S2第十九章:守護――その魂の歸る場所
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
午後二時六分 呉基地、装備整備区
佐世保での惨烈な経験が、僕らに一つの真実を突きつけた。艦体と溶け合った亡霊に対し、現代兵器の物理的な運動エネルギーは黒泥をまき散らす程度の効果しか持たない。加えて、僕らの手元の浄塩弾じょうえんだんは昨夜の乱戦で底を突きかけており、二台の装甲車に分乗する自衛官たちに配りきる余裕などどこにもなかった。
「――なら、刀を使いましょう」
空になった弾薬箱を見つめる神代弥生じんだい やよいさんの声には、断固たる決意が宿っていた。彼女は神代家に伝わる古の祝詞を以て、自衛官たちの冷兵器に霊的な「開光」を施すことを提案した。
武器庫の隅、埃を被った古い木箱の中から、封印されていた幾振りの儀式用日本刀と、警備隊配備のタクティカル・脇差が掘り出される。
基地の非常警報が機械的なリズムで明滅し、暗紅色の光が冷え切った弾薬箱の縁で不吉に跳ねていた。
弥生さんは二台の九六式装甲車に挟まれた広場に立ち、深く息を吸い込んだ。その立ち姿が変化したことに僕は気づく。背筋を伸ばし、肩の力を抜き、両足で鋼鉄の床をしっかりと踏みしめる。一度踏み込めば二度と揺るがないその重心こそが、神職としての彼女の真髄であり、畏怖すべき点だった。
白布を敷いた弾薬箱の上に、寒気を纏った古びた刀たちが、目覚めの時を待って静かに横たわっている。
弥生さんは懐から丁寧に折り畳まれた切麻を取り出し、空へと放った。白の紙片は機油の臭いが立ち込める濁った空気の中、汚れなき初雪のように舞い落ちる。彼女は目を閉じ、指先で素早く印を結ぶ。その口から紡がれる古語は、冷徹な電子警報音を遮断し、空間に強烈な時空の断層を刻んでいった。
「――掛けまくも畏き、伊邪那岐の大神……」
「――筑紫の日向の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓え給う時に生り坐せる……」
続いて彼女は神楽鈴を抜き、鋼鉄の気配に満ちたその狭隘な空間で、三番草の舞を踏み出した。鈴の音は清冽で、一振りのたびに空気中の粘りつく黒泥の臭いを粉砕していく。舞うごとに、彼女の蒼白だった頬には桜のような色が差していった。
不意に動きを止めた彼女は、朱砂の筆を疾風のごとく走らせ、橋本健一はしもと けんいちが持つ旧海軍の軍刀に暗紅色の符文を刻みつけた。
「――諸々、禍事、罪、穢れを……」
「――祓え給え、清め給え!!」
「――ッ、ォォォン!!」
淡紫色の霊光が刀身に沿って爆発した。錆びついていたはずの古い金属が、今は極地の氷雪のような鋭い光を放っている。刀を握る橋本の眼差しに、初めて動揺の色が走った。彼が感じたのはもはや鋼の重みではなく、時代を超えて受け継がれた「意志」の質量だった。
「……これが、貴様たちの技術か」
橋本は刀尖から伝わる微細な震動を確かめるように、砂を噛むような声で呟いた。
「これは『守護』です、橋本尉官」
弥生さんは神楽鈴を収めた。額には汗が滲んでいたが、その瞳は底知れぬ深淵のように冷徹だった。
午後二時十分 呉市、九六式装輪装甲車 Kure-02 車内
二台の装甲車は呉の海岸沿いの幹線道路を北上していた。細い視察孔から覗く「海軍の都」は、戦争をしているというより、世界から忘れ去られようとしているかのようだった。
路上にはアイドリングを続けたまま放置された乗用車が並び、ドアは開け放たれているが持ち主の姿はない。コンビニのガラスは粉砕されているが、棚の上の弁当や飲み物は不気味なほど整然と並んだままだ。誰も略奪せず、誰も動かない。まるで全市民が同一の瞬間に生存を放棄したかのようだった。側溝を流れるのは墨緑色の重油の臭いを放つ粘液――それは泥というより、巨大な鋼鉄の生物が垂れ流す分泌物のようだった。
午後二時だというのに、空は午後六時のように暗く沈み、大気には焦げ付いた鉄錆の臭いが充満している。
「崩壊感が拡散しています」
弥生さんはもはや計器を見ようとしなかった。針は過負荷ですでにへし折れている。彼女は冷たい壁面に身を預け、目を閉じたまま、長い睫毛を震わせた。
「大和の霊圧場が、長迫公園の上空に安定した渦の目を形成しました。近づくにつれ、時間の感覚が歪み始めます。一九四五年の光景が、現実に重なって見えるかもしれません。もしそうなったら、私に伝えてください。自分一人で対処しようとしないで」
