97.正々堂々 97-2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
部屋の中の動きが、同時にぴたりと止まる。
林雨瞳が地図を手で押さえ、シキがドア脇の休憩スペースから顔を上げる。ヴィクトリアは、テーブルの上に出してあった一番細い金属製の探針に、そっと手を伸ばした。立ち上がりはしない。ただ、さっきまで丸かった輪郭に、急に稜線が立ったみたいになる。
俺はドアの前まで行くが、すぐには声を出さない。
向こうも急かしてはこない。ただ静かにそこに立ってる。二秒ほどしてから、またココン、と二回。少し置いて、もう一回。
これはホテルの合図じゃない。
これは、職人の流儀だ——言葉を最後まで口にしない、あの間。
先に動いたのはヴィクトリアだった。
その一瞬の彼女の顔は、言葉にしづらい。驚いた、って顔でもないし、単なる警戒でもない。むしろ、ずっと蓋して触らないようにしてきた場所を、いきなり指でぐっと押し込まれたような——そんな表情。
「開けて」と彼女は言う。
俺は彼女を一度だけ見て、余計なことは聞かず、まずはドアチェーンをかけたまま、隙間が一筋だけ空くようにドアを開けた。
ドアの外に立っていたのは、ホテルのマネージャーでも、灰章の伝令に使われる地元警察の私服でもない。くたびれた濃いグレーの上着を着て、いかにも普通の修理道具箱みたいなものを手に提げた老人だった。
髪は、ヴィクトリアが口にしたときの話より、さらに白い。だが肩や背中は落ちちゃいない。鐘錘と釣り合い錘と鋳鉄を相手に一生を過ごしてきた人間の骨格だ。仕事に削られて、別種の硬さを身につけた体。つばを深く下ろした帽子の陰からのぞく顔色はあまり良くないが、眼だけはまだ光っている。古い機械の中で、最後まで摩耗しきらずに残った鋼の一点みたいな光だ。
ドアの隙間をのぞき込もうとはせず、余計な仕草も一切ない。ただ、手に持ったその修理箱を、ほんのわずかに持ち上げて見せた。
「新しい建物は、どうも勝手が分からん」
声は大きくない。ちょっと乾いてしゃがれている。長年、煤と金属粉を肺に入れ続けてついた、傷痕みたいな声。古いプラハの職人特有の声だ。
俺は何も返さず、ドアの隙間を、もう少しだけ広げた。
背後では、ヴィクトリアがもうこちらに歩いてきていた。
早足ってほどじゃない。けど、今までで一番、背筋がまっすぐだ。本当にドアのところまで来て、その顔を見た瞬間、彼女の背中に見えない糸が一本、ぐいっと引かれたみたいに張る。すぐに名を呼びはしない。飛びつきもしない。ただその場に立ったまま、二秒ほど相手を見つめてから、やっと口を開いた。
「まだ、ここがどこか分かるのね」
老人は彼女を見て、口の端をわずかに動かした。笑い、って言うほどでもない。長年染みついてた癖が、この瞬間だけ顔を出すのを、かろうじて許した、みたいな。
「明かりが派手すぎる」老人はそう言う。「川の向こうからでも見えた」
誰も何も言わなかった。
この一言が落ちた時点で、この場にいる全員が理解したからだ。——ヨゼフが来た。
俺はドアを開けきって、彼を中に通し、素早く施錠した。
彼が一歩中へ入っただけで、この部屋の空気に、本物の古いプラハの匂いが一層、重ね塗りされた気がした。雨。黒い油。古い木。煤。そして、機械室特有の湿気が、しつこく染みついて抜けない感じ。その匂いが近づいた途端、この新しいホテル特有の、やたらと清潔な空調の匂いが、押し出されるみたいに薄まっていく。
ヴィクトリアはその場から動かない。葉綺安はまだ戻ってきていない。部屋にいる他の連中は、本能的に半歩ずつ下がった。怖いからじゃない。——こういうとき、間に割って入るもんじゃないって、全員分かってるからだ。
ヨゼフは修理箱をテーブルの脇に置き、すぐには腰を下ろさない。まず、テーブルの上に広げてある図面や紙を、ざっと一通り見渡した。
林雨瞳の大きな地図に目が止まったとき、眉間がはっきりと沈んだ。
