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S2第二十二章 引揚げ前夜、喧噪の安息

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

■ PM 18:30 大阪、道頓堀橋どうとんぼりばし

道頓堀の夕暮れは、無数のネオンによって強引に点火された狂乱の宴だ。

俺は道頓堀橋の欄干に身を預けていた。背後には巨大なグリコの看板。その鮮やかなネオンの光が濁った運河の水面に反射し、観光船が通り過ぎるたびに煌びやかなうろことなって砕け散る。空気はたこ焼きの香ばしい匂い、串カツの油の熱気、そして数万人の生者が積み上げた、沸騰せんばかりの欲望で満ちていた。

俺は視線を落とし、右手の新しく巻き直したばかりの包帯を見つめる。

呉を出発した時の狂暴さに比べ、指輪の中の黒い瘴気は今、不気味なほど静まり返っていた。まるで底の見えない枯れ井戸のようだ。だが、それが消失したわけではないことは分かっている。極彩色の繁栄を極めたこの街に足を踏み入れた瞬間、三万人の同胞ともがきたちは、その圧倒的な異質さと恐怖に気圧され、集団で「沈黙」したのだ。

その静寂しじまから伝わる寒気は、摂氏二十五度の賑わう街角にあって、深海から引き揚げられたばかりの鉄塊のように冷たい。

ジョウさん……ここの音、とても重苦しいです」

隣に立つ神代弥生じんだい やよいが呟いた。彼女は清楚な長裙ロングスカートに着替えていたが、それでも巫女としての清冽な気質を隠しきれてはいない。魔法瓶に封じられた三枚のリベット――その残響を抑え込み続けているせいか、彼女の呼吸は短く、視線は微かに彷徨さまよっていた。まるで彼女の身体から、大切な何かが少しずつ漏れ出しているかのようだ。

「집으로 돌아가고 싶어……(家へ帰りたい)」

あの韓国語が、俺の骨髄をなぞるように響く。橋の上で浮き足立って写真を撮る若者たちと、死気に蝕まれた俺のこの手。生者と死者の境界線が、大阪のネオンの下で、今にも千切れそうなほど引き絞られていた。

「だからこそ、あいつらを送り届けてやらなきゃならないんだ」

俺は口の中のイチゴ飴を噛み砕いた。

橋本健一はしもと けんいちは時代遅れのレザージャケットに身を包み、サングラスの奥の鋭い眼光で周囲を警戒していた。手は常にポケットの中。いつでも刀を抜ける構えだ。新田唯にった ゆいは重い装備バッグを背負い、弥生に声をかけようとする軽薄な男たちを、不快感を隠そうともせず睨みつけていた。

「よし、さっさと済ませて戻るとしよう。それで、駐日事務所はどこだ?」

俺が新しい禁煙飴を口に放り込むと、女たちが一斉に俺を凝視した。まるで今、この場で最も不謹慎な罵倒でも吐いたかのような視線だ。

「信じられないわ、周士達ジョウ・シーダー。本気で言ってるの? それとも馬鹿のふり?」

葉綺安イェ・キアンが呆れ果てた顔で俺を見た。

「はあ? 何だよ」

俺が困惑していると、林雨瞳リン・ユートンが、知的障害のある成人を見守るような慈悲深い溜息をついた。

「私たちのこの格好を見てちょうだい。どこからどう見ても難民にしか見えないわよ」

ユートンは「なんてこと」と言わんばかりの表情を浮かべている。

「……ああ、悪かったよ」

言い返そうとしたが、思い直して口を閉ざした。

■ 大丸百貨店・心斎橋店 三階、婦人服・和装小物売り場

エレベーターの扉が開くと、高級な香水の香り、柔らかなジャズ、そして眼圧が上がるほどの暖色系の照明が俺たちを迎えた。ここのすべては過剰なほどに洗練されており、俺たちの身体に染み付いて離れない「鉄錆の臭い」とは対極にある世界だ。

