先頭を行く。その「昭和の極道」のごとき佇まいに、老高の「台北市警のマル暴」じみた強面が加わり、二人がロビーのエレベーター前に立つだけで、周囲には誰も近寄れない空白地帯が出来上がった。

「Solly... we are... high-level business.ソーリー……ウィー・アー……ハイレベル・ビジネス(悪いな、俺たちは……高級ビジネス団だ)」

俺はエレベーターの鏡で襟元を整え、自嘲気味に笑った。

「黙れ、外人」

橋本が冷たく鼻を鳴らし、17階のボタンを押した。「中に入ったらその黒い手を隠しておけ。台湾の領土で貴様と喧嘩するのは御免だ」

エレベーターが急速に上昇し、鼓膜に軽い圧迫感が伝わる。

指輪の中の魂たちが騒ぎ始めるのを感じた。彼らは知っている。この扉の向こうに、故郷へと続く最初の一枚の乗船券があることを。

「……집으로 돌아가고 싶어……(家へ帰りたい)」

「わかってる」

俺は低く答え、冷たい指輪を強く握りしめた。

「チーン」

17階で扉が開き、目の前には一点の曇りもない大理石の床と、梅の花の紋章が刻まれた自動ドアが現れた。「台北駐大阪経済文化弁事処」。

フィルターを通したビル特有の空気の匂い。カウンターには、パスポートの更新やビザの手続きに来た留学生や中年男性が数名並んでいる。

俺は禁煙飴を噛み砕き、右手の包帯を剥き出しにしながら、不格好な私服を纏った「鋼鉄班」と、美しくも殺気立った女たちを率い、大股でロビーへと踏み込んだ。

その光景は、さながら台湾の黒社会が大阪で国有資産を強奪しに来たかのようだった。

「周さん……ここの人たち、すごくプロフェッショナルに見えます」

弥生が居心地悪そうに俺の隣に寄り添う。彼女は「異端者」としての申し訳なさを瞳に宿し、スタンプを押し続ける公務員たちを緊張した面持ちで見つめていた。

「プロなのは結構なことだ。その方が三万人の『帰国証』の扱いも手慣れてるだろうからな」

右手の死神の指輪が放つ黒い光は、この極めて文明的な環境において、不穏な冷気を振りまいていた。

後ろに控える新田唯にった ゆいは、鷹のような鋭さで天井の監視カメラを走査し、手は常にバッグの縁に置かれている。彼女はこの「外国の公的機関」に対して最大限の警戒を解いていない。橋本はサングラスを少しずらし、こちらを驚愕の表情で見つめる受付の職員に対し、「強盗ではない」と示すための、岩のように硬い微笑を浮かべてみせた。

俺は三番窓口まで歩み寄ると、行列のざわめきを無視して、黒ずんだ指輪を嵌めた右手を防弾ガラスに叩きつけた。そしてもう一方の手で、呉地方総監と神楽かぐら機関の秘印が押された「海域越境引渡協議書」を突き出した。

引渡いんどの手続きを頼む」

俺はルーローハン・イングリッシュを封印し、窓口の若者に向かって正統な台湾訛りの国語マンダリンで言い放った。

「名簿は三万件。定員は食わず、パスポートも不要だ。彼らが求めているのは、ただ一枚の帰郷用の乗船券だ」

AM 09:45 大阪、駐日代表処・待合エリア

ロビーの空調からは冷風が吹き出し、壁には「サービス第一」の標語が掲げられている。俺は硬いプラスチック椅子に腰を下ろし、血の滲む包帯を巻いた右手で、古びた紙の匂いを放つ分厚い「霊魂移送申請書」の束と格闘していた。

「ちっ、第七欄……『霊魂移送保証人宣言』だと?」

禁煙飴を噛み砕きながら、俺は不明瞭に毒づいた。「これ、もし引渡しに失敗したら、俺は地獄まで行ってあいつらの皿洗いでも手伝わなきゃならないのか?」

ボールペンを握り、第三欄の「予定入国港」に基隆キールン港と書き込もうとしたその時。足元に置かれた沈黙の魔法瓶から、極めて微かだが、官僚的な威厳に満ちた鼻笑いが漏れた。