「悪くない」彼は言った。「だが、一本足りない」
「どこ?」林雨瞳が、思わず口を挟む。
ヨゼフは手を伸ばし、骨ばってはいるがまったく震えのない人差し指を、河川管理線と旧時計師通りのあいだに空いている、ほんの小さな空白に置いた。
「ここだ」彼は言う。「道じゃない。圧力槽だ。昔は拍動を分散させるのに使ってた。今は、奴らが線を掃除する口にしてる。入りと出だけ追ってりゃ、旧市街には、まだ辛うじて息があるように見える。だが実際には、その息は、ほとんど抜かれちまってる」
ヴィクトリアが、やっと一歩、近づいた。声は冷たく張りつめている。
「図を見に来たの? それとも、前に言わずに飲み込んだ話の続き?」
そこでようやく、ヨゼフは彼女の方を向く。
同じ、やたら明るい新しいホテルのスイートルームに立っているのに、この祖父と孫は、まるで違う年代から無理やり引っ張ってきた二枚の金属みたいに見える。一方は冷たくて、まだ鋭い。もう一方は、使い込まれて鈍い光を帯びている。それでいて、輪郭だけは嫌になるほど似ている。誰が見ても、「どっちがどっちを鍛えたか」一目で分かるくらいに。
数秒の沈黙のあとで、彼は言った。
「今夜を過ぎたら、もう間に合わない」
「何が間に合わないの」とヴィクトリアは問う。
「『もうちょっと先でいい』って、まだ思えてること全部だ」
その一言で、部屋の空気がさらに一段、重く沈む。
俺は椅子を一脚引き、座るように顎で示した。ヨゼフは断らない。座る動きはゆっくりだ。弱さじゃない。必要なところにだけ、きっちり力を使う人間の動きだ。こういう職人じみた爺さんは、何人も見てきた。座るのは、疲れたからじゃない。これから立ってやらなきゃいけない本番のために、いま余計な体力を潰したくないからだ。
「先に話してくれ」俺がそう言う。
ヨゼフは俺を一瞥する。その目は、別に好意的でもなけりゃ、あからさまに値踏みしてる感じでもない。ただ、「ここには、話を受け取っていい奴がひとりはいる」と認めた老人の目だ。俺が何者かなんて聞かない。無駄口も叩かない。ただ、持ってきた物を修理箱から一つずつ取り出しはじめた。
三つ折りにされた古い紙片。新しく書いたものじゃない。もっと古い帳面から、端を一枚だけびりっと破り取った質感だ。半月型の真鍮のキー片が一枚。薄くて、古くて、縁は歯がほとんど削り落とされている。極細の導拍針が二本。それから、もう回転なんかしなくなって久しいのに、妙にきれいに保存されている小さな歯車輪が一つ。
ヴィクトリアは、そのキー片を見た瞬間、顔色を変えた。
「それ、ずっと持ち歩いてたの」
ヨゼフは答えず、まずは古い紙片をテーブルに広げる。
そこに描かれているのは、地図じゃない。古い時計職人にしか読めない閉鎖シークエンスだ。完全な設計図でもない。ただ、一定の拍、錘の移動、逆打ちの対応、それからとても小さな補正記号が三つ。それだけの書き込みで、素人の落書きじゃないことは、一発で分かる。工房内部の備忘録に見えなくもない。が、俺にはむしろ、「口伝でしか回さない決まりごとを、誰かが無理やり一部だけ文字に落としたもの」に見えた。しかも、書いた当人が、全部分かられちまうのを怖がって、あえて余白を残したような。
「北側には、もう一本ある」ヨゼフが言う。「完全には表に出てないが、七割方、もう測られてる。今夜ここでじっとして、明日までのんびり構えてると、その線が旧い工房の下から、河側の清線口まで、まっすぐ繋がる。そうなりゃ、職人街二つだけじゃ済まない。元々、人逃がすための抜け道に使えた暗い通路が、三本まとめて、奴らにとって都合のいい通行路にされちまう」
林雨瞳が地図を見下ろし、自分の描いた今朝の線と、ほとんど一瞬で空白を照合した。
「圧力槽……」彼女が低く呟く。
