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76.ウィーンの深紅の白鳥 76-1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

ウィーンに入った時、空はちょうど群青から漆黒へと沈みかけていた。


車窓の外、石造りのファサードが街灯に撫でられて光る。まるでとうの昔に敷かれたテーブルクロスが、「あとはナイフとフォークを並べるだけ」と囁いているような街並みだった。


エリザヴェータは俺の右隣に座り、道中ほとんど口を開かなかった。車がリングシュトラーセを抜ける時に一度だけ、窓の外へと視線を上げた。


(シキ)はタブレットを抱え、指先を走らせて情報の流れを追っている。林雨瞳(リン・ユートン)は後部座席で声を落とし、葉綺安(イェ・キアン)と最終版の接待リストを突き合わせていた。


スロバキアの同行政府代表は、取り決めどおり途中で下車して帰途についた。車内に残っているのは俺たちだけ。その分、空気は逆に張りつめる。


前方、目的の建物の正面玄関がだんだん近づいてくる。


城でもなければ、官庁でもない。


意図的に目立たない顔をしている場所だ。


外壁は清潔で、窓枠は細長く、看板らしい看板はない。真鍮のドアノブだけが、灯りを受けて冷たい光を返している。入口には二列、人間が並んでいた。制服は着ていない。だが、どんな制服よりも、「命令を遂行している」という空気を纏っていた。


車が止まると同時に、玄関の扉が開いた。


執事が開けたのではない。


彼女自身が、開けた。


エレオノーラは扉の内側に立っていた。まるで、俺たちの車が止まる秒数まで計算に入れていたかのように。深紅のベルベットのロングドレスが体の線に沿って落ち、白いファーのショールが肩にかかり、黒いロンググローブは肘の少し手前までを覆っている。首元には、冷たい光を湛えた宝石のネックレス。玄関の灯りが、その輪郭だけを淡く燃え立たせていた。


彼女はすぐには笑わない。まず、視線をエリザヴェータに落とし、それからゆっくりと俺の顔へと移してくる。


その一瞬で、悟った。


この女は、出迎えに来たんじゃない。——計量に来たのだ。


顎を少しだけ上げ、声量はさほど高くないのに、玄関先の空気を一気に支配する。


「女大公殿下。ウィーンは、閣下を歓迎いたしますわ」


エリザヴェータは、手を差し出されるより先に車を降り、まっすぐに立ってから短く返す。


「オーストリアは、場の選び方が巧いのう」


エレオノーラの口元が、そこでようやくわずかに動いた。


「本当に重要な扉は、街路には面しておりませんの」


そう言ってから、今度は俺の方へ向き直る。ヴァイオレットの瞳が、刃の背で撫でるみたいに人をなぞる。冷たい。だが、決して鈍くはない。


「ジョウさん。噂より、お静かですのね」


俺はドアを閉め、エリザヴェータの半歩うしろに位置を取る。


「大抵の場合、俺の番が来てないだけだ」


言い終わっても、彼女は追撃を仕掛けてこない。代わりに、すっと身を引いて通路を開けた。


「では、お入りなさい。今夜はまだ、ウィーンに言葉はあまり聞かせませんわ。——まずは、見せるところから」


---


玄関ホールを抜けると、その奥には思いのほか長い前廊下が続いていた。宴会場ではない。厚い絨毯が敷き詰められていて、靴音はほとんど吸い込まれてしまう。


両側の壁には、家系図の一部のような肖像画か、宗教画が並んでいた。どれも長い時間を飲み込んだ色をしている。額縁の中の眼差しが、上階の連中に代わって俺たちを品定めしているような、そんな圧があった。


(シキ)が小声で寄ってくる。


「外におるの、ドイツ語圏の局が三つ、フランス語圏が二つ、イギリス系が一つ。どこも入口までは詰めてへん。誰かが止めてる」


「門を押さえられる奴が」俺は鼻を鳴らす。「中身まで押さえられるとは、限らねえけどな」


エレオノーラは、そのひと言を聞いたようでもあり、聞き流したようでもあった。先頭を歩く彼女の足取りは速くない。だが、一歩ごとに「揺れない」ことを後ろに見せつけてくる。


内側のホールまで来たところで、ようやく立ち止まり、エリザヴェータへと振り返る。


「オペラ座の方は、すでに準備できております。今夜は一階の客席は閉めて、ボックス席だけを開けましたの。全市に見せるつもりはございません。ただ、『見るべき者』には見せる。それから、会員制サロンに移動いたしますわ」


林雨瞳(リン・ユートン)が問う。


「サロンには、誰が来る?」


エレオノーラは彼女を見ない。視線はエリザヴェータの上に据えられたままだ。


「旧家の人々、法務顧問、文化基金、名簿に載るべきでない金融筋が二人。それから、口では『音楽を聴きに来た』と言いながら、実際には自分の血圧を測りに来る官僚が何人か」


葉綺安(イェ・キアン)が、鼻で笑う。


「いかにもウィーンって感じね」


エレオノーラは、そこでようやく彼女を一瞥する。


「いいえ。まだこれは、礼儀の範囲内ですわ」


そう言ってから、手を上げる。給仕が銀盆を運んでくる。乗っているのは酒ではない。一束のカードだ。それぞれのカードには、金箔で名前が刻まれている。肩書きも、国章もない。姓だけだ。


