S2第十五章 灰燼の都――広島と呉
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
新幹線は時速三百キロという超高速で大気を引き裂いているが、車内の気圧は耳鳴りがするほどに重苦しい。それは大決戦を前にした特有の死寂であり、佐世保の黒泥よりも確実に僕らの肺を圧迫していた。
僕は窓辺に背を預け、右手に巻かれた厚い包帯を見つめる。
「飛龍の釘」が遺した冷徹な死気は、陰湿な毒蛇のように血管を伝って心臓へと這い上がり、氷のような刺痛を断続的に刻んでいた。
「ジョウ、温かいものを」
シキが無表情に、温まったブラックコーヒーを差し出してきた。視線は合わせない。だが、僕の周囲の重力が彼女の制御によって正確に五パーセントほど軽減されているのが分かった。そのわずかな落差が、僕の肩をどれほど楽にしてくれたか。この殺伐とした車内における、唯一火薬の匂いがしない気遣いだった。
「助かるよ、シキ」
僕は左手で受け取り、苦い液体を一口啜った。
後方の座席では、葉綺安イェ・キアンが黒い岩礁のように沈黙していた。「長輩」だの「スペック」だのといった軽口はもう聞こえない。馬面とのリンクが切れて以来、彼女の全身からは溢れんばかりの凶気が漏れ出していた。黒いスエードの布で執拗に狙撃銃のボルトを磨く摩擦音だけが、死寂の中で鋭く響く。その瞳は、深淵から獲物を狙う黒豹のように冷え切っていた。
「神代さん」
林雨瞳リン・ユートンが唐突に口を開いた。水面のように穏やかだが、抗いがたい威懾を孕んだ声だ。「広島に着いたら、今回の霊紋の構造について詳細な説明を求めるわ。昨夜のような『失態』は、広島では二度と繰り返さないで。あそこに埋まっているのは、ただの人間だけじゃないんだから」
ユートンは最後まで口にしなかったが、それは「共鳴過載」を引き起こした弥生ちゃんに対する明確な指弾だった。
神代弥生じんだい やよいは座席の隅で身を縮め、新幹線のリズムに合わせて重苦しく呼吸を繰り返していた。その窮屈な空間で、彼女の神域の容積が描く曲線は、どこか窒息しそうなほどの物理的な重量感を帯びている。彼女は磁器のように青ざめた顔で、静かに頷いた。
ふと思い出した。かつて台湾の塾で日籍講師が言っていた言葉を。「日本人は『推し量る』のが得意だ」と。言葉の半分を言えば、相手は勝手に残りの半分を補完してくれる。だが、この「空気を読む」文化は便利な反面、しばしば凄まじいすれ違いを生む。今この瞬間、弥生ちゃんは自分の豊かな肉体が引き起こした罪悪について、脳内で何百回も謝罪を繰り返しているに違いない。
僕は、それぞれが異なる思惑を抱えながら、運命という鎖で無理やり繋がれた女たちを眺め、コーヒーの香りが混じった空気を深く吸い込んだ。
「いいか、皆」
僕は立ち上がり、右手の不快感をこらえながら全員を見渡した。
「佐世保はただのウォーミングアップだ。ウェイスマンの糞ジジイは、間違いなく広島と呉に、もっと胸糞悪いサプライズを用意してやがる。だが、俺たちが自乱せず、連携さえ取れれば、あのジジイの鼻柱をへし折ってやれるはずだ」
僕は弥生ちゃんの不安げな黒い瞳を見つめ、ユートンが言わなかった後半部分を補完した。
「弥生、リベットの件は頼りにしてるぞ。お前は俺たちのレーダーだ。お前が揺らいだら、俺たちはこの灰の都に飲み込まれちまう」
弥生ちゃんは一瞬呆然としたが、やがて居心地悪そうに背筋を伸ばした。その動作に伴い、豊満な双丘がわずかに持ち上がり、そこから白檀の香りと、微かな熱を帯びた戦意が漂い始める。
僕は顔を背け、窓の外に広がり始めた広島の山々に目を向けた。
「灰燼」の名を冠する都市が、刻一刻と迫っていた。穏やかな瀬戸内の海の下で、二枚目の、熱り立つ魂釘が僕らに引き抜かれるのを待っている。
