90.影に潜むもの 90-4
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
言葉が口から出た瞬間、自分でも何かに気づいたように、彼女の顔色がさらに冷えた。暗号への驚きじゃない。長いこと身体に染みついた反射が、止めるより先に滑り出てしまった——そんな感じだった。
男は彼女を見て、唇の端をほんのわずかに動かした。笑みというより、古い道具がまだ完全には壊れていないかを確かめるような動きだった。
「覚えてるか」彼は言った。「ヨゼフも、お前をそこまでヘンな方向には仕込まなかったってことだな」
ヴィクトリアの手に、ぐっと力がこもる。
俺があの瞬間、彼女の顔にあれほど分かりやすい感情が出るのを見たのは初めてだった。怒りでもなく、驚きでもなく——しっかり握っていたはずの工具が、ふいに手の中で一寸滑って、掌をかすめていったときの、あの生々しい痛みに似ていた。
エリザヴェータ(エリザヴェータ)が、そのとき半歩前に出た。
言葉を奪うわけでも、急いで場を切り替えようとするわけでもない。ただ静かに相手を見据えて、ヴィクトリアの一瞬の揺らぎから崩れかけた重心を、こちら側に引き戻すように。
「どうやら、お主は茶を飲みにまいったわけではなさそうじゃな」妾は言った。
男の視線が彼女に移り、二拍ほどそこで止まってから、わずかに頷いた。
「客あしらいに来たんでもない」
そう答えると、今度は妾の肩越しに視線を送ってきた。俺のほうへ。その目つきはひどく抑制されていて、舐め回すような見方じゃなく、何かの重さを先に見積もっているような、そんな視線だった。
「お前が、今あの時計と一緒にいる奴か」
疑問形じゃない。
俺はすぐには答えず、代わりに口を開いた。「俺たちを待ってたってわけか」
「じゃなきゃ、ここで宿の番人なんかやってるとでも思うか」
言葉にトゲはないが、愛想も一切ない。わざと刺そうとしてるんじゃなく、単に余計な言葉に文字を使うのがもったいない——そんな口調だった。
ヴィクトリアは、もうこれ以上俺を見させまいとするように、すっと横に一歩出て、半身を視線の間に滑り込ませた。
「誰の差し金?」彼女が問う。
男はちらと彼女に目をやり、相変わらず平板な声で答えた。
「誰かに送り込まれた人間なら、帽子一つとこの古い面だけで来たりしないさ」そう言って、肩をわずかにすくめる。「それに、ここで名前を大声で呼ぶな。プラハの壁は薄い、木はもっと薄い」
そこまで言ってから、手を上げて机の上の小さな銅色の部品を指した。
「まず座れ。昨夜お前らがどこへ行ったか、わざわざ俺が聞く必要はない。今朝どの扉をくぐったかも、わざわざお前らの口から言ってもらう必要はない。先に、これを見ろ」
俺は視線を落とした。
それは半円形の銅片だった。縁には無理やりこじ開けられたような歪んだ傷があり、表面にはごく浅い弧状の刻印が押されている。刻印は途中で途切れて完全な形にはなっていないが、今朝ヴィクトリアがゴーレム(魔偶)の残骸から引き抜いた薄片と、いやになるほど形が似ていた。ただ、こちらのほうが半分ほど長い。
ヴィクトリアの目が、きゅっと冷たくなる。
「あそこに行ったのね」
「お前より半刻ほど早くな」男が言う。「ただし、漁った連中よりは一手遅い」
「何を持って行った?」
「もし俺が、お前の探してるブツを持ってるなら、こうしてここで帰りを待ったりしないさ」彼は淡々と続ける。「拾ったのは、あいつらが小さすぎて持ってくのも面倒だと判断したカスだけだ」
言葉が落ちて、客間の空気が静かに沈む。
エリザヴェータは椅子に腰を下ろした。姿勢は崩さない。この部屋の冷えた空気も、雨上がりの湿りも、見えないところでじわりと膨らみ始めている敵意も、そのどれ一つとして妾の所作を狂わせるには足りない——そんなふうに。
「それならば」妾は口を開く。「互いに骨を折る手間を省くとしよう。お主が握っておるもの、妾らが握っておるもの、それぞれ三つずつ。それで、この午後をすぐさま血の海にせずに済ませるくらいの取引には、なるであろうか?」
男はそこで初めて、彼女をきちんと見た。
礼儀としての視線ではない。値踏みのまなざしだった。
しばしの沈黙のあと、彼は小さく頷いた。
「いいだろう。そっちからだ」
エリザヴェータは、よけることなく受けて立った。
「一つ目。今朝のあの旧い節点は、すでに洗われておった。ありきたりな荒らしではない。痕跡照合を前提にした捜索じゃ」
「二つ目。ゴーレムの残骸からは、核心座がまるごとえぐり取られておった。殻だけ残して心は持ち去り——すなわち、相手は自分が何を求めておるかを承知しておる」