だからこそ、公式リストよりもはるかに露骨だった。そこに単独で記される名前は、たいてい肩書きより長生きする。


エリザヴェータはざっと目を通し、一枚をつまみ上げる。


「ハプスブルクの傍系も顔を出すか」


「殿下を見に」エレオノーラは淡々と答える。「それと、スロバキアが檻から何を出したのか、確かめに」


その一言を聞いて、俺は彼女を見る。


ちょうどそのタイミングで、彼女もこちらを見返してきた。


瞳には笑みはない。だが——明らかに俺に向けて仕込まれた台詞だと分かる。


エリザヴェータはカードを盆に戻す。


「ならば、よく見せてやればよい。——檻から出たのではない。門を開けたのじゃとな」


---


二十分後、俺たちはオペラ座の脇の通用門から中へ入った。


外にレッドカーペットはない。 だが、ボックス席フロアは隅々まで磨き込まれていた。


今宵、公演はない。客席に雑多なざわめきはなく、あるのはベルベットと金箔と階段と鏡面。それから、この種の古い建物特有の圧迫感——誰かに見られているというより、この建物そのものが、「お前はここに入る資格があるのか」と秤にかけてくるような感覚。


案内されて、二階正面のボックス席エリアへ。扉が開いた瞬間、中にいた人間がほぼ同時にこちらを向いた。


誰ひとりとして、立ち上がる動作が遅くない。


これが、高圧接待の厄介なところだ。


相手の所作はどれも教本どおりで、粗を探そうとしても見つからない。だからこそ、自分が半拍でも遅れれば、その瞬間に「自分で格下を認めた」形になる。


エレオノーラが先に足を踏み入れ、澄んだ声で告げる。


「エリザヴェータ殿下」


名乗ったのは、その一名だけ。


ボックス席の中の人間が、一斉に姿勢を正した。誰かが目に見えないスイッチを押したかのように。


エリザヴェータは一歩前へ出る。ロングドレスの裾が床を掠める。余計な言葉はいらない。ただ、静かに頷くだけ。


それだけで、自己紹介以上の効果があった。


彼女は「謁見を願う側」ではない。——「お前たちが、自分の遅れを認めるかどうかを見に来た側」だ。


白髪の男が口火を切る。ドイツ語をゆっくりと、咬み切るような発音で話す。その精確さ自体が、一種の挑発だ。


「殿下。最近のウィーンは、しばしばあなたの御名を耳にしております」


エリザヴェータは、それよりさらに遅いテンポで返す。


「ならば、貴殿らの耳は、さほど鈍うはないということじゃな」


ボックス席の中で、二人ほどが目配せを交わしたのが見えた。


別の中年女が続ける。笑みは浅い。


「スロバキアでは、ずいぶんと手際がよろしかったようで」


「誰かが、あまりに長く手をこまねいておったゆえな」


その返しが落ちた瞬間、空気がひとつ締まった。


エリザヴェータの左後ろに控えた位置から、俺には一番奥にいる二人の金融筋の顔がよく見えた。彼らが恐れているのは、彼女の強硬さそのものではない。


象徴の話を、現物のファイルに引き戻されることだ。


貴族たちは、姿勢の処理には長けている。だが、引き出しの奥にしまった書類に、誰かの手が伸びるのを一番嫌う。


エレオノーラは、その緊張を見逃したふりをして、バルコニーの欄干へと歩み寄る。手を伸ばし、下の誰もいないメインステージを示した。


「今宵は、上演はいたしませんわ」


「今宵はただ——誰が先にこの場に立つかを拝見するだけですの」


俺もつられて、一度だけ視線を落とす。


舞台は闇に沈んでいる。中央だけに、スポットライトが一筋。そこだけが、誰かが立つのを待っている空白のようだった。


エリザヴェータは欄干まで歩み寄ることなく、問う。


「さて——最初の言葉は、誰からじゃ?」


エレオノーラは振り向き、ボックス席にいる全員を見渡した。


「文化を語りたい者は、まず文化を語るがいい。管理を語りたい者は管理を、境界を探りたい者は地図を、そして——腹の内を探りたい者は——」


エレオノーラはふと言葉を切り、俺の方を見た。


「——まず、ジョウさんを通してからですわ」


ボックス席が、一瞬だけ静まり返った。


短い沈黙だったが、十分すぎるほどだった。


これは持ち上げではない。名指しだ。 彼女は全員の前で俺をテーブルの縁に押し出すことで、明確にこう告げた——エリザヴェータの隣に立つこの男は、随行でも、飾りでも、迂回できる空席でもないと。


案の定、あの白髪の男が最初に俺を見た。


「ジョウさんは、法律にお詳しいので?」


俺は視線を返す。


「人が法律を使って何かを隠す時、どう動くかは分かる」


彼はそれ以上問わなかった。


本当に分かっている人間なら誰でも知っている。この返しは「条文を知っている」より、よほど処理しにくい。


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