S2第二十一章 집으로(家へ)
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
PM 17:30 広島県呉市、海上自衛隊呉地方総監部
夕陽は、まるで血の色のようだった。
残骸の転がる軍港は、オレンジ色の残照の中でタールと硝煙の入り混じった臭いを放っていた。その臭いの奥底には、さらに深い何かが潜んでいる――黒泥が焼き尽くされた後に残る塩化物の焦げ臭だ。それはまるで、1945年の東シナ海を海底から丸ごと掘り起こし、この埠頭で天日干しにしているかのようだった。
整備区へと撤収した俺たちの前に、神代弥生が二本目の歪んだリベットを手に、微笑を浮かべて歩み寄ってきた。彼女の背後には、大汗をかいた老高と小葳が続いている。こいつら、確か後方で霊脈の流向を探らせていたはずだが。どうやらこの若き巫女様は、いざという時の人使いの荒さ……いや、手腕において、俺より数段上手だったらしい。
まあいい。リベットさえ手に入れば、誰が引き抜いたかなんて些細な問題だ。
「随分と早かったな。何か秘訣でもあるのか?」
俺は顔にこびりついた血を拭いながら尋ねた。
「秘密です」
弥生は、戦術的に一本取ったと言わんばかりに悪戯っぽくウィンクしてみせた。巫女としての神聖さの中に、年相応の少女らしい躍動感が混じる。
少し離れた場所では、橋本健一が弾痕だらけの96式装甲車に寄りかかり、うなだれたまま今日15本目となる煙草を燻らせていた。新田唯と佐藤拓巳は残弾の確認に追われている。全員の顔には戦闘後の虚脱感が張り付き、その眼差しは大和の砲撃によって魂まで蒸発させられたかのように空虚だった。
老高と小葳は整備区の隅に身を寄せていた。二人とも負傷しており、老高は左腕に包帯を巻き、小葳の頬には手当もされていない切り傷が走っている。だが、二人は不平一つ漏らさず、次の指示を待つように静かに立っていた。
「任務は終わりだ、余所者」
橋本が煙を吐き出し、相変わらず俺と目を合わせようともせずに言った。「あとは我々の後片付けだ。貴様ら規約外の連中は、さっさと広島へ帰れ」
その時だった。一人の伝令兵が橋本の元へ駆け寄り、耳元で低く囁いた。橋本の顔色が、疲労困憊から一瞬にして鉄青へと変わる。彼は乱暴に煙草を揉み消すと、俺たちを促して基地指揮部の奥深くへと足を踏み入れた。
大理石が敷き詰められた廊下の突き当たりで、俺たちは呉地方総監と対峙した。
その老人は、いまだ黒煙の上がる屋外を窓越しに見つめていた。勲章の並ぶ礼装ではなく、質素な作業服に身を包んだその後ろ姿は、錆びついた鋼鉄の山のように重苦しい。
「橋本尉官」
総監が振り返る。百戦錬磨の双眸が、黒い瘴気を纏った俺の右手の包帯を、葉綺安の腰の銃を、そして最後に弥生の綻びた巫女装束を捉え、一秒だけ止まった。
「長迫公園での一件は、現行法の範疇を超えている」
その声には抑揚がなく、あらかじめ用意された公用文を読み上げているかのようだった。「だが、一つだけはっきりしていることがある。あのアレを、この呉に留めておくわけにはいかん」
彼は俺を見据えた。軍人特有の、意志の有無を問わず結論だけを突きつける視線だ。
「広島の霊務局から急報が入っている。周さん、君が指定の引渡人だ。だが、この釘の放つ霊圧はあまりに強すぎる。このまま広島の市街地をうろつかせるわけにはいかない」
彼は橋本へと向き直った。
「橋本、第一基地警備隊『鋼鉄班』を貴官が率い、即刻臨時任務に就け。軍服を脱ぎ、随身武装を携行せよ。任務は周さんの護送、および舞鶴での魂の引渡しが完了するまでの監視だ。これは私の直令である」
「総監!」橋本が奥歯を噛み締める。「我々はたった今、戦闘を終えたばかりで――」
「命令だ」
総監はその言葉を遮った。声を荒らげたわけではない。だが、廊下の空気は一気に数トンの重みを増した。
「舞鶴は引揚げの港であり、この『遺憾』の終着点だ」
彼は言葉を選ぶように一拍置いた。
「……あの『手』を見てしまった以上、な」
橋本の顎の筋肉が、微かに引き攣った。
「――この因果は、最後まで背負い遂げねばならん」
廊下は静まり返り、窓の外では依然として黒煙が立ち昇っていた。
橋本は総監を注視したまま、五秒ほど沈黙した。やがて煙草の箱をポケットにねじ込むと、俺を激しく睨みつけた。
「野郎……」
PM 19:15 広島駅、新大阪方面、新幹線ホーム
この一時間余り、誰も手持ち無沙汰にしていたわけではない。
自衛隊の面々はそれぞれ離れた場所で電話をかけていた。声は極限まで抑えられていたが、ホームの残響がすべてを拾い上げる。「実家には言っておいた……」「大丈夫だ、ただの臨時任務だよ……」「ああ、数日はかかるかもな……」