午後一時〇〇分 広島、若草町「二葉ビューレジデンス」
広島駅北口を抜ける風には、乾燥した焦げ跡のような臭いが混じっていた。まるでこの街のアスファルトの下には、八十年前の余熱が今も埋まったままになっているかのように。
僕ら一行は若草町の通りを横切った。高国城と林曉葳がサーバーのパーツが入ったケースを一人一つずつ抱え、喘ぎながら歩いている。一方のエリス様は、駅で買ったもみじ饅頭の袋を優雅に提げ、その肩に乗ったアピスは抹茶味のそれを口いっぱいに頬張っていた。
「着いた。ここだ」
僕は灰黒色の石材に覆われたモダンな建築の前で足を止めた。南口の喧騒を避けつつも、テラスからは南方に位置する呉の起伏に富んだ山々を一望できる絶好のポイントだ。
ルームキーをかざして中へ入ると、北欧インダストリアル調の広々とした空間が広がっていた。大部屋には六つのシングルベッドが整然と並んでいる。「霊圧共有」を必要とする僕ら怪物共にとっては、これ以上ない隠れ家だ。
「老高、小葳。リビングにサーバーを組んでくれ。広島と呉港、両方の霊圧を同時に監視するんだ」
僕は重いガンバッグをソファに放り投げた。右手の包帯の奥から、断続的な刺痛が走る。
「了解だ。技術的なことは俺たちに任せろ」
二人は手際よくスーツケースを開き、無数のケーブルが瞬く間に床を這い回った。
「ベッドの割り当てよ」
林雨瞳が髪の先に付いた埃を優雅に払い落とした。その火眼金睛かがんきんせいが掃き出し窓を一閃し、赤い軌跡を残す。彼女は中央のベッドを指差した。
「シーダー、貴方はここ。左は私で、右は綺安。それで、神代さんは……」
彼女は霊圧計を抱えたまま、青ざめた顔で立ち尽くす神代弥生じんだい やよいを振り返った。
「貴方は一番窓際のベッドを使って。何か異常を感じたら、すぐに声を出すのよ」
「……了解しました」
弥生ちゃんが低く応じる。重いモニタリング機器を下ろしたせいか、彼女の豊満な双丘が激しく上下し、窮屈そうな巫女服の肩口には汗の跡が滲んでいた。彼女は窓辺に立ち、黒い瞳に遠く呉港の影を映しながら、重苦しい口調で呟いた。
「周さん、ここの気配……あまり良くありません」
それは粘り気のある圧迫感だった。まるで大気が目に見えない「重油」で満たされているかのような。僕は今も熱を帯びている右手を見つめた。指輪が不安げに脈動している。
葉綺安は一言も発さず右側のベッドに腰を下ろすと、黒いスエードの布で狙撃銃のボルトを執拗に磨き始めた。馬三娘を失った彼女の、銃を握るその手はひどく華奢に見えたが、そこからは凡人ゆえの、剥き出しの殺気が漂っていた。
「……三娘とは、まだ繋がらないのか?」僕は声を落として尋ねた。
キアンは首を横に振った。その瞳には、普段の彼女からは想像もつかないような、空虚で、どこか諦念に似た色が混じっている。
「飛行機が台湾本島を離れてすぐよ。三娘の気配が消えたのは。器はここにあるけど、あの……共鳴する感覚が死んでる。まるで誰かにチャンネルを無理やり変えられたみたいに」
彼女はスマホの電波が切れたかのように淡々と説明したが、彼女と三娘の絆がどれほどのものか、知らない者はいない。神と肉体が共鳴し、もはや自分と他人の区別すらつかなくなるほどに溶け合っていた日々。その断絶が、彼女の魂を削り取っているのは明白だった。
「『圏外』という可能性はありませんか?」
神代弥生じんだい やよいが不意に口を挟んだ。彼女はどうやら落ち着きを取り戻したようだが、その動作に合わせて揺れる豊満な双丘は相変わらず無視できない存在感を放っており、その物理的な重量感がこの部屋の霊圧をいくらか分散させているようにも見えた。
「日本の信仰は主に神道と仏教です。それは一つの閉鎖的なシステムだと考えてください。外部との接触を容易には許さないのです」
