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75.前哨 75-3

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

俺たちは狩猟館の二階、反対側にある応接室へと案内された。窓の外には森のラインが見え、室内には柔らかい暖色の照明が灯っている。眩しすぎず、「いかにも秘密の会談です」という空気をわざとらしく作るでもない。


だが、部屋に足を踏み入れた瞬間に分かった。


——ここから先、入ってくる相手の名前は、さっきの正式な接待名簿には載っていない。


案の定、扉が開く前に、まず音が来た。


ハイヒールが木の床を叩く音。急がず、重すぎず——だが、的確だ。


そして、彼女が入ってきた。


一瞬、本当に、半秒ほど言葉を失った。


べつに、あまりにも美しすぎたから、というわけじゃない。いや、実際のところ、とんでもなくよく分かっている女だ——「どうすれば、初見で人の口を塞げるか」。


だが俺が固まったのは、それだけが理由じゃない。彼女が一歩足を踏み入れた瞬間、部屋の重心が、完全に入れ替わったからだ。


深紅のベルベットのイブニングドレス。布地は、光を飲み込んでから、ゆっくり吐き出すように揺れる。オフショルダー、ボディラインを容赦なく拾うシルエット。だがそれは安っぽい誇示ではない。


——「見られること」を一切怖れていない女のラインだ。


彼女にとって重要なのは、他人の欲望ではなく、他人がどこで失態を晒すかなのだと、ひと目で分かる。


白いファーのショールが軽く肩に掛かり、黒いロンググローブが腕の線に沿って吸い付くように収まる。それ自体が、ここにいる全員への無言の告知だ。


距離を決めるのは、彼女の側だ。


シャンパンゴールドの髪はきっちりとアップにまとめられ、いく筋かのゆるい巻き毛が首筋に落ちる。肌は朝靄のように白く、唇は「わざとらしい」と言いたくなるほど鮮やかに赤い。瞳の色は、滅多に見ないヴァイオレット。澄んでいて、冷たく、「お前の中身なんて、とっくに見抜いている」という戯れを宿している。


右手には、長いシガレットホルダー。歩みは速くない。だが、一歩ごとに——周囲の表情が整うための「間」を与えている。そういう種類の上位者だけが持つ、余裕のテンポだった。


彼女が入ってきた瞬間、さっきまで先頭に立っていたオーストリア側の接待役が、ごく自然に半歩横へとずれた。


道を譲ったのではない。本来の持ち場に戻ったのだ。


その時点で、俺にはもう大体分かっていた。


——ああ。こいつが、「二層目の扉」か。


彼女はエリザヴェータに視線を向け、先に一礼した。所作は無駄がなく、媚びもない。


「女大公閣下」


それから、俺の方へ顔を向ける。


ただ、それだけだ。それだけで、背筋が一段階、自然と締まる。


恐怖ではない。「ああ、お前があの男か」と、確認されている感覚だ。顔の造形じゃない。存在そのものを、まっすぐ値踏みされている。


彼女の口元が、かすかに動く。


「では——あなたが、周士達(ジョウ・シーダー)


俺は片眉を上げた。


「ってことは、俺の悪名も、もうウィーンまで飛んでるわけだ」


俺の顔の上で、彼女の視線が半秒ほど止まり、それから何事もなかったようにソファに腰を下ろす。脚を組む。その一連の動きのなめらかさ自体が、「見せる所作」になっている。足首の収まり方まで、部屋の記憶に刻みつける気だ。


「悪名じゃありませんわ」彼女は言う。「好奇心、ですの」


後ろで葉綺安(イェ・キアン)が、くすりと笑った。林雨瞳(リン・ユートン)は笑わない。ただ、心の中では絶対に俺に線香をあげている顔をしていた。


エリザヴェータが彼女を見据え、平板な声で言う。


「汝がエレオノーラか」


彼女は軽く頷く。


「Eleonora von ——」後半の家名は、ふわりと空気に紛らせる。ただの飾りに過ぎないと言わんばかりに。「ある者は、私を"ウィーンの深紅の白鳥"と呼びますわ」


心の中で、即座に答えが出た。


——その呼び名だけは、寸分違わず正しい。


彼女はあえて急いで本題に入ろうともしないし、「たまたま近くまで来たので」みたいな茶番も打たない。グラスを手に取りながらも、視線はずっとこちらに置いたまま。


まるで、本来なら噂話の中だけに棲んでいるはずの人物が、現実世界に持ち込まれた玩具か何かであるかのように。


「正直に申しますと」声色は軽い。「私は最初、信じていませんでしたの。東方から来た一人の男が、埋められかけた局面をひっくり返した——なんて話を」


俺はその場から動かず、彼女の目からも逃げない。


「で、今は信じる気になったか?」


彼女の口端が、わずかに、しかし明確に上がる。今の俺の返しが、「合格」と言われた気配だった。


「今の私は、むしろ興味がございますの。どうやって、それを成し遂げたのか」


俺は肩をすくめてみせる。


「大体は、運と書類と悪い性格、それからちょっとした"恥知らず"で、どうにかする」


言い終わると、彼女の瞳の奥の戯れが、さらに濃くなった。


「結構」シガレットホルダーを指先で弄びながら、「紋章を暗記することしか知らない男たちより、よほど愛嬌がありますわ」


危うく吹き出すところだった。


ああ、いい。この女、時間を無駄にしない。


エリザヴェータは隣で黙って座っている。割り込む気配はない。この場面が、本来俺の持ち場だと、よく分かっている。


エレオノーラは、ようやく話を本筋へと戻した。


「先ほどの場は、国家と公的窓口のための礼儀」


エリザヴェータへ視線を移す。


「今この場は、別種の礼儀ですわ」


そして、再び俺の方を見る。


「ウィーンには、あなた方に会いたがっている者がおります。正確に申し上げるなら——永恆領というものが、どのような顔をしているのかを、自分の目で確かめたがっている者たち」


