78.糸口を掴め 78-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ほとんど眠れなかった。
疲れていたからではない。昨夜の証拠が、まだ身体に残っていたからだ。
シャツは替えた。だが皮膚に染みついた熱は、そう簡単には散らない。エレオノーラが最後に耳元で囁いた言葉が、細い針のように一本一本、頭の中に刺さったまま抜けない。
——左から三列目。先に触るのは机。机の底の二重引き出し板。灰色のファイルはその場で開くな。同じ姓が三度以上繰り返されたら声に出すな。鉄錆の匂いを信じるな。
窓の外、ウィーンの空はまだ薄かった。まだ鞘から完全には抜けていない刃のような色をしていた。
あの真鍮の鍵を掌に乗せて、しばらく眺めた。夜より昼の方が、ずっと見苦しく見える。酸化の斑点が浮き上がり、角も磨り減っている。貴族の晩餐で立場表明のために使われるような代物ではない。本当に何度も、誰かが扉を開けるために使い続けてきた鍵だ。
外套のボタンを留め終えたところで、扉が二回、鳴った。
ノックではない。通知だ。
扉を開けると、エリザヴェータが立っていた。後ろに希、林雨瞳、葉綺安。廊下の光が彼女の肩の横から斜めに差し込み、その人を過剰なほど清潔に見せていた。
今日の装いは簡素だ。深い色の外套、手袋、きっちりとまとめた髪。昨夜のあの盛大な晩餐が、彼女の上に一粒の灰も残さなかったかのようだ。
彼女はまず俺の顔を見た。次に、俺の襟元を見た。
視線が、半秒止まった。
俺は何も言わなかった。
彼女も何も言わなかった。
先に動いたのは葉綺安で、壁に寄りかかりながら片眉を上げる。
「誰かさん、昨夜はずいぶん忙しかったみたいね」
希はタブレットを抱えたまま、俺の首のあたりに視線を流し、「ちっ」と一声。「ウィーンの貴族のもてなしって、スロバキアより温かいんやな」
林雨瞳は一番簡潔だった。一言だけ問う。
「収穫は?」
「あった」
俺は真鍮の鍵を取り出し、掌を開いた。
エリザヴェータはひと目見て、手を伸ばして受け取った。その指先が俺の掌に触れた時、冷たかった。まるで昨夜残った熱を、わざわざ押さえに来たみたいに。
「価格を変えようとしてきたか?」
「しなかった」俺は言う。「ただ、俺たちが賭けに値するかどうかを確かめていた」
エリザヴェータは俺を見上げる。
「結果は?」
「賭けた」
葉綺安が後ろで笑い声を漏らす。
「その台詞、あんたの口から出ると、なんか妙な味がするわね」
エリザヴェータは彼女を無視し、鍵を裏返して、目立たない刻み傷を確かめる。文様ではない。番号が意図的に削られた後に残った痕跡だ。
「他には何をもらった?」
「道順だ」俺は言う。「外扉を入って左から三列目。先に触るのは机で、箱には触れない。机の底に二重の引き出し板。灰色のファイルはその場で開かない。それと——」
俺は一拍置いた。
エリザヴェータが目を上げる。
「それと?」
「同じ姓が、異なる番号で三回以上繰り返し記されていたら——声に出すな」
廊下が、一秒だけ静まった。
葉綺安でさえ、笑みを引っ込めた。
希の手元のタブレットが低く鳴り、彼女は顔を下げてページを開く。声が少し沈む。「これ、普通の档案整理の習慣やない。どっちかというと……」
「回収」林雨瞳が、その先を引き取った。
エリザヴェータは鍵を俺に返した。
「では、行くぞ」
彼女は先に歩き出し、二歩ほどで止まった。振り返らないまま。
「周士達」
「なんだ」
「昨夜、彼女がお前に触れたのは、彼女の手段だ」彼女の声に起伏はない。「お前が彼女の口から言葉を持ち帰ったことが、お前の仕事だ」
俺はその背中を見ながら、口の端を上げた。
「言葉以外しか持ち帰らなかったなら、今頃あんたはここにいなかっただろうな」
彼女は振り返らなかった。だが、その唇の線が、わずかに動いたような気がした。
「分かっているなら、それでいい」
---
その場所は、地下墓地にあるわけでも、オペラ座の裏にあるわけでもなかった。
ひどく普通の建物の中にあった。
外壁は綺麗に修繕され、石段は清潔に掃かれ、表札は何度か替えられて、今はとっくに重要性を失った財団の名義が掲げられている。