弥生ちゃんは自分の巫女服に目を落とし、乾いた声で続けた。
「特に伝統的な神道には、独自の生死観と霊界の法則があります。外来の神格は、ここでは『荒神』や異物として排斥される対象になりかねません」
「なるほどな! だからこの国じゃ一度もベルタス(伯塔斯)のクソ野郎に会わずに済んでるわけだ!」
僕は得心がいって膝を叩き、豪快に笑い飛ばした。「入国拒否を食らって、海関(税関)で足止めを食らってるってわけか。ざまあみろ」
「その……お知り合いの方は、どのような系統の存在なのですか?」
弥生ちゃんは力になりたいのか、慎重に尋ねてきた。
「東方の地府を統べる鬼将だ。牛頭馬面って言えば分かるか?」
僕は包み隠さず答えた。「ぶっちゃけた話、彼女たちがここに来られさえすれば、戦術なんてクソ喰らえだ。AOE(広域殲滅攻撃)で更地にして、呉港ごと消し炭にしてやれるんだがな」
馬三娘が長矛を振るい、陰兵を率いて戦場を蹂躙する光景を想像し、僕は瞳に期待の光を宿らせた。
「でも、今はその最強のバックアップが繋がらない。つまり、この『日本』っていうクソ高いウォールに阻まれてるってことだ」
僕は指輪の脈動を感じながら、窓の外を見つめた。「ウェイスマンはそれを分かってて、俺たちをこの土俵に引きずり込んだんだろうな」
「とにかく、まずは御札おふだの申請を試みましょう。大神の御札という手引きがなければ、外邦の神格は一人たりとも日本列島には入れません。これは古より伝わる、この国の『戒律』なのです」
「お前、巫女だろ? 自分でちゃちゃっとパスポートでも発行してやりゃ済む話じゃないのか?」
僕の脳を通さない軽口に対し、神代弥生じんだい やよいは優雅な、だが明確に呆れを含んだ白い眼を向けた。
「御札にも種類がありますが、外邦神格用のものは『個体識別信号』のような役割を果たします。短期滞在ビザ、と解釈しても構いません。使用回数に制限があり、焚き上げることで初めて召喚が成立します」
弥生ちゃんは教鞭を執る教師のような口調で説明を続けた。
「通常、こうした神符を発行できるのは、規模が大きく、強い霊場を持ち、発言権のある神社に限られます。末端の地方神社では、その端くれにすら触れることはできません。それに、御札は『肉体』を入国させるためのものではなく、あくまで『霊識』を合法化するためのもの。この紙が一枚なければ、貴方の友人はこの国の結界において不法滞在者となり、一度霊力を行使すれば、システムが即座に彼女を『荒神』として排除にかかるでしょう」
彼女はテーブルの上に地図を広げ、細い指で円を描いた。その指先が、ある一点にぴたりと止まる。
「広島全域で、この『パスポート』を発行する資格を持つ場所は、ここしかありません」
地図上の赤い円が、六つの文字を正確に囲んでいた。
――「広島護國神社」。
午後二時十五分 広島路面電車、紙屋町方面行き
路面電車は、気怠い昼下がりの中をゆっくりと広島護國神社へ向けて揺れていた。車内に人影はまばらだ。窓から差し込む午後の陽光が、神代弥生じんだい やよいの雪のような白衣を照らし出し、その豊満な双丘の輪郭にどこか神聖なまでの圧迫感を与えている。
僕は背もたれに体を預け、右手の包帯を眺めながら、ふと思いついた論理的欠陥について口を開いた。
「弥生、さっきお前、外来の神格はすべて『荒神』として認識されるって言ったよな?」
弥生ちゃんが振り向き、長い睫毛を瞬かせながら真剣な面持ちで頷いた。
「じゃあ、こいつはどうなんだ?」
僕は不意に手を伸ばし、宙で羊羹を盗み食いしていたアピスの不細工な面をひっ掴んだ。そして不良品を押し売りするかのように、彼を弥生ちゃんの方へと突き出した。
「こいつはどこの神様だってんだ? 密入国者か?」