「幻覚って、どういう意味だ?」
佐藤拓巳が顔を上げた。その早口は、恐怖を押し殺そうとする足掻きに見えた。「幽霊が見えるっていう類の幻覚か、それとも実害があるのか?」
「どちらも現実です」
神代じんだいさんが目を開いた。その瞳は深海のように空虚で、底が見えない。「ただ時間座標が異なっているだけ。過去の記憶が、私たちを底へと引きずり込もうとしているのです」
向かい側の新田唯はずっと沈黙を守っていた。彼女は静かに校正を続ける照準器のように、僕ら異邦人を観察している。彼女は呉の人間だ――地図を見ずとも曲がり角の重心移動を予見するその動作が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
「新田」僕は禁煙飴を噛み砕き、包帯の下で疼く死気を感じながら問いかけた。「長迫公園には、何度行った?」
彼女は一秒の沈黙の後、無意識に小銃のグリップを指でなぞった。
「子供の頃、祖父に連れられて何度も」声に抑揚はなかった。「あそこには、祖父の戦友たちが眠っていると言っていたわ」
車内に死寂が落ちる。衛生兵の田中美玲が僕の右手を包帯し直していたが、その手が微かに止まり、すぐにより強く締め上げた。誰も口を開かない。この装甲車の中で、死者と血の繋がりを持つ者が橋本尉官だけではないことを、全員が本能で察していた。
『Kure-02、前方三百メートルを左折だ』
無線機から橋本健一はしもと けんいちの掠れた広島弁が流れる。背景には不快な金属摩擦音が混じっていた。『長迫公園第二入り口に進入する。霊圧は上限を突破した。二分おきに定時連絡を入れろ……単独行動は厳禁だ』
最後の一言は命令というより、彼自身の切実な「願い」のように聞こえた。
林雨瞳リン・ユートンは無線の発信器を見つめ、口角をわずかに動かしたが、何も言わなかった。彼女の火眼金睛かがんきんせいは発動していないが、瞳の奥には防衛的な紅い光が灯っている。
装甲車が左折し、エンジン音を殺しながら速度を落とした。
視察孔の向こう、長迫公園の灰白い石壁がゆっくりと迫ってくる。壁の苔は一見正常に見えたが、その根元の土はどす黒く変色し、石の隙間からは墨のような油脂が滲み出していた。まるで公園そのものが、地下深くで激しく呼吸しているかのように。
「着きました」弥生が低く言った。
その声は平坦だったが、御札を握りしめる指関節は真っ白に強張っていた。
午後二時十五分 呉市、長迫公園入り口
吹き抜ける風が刃のように冷たく、石碑の林を抜ける咆哮は、帰還叶わぬ三万の連合艦隊兵士たちの慟哭に聞こえた。直後、周囲が前触れもなく燃え上がった。それは草木が焼ける火ではない。時空を超えて噴出した、虚空の燃焼だ。
暗紫色の火炎が公園を包囲し、熱浪が肌を焼く。大気には、高熱で歪み、崩壊していく巨大な金属の「うめき声」が混じっていた。
足元の泥土が消え去った。代わりに現れたのは、熱を帯び、錆びつき、滑り止めのチェッカープレートが刻まれた鋼鉄の甲板。長迫公園全体が、今まさに炎上しつつある巨大な艦体の中へと強引に押し込められたのだ。
「全隊、警戒せよ!」
橋本の冷静な下知が、パニック寸前の隊員たちを繋ぎ止める定礎となった。彼は血走った目で僕を凝視した。「周さん。あんた、俺の言葉が分かっているんだろう。……さて、どう動くべきか聞かせてくれ」
バレていたか。僕は苦笑いを浮かべると、あのヘタクソなテキサス英語を完全に捨て去った。ポケットから漆黒に歪み、重油の臭いを放つ「飛龍」の魂釘を取り出し、自衛官たちと仲間たちの前に提示した。
「よく見ておけ。これから先、これに似たものを見かけたら絶対に触るな。即座に俺へ報告しろ」
「それは……何なんです?」
佐藤拓巳が好奇心に駆られて身を乗り出したが、釘から放たれる死気に触れた瞬間、凍りつくような悪寒に身を震わせた。
「飛龍の魂釘ソウル・リベット。三百九十二名の戦死者の霊魂を繋ぎ止めるアンカーだ」
僕はリベットを収め、熱を帯びた甲板の下から一人、また一人と這い出してくる、全身が焦げ付いた「水鬼兵」たちを睨みつけた。
「俺たちが探すべきは、こいつの呉バージョン――『大和』の魂釘だ」
「……それで、結局どうするつもり?」
新田唯が不意に、血の通った鋼鉄――あの魂釘を指して問いかけてきた。
「こいつはウェイスマンウェイスマンの野郎に叩きつけてやるための、とっておきさ。その後のことは……」
僕は一秒ほど考え、無頼漢のような笑みを浮かべた。
