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S2第十八章 祖父――八十年の代価

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

午後零時三十分 くれ市、九六式装輪装甲車 Kure-02 車内

九六式装輪装甲車の後部ハッチ内は、蒸し暑く、まるで生きたまま放り込まれた棺桶のようだった。

僕は両手を頭の後ろで組み、右手の包帯から漏れ出す不気味な黒い霧を、薄暗い赤色灯の下でさらけ出していた。正面では、氷のきりのような鋭い眼差しを持つ女性自衛官が、八九式小銃の照準を僕の眉間にぴたりと合わせている。

「ヘイ、ガール……テイク・イット・イージー……」僕は引き攣った笑みを浮かべ、わざとらしいテキサス訛りの英語で場を繋ごうとした。「アイム……グッドガイ。ジャスティス!(I'm... good guy. Justice!)」

「黙れ、外人」

彼女は冷たく一蹴し、僕の隣で縮こまっている神代弥生(じんだい やよい)を鋭く一瞥した。

弥生ちゃんは今、極度の緊張から怯えた猫のように身を固め、僕の腕に触れるほど近くまで寄り添っている。向かい側の席では、軽機関銃を抱えた若い小兵がガタガタと震えながら、エンジンの轟音に紛れて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続けていた。その声が、異様に耳を逆撫でする。

「佐藤、安全装置セーフティをかけろ」

隅に座っていた屈強な大男が重々しく口を開いた。腕にいかりの刺青を刻んだその男は、車体の揺れに合わせて太い腕を組んでいる。「このお嬢さんがバケモノなら、そんななまくら銃は何の役にも立たん。もし人間なら、貴様が今やっているのは犯罪だぞ」

「ですが石川曹長……さっきのホームで、あの男の……右手が……」

佐藤と呼ばれた兵士の声には、泣き言が混じっていた。

彼らの会話から階級を読み取る。反対側では、銃こそ奪われたものの、葉綺安イェ・キアンが向かいの銃口よりも鋭い殺気を放っていた。彼女は視線を転じ、救急箱を漁っている眼鏡をかけた丸顔の女性隊員――田中に向かって、皮肉っぽく眉を上げた。

「先生、この『外人』の英語、なかなかのレイヤー感だと思わない?」

キアンの戯言に、田中と呼ばれた衛生兵は眼鏡を押し上げ、視察孔から外の様子を不安げに窺った。

「……貴方たちが一体何者なのか、それだけが気になるわ」

僕は彼女に茶目っ気たっぷりにウインクし、沈黙を貫くことにした。真実を話したところで信じはしないだろう。


午後一時三十七分 くれ基地

装甲車が海上自衛隊呉地方総監部の正門をくぐり抜けた。細い視察孔越しに見えたのは、「海軍の都」が迎えつつある最悪の現況だった。

そこは備戦というより、パニックの瀬戸際にあった。補給車が路上のあちこちに無秩序に放置され、壁際では数十人の自衛官たちが沈黙のまま煙草を燻らせている。中には、命令もないまま虚空の防波堤に向けて銃を構え続けている、神経の切れた兵士の姿もあった。

僕らは車から引きずり出され、基地の主建物の長い回廊へと押し込まれた。

空気には潮の香りと、古い鋼鉄の錆びた臭いが混じっている。廊下の突き当たり、一人の男の背中が僕らの行く手を阻んだ。

橋本健一(はしもと けんいち)三等海尉。さっきのホームにいたあの男だ。

彼は壁に向かって立ち、無言のまま指に挟んだ煙草をコンクリートの壁に押し付けて消した。その動作は緩慢だが力強く、極限状態にある職業軍人の自制心が滲み出ている。彼にとって、外の霧も狂い出した人々も「科学で説明のつく混乱」に過ぎない。そして僕らが、唯一の突破口だと直感しているのだろう。

「新田、他の連中を中へ入れろ」彼は振り返らずに命じた。「この男は、俺がやる」

「入れ。自衛隊の取調室で嘘をつき通せる奴はいない」

橋本は冷徹な眼差しで僕を射抜いた。「説明してもらおうか。お前ら外人が、この異変とどう関わっているのかをな」

僕は、その瞳にまだ「黒い泥」が侵入していない男を見据えた。彼はまだ、常識という武器だけで末日に立ち向かおうとしている。

「ソーリィ……アイ・ドント・スピー——」

「黙れ。入れ、話は中で聞く」

橋本は僕の三流芝居を遮り、顎で取調室を指した。


午後一時四十五分 呉基地、臨時指揮室(倉庫転用)