「いいか、これは命令だ」

俺は飴を転がしながら、コンクリートよりも表情の硬い男たちに向き直った。

弥生じんだいの服は呉で使い物にならなくなった。今、この街でまともな装飾品が揃うのはここだけだ。貴様ら、彼女に似合うものを選べ」

これはおそらく、橋本健一の人生において最も困難な任務となっただろう。

つい先ほど長迫公園で亡霊たちに向け「総員抜刀」を命じた三等海尉は、今や九十年代のビデオ屋の強盗が着るような茶色のレザージャケットを羽織り、サングラスも外さず、ポケットに手を突っ込んだまま、ショーケースの中の真っ赤な絹織のおびを凝視していた。

「今すぐ基地に帰らせろ」と顔に書いてあるようなその仏頂面と、手元にある艶やかな絹糸のコントラスト。横にいた販売員(ショップ店員)は、いらっしゃいませの一言も言えぬまま、柱の陰でガタガタと震え上がっていた。

「橋本……尉官、これでは……この紐では引張強度が足りないと思われます」

石川大志いしかわ たいしは、今にもはち切れそうなほどピチピチのグレーのフーディーを纏い、まるで仁王像のように下着売り場の入り口に立っていた。防弾プレートの性能でも研究しているかのような真剣な眼差しで周囲のレースをスキャンし、厳粛な口調で報告する。

「馬鹿野郎! これは装飾品だ、誰が牽引けんいんテストをしろと言った!」

橋本が低く咆哮した。その手には、まるで壊れ物を扱うかのように、極めてぎこちなく真っ赤なおびが握られている。

最も悲惨なのは佐藤拓巳さとう たくみだった。この新兵は、明らかにサイズ違いの大きなジャージを着て、二つの布製のかんざしを手に、顔から火が出そうなほど赤くして立ち尽くしている。新田唯にった ゆいの「この変態」と言わんばかりの冷ややかな視線に晒されながら、必死に自衛官としての尊厳を保とうとしていた。

ジョウさん……こ、これ、本当に大丈夫でしょうか?」

神代弥生じんだい やよいが、試着室の前で居心地悪そうに立っていた。ボロボロになった巫女装束を脱ぎ、百貨店の試着用のストールを羽織っている。魔法瓶から溢れる死気を抑え込み続けているせいで、その顔色は普段よりも蒼白だ。ストールの裾を握りしめる指先には、限界に近い自制の色が滲んでいた。

「いいや、最高だ。台湾に帰ったら一生の語り草にしてやるよ」

俺は笑いを堪えて腹がよじれそうだった。帯を手に「観閲式」でも執り行わんばかりの橋本の姿は、それほどまでに滑稽だった。

余所者ガイジン……貴様、もし写真を撮ってみろ。二度とスマホを持てない体にしてやるからな」

橋本はサングラス越しに俺を睨みつけると、重大な決断を下すかのように、その帯をカウンターに叩きつけた。

「これだ! あと、そっちの……赤い紐(帯締め)もだ! 全部包め!」

新田唯は傍らで重い装備バッグを背負い、嫌悪感を隠さず男たちを見つめていた。彼女も私服に着替えてはいるが、更衣室の裏口を監視するその瞳は、いつでも火を噴く準備ができているスキャナーそのものだ。

「弥生、受け取れ。これは『鋼鉄班スチール・チーム』からの詫びの品だ」

俺は、ずっしりと重い和装小物の袋を弥生に手渡した。

弥生は袋を受け取ったが、体力が回復しきっていないせいか、無意識に俺の腕に寄り添った。袖越しに伝わってくるその重みのある依存感は、百貨店の浮華な空気とは対照的に、酷く現実的で、安らぎを感じさせるものだった。

「行こうぜ」

婦人服売り場で「正気度(サン値)の集団崩壊」を引き起こした狂人たちを引き連れ、俺は次の戦場へと歩き出した。

■ マツモトキヨシ 二階、医薬品・健康食品コーナー

ドラッグストアの店内には、自動放送のプロモーションソングが騒がしい人混みの中に虚しく響き渡っている。俺は休憩スペースに腰を下ろし、右手の落ち着かない黒い瘴気を見つめていた。掌にのしかかる三万の魂の「重量」が、こめかみを締め付ける。

ジョウさん、包帯を選んできました」

神代弥生じんだい やよいが俺の前に膝をつき、慎重にパッケージを開封する。その眼差しは落ち着き、動作は正確だ。だが、それは強がりが生み出した危うい平穏だった。魔法瓶の死気を抑え込み続けて数時間、彼女の唇からは静かに血色が失われていた。