話し終え、手の中の電話をしばらく見つめてから無表情にポケットへしまい、戻ってくる者もいた。
俺は聞き耳を立てるつもりはなかったが、それでも聞こえてしまうものは仕方がない。
そして、俺の人生で最も荒唐無稽な「ツアー一行」がそこにいた。
公衆の目を避けるため、五名の精鋭自衛官たちは近所のスポーツ用品店で急造した私服に着替えていた。その結果は惨擺たるものだ。橋本健一は「ENJOY OSAKA」とプリントされた場違いなフーディーを羽織り、バックパックには89式小銃と軍刀を無理やり詰め込んでいる。必死に一般市民を装おうとしているが、顔から溢れ出る殺気がその目論見を台無しにしていた。新田唯にいたっては橋本よりも深く帽子を被り、彼以上に険しい表情を浮かべている。隣の券売機が彼女を恐れて横にずれたのではないかと思えるほどだ。
俺は弥生を支えながら、右手を深くポケットに突っ込み、三本の釘を握りしめた。
掌の中で三本の釘が同時に、微かに脈動する。痛みではない。骨の髄まで響くような低周波の共鳴だ。何かが中で歯を剥いているような感触。俺の指輪の中に残っているのは、もはや軍歌でも「天誅」の咆哮でもなかった。
それは、別の声。
潮の香りと、泥の匂いを纏った呟きだ。
そして、いくつかの言葉が脳裏を過った。
「我想回去……阿母……(お母さん、帰りたい)」
台語(台湾語)だ。造船所の工員が、生の最期に絞り出したであろうその一言が、俺の骨髄から溢れ出す。
「愛轉去……天黑哩……(帰らなくちゃ、日が暮れる)」
客家語。重油と硝煙の混じった声は、地下坑道に閉じ込められた男が暗闇の中で遺した最期の言葉だ。
そして、朝鮮半島の北方の響きを帯びた、しゃがれた、だが決然とした韓国語が続く。
「집으로 돌아가고 싶어…………(家へ帰りたい)」
その声は潮のように押し寄せ、冷たく、重く、俺の呼吸を奪おうとした。造船所で重油に焼かれた者、地下坑道で生き埋めにされた者、原爆の黒い雨の中で蒸発した者たち。彼らは八十年もの間、復讐のためでも天誅のためでもなく、ただこの一言のために待ち続けてきたのだ。
「周さん、耐えてください……」
神代弥生は歩きながら、俺の寒気を抑えるために神咒を唱え続けていた。彼女の指先から漏れる淡い白光は、ホームの蛍光灯の下では見えないほど微かだったが、それは確かにそこに存在した。
ホームにおける俺たちの存在感は、移動する警戒区域そのものだった。後ろには鍋の底のような顔をした橋本、氷結しそうなほど冷たい林雨瞳、そして周囲にガンを飛ばし続ける葉綺安。通勤客たちは本能的に半径五メートルを空け、誰もその理由を問おうとはしなかった。
新幹線のドアが開く。
「乗れ」橋本が俺より先に動き、バックパックを押し込んだ。「人目に晒されるのはここまでだ」
俺は弥生を支えて車内に入り、背後でドアが閉まった。
ハサミで切り取られたかのように、ホームの喧騒が遮断された。
車内の空調は涼しく、座席は清潔で、照明は白かった。
霊力を使い果たした弥生は、その体重のすべてを俺の肩に預けていた。呼吸は浅く、不安定だ。燃え尽きる直前の線香のように、わずかな熱を放つだけ。彼女の手には、原型を留めないほど皺くちゃになった御札が握られていた。
「周さん……ごめんなさい……」
彼女は掠れた声で呟いた。その声は遠くから響いているかのように霞んでいる。
「霊力が……もう……持ちません……」
「いいんだ。大丈夫だ」
彼女はそれ以上答えず、すぐに覚醒と眠りの境界へと沈んでいった。
希は窓際に座り、膝の上の魔法瓶を時折覗き込んでは何かを確認していた。キアンは座席に深く寄りかかって目を閉じ、肘と肘掛けの間に魔法瓶を挟んでいる。彼女は眠ってはいない。見知らぬ場所で、彼女が真に眠りにつくことなどあり得ないのだ。
新幹線が動き出した。
窓の外では、広島の夜景が猛スピードで背後へと流れていく。
俺は消えゆく街の灯りを見つめながら、コーヒーを一口啜った。苦かった。
この道、あの者たちは八十年もの時を待って、ようやく辿り着いたのだ。
「집으로 돌아가고 싶어……(家へ帰りたい)」
その韓国語は、俺の骨髄の奥底で、止むことなく木霊し続けていた。
「わかってる、友よ」
俺は窓の外の闇を見つめたまま、自分にしか聞こえないほどの低い声で呟いた。
「舞鶴に着けば、船は出る。あと少しだ」
PM 20:25 新幹線「のぞみ」車内、新大阪付近
ここ二十分ほどで、三本の釘の共鳴はさらに密度を増していた。