そう言って、彼女は手を上げ、小さなクラッチバッグから一枚のカードを取り出した。


深い色の台紙に、金の箔押し。角には、小さなヴァイオレットのエンブレム。


公的な書簡ではない。もっと、やっかいだ。


古い円卓の連中が、「自分たちのやり方」で差し出してくる招待状——その類いだ。


彼女はカードを卓上に置く。そのまま、誰にも向けて押し出さない。


「明晩、ウィーンにて」


「国宴ではありません。記者会見でもない。対外パフォーマンスでもございません」


一拍置く。わざと、次の一行を飲み込むようにして、俺に考える時間を渡す。


「少し、きちんとした装いが求められる程度の——会合ですわ」


俺はカードを見つめたまま、すぐには手を伸ばさない。


「それは、招待か? それとも試験か?」


ヴァイオレットの瞳が真っ直ぐ俺を射抜き、今度こそはっきりと笑みを浮かべる。


「違いが、ございますの?」


声が出た。


ない。まったく、ない。


エリザヴェータがそこで口を開く。


「妾らは、行く」


エレオノーラは、予想していたかのようにあっさり頷いた。


「結構」


それから、こちらを見て、声を一段低くする。


周士達(ジョウ・シーダー)も、いらして」


俺は眉を上げる。


「俺、オプションパーツには見えねえんだが」


彼女はゆっくりと背もたれにもたれ、赤い唇を動かす。議論の余地など最初からないと言わんばかりの、平板な口調で。


「あなたの女大公には——場を"人間の言葉"に訳してくれる人間が必要ですの」


「そして、私は——」


視線が、再び俺に留まる。


「エリザヴェータを勝ち残らせた男が、"奇跡"なのか、"悪癖"なのか、この目で確かめたい」


俺も、笑いながら見返した。


「両方、って答えだったら?」


今度の笑みは、きちんと線を引いた美しさだった。同時に、よく研がれた刃物みたいな危なさもあった。


「でしたら、ウィーンはきっと、あなたを気に入りますわ」


室内が、一瞬だけ静かになった。


気まずさではない。全員が理解した沈黙だ。


最初の扉は、もう通り抜けた。目の前に立っているのは、第二の扉。深紅のベルベットをまとい、細い煙管を指に挟み、人が簡単には素通りできないように、たやすく笑う女。


俺は手を伸ばし、カードを取った。


厚手の紙。指先に冷たさが残る。エッジは、完璧なまでに真っ直ぐだ。


いい。こうでなくては。


答礼は、これで一区切りだ。


ここから先が——オーストリアが本当に見せたいもの。


俺は顔を上げ、エレオノーラを見た。


「よし」


「じゃあ——ウィーンには、先に酒を多めに用意させてくれ。あと、そこそこ広い部屋もな。うちの連中、あんまり大人しくするのが得意じゃない」


最後まで聞き終えてから、彼女のヴァイオレットの瞳が、きらりと光を弾いた。


「お酒は、きちんと用意いたしますわ」


ゆっくりと立ち上がる。その動きに合わせて、ショールが肩から滑り、柔らかく、しかしどこか冷たい弧を描く。


「お部屋の方は——」


俺を見つめ、唇の端を鋭く上げる。その笑みは、ガラスに触れた刃先みたいだった。


「むしろ、あなたの方が"足りるかどうか"が、少し心配ですわね」


堪えきれず、笑いが込み上げた。


ああ、いい。本当に、いい。


この女、本当に——ウィーンに入る前に、空気の値段を一段引き上げてくるタイプだ。


彼女が背を向けると同時に、応接室からまたひとつ、重心が抜けていく。ハイヒールの音が遠ざかっていく。振り返ることもなく、余計な一言も挟まない。


そういう人間だ。セリフを多く残す必要がない。代わりに、残り香だけが、長く居座る。


扉が閉まると同時に、葉綺安(イェ・キアン)が真っ先に笑い出した。


「——おお」


俺は振り向く。


「お前、俺の真似か?」


「違うわよ」彼女は、俺そっくりの調子で答える。「ただ、あんたがウィーンに行ったら、盛大にカッコつけたまま死んできそうだなって思っただけ」


林雨瞳(リン・ユートン)が、冷たく一言、重ねてくる。


「まずは、服から何とかしなさい」


俺はカードを指先で弄びながら、エリザヴェータに顔を向ける。


「で——女大公閣下」


彼女はこちらを見る。


「ん?」


俺は笑い、カードを軽く持ち上げる。


「次の駅は、ウィーンだな」


黒いドレスの裾を揺らしながら、彼女は立ち上がる。灯りの下で、その線が細い影を引く。


「……否」


俺は眉を上げる。


「また"違う"かよ」


彼女は俺の手の中の招待状に視線を落とし、温度の変わらない声で言う。


「次の駅は、『誰が旧き欧州をここまで華やかに着飾りながら、その足元でまだ"何か"が蠢いておると覚えているか』を見に行く場所じゃ」


カードを握る指先に、自然と力がこもる。口元が、ゆっくりと上がった。


そうだ。それでこそ、だ。


門は、もう一度開いた。


今度は——ウィーンが、自分で階段に灯りを点ける番だ。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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