そこへ、シキが――凛としたポニーテールを揺らし、野生の息吹を纏った山守の少女が、大股で歩み寄ってきた。彼女はカゴの中に「皇帝液」を二瓶放り込む。その手つきは、戦場で弾倉を交換するかのように鮮やかだった。

ふと、彼女は黒い小箱が並ぶ棚の前で足を止めた。その瞳はハヤブサのように鋭い。普通の少女が抱くような躊躇いなど微塵もなく、まるでクロスボウの替え弦でも選ぶかのように、当然の顔をして「オカモト001」を手に取った。

「これ、持っておけ」

シキは俺の前に立つと、弾丸のように直球な言葉を投げつけた。「こいつは弾力があって薄い。あんな事以外にも、指先の怪我を包帯の上から防水するのに最適だ。山じゃあ泥除けに銃口へ被せたりもする」

「……シキ、こういう場所でその話をするのは、俺の心臓に悪い」

俺は咳き込んだ。周囲の日本人のおっさん共から「この男、なんて獣だ」と言わんばかりの白い目が突き刺さるのを感じる。

傍らで警戒に当たっていた新田唯にった ゆいの手の中で、ミネラルウォーターのペットボトルが「ギチッ」と悲鳴を上げた。

彼女は怒鳴り散らしはしなかった。ただ、緩慢に首を巡らせただけだ。厳格な軍事訓練を受けたその瞳には、今、この世界の倫理に対する深い絶望が満ちていた。彼女はシキの手にある001を凝視し、それから俺を見た。その視線は道頓堀の川水を一瞬で凍らせるほど冷徹だった。

周士達ジョウ・シーダー

新田唯が口を開いた。低く、平坦で、だが身の毛もよだつような戦慄を孕んだ声だ。

「長迫公園の黒泥こそがこの世で最も吐き気を催すものだと思っていたが……どうやら貴様の『教育方針』の方が、一枚上手だったようだな」

「おい、これは彼女の部族の戦術的合理性だ、俺は関係な……」

「黙れ(だまれ)」

新田唯は俺の言葉を遮った。その口調には「余所者ガイジン」への底知れぬ嫌悪がこもっている。彼女は橋本健一はしもと けんいちに向き直ると、どこか哀願に近い色を瞳に浮かべた。

「尉官、任務終了後、この容疑者に対して『物理的な去勢』を執行する許可をいただけますか? 基地警備の安全条項には抵触しないはずです」

橋本は離れた場所で顔を覆い、「もうこの狂人どもの相手はしたくない」と言わんばかりの虚脱感を全身から漂わせていた。弥生はうつむき、前髪で顔を隠して、消えてしまいたい猫のように肩を丸めている。

結局、俺たちは店員の「この集団、絶対にまともじゃない」という冷ややかな視線に晒されながら、包帯と皇帝液、そしてシキにとっては「泥除け」、新田にとっては「犯罪の証拠」である001を手に、足早にドラッグストアを後にした。

■ コンビニ前 道頓堀川沿い

午後八時十五分。道頓堀のネオンは依然として水面で狂ったようなダンスを踊り続けているが、コンビニの入り口付近だけは、透明な防音壁で切り取られたかのように静まり返り、空気さえも粘り気を帯びていた。

葉綺安イェ・キアンは店外のプラスチック椅子に座り、形が崩れるほど強く握りしめた明太子おにぎりを手にしていた。口には運ばず、ただ自分の足元に置かれたステンレス製の魔法瓶をじっと見つめている。

その中には、血と油に浸った三枚のリベット、帰郷を願う三万の孤魂、そしていまだ「通信途絶」状態にある馬三娘マー・サンニャンが封じられている。

キアンは、ネオンの下でより一層蒼白に、どこか儚げに見える手を伸ばし、冷たい瓶の表面をそっとなぞった。その眼差しは、先ほどのドラッグストアで見せた冷徹な殺し屋のそれではなく、子供のような、深く沈んだ孤独を湛えていた。

