S2第十七章 外人(がいじん)か――歓迎(かんげい)されざる者(もの)たち
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
午前八時三十分 呉線電車、呉方面行き
呉線の電車は、瀬戸内海の海岸線に沿って緩やかに進んでいた。窓外の海面は深藍の鏡のように静まり返っているが、その静謐の底には、巨大な歯車の影が無数に沈み、ゆっくりと回転しているのが見て取れる。――それは機械ではない。より古く、禍々しい「何か」の呼吸だ。
「周さん、数値がまた下がっています」
左側に座る神代弥生さんが、腕の中の霊圧計を凝視したまま言った。顔色は青ざめ、黒い瞳には海面の金光が反射している。微かに震える指先が、計器を壊さんばかりに強く握りしめられていた。
「大和やまとの『崩壊感』が、呉市全体を覆い尽くしています。ウェイスマンウェイスマンは、この海域を無理やり一九四五年のあの午後に引き戻そうとしているんです」
「一九四五年……自殺同然の『天一号作戦』か」
僕は口の中の苺飴を噛み砕いた。右手の包帯からは、暗紅色の微光が不吉に漏れ出している。
「ええ。それは報われぬ不満であり、未練であり、そして絶対的な破滅の意志よ」
林雨瞳が優雅に足を組み替えた。その瞳に宿る冷徹な光は、窓の外の景色を氷結させるかのようだ。「シーダー、この戦いに退路はないわ。長迫公園の釘を引き抜けなければ、大和の四十六センチ主砲が広島湾に実体化する。そうなれば、瀬戸内海は文字通り煮え繰り返る地獄になるわ」
午前十一時二十分 呉線電車、安芸阿賀駅
「――ッ!!」
安芸阿賀駅に差し掛かった瞬間、電車が耳を裂くようなスキール音を立てて急停止した。まるで目に見えない巨大な壁に衝突したかのような衝撃。
窓の外、鏡のようだった瀬戸内海には、沖合から不自然なほど禍々しい深緑のうねりが押し寄せていた。車内の照明が激しく明滅し、スピーカーからは運転士の錯乱した声が流れる。
「な、なんね、ありゃあ! 呉が……呉が燃えとる! 逃げにゃあいけん、みんな逃げえ!」
早口の広島弁で喚き散らすその声は、もはや遺言のようだった。意味は半分も分からなかったが、心臓を直接掴まれるような戦慄が走る。
「弥生!!」
僕は隣で硬直している弥生さんの肩を激しく揺さぶった。彼女は放心したように海を見つめていた。
ゆっくりと僕の方を振り向いた彼女の瞳は、既に赤く充血していた。唇を白くなるまで噛み締め、一人でこの絶望を堰き止めようとしていたのだろう。その声は、今にも消え入りそうに細かった。
「周さん……手遅れかもしれません。三十分前……呉港の自衛隊が呉市全域を封鎖しました。内閣官房から緊急事態宣言が発令されましたが……それは、防御のためではありません」
彼女は窓の外、遠くで立ち昇る巨大な黒煙を指差した。その声が、隠しようのない恐怖で震える。
「『扶桑ふそう』と『青葉あおば』です……。今、呉の港湾地区に向けて艦砲射撃を開始しました。自衛隊の防空システムでは……あの霊子化された弾頭は、防げません」
「ドォォォォォンッ!!」
十キロの彼方から響いてきた地を這うような雷鳴に、安芸阿賀駅の全窓ガラスが悲鳴を上げた。
「クソが、ウェイスマンウェイスマンの糞ジジイ、定石無視かよ!」
僕は口の煙草を吐き捨てた。右手の「死神の指輪」が遠方の暴力的な硝煙に共鳴し、溢れ出した黒い光が包帯を一瞬で飲み込んでいく。
「シーダー、あそこを見て」
林雨瞳が優雅に立ち上がった。薄暗い車内で、彼女の火眼金睛かがんきんせいが半尺もの紅い光を放ち、呉の山並みを凝視している。