そこは古い物資倉庫を急造の尋問室に仕立て上げた場所だった。カビの生えた軍用毛布と高濃度オイルの臭いが立ち込め、天井の旧式蛍光灯は神経を逆撫でする「ジー、ジー」という異音を立てている。明滅のたびに、僕らの影が断続的に引き裂かれ、壁に不気味な模様を描き出した。

錆びついた鉄製テーブルを挟んで、橋本健一はしもと けんいちは軍帽を深く被り直して座った。ドア脇では佐藤拓巳が軽機関銃を抱えて縮こまっている。哨戒中のはずだが、彼の視線は何度も僕の顔を盗み見ては、「エイリアン」でも見るような恐怖を浮かべ、銃身を微かに震わせていた。新田唯は氷の彫像のごとく壁際に立ち、無言で僕ら異邦人を観察している。

「安芸阿賀駅でお前らを拘束した時、お前らは長迫公園ながさここうえんを目指していたな」

橋本は、神代弥生じんだい やよいさんから没収した書類を捲った。その声は判決文を読み上げる法官のように冷徹だ。「広島護國神社の認可証には『外邦招魂がいほうしょうこん』の名目がある。ジョウさん、一個小隊を武装させるに足る火器を携えて軍事封鎖区域に侵入する『招魂』が、どこにある?」

彼は顔を上げ、きりのような眼差しを突き刺してきた。「俺が握っている情報は、貴様が思っているより多い。今、長迫公園は原因不明の攻撃を受けて完全に麻痺している。貴様ら外人がテロリストではないという理由を、今すぐ吐け」

僕が再びテキサス訛りのルーローハン英語で煙に巻こうとした瞬間、エリスエリス様が先に動いた。

彼女は優雅に足を組み替え、まるで退屈な小学生の学級会に付き合わされているかのような表情を浮かべる。「貴様など眼中にない」という貴族特有の傲慢さが、橋本の握る万年筆の指関節を白く強張らせた。

「そこの偽テキサス人と違って、私は正真正銘のデンマーク市民よ。不当に拘束し続けるというのなら、デンマーク大使館を通じて相応の処置をさせてもらうわ」

(そうそう、僕は偽老外ですよ……)

僕は心の中で毒突いた。

葉綺安イェ・キアンはテーブルを凝視したまま沈黙を貫いていたが、腿の上に置かれた指先は、軽快に、そして規則正しくリズムを刻んでいる。――それは、ボルトアクションライフルの排莢はいきょうのリズムだ。暗殺者特有の冷徹なテンポが、橋本の項の産毛を逆立たせていた。

「橋本尉官」

弥生さんが、冷たい畳の上に端座したまま口を開いた。蒼白だった顔には今、使命感による決然とした色が差している。彼女は極めて丁重な、それでいて古風な広島訛りを帯びた口調で告げた。

「これはテロではありません。長迫公園の霊場が崩壊しつつあるのです……今すぐ私たちを中に入れなければ、あの場所の『沈没感』が呉市全体に波及します。この御札は、そのために――」

「黙れッ!!」

橋本健一が猛然と立ち上がり、錆びた鉄製テーブルを力任せに叩きつけた。「ガンッ!」という衝撃音に、明滅する蛍光灯が激しく揺れる。

それは怒りではない。理性が崩壊する直前の、最後にして悲痛な、ヒステリックな足掻きだった。

「俺の祖父は大和で死んだ! この基地に来て三日間、嫌というほど聞かされてきたよ……『大和の魂』だの、『亡霊の砲撃』だのッ! ……俺がなぜ、そんな妄想を信じないか分かるか?」

彼は弥生さんを死に物狂いで睨みつけた。眼底の血走った充血が今にも弾けそうになり、声は枯れ果てた絶望を孕んでいた。

「信じてしまえば、俺には……何も残らなくなるからだ」

その二言が、この鋼鉄の官僚の正体を暴き出した。彼は外で何が起きているかを知らないのではない。知るのが「怖い」のだ。もし亡霊の存在を認めてしまえば、彼が積み上げてきた現代軍事のロジックも、職務も、祖父に対する誇りある記憶すらも、一瞬にして無意味な黒い泥へと成り果ててしまうのだから。

