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75.前哨 75-2

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

着席後、場の空気は俺の予想より早く本題に入っていった。


無駄な乾杯の挨拶もなければ、時間を引き延ばすだけの社交パフォーマンスもない。


オーストリア側はまず、永恆領の成立と、第一号から第四号告示の刻み方に対する敬意を示したうえで、現時点で彼らが把握している事実を確認してきた。


権利保全は発効済み。 リースバックによる管理は継続中。 地籍初期入札は公表済み。 政府は情報共有を受けているが、優先発言権はない。


一文ごとが、そのままサイドテーブルのスロバキア二人に向けてのメッセージにもなっている。 ——心配するな、俺たちは告示をちゃんと読んだし、読めてもいる、と。


あの二人の表情は悪くなかった。むしろよく持ちこたえていた。それでいい。俺としては、いつかブラチスラバのカフェで、店員に「国恥物件」みたいな目で見られるのだけは御免だ。


地図の話になった時、オーストリア側の法務代表の一人が、ふとこんなことを言った。


「第三号告示で線が引かれてから、ようやく自分たちが何を恐れていたのか自覚した者が、多数出てきましてね」


つい、口が動いた。


「文字は『分からないふり』ができますからね。地図はできない」


彼は顔を上げ、こちらを見て——小さく頷いた。


「ええ。その通りです。おかげで、突然礼儀正しくなった方々が、今はあちこちにいますよ」


エリザヴェータは何も言わない。 ただ、グラスを取り上げ、卓に軽く触れさせた。


オーストリア側は、そのまま話題をもう一段、深いところへと押し込んできた。


名指しはしない。 だが、現象だけははっきりと口にする。


ここ十数年、中欧のあちこちで、ある種の「もの」が好んで棲みつく場所について。 国境が曖昧で、歴史の層が抉られたまま放置され、戦後整理が最後まで届かなかった土地。


見て見ぬふりをする者。 見たうえで、見ていないことにする者。 その「フリ」に寄りかかって、旨味だけを吸っている者。


その数行が口からこぼれた瞬間、部屋の温度がわずかに下がったのが分かった。


俺は口を挟まなかった。


これはまだ「一段目」だからだ。


カードを切る段階ではない。 テーブルの下に何かが潜んでいる——その認識を、まずは全員で揃える段階だ。


エリザヴェータがようやく口を開く。


「汝らの家にも、その手合いは住み着いておるか」


接待役の男は、正面からは答えない。 ただ、穏やかにこう言った。


「我々の長所は、厄介なものを見つけたとき、とりあえず窓を閉めることくらいは思いつく、という点でしょうか」


危うく吹き出すところだった。


オーストリア流の物言いは、本当に育ちがいい。 人語に訳せば——ええ、いますとも。家の中も決して綺麗じゃない。ですが、今日は公文書の上でその話はしません、だ。


林雨瞳(リン・ユートン)は終始、表情を大きく動かさない。ただ、いくつかの要所でだけ、顔を上げ、相手の目をじっと見る。(シキ)は、一言一言の「言外」を静かに書き留めていく。葉綺安(イェ・キアン)は、椅子にゆったりと身を預けながら、上等な探り合いの芝居を楽しんでいるようにも見えた。


食事が半分ほど進んだところで、オーストリア側はようやく今日本当にテーブルに載せるべきものを出してきた。


書類ではない。 態度だ。


永恆領が、既存の秩序を無意味にかき乱さない限りにおいて—— 歴史的権利、国境を跨ぐ法務の接点、文化と安全保障に関する問題について、さらに踏み込んだやりとりを望むなら。


オーストリアは、その「門」を開けたままにしておく用意がある——と。


それは承認書ではない。 共同声明でもない。 読み上げた瞬間に全員が吹き飛ぶような、馬鹿げた公開コミットメントでもない。


だが——十分だ。


とんでもなく、十分だ。


今の俺たちにとって一番価値があるのは、誰かが大声で支持を叫んでくれることじゃない。


誰かが先に門を少しだけ開けておいて、しかもこう知らせてくれることだ——「ここまで歩いて来ても、いきなり閉められはしない」と。


あのテーブルを囲む連中を見渡した瞬間、俺はひとつのことをはっきりと感じた。


永恆領は、この瞬間になってようやく——外交に骨が通った。


誰が一番強く表明したか、なんて話じゃない。本物のカードゲームの作法で俺たちを扱い始めた相手が現れたからだ。


---


会談も終盤に差し掛かるころには、スロバキアの二人の随行窓口は、ほとんど口を開いていなかった。必要な場面での「承知しました」の確認、記録、頷き——それだけをきちんとやって、自分たちの存在感を「正確に」縮めていた。


いい。今日の彼らの立ち回りは、本当に七十八点はやれる。


会談後、オーストリア側は礼儀正しく、休憩室と帰路の動線を分けてくれた。


そのタイミングで、スロバキアの二人には次の指示が飛ぶ。ひと足先に戻れ、というわけだ。


うち一人が、エリザヴェータのもとへ挨拶に来た。


「政府側として、本日の答礼および意見交換の行程について、知悉と随行の義務は完了したと確認しております。今後、次段階の行程がある場合は、改めて窓口を通じて通知を受けることになります」


思わず拍手しそうになった。


このセリフも、よくここまで仕上げたもんだ。


聞かない。絡まない。主導権を装わない。


エリザヴェータは、わずかに頷くだけだ。


「戻って、こう伝えよ。——今日は実に静かであった。よくやったとな」


男は、明らかに一瞬固まった。だが、すぐに頭を下げる。


「お伝えします」


彼らが去っていくのを見届けてから、俺はようやく身体の力を少し抜いた。


ああ。尻尾は退いた。


ここからが、ようやく本当に面白くなる。

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