「三つ目。底層の空いた槽には、本来圧縮エーテル(Compressed Aether)が収められておった形跡がある。それは、すでに失われておる。しかも、今朝になってようやく抜かれたものではない」
一息に言い終えても、妾の声は天気予報でも読み上げているかのように平坦だった。
だが、その三つはそれぞれが、ずっしり重い。
男は口を挟まない。ただ「圧縮エーテル」という言葉が出た瞬間、指先で机の天板を軽く一度叩いた。驚きというより、元から頭の中にあった前提を、正式に判を押して確定させるような仕草だった。
「よし」彼は言って、指を一本立てた。
「一つ目。あそこを引っかき回したのは一組じゃない。先に入った連中は物の持ち出し担当で、後から入った連中は帳合わせ担当。前の連中は取りこぼしを怖がり、後ろの連中は取り残しを怖がる」
もう一本、指が立つ。
「二つ目。昨夜、拍のずれた鐘を聞いたのはお前らだけじゃない。誰かが、そのズレのあとに返ってきた応答を、ずっと拾い続けている。もう点を探してる段階じゃない。道をなぞってる」
三本目の指が、ゆっくりと立つ。
「三つ目。扉叩きは、もう第二節に入ってる」
その一言で、ヴィクトリアの顔色がはっきり変わった。
大仰な変化じゃない。ただ、目の奥の、きっちり押し込めてあった何かが、さらにぎゅっと締めつけられる。本来ならまだ回るはずだった機構に、上からもう一つ錠前を噛ませたような、そんな固さだった。
俺は男を見た。「どういう意味だ?」
彼は俺には目もくれず、先にヴィクトリアのほうを見た。最初から、この言葉は俺に向けたものじゃなかった——という顔つきで。
ヴィクトリアが冷えた声で口を開き、代わりにその先を言い足した。
「意味は一つよ。リヴァイアサン装甲擲弾兵(利維坦裝甲擲彈兵)が重装掃討の権限を、上位まで繰り上げたってこと」
その一言を口にするとき、彼女の声はいつもよりずっと低かった。言葉そのものに重さがあるみたいに——強く出しすぎれば、この安宿の小さな客間なんか簡単にぶち抜いて、床ごと突き抜けてしまう、そんな重量だった。
男は小さく頷く。
「まだ放たれちゃいない」彼は言う。「けど、扉の向こうに控えてる連中は、もう装甲を貫く準備に入ってる」
また、部屋の中に沈黙が落ちる。
外では、誰かが荷車を押して通り過ぎていく。車輪が濡れた石畳をこする、もたついた摩擦音。本来なら聞き流して終わるような生活の音が、このタイミングで差し込んでくるせいで、かえって客間の中に張り詰めている、静かで動かない圧力が際立って感じられた。
俺は男から目をそらさず、ようやく問いを口にした。
「で、お前は結局、何者なんだ?」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、机の銅片を指先でつまみ上げ、くるりと裏返す。そこには、さらに薄く刻まれた一本の線が見えた。崩れた文字の一部のようでもあり、斜めに走る線と半円のかけらだけで形をなしている。だが、その欠けた印だけで、昨夜あの旧い節点に残されていた細い鋼瓶の首の部分に焼き付けられていた、あの重なり合う刻印がすぐに脳裏に浮かんだ。
「名前なんてのは、どうでもいい」彼は言う。「どうしても呼び名が要るってんなら——カレル(Karel)、とでも呼んでおきな」
彼女はただ扉のほうを見つめていた。手の中の紙が、指の力でわずかに皺を寄せている。長い間を置いてから、ようやく低い声でつぶやいた。
「……あやつ、生きておるのじゃな」
その一言は、別に妾らに聞かせるためのものではなかった。
どちらかと言えば、己れ自身に言い聞かせているような響きだった。
俺は彼女を見つめながら、ようやくさっきの取り乱し方の理由が腑に落ちた。カレルが知りすぎているからでも、いきなりヨゼフの名を出したからだけでもない。ヴィクトリアにとっては、本来あの男はどこか封鎖された節点、二度と正しい拍を刻まぬ鐘楼の中に横たわっているはずの存在だったのだ。それが今、安宿の客間に腰を据えて、この街全体の言い残しを、無表情のまま補いに来るような人間ではなかった。
エリザヴェータが立ち上がり、卓上の銅片を手に取って、指先で軽く裏返す。
「どうあれ」妾は言う。「今の時点で、少なくとも二つのことは分かったわけじゃ」
妾は俺を見、それからヴィクトリアに目を移した。
「一つ。K.A.F.K.A. は、いまだに誰かが動かしておる」
「二つ。今日の日没までに決めねばならぬ。こちらから品を確かめに行くのか、それとも、扉を破りに来るのを座して待つのか」
そのとき、外のどこかの鐘楼が一度だけ鳴った。
ただ一度きり。
短く、硬く——ちょうど一枚の歯車が、別の歯車の歯に、いま噛み合ったところだと言わんばかりに。
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