「そうだ」ヨゼフは小さくうなずいた。「今日の時点で、そこがおかしいってとこまでは、よく辿り着いた。悪くない。だが、まだ知らないことがある。本当にやばいのは、その線が『通れる』ようになることじゃない。その線をきっちり繋がれた瞬間、街の中で、まだギリギリ味方の側に立ってる骨っぽい連中が、一種類の動き方しか取れなくなるってことだ」
シキが、小さな声で尋ねる。
「……封じられる?」
ヨゼフは顔を上げ、彼女をかすめるように見てから、テーブルの上のキー片に視線を戻した。
「封じられる」「ただし、手動だ。それも、完全に接続される前に」
この一言で、全員が黙り込んだ。
「できる」と「手動でやるしかない」が、同じ一文に並んでる状況が、良い知らせだった試しなんか、一度もないからだ。
ヴィクトリアの声は、さっきより一段低く落ちる。
「その線があるの、前から知ってた」
「ああ」
「どうやって閉めるかも、前から知ってた」
「ああ」
「それなのに、ずっと黙ってた」
ヨゼフは、ようやく彼女の顔を見た。
部屋の光は明るすぎる。明るすぎて、彼の顔の皺も、目の下の消えきらない暗いクマも、全部、隠しようもなく浮き上がる。ただの年齢じゃない。ここ数日、線のあいだを行ったり来たりし、人目を避け、経路を計算し、そのうえで、どの勢力にも途中で始末されないよう、常に気を張っていたツケだ。それでも、声だけは崩れない。一つ一つの言葉が、かみ合った歯車をきちんと噛ませながら出てくるみたいに、確実でまっすぐだ。
「早めに口にしてたら」彼は言う。「お前は、今日よりもっと前からマークされてた」
ヴィクトリアの肩と背中が、さらに張り詰める。今にもテーブルをひっくり返しかねないくらいに。
「じゃあ、今になって言うのは? 急に良心が疼いた?」
「違う」
ヨゼフはきっぱりと言い切る。
短く間を置いて、さっきよりさらに低い声を出した。深いところから引き上げてきた、重い鉄のような声だ。
「今、黙ってりゃ——死ぬのはお前だけじゃすまないからだ」
その言葉は、古びた刃物みたいだった。見栄えのする飾りも研ぎたての輝きもない。ひん曲がってもいない。ただ、回りくどい言い回しは一切なくて、一番痛い場所に、まっすぐ突き立つ。
ヴィクトリアは、そこで言葉を失った。
彼女がこの男の「出し惜しみ」を憎んでるのは、見てりゃ分かる。だが同時に、誰よりもよく分かっている。この人間が、そうやって「出し惜しみ」をしてきたからこそ、ここまで生き延びてきたことを。古い職人。古い結節点。古い地下ネットワーク。全部さらけ出してきた奴から死んでいく。
幼い頃から彼女が身につけてきた技術、警戒心、「一式まるごと誰かに渡すな」という感覚。その全部の背後には、この男の影が張り付いている。けど今のプラハの状況は、その男に、最後の最後まで隠してきたカードを、とうとう卓の上に出させるところまで追い詰めてる。これは和解なんかじゃない。行き着くとこまで行った結果だ。
俺はそこで、会話を引き取った。
「で、俺たちに何をさせたい」
ヨゼフはまた俺を見る。さっきより、目つきに具体的な重さが乗っている。
「今夜は、動くな」彼は言う。「今夜の街は、まだ探り合ってる。まだ押し合ってる。まだ、本当は夜にしか出せない話を、どうやって昼の言葉に言い換えて表に出すか、みんなが頭ひねってる最中だ。本当にヤバいのは、明日の晩だ。明晩、最初の一巡で、死に節を締めにかかる。二巡目で、古い工房を潰しにかかる。三巡目になって、ようやく北線を継ぎに行く。断ち切りてぇなら、二巡目と三巡目のあいだの、ほんの少しの遊びに滑り込むしかない」
「『ほんの少し』って、具体的にどんくらいだ」俺が問う。
「やりきれる奴には、足りる」彼は言う。「やりきれない奴には、一生かけても足りない」
こういう職人じみた答え方は、本当に殴りたくなる。だが、今この場で殴り合いを始める余裕のある奴なんて、一人もいない。
ちょうどその時、葉綺安が部屋に戻ってきた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