「……三娘サンニャン、大阪のたこ焼き、いつか食べてみたいって言ってたわよね」

彼女の声は極めて小さく、自動ドアが開く「ピンポーン」という電子音に、今にもかき消されそうだった。

魔法瓶からは、何の反応もなかった。かつてのような覇気に満ちた鼻笑いも、千軍万馬をなぎ倒すほどの熱量も、そこにはない。

瓶は鉄塊のように沈黙していたが、霊圧の感応センサーにおいて、その鬼将としての存在感は山のように重かった。ステンレスの殻越しですら伝わってくる「語らずとも千軍万馬を従える」重量感に、通り過ぎる観光客たちは無意識に歩を早める。そこに座っているのが美しい娘ではなく、沈黙状態にある一種の戦争兵器であるかのように。

影の中に縮こまったキアンの背中を見て、俺の胸の奥が締め付けられた。

「見るな。見続けたところでおにぎりが冷めるだけだ」

俺は歩み寄った。右手をポケットに突っ込むと、死神の指輪が魔法瓶の中の死気と、微弱で悲哀に満ちた共鳴を繰り返す。

周士達ジョウ・シーダー、ねえ……あいつら、中でお喋りしてるかしら」

キアンは顔を上げず、寝言のような平板な声で言った。「帰りたがってる三万人の老郷ラオシャンと、世界一気難しい馬面メーミェンがさ」

「あのクソババアの性格だ。今頃、中であの三万人に整列と点呼を命じてるさ」

俺は口の中の飴の残骸を吐き出し、努めて軽い口調で返した。

神代弥生じんだい やよいが俺の後ろに立ち、「移動する墓地」へと隠蔽の封印を施し続けていた。彼女の呼吸は低く慎重で、一息つくたびに、あの魂たちのために一秒を稼いでいるかのようだ。彼女は何も言わず、ただ静かに俺の隣に並んだ。そして無意識に俺の肩へと寄りかかってくる。袖越しに伝わるその確かな重みは、死気に包まれたこの片隅で、唯一の現実的な体温だった。

■ PM 21:15 大阪、道頓堀の路地裏、夜食の屋台

鉄板が細かな音を立てて爆ぜ、揚げたての串カツが熱気を放っている。だが俺たちのテーブルでは、その香気すらも無形の厚苦しさによって強引に抑え込まれていた。

誰も、口を開かない。

葉綺安イェ・キアンはうつむき、目の前のキャベツを機械的に弄んでいる。その視線は依然として、足元の沈黙する魔法瓶に注がれたままだ。新田唯にった ゆいはフーディーに着替え、両手をポケットに突っ込んでいた。軍人特有の「鉄の匂い」はアルコールと油煙の中に散り、代わりに生者に対する深い疲労の色が浮かんでいる。

「……」

俺の隣に座る弥生の、新調した紺色のワンピースが灯りの下でどこか清らかに、そして冷たく見えた。彼女は串カツを一本手に取り、小さく半分ほど齧ったが、すぐに食欲を失ったかのように空ろな目で遠くのネオンを見つめた。そして、残りの半分を皿の縁へと静かに戻した。

橋本健一はしもと けんいちは黙って冷酒を注ぎ、一気に煽った。この繁華街にそぐわない影のような連中を見つめる彼の瞳から、官僚的な硬さは完全に消え失せていた。そこにあるのは、葬儀を終えた後の老兵のような寂寥感だけだ。

これは祝杯ではない。音のない通夜だ。

三万の魂の重量が、今、この小さな木製テーブルの周囲にひしめき合っている。彼らは串カツを頬張り、大声で笑う若者たちを見つめ、眩すぎる看板を見つめている。彼らは生者を恨んでいるわけではない。ただ、あまりにも疲れ果てていた。

「……明日、手続きに行くぞ」

俺は低く呟いた。それは指輪の中にいる老郷たちへの約束でもあった。

「ええ」

キアンが短く応じた。その掌は魔法瓶に置かれたまま、馬三娘マー・サンニャンの、沈黙の重量を感じ取っていた。

道頓堀の川は依然として流れ、ネオンの破片を押し流していく。だが、このテーブルの者たちが背負う、八十年の時を超えた鋼鉄の遺憾いかんを洗い流すことはできなかった。


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