「間違っておるぞ」

馬三娘マー・サンニャンの、あのかすれて不遜な声が、魔法瓶の排気孔から幽霊のように漂い出してきた。

「第三欄は『霊魂原籍登録地』を書く場所だ、目的地ではない。貴様、この三万の老郷ラオシャンたちを、税関で密航者として強制送還させるつもりか? 周士達ジョウ・シーダー現世うつしよの人間はこれだから詰めが甘い」

隣のテーブルでパスポートの紛失届を書いていたおっさんが、怪訝そうに顔を上げて周囲を見渡したが、そこには微かに熱を帯びたステンレス製の魔法瓶があるだけだった。

「……三娘、久しぶりだな」

俺は魔法瓶の縁を指で弾き、内容を書き換えた。

その時、カウンターの奥にいる事務員――フレームレスの眼鏡をかけ、政治大学を卒業したばかりのような若者――が、顔も上げずに手慣れた動作で俺の差し出した最初の二枚を受け取った。公務員という組織に磨り潰された、感情の起伏のない声が淡々と響く。

ジョウ様、続けて四枚目もお願いします。その後、向かいの面談室へ移動してください。処長がお待ちです」

AM 10:15 大阪、駐日代表処・面談室

面談室の蛍光灯が微かな羽音を立てている。窓の外には中之島の繁華な水辺の景色が広がっているが、室内はこの一瞬、魂を凍てつかせるような死寂に包み込まれた。

「――プシューッ」

魔法瓶の蓋が弾け飛ぶと同時に、固体に近いほど濃縮された黒い死気が噴き出した。葉綺安イェ・キアンは長テーブルの片側に黙って座り、その凡人の手で瓶を抑え続けている。その瞳には波紋一つなく、まるですでに一万回はこの「災厄」を見てきたかのような冷徹さがあった。

黒煙の中から、一人の少女が緩慢に足を踏み出した。彼女は一歩、価値の付けられないペルシャ絨毯を確かに踏みしめる。

それが、馬三娘の本相ほんぞうだった。

極めて滑らかで漆黒のストレートヘア、そして奇妙なほどに整った眉高の「姫カット」。その血のように赤い双眸は、惨烈な蛍光灯の下で、滴るルビーのように非人間的な威圧感を放っている。

身に纏っているのは、黒い長袖のJK制服。襟元とスカートの裾には暗赤色の、乾ききった血がこびりつき、戦場と死体安置所が混ざり合ったような焦げた臭気を漂わせていた。そして彼女が右手に提げた、錆びついた西瓜刀すいかとうからは、今も深緑色の粘り気のある液体が滴り落ちている。

跨境霊務移管こきょうれいむいかん。申請人、馬一春マー・イーチュン

三娘サンニャンは、黒泥にまみれた重厚な書類をワン処長の目の前へと叩きつけた。錆びついた西瓜刀すいかとうが空中で寒気の走る弧を描き、その刃先は机上の名札を削り飛ばさんばかりの勢いだ。彼女の口調は、明日の天気予報でも告げるかのように淡々としていた。

「保証人欄は、こいつに書かせろ」

俺は書類に記された「馬一春」という歪な署名を眺め、「今日は機嫌が悪い、関わるな」と全身で語っている彼女のJK姿を見やる。口の中の禁煙飴を、危うくそのまま飲み込みそうになった。

「……馬一春? 三娘、本名でいくのか?」

俺の頬が引き攣る。右手の死神の指輪は、この鬼将きしょうの現臨に、悲鳴に近い震えを返していた。

「亡霊の引渡しという大事おおごとに、偽名など使えようか」

三娘は冷たく鼻を鳴らし、神代弥生じんだい やよいへと視線を向けた。

弥生は今や椅子の中に吸い込まれそうなほど身を縮めていた。巫女としての本能が、かつてない「位階の重圧」を感じ取っているのだ。極度の緊張から呼吸は浅く速まり、恐怖によって滲んだ首筋の汗が、紺色のニットワンピースを湿らせていく。その姿からは、窒息せんばかりの戦慄が伝わってきた。