「長迫公園の上空に、巨大な霊圧のブラックホールが形成されているわ。ウェイスマンは釘を抜くどころか、戦艦たちの砲撃を利用して、大和やまとの『実体』を強引に鍛造しようとしている」
逃げ惑う乗客たち。そして、絶望的な状況下で逆に研ぎ澄まされていくチームメイトたち。
「弥生やよい、泣くな」
僕は彼女の腕を強引に引き上げた。懐の、護國神社の御札が放つ熱を右手に感じる。
「お前が俺たちの唯一の希望だ。……行くぞ、線路沿いに呉港を強襲する!」
午前十一時四十五分 広島呉線、安芸阿賀駅ホーム
「ドォォォォォンッ!!」
再びの衝撃。呉港の油槽所が『青葉』の霊子主砲に直撃されたのだろう。暗紫色の火柱が天を突き、安芸阿賀駅の空を血のような色に染め上げた。
「老高さん、シャオウェイ! 設備を死守してくれ! シキ、重力場全開だ。狂人共を一歩も近づけるな!」
僕は咆哮し、右手の指輪から二尺もの漆黒の死気を噴出させた。それは無形の重槌となり、ホームに躍り出て無辜の民に軍刀を振り下ろそうとした亡霊水兵を粉砕した。崩壊し、黒泥へと変わる寸前、水兵の墨緑色の瞳が病的な憤怒を湛え、鼓膜を突き刺すような声を絞り出す。
『う……裏切り者めが……ッ!!』
「やかましいわ! お前に金借りた覚えはねぇよ!」
僕は台湾語(台語)で怒鳴り返した。通じるかどうかなんて知ったことか、今は吐き出すことが先決だ。
「周さん! 水兵が増えています……囲まれます!」
神代さんは影から這い出してくる無数の亡霊に顔を強張らせた。膝の震えをホームの石柱に預けてどうにか堪えているが、高圧の霊域下で霊力の練成が追いついていない。
そこへ、三八式歩兵銃に銃剣を帯びた亡霊軍曹が側面から飛び出してきた。錆びついた刃が弥生ちゃんの喉元を狙い、凄絶な咆哮を上げる。
『貴様ら……なぜ生きておるッ!? 逆賊めがぁッ!!』
「――ッ、パァン!」
冷酷で乾いた銃声。軍曹の頭部は、弥生ちゃんの鼻先わずか十センチの距離で弾け飛び、黒い泥が周囲に飛び散った。
葉綺安は陰鬱な表情で狙撃銃を下ろした。その瞳は死肉でも眺めるかのように冷え切り、神の加護を失った凡人特有の、純粋なまでの殺意に満ちていた。
「私たちが裏切り者だって言うなら、見せてあげるわよ。裏切り者の弾丸がどんな味か」
彼女は僕を振り返った。薬莢を弾き出す金属音が、重々しく、そして「最高に機嫌が悪い」リズムでホームに響き渡った。
「……おい。あの女、どこぞの抗日英雄にでも取り憑かれたんじゃないのか?」
殺気が重すぎて、僕ですら背筋が凍る思いだ。
ホームではスーツ姿の市民たちが、亡霊たちに追い回されている。あの昭和の亡霊たちの目には、平和を享受している現代人はすべて「裏切り者」と映るらしい。辺りを見渡すが、呉港まではまだ距離がある。公共交通機関は麻痺し、路上はいつ「天誅」を叫ぶ水鬼兵が飛び出してくるか分からない地獄絵図だ。
交通手段に頭を抱えていたその時、遠くから荒々しいエンジン音と機関銃の掃射音が聞こえてきた。
二台の「九六式装輪装甲車」が、鋼鉄の咆哮を上げながらホームへと突き進んできた。車体側面には『海上自衛隊 呉地方隊』の文字。地獄に現れた、救いという名の鉄塊だ。
装甲車が急ブレーキで止まると、八九式小銃を構えた自衛官たちが素早く飛び出してきた。僕は仲間に武器を下ろすよう合図したが、神経を極限まで尖らせた自衛官たちの銃口は僕らに向けられたままだ。果物ナイフ一つにもうるさいこの国で、武装した不審な一団が当たらず触らずで済むはずがない。
「貴様ら……死にたいのか?」