俺は右手を腿の上に押し付けた。包帯からは、新たに滲み出した不気味な湿り気が伝わってくる。車内の霊圧は、あの「家に帰りたい」という呟きによって、目に見えぬ重量へと変質していた。まるで発酵を始めたばかりの樽のように、静かではあるが、内側からの圧力は増し続けている。
俺の斜め向かいには、新田唯が座っていた。腕を組み、ロケットランチャーを三基は解体した経験がある者にしか宿らない、冷徹な眼差しを向けている。彼女は一言も発さなかったが、その視線が執拗に三本の釘を捉えているのを俺は感じていた。
やがて、彼女が口を開く。
「おい、余所者」
歯を剥き出しにするような、低い声だ。
「貴様の指輪の中にあるアレ……。さっき、私の名を呼ばなかったか?」
「考えすぎだ、新田」
俺は口の中のイチゴ飴を噛み砕いた。
「彼らはただ、故郷の名を呼んでいるだけだ。自意識過剰になるな。彼らは貴様から逃げ出したくてたまらないんだからな」
「貴様、何だと……!」
新田唯が猛然と身を乗り出し、バックパックの中のタクティカルナイフに手をかけようとした――その時だ。
「ぷっ」
妙な音と共に、小さな白光がエリスの懐あたりから飛び出してきた。半透明の羽を激しく羽ばたかせ、手には食いかけの広島焼きを握りしめている。
アピスだ。
普段はエリスの襟元に隠れて死んだふりをしているこのデンマーク純血妖精は、どうやら広島駅からの移動中、鞄の中に閉じ込められていたのが限界だったらしい。今、振られた炭酸飲料の蓋が弾け飛ぶかのように、勢いよく飛び出してきた。
「おやぁーー!」
耳障りで、この上なく小癲に障る甲高い声で叫びながら、アピスは新田唯の鼻先へと飛んでいった。そのついでに、広島焼きのソースを一滴、彼女が着替えたばかりのフーディーに振り落とす。
「こいつは驚いた! 賞味期限切れの納豆みたいなツラした自衛隊の姐ちゃんじゃないか!」
新田唯は硬直した。
数多の亡霊を屠り、重火器を操ってきたその手が、今は空中で虚しく舞っている。機敏に飛び回るこの小さな物体を、どうしても捕まえられないのだ。
「本様は高貴なデンマーク純血妖精だぞ! 貴様の鉄臭い体臭で羽が黒ずんじまうだろうが!」
アピスは新田の頭の周りを狂ったように旋回し、ついには大胆にも彼女の肩に着地した。油まみれの小さな手で、彼女の頬をペチペチと叩く。
「リラックスしろよ、姐ちゃん。貴様の魂は錆びついた甲板みたいに硬いんだ。故郷を想う亡霊たちが、そんな名前を欲しがるわけないだろ!」
「離れろ! この羽の生えたハエ野郎!」
新田唯は「冷酷な狙撃手」という設定を完全に崩壊させた悲鳴を上げ、狼狽しながら身をかわした。人を寄せ付けない殺気は霧散し、今の彼女は猫に毛糸玉を滅茶苦茶にされた被害者のように見えた。
「アピス、戻れ」俺は笑いを堪えながら言った。「彼女の制服を汚すなよ。それは自衛隊の資産だ」
「制服じゃないわよ――!」
「ふふっ……」
俺の肩に寄りかかっていた神代弥生が、たまらず吹き出した。俺の肩で体を震わせて笑う彼女の指先から、リラックスしたことで白光がわずかに安定を取り戻す。
通路を挟んだ反対側では、橋本健一がサングラス越しの鋭い眼差しでアピスを見つめていた。その顔は、換気の悪い炭鉱のようにどす黒い。
彼は顔をこちらに向けた。
「おや、橋本さん。何をそんなに顔を強張らせてるんです?」
俺は右手の、芯まで突き刺さるような冷たさを誤魔化すように、わざとらしく「エイエイオー」のポーズをしてみせた。
「ああ、わかりました。例の『出陣の儀式』がやりたいんでしょう?」
橋本の額に青筋が浮かび上がり、押し殺した声で咆哮した。
「黙れ、外人野郎! いいか、警告しておく。この車両で一人でも旧軍の亡霊が暴れ出してみろ。真っ先に貴様を窓から放り出してやる。わかったな?」
「そいつは心強いな」
俺は眠りについた弥生を支えながら、彼を横目で見た。「野郎ども、舞鶴で会おうぜ」
橋本の口角が微かに動いた。それは、冷笑の一歩手前と言えるほどの、極めて小さな動きだった。
それ以上、彼が口を開くことはなかった。
車内に再び静寂が戻る。新田唯は必死にティッシュで肩の広島焼きソースを拭い、アピスはエリスの襟元へと逃げ込んだ。希の魔法瓶が、誰かが中で喉を鳴らしたような、極めて低い唸りを上げた。
弥生は俺の肩に頭を預け、深い眠りに落ちている。
「……新田さん、頑張ってる……」
夢うつつに彼女が呟いた。その声は、水底から響いてくるように微かで、不明瞭だ。「……ねえ、周さん……」
言葉はそこで途切れた。
俺は答えず、ただ窓の外を見つめていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