室内は死の静寂に包まれた。新田ニッタの銃を握る指は青白く強張り、佐藤サトウに至っては呼吸することさえ忘れていた。

その瞬間、悲鳴を上げていた蛍光灯がついに息絶えた。

「――ジジ……」

隅の影から、焦油タールの悪臭を放つ墨緑色の泥が床を這い出した。それは意思を持つ生き物のように壁の隙間をよじ登り、毒蛇が舌を鳴らすような滑り音を立てて、背を向けている橋本健一ハシモト・ケンイチへと迫る。

予兆はなかった。

半秒前まで震えていた神代じんだいさんの御札すら、今は彼女の指の間で凍りついたように動かない。空気中の乾燥した焦げ臭さは、一瞬にして深海五千メートルのなまぐさい腐臭へと変質した。

錆びた鉄の色をした、灰紫色の皮膚の「手」が、地床の亀裂から音もなく突き出した。

「ガッ!」

その手は正確かつ残虐に、橋本の首を締め上げた。爪が肉に深く食い込む。

橋本は悲鳴を上げず、抗いすらしなかった。ただその場に硬直した。喉の奥を何かで塞がれたように、瞳孔を驚愕の極致へと見開く。

沈黙はどんな台詞よりも破壊的だった――その場にいた全員が悟った。彼はその手の感触を、親指の付け根にある、海水でふやけ崩れた暗紅色のタコの感触を知っている。

それは怪物ではない。彼の血脈だ。

「……おじい……さん……」

その音節は、肺の最深部から漏れ出した。問いではない。ずっと自分に隠し続けてきた答えを、ついに確認した者の声だった。

僕は溜息をつき、右手を差し出した。死神の指輪から放たれた黒光が、暗闇の中で周囲の酸素を貪り喰らう。

漆黒の死気は、重厚かつ鋭利な鈍刀と化し、橋本の首に食らいついていた灰紫色の残肢を叩き斬った。

「――ッ!!」

黒光が震動する。半透明の霊体は崩壊する直前、一秒だけ動きを止めた。それはゆっくりと顔を向け、深淵のように枯れ果てた眼窩で、最後に橋本健一を見つめた。その眼差しに「天誅」の怒りはない。そこにあったのは、八十年の時を超えた、極めて蒼涼とした「欣慰きんい」だった。――あの大火を生き延びた、己の種を見届けるかのような。

直後、霊体は腐臭を放つ黒泥となって霧散した。


午後二時五分 呉基地、臨時指揮室

室内は、壁を這う黒泥の滑り音さえ聞こえるほどに静まり返っていた。

橋本は鉄製テーブルの縁を掴み、錆びた金属に爪を立てて耳障りな音を鳴らしながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。彼は俯いたまま、震える手で湿った軍シャツのポケットから皺くちゃの煙草を取り出した。

「カチッ……カチッ……」

ライターの火が三度目でようやく灯る。

彼は深く煙を吸い込み、辛辣な紫煙が肺の中で弾けるのに身を任せた。その間、一度も僕を見ることはなかった。崩れ落ち、荒い息をつく神代さんに目を向けることもなかった。

沈黙は、まる一分の間、重く停滞し続けた。

「……長迫公園ながさここうえん。第二入り口からの方が近い。俺が……案内する」

橋本の広島弁は、まるで海砂うみずなで喉を削り取られたかのように掠れていた。

感謝の言葉も、非を認める言葉も、ましてや先ほどの霊体に関する釈明など一言もなかった。彼はただ、再び軍帽を深く被り直しただけだ。己の人生を根底から破壊しかねないほどの衝撃を、無理やり軍服の奥底へと押し込めるように。

「佐藤、新田。武器を用意しろ。……行くぞ」

橋本は立ち上がり、扉へと歩き出した。その背中には、さっきまでの「合理主義者」の面影はない。代わりに宿っているのは、八十年前の死者から受け取ってしまった、重く、血生臭いバトンのような「重圧」だった。

僕はそれを見て、短くなった煙草の火を床の黒泥で消した。

「……おい。あんたの祖父さん、最後は笑ってたぜ」

僕の独り言に、橋本の足がわずかに止まった。だが、彼は振り返らなかった。

「……知るか、そんなこと」

ぶっきらぼうに吐き捨てて、彼は部屋を出ていった。


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