「ジョウ・シーダー、貴様、礼儀を弁えろッ!」
アピスは怒りのあまり口の羊羹を噴き出しそうになりながら、手に持った菓子切りをブンブンと振り回した。まるで僕を蜂の巣にしてやると言わんばかりだ。「本様は高貴なるデンマークの純血精霊だ! その辺で拾ってきた雑種神格などと同列に扱うな!」
「綺安、メモしとけ」
僕は振り返りもせずに言った。「アピスが『馬三娘は道端の雑種だ』って自白したぞ」
「書く必要ないわ、紙の無駄よ」
後部座席で腕を組んでいた葉綺安が、氷のように冷たい視線を投げかけた。「あとで広島焼きを食べる時に、この羽の生えた害虫を一緒に鉄板で焼き殺してあげるから」
その光景に、弥生ちゃんは思わず吹き出し、張り詰めていた肩の力がようやく抜けたようだった。彼女はアピスをまじまじと観察し、興味深そうにその透明な羽を指で突いた。アピスが抗議の悲鳴を上げる。
「アピスさんの仰る通りかもしれません」
弥生ちゃんは少し考え込み、学術的な響きを含んだ解釈を口にした。
「彼は信仰によって祀られる『神霊』ではなく、あくまで『精霊』ですから。おそらく日本の『護國結界』は、彼を親指姫やピーターパンのような異国の生物だと判定したのでしょう。システムへの脅威はないと見なされ、スルーされたのだと思います」
「なるほどな。つまり、お役所のフィルターは『お伽話』には甘いってわけだ」
僕は皮肉っぽく笑い、窓の外を流れる広島城の石垣を見つめた。
「だが、三娘はそうはいかない。彼女は文字通り、一国を震え上がらせる軍神だからな。……さて、お役所の窓口に着いたぞ」
路面電車が停車する。目の前には、廣島の空を切り裂くような巨大な鳥居が、威厳と、そしてどこか冷徹な拒絶を孕んで僕らを待ち構えていた。
「本様はもともと童話の精霊だッ!」
アピスは怒り狂って車内の天井を飛び回り、必死に抗弁した。「著作権で保護された存在なんだぞッ!」
「この羊羹精霊め、さっさと降りてこい! 公共の秩序を乱すな!」
僕は一喝し、多動気味の精霊をひっ掴んでエリス様のバッグの中へと押し戻した。
笑い声が消えると、車内には再び静寂が戻ってきた。
窓の外に目を向けると、前方には広島護國神社の巨大で厳かな鳥居が見えてきた。この神社は単なる宗教施設ではない。廣島という名の「祭壇」と化した都市の心臓部であり、歴代の戦役で犠牲となった魂を祀る特異な霊場だ。
「周さん」
弥生ちゃんは笑顔を消し、その口調を重々しく変えた。「護國神社の霊圧は極めて純粋ですが、同時に排他的で侵略的でもあります。あそこで馬面さんのために『御札』を申請するということは、現地の神霊に対して果たし状を叩きつけるのも同義です」
「構わねぇよ。果たし状を配って歩くのは俺の得意分野だ」
僕はポケットの中で氷のように冷え切った「飛龍」の魂釘に触れた。呉港の霊場が崩壊を始めている今、重量級の援軍でも呼び出さなければ、この戦いは文字通り僕らの「沈没葬礼」になりかねない。
「行くぞ、野郎ども。下車だ」
路面電車が「紙屋町西」停留所に滑り込む。僕らは電車を降り、広島城址公園の石橋を渡って、廣島最強の霊力結界へと正式に足を踏み入れた。
一歩、境内の見えない境界線を越えた瞬間。
空気の密度が物理的に増した。それは冷たく、厳格で、肺の奥まで凍りつかせるような「規律」の重圧。背後を歩く弥生ちゃんの豊満な双丘が、その過敏な霊的センサーに反応して小さく震えているのが分かった。
「……来ましたね」
弥生ちゃんが呟く。
鳥居の向こう側、白砂が敷き詰められた参道の先から、実体のない幾百もの視線が、不法入国者である僕らを射抜こうとしていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