「……ま、馬面メーミェン様」

弥生は震えながら、辛うじて礼を尽くした。

東瀛ひがしのくにの巫女の小娘。そんなに見るな。貴様のその立派な『長老』をいくら震わせたところで、三万件の帰国証は出てこんぞ」

三娘は毒舌を吐き捨て、彼女を一蹴した。

デスクの奥に座る王処長は、流石に場数を踏んでいる。顔色こそ青ざめていたが、優雅に眼鏡を押し上げ、机に横たわる錆びた刀と三娘の血塗られた双眸を見据えた。

マー差官、お久しぶりです。名簿の準備は……整っております」

「書きなさい、周士達ジョウ・シーダー

葉綺安イェ・キアンが冷ややかに告げた。彼女は顔を上げることなく、優雅な動作で万年筆を差し出す。

俺は奥歯を噛み締め、「霊務移管書」に自分の名を記した。

その瞬間、右手の指輪の慟哭が、一秒だけ止まった。三万の氏名が、正式に受理されたのだ。

その時、面談室の重厚なマホガニーの扉が開いた。仕立てのいいダークグレーのスーツを着ているが、その襟元からは祭祀用の白い「狩衣かりぎぬ」の縁が覗く中年男性が、静かに入室してきた。彼が提げた鞄には「神社本庁・近畿監督官」の家紋が刻印されている。その厳粛な佇まいは、近代的なオフィスの中で奇妙な調和を保っていた。

彼は日本側の窓口であり、この「黄泉よみの移送」を監視する者だ。

「馬差官、久しいな」

男性の日本語には京都特有の冷徹な優雅さが宿っていた。彼は西瓜刀を提げた三娘に微かに頷き、王処長へと視線を移す。「日本黄泉管轄方よみのおおかみしだいの承認は下りた。引渡しは舞鶴港にて執り行う。当日は監督神が臨席する手筈だ」

三娘の赤い瞳がその神職を射抜き、口角に血の匂いのする嘲笑を浮かべた。

「条件は?」

俺は飴を転がし、日本神界の純正な神威に震える右手を抑えながら尋ねた。

「条件は一つ」

監督官は俺を見据えた。その瞳は氷の刃のように鋭い。「今回の『帰国証』は、非日本国籍の受難者に限定する。日本籍の亡霊――呉の戦没者を含むすべては、我ら及び自衛隊が全権を持って処置する。貴殿らはいかなる名目であれ、これに干渉、引致、あるいは吸収することは許されぬ。違反すれば、主権侵害と見なす」

その一言が、橋本健一はしもと けんいちの背負う「先祖の負債」と、俺の「老郷ラオシャンの債務」を明確に切り分けた。

「成立だ」

俺は短く答えた。天誅てんちゅうと叫ぶ連中を構う気など、さらさらない。

「署名を、ジョウさん」

王処長が公文書を差し出した。その瞳は深く、計り知れない色を湛えていた。

俺は万年筆を握った。だが、署名欄のすぐ上に、二つの責任条項が並んでいるのがはっきりと見えた。

【甲案:異邦霊魂帰郷保証いほうれいこんききょうほしょう】 ―― 署名人:周士達ジョウ・シーダー

【乙案:本邦亡魂安撫及び粛清ほんぽうぼうこんあんぷおよびしゅくせい】 ―― 署名人:橋本健一はしもと けんいち

後ろに立つ、鉄のように沈黙する橋本を一瞥する。彼はその公文を見つめ、神代弥生じんだい やよいに浄化された軍刀の柄を固く握りしめていた。その瞳には、「身内の不始末は、自らの手でつける」という、逃げ場のない決然とした色が宿っている。