こういう場所が一番厄介だ。
本当に汚いものが深く埋まりすぎていると、かえって掘り当てやすい。制度の中に紛れ込ませてこそ、長く生き延びられる。
オーストリア側は昨夜のような「テーブルに着ける」人間を寄越さなかった。無口な中年男が一人、俺たちを二階の廊下の突き当たりまで案内し、そこで退いた。
「ここから先は、私には関係がありません」彼は言った。
エリザヴェータは彼を見る。「そうあってほしいものじゃな」
男は何も答えなかった。ただ古い平面図を窓枠の上に置いて、背を向け、去っていった。
扉が閉まると、廊下には俺たちだけが残った。
守衛はいない。足音もない。埃さえ、規則に従って静まり返っているようだった。
あの真鍮の鍵を鍵穴に差し込んだ時、最初に感じたのは噛み合う感触ではなかった。
薄い、冷気だった。
扉の向こうにあるのは部屋ではなく——ずっと散らずにいた、ある種の影のような気がした。
「監視カメラは?」俺は声を落として聞いた。
希はタブレットのスキャン画面を睨み、指を素早く二度滑らせる。
「昔はあった。でも今は死んでる。切られたんやなくて、『死んだまま保存されてる』」
彼女は顔を上げる。「ここがずっと前から放棄されとるように見せたい誰かがおる」
「こういうことをするのは、たいてい二種類だ」林雨瞳が言う。「本当に調査を恐れている者か。あるいは、いつか戻ってくるつもりで、場所を空けておく者」
「ワイスマンは、廃墟に席を残しておくような男ではない」エリザヴェータが言う。
「つまり、ここは彼のための"空席"じゃない」俺は鍵をひねる。
カチリ、と。 扉が開いた。
小さな音だった。だが、骨と骨がずれるような固い音だった。
扉の奥は、想像していたような秘密の小部屋ではなかった。
ただ、やたらと奥行きのある旧档案室だ。
背の高い棚。鉄のラック。封印された箱。古い机。カーテンは引かれ、空気には紙と埃と湿り気——それから、言葉にしづらい何かの匂いが混じっている。
一歩だけ中に踏み込んで、俺は足を止めた。
エリザヴェータが俺を見る。
「どうした」
「匂うだろ」
彼女も足を止め、奥へ視線を投げる。すぐには答えない。
葉綺安が鼻をしかめる。
「鉄錆」
林雨瞳は扉のそばに立ったまま、淡々と言う。「それだけじゃない。乾いた消毒液の残り香もする」
希が顔を上げる。「ここ、ただの書類倉庫ちゃうな」
俺は黙って、左を見る。
一列目。二列目。三列目。
三列目の一番奥に——本当に、机が一つあった。
事務机ではない。細くて長い、分類と記録のためだけに作られたような机だ。天板の上はからで、古い引っかき傷だけが残っている。端には、金属のスタンプかガラス瓶が長く置かれていたような、丸い圧痕もある。
「触るな」俺は言う。
エリザヴェータが頷く。他の三人は自然に散らばり、両側と出入口をそれぞれ見張る。
俺は机の前に立ち、すぐにはしゃがまず、まず天板の縁に沿って一周、指でなぞった。
木は古い。だが、手入れが良すぎる。この「良さ」は愛着ではない。繰り返し使われてきた「磨耗の均一さ」だ。
指を底板へ滑らせる。第一層の板のストッパーに触れ、さらに半寸押し込むと——二枚目の薄い板が指先に触れた。
そこで、一瞬止まった。
昨夜、エレオノーラが耳元に伏せていた時の声も、こんな風だった。近すぎて、「秘密」は言葉ではなく、骨の隙間に押し込まれていくような距離。
——先に触るのは机。箱じゃない。
俺は、第二層の引き板を引き出した。
薄い空間が滑り出す。中には、きちんと三つの物が並んでいた。
ひとつは、さらに小さな黒い鍵。
ひとつは、灰色にくすんだライター。
そして最後に——薄すぎる索引簿が一冊。
葉綺安が真っ先にのぞき込む。
「これだけ?」
「違う」林雨瞳が言う。「本当に重要なものは、厚くしない」
希はすでに携帯スキャナーを索引簿に向けている。声は低い。
「紙の年代がバラバラや。表紙は新しめやけど、中の何枚かは他よりずっと古い。後から突っ込まれたページがある」
エリザヴェータが俺の隣に立つ。
「開け」
俺は索引簿を開いた。
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