「当然、貴国へ返却させてもらうよ。こんな縁起の悪いもん、台湾への土産にするほど物好きじゃないんでね」
「……貴方って人は!」新田は顔を赤らめて絶句した。
『諸君、来たぞ』
無線機から漏れる橋本健一はしもと けんいちの低い声が、今にも爆発しそうだった新田の言葉を遮った。『銃弾は危急の際のみ使用せよ。外人さんの備蓄弾薬は、浪費できるほど潤沢ではないようだからな……』
(橋本のおっさん、「さん」付けしたところで別に尊重されてる気はしねぇぞ……)
僕は心の中で毒突いた。
午後二時二十分 呉市、長迫公園・扶桑碑前
「いいか! その二つの釘を共鳴させるな! さもなきゃ、大和がこの山ごと平ら(更地)にしちまうぞ!」
僕は目に入り込む塩辛い汗を拭った。右手の「死神の指輪」は今、二つの異なる悪意を同時に感知していた。一つは扶桑碑から放たれる、魂を焼き尽くさんばかりの狂熱。もう一つは、山の上方の青葉碑から伝わる、すべてを海底へ引きずり込もうとする「沈没感」だ。
熱浪は空気を焦熱の波紋へと歪めていた。足元のアスファルトは完全に消失し、熱を帯び、黒い油が滲み出す戦艦「扶桑」の装甲甲板へと変貌を遂げている。
『裏切り者……殺せ……!!』
数重人もの焦げ付いた、四肢を不自然にねじ曲げた亡霊たちが、扶桑碑の影から這い出してきた。折れた銃剣を手にし、中には虚空を食いちぎらんばかりに歯を剥き出し、狂乱状態で突撃してくる者もいる。
「シキ、綺安キアン! 弥生やよいちゃんを連れて上の青葉碑を叩け!」
僕は躍りかかってきた亡霊を拳で砕きながら、彼女たちに咆哮した。
「シキ、重力で沈没感を相殺して弥生を守れ! キアン、お前の銃が彼女たちの唯一の遠距離保険だ!」
「了解」
葉綺安イェ・キアンは手際よく浄塩弾じょうえんだんのマガジンを叩き込み、その瞳を氷室のように冷たく研ぎ澄ませた。彼女は神代さんの手を引き、斜面の上方へと駆け上がっていく。
振り返ると、林雨瞳リン・ユートンは既に扶桑碑の前の火の海の縁に立っていた。彼女の火眼金睛かがんきんせいは完全燃焼し、暗紫色の霊火の中に二筋の赤紅の軌跡を刻み、一瞬の真空を作り出している。
「シーダー、この碑の霊圧が沸騰しているわ」
ユートンの声は依然として冷静だったが、過剰なまでの熱が彼女のコートの裾を捲らせ、焦がし始めていた。
最初はウェイスマンがどれほど巧妙に隠しているか懸念していたが、これでは見つけられない方が無理というものだ。僕は扶桑慰霊碑の傍らに立ち、斜面の別の地点を睨みつけた。あのジジイ、なかなか食えない。――まさか、二本も打ってあるとは。
「マイ・ジャパニィーズ・フレンズ!」
僕は自衛官たちを振り返り、獰猛な笑みを浮かべた。「俺の背中は、あんたらに預けたぜ!」
「ふん、言われるまでもない」
橋本は相変わらず高慢な態度を崩さなかったが、その声から刺々しい鋭気は消えていた。
彼は部下たちを一瞥し、重々しい声を響かせる。
「貴様ら、よく聞け――。全員、この街で生まれ育った地元民のはずだ。自分たちの故郷は、自分たちで守護抜け」
彼は僕をちらりと見やり、わずかに口角を上げた。
「この外人さんに、いいところを全部持っていかれるなよ」
「総員、抜刀ッ!!」
橋本の咆哮とともに、鋼鉄班の五人が二つの慰霊碑の間に肉体の長城を築き上げた。それは、洗練さとは無縁の、泥臭く凄惨な死闘だった。剣術の型などない。あるのは現代の軍隊格闘術と、昭和の亡霊たちの狂気による肉弾戦だけだ。
「――ッ、らぁ!」
橋本の刀が亡霊軍曹の胸部を深く貫いた。防弾チョッキに飛び散った黒泥が、腐食の異音を立てて白煙を上げる。彼は呻き声を漏らしながらも、肩を叩きつけて相手を強引に弾き飛ばした。黒泥に塗れた軍刀は不気味に震え、不退転の意志を奏でるように鳴り響いている。
僕は扶桑碑の領域へと踏み込んだ。一瞬にして立ち昇った熱浪が、眉毛を焼き焦がす。右手の「死神の指輪」から黒光が爆発的に膨れ上がり、僕は暗紅色の液体が滲み出す石碑の亀裂へと、迷わずその腕を突き入れた。
「ウェイスマンウェイスマン、見てやがれッ!」
扶桑の遺恨という名の質量が、僕の右腕の骨を軋ませる。隣ではユートンが霊力の火光を奔らせ、周囲から押し寄せる炎の触手から僕を死守していた。
「この釘は……俺が、今ここで引き抜いてやるッ!!」
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「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