俺は視線を戻し、甲案の下に自分の名を刻んだ。

その瞬間、右手の指輪から伝わる三万の老郷ラオシャンたちの慟哭が、耳をろうするほどに増幅した。だがそれも、馬三娘マー・サンニャンの提げる西瓜刀すいかとうが放つ凄絶な寒芒かんぼうの前に、すぐさま卑屈な静寂へと平伏させられた。

「手続は済んだ」

三娘が刀を収めると、室内に満ちていた圧殺せんばかりの重力は霧散した。彼女は書類を掴み取り、窓の外に広がる繁栄の極み――大阪の街並みを見下ろす。その声音には、本人も気づかぬほどの微かな愁いが混じっていた。

「この三万人の名分メンツは、あたいが取り戻してやった。あとは……貴様の腕次第だぞ、外人ガイジン

椅子に崩れ落ちた弥生は、張り詰めていた糸が切れたせいで、その佇まいに乱れが生じていた。乱れた呼吸と共に、襟元からは白檀の香りが熱を帯びて漂ってくる。

ジョウさん……私たちは、京都へ向かうのですね」

彼女は、千年を越える古都への畏怖を瞳に湛え、細い聲で呟いた。

「行こうぜ」

俺は飴を吐き捨て、黙り込んだままの橋本を見た。

「橋本尉官。あんたのいくさは、舞鶴でも終わっちゃいない。俺のもな」


AM 10:45 大阪、駐日代表処・面談室

室内の空気は、錆びついた生鉄なまがねのように凝固していた。

若き事務員は、三娘の血塗られた双眸が放つ重圧に耐えながら、震える手で赤光を放つ特製の官印を握っていた。俺が署名した「跨境霊務移管証明」の上に、彼は機械的な正確さで三つの大印を落とす。

「ドン、ドン、ドン!」

その音は三万の霊魂たちの背骨を叩く衝撃となって伝わり、俺の指輪を悲鳴のような共鳴で震わせた。やがて彼は、淡い黄光を放つ、透けるほどに薄い「臨時引渡許可証」を差し出した。

「手続き完了です。ジョウ様、くれぐれも紛失なさらぬよう」

それを、黒い稲妻のごとき速さで奪い取ったのは、JK姿の少女――馬一春マー・イーチュンだった。彼女は紅蓮の瞳で朱砂の印を見据え、冷徹な口角に、血の匂いのする嘲笑を浮かべる。

「有効期限は七十二時間だ」

三娘の、官僚的な威厳を纏った掠れ声が室内に響き渡り、得体の知れない寒気を呼び起こす。「七十二時間を過ぎれば、この紙切れは燃え尽きる。それまでに三万の老郷ラオシャンを船に乗せられなければ、奴らは舞鶴港で永遠の浮遊霊(野良犬)となり……そして貴様は、」

彼女は俺へと顔を向け、生死の境を超越した愉悦を瞳に浮かべた。「周士達。地獄の追補令(指名手配)に、地の果てまで追われることになるぞ」

言い捨てるや否や、彼女は石化した自衛官たちを歯牙にもかけず、一筋の黒煙と化して葉綺安イェ・キアンの足元の魔法瓶へと消え失せた。

「――ふぅ」

瓶の蓋が閉まる重苦しい音と共に、面談室を支配していた窒息しそうな重圧が消えた。

「周さん……そ、そんな、七十二時間なんて短すぎます……」

弥生は椅子に深く腰掛けたまま、激しく胸を上下させていた。紺色のニットワンピースが、その荒い呼吸に合わせて痛々しいほどに波打っている。

「急いでも始まらない。お役所仕事(官僚機構)ってのは、古今東西どこでもこうだ」

俺は彼女の氷のように冷たい指先を握り締め、沈黙を貫いていた橋本を見据えた。「尉官。乙案の『粛清』も、同じく七十二時間の勝負だ。この戦、二人三脚でいくぞ」

新田にった、迎えの車を出せ。京都へ向かう」

橋本はサングラスを押し上げ、その瞳に冷酷な「官僚」の光を取り戻した。


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