三等海尉の階級章をつけた、無精髭の男が歩み寄ってきた。その眼差しには嫌悪が露骨に滲んでいる。「軍用武器の不法所持。現時刻を以て、重罪だぞ」
僕は両手を広げ、典型的な「話の通じない外国人」の面を作った。台北の萬華とテキサスのオースティンが混ざり合ったような、最高にルーローハン臭い訛りで怒鳴り返してやる。
「ソーリィ……アイ・ドント・スピー・ジャパニィーズ……ヤ・ノー?(Solly... Aie don't sup-peak Ja-pa-ne-se... ya know?)」
テキサスの道端で燻製肉を切り分けながら、クレジットカード決済を頑なに拒否する頑固親父のような口調。
三等海尉――橋本健一はしもと けんいちは、眉一つ動かさなかった。彼は火の海に包まれた市街地を冷ややかに見据え、歯の隙間から極上の嫌悪を込めた広島弁を絞り出した。
「……外人か」
その二文字は「出所不明の厄介者」というレッテルとなって、僕の顔面に叩きつけられた。
「乗れ乗れ! 全員まとめて基地へ連行する!」
橋本は不機嫌そうに部下へ指示し、僕らを二台目の装甲車へと「押送」させた。
装甲車の後部ハッチが、重々しい金属音とともに閉ざされた。
ホームを埋め尽くしていた砲声、絶叫、そして黒泥の腐臭――すべてが、一枚の鋼鉄によって遮断された。
不意に訪れた、静寂。
蒸し暑い車内には、エンジンの低い唸りと、僕らの荒い呼吸音だけが響いている。僕は壁面に背を預け、右手の包帯からじわりと染み出す熱い湿り気を感じていた。神代さんはまだ放心した様子で、手にした御札をくしゃくしゃになるほど強く握りしめている。シキは隅で身を縮め、重力場のアンカーを静かに収束させると、言葉を発する気力すら惜しむように目を閉じた。
最初に我に返ったのは、葉綺安イェ・キアンだった。
彼女は三秒ほどハッチを見つめていたが、やがてゆっくりとこちらを向いた。さっきまで冷酷にヘッドショットを連発していたとは思えないほど冷静な、それでいて「何かが吹っ切れた」ような表情だ。
二秒の沈黙の後。
彼女は堪えきれずに吹き出した。それは安堵の笑いではない。「ここで笑わなきゃ、やってられないわ」と言わんばかりの、肩を激しく揺らす笑いだ。
「ジョウ・シーダー、あんたの英語、テキサスでルーローハンを売ってるオヤジそのものだったわよ。日本の士官から『不法入国の外人』扱いされるなんて……評価は満点ね」
「あいつらが弥生ちゃんみたいに中国語ペラペラなわけないだろ」
僕はバツが悪そうに鼻を擦り、隣に座る弥生ちゃんを見た。
キアンは意地悪い笑みを浮かべると、青ざめた弥生ちゃんの頬を指でツンと突いた。
「ねえ、大巫女様? あんたのところの周さんのあの訛り、聞いてて平気だった?」
唐突なからかいに、弥生ちゃんは戸惑い、一気に顔を赤く染めた。その神域の容積も、彼女の動揺に合わせて狭い車内で不穏に波打ち、物理的な「重圧」として僕らにのしかかってくる。
「……そ、それは……独特の響きがあると言いますか……」
弥生ちゃんは視線を泳がせながら、必死に僕をフォローしようとしている。その健気さが、逆にキアンのサディスティックな笑いを深めさせていた。
拘束された身分ではあるが、これで封鎖区域の内部には潜り込めた。入ってしまえばこっちのものだ。
長迫公園に突き刺さった、あの熱り立つ釘。ウェイスマンがどんな罠を張っていようと、あいつだけは僕の手で生きたまま引き抜いてやる。
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