S2第十四章 なぜ降伏した?
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「東横インとうよこインが満室だって? ウェイスマンの奴、日本中の亡霊たちのために部屋を予約でもしたのかよ」
僕は湿り気を帯びたウィンチェスターのガンケースを左手に持ち替えた。
「周さん」
神代弥生じんだい やよいがモニタリング機器を抱えて歩み寄ってくる。その聲は、叩きつける雨音よりも安定していた。
「東横インでは霊圧の遮蔽が不十分です。それに、神楽機関の予算もそこまでの価格帯をサポートしていません」
彼女は一度言葉を切り、灰色的建築物を仰ぎ見た。
「この『アンカーベイ・ゲストハウス』は霊力の結節点の隙間に位置しています。隠蔽には最適です」
「はいはい、お前の言う通りにするよ」
僕は、硝煙と入り混じった感情を抱えたチームメイトたちを連れ、そのデザイン性の高い灰色の建築物へと足を踏み入れた。
ワンフロア貸切、六つのベッド、工業風の照明から放たれる淡い琥珀色の光。バルコニーの掃き出し窓を開けると、佐世保港の灯火が海霧の中で揺れていた。重油と塩霧の混じった臭いが、低く、不吉な予兆のように鼻腔を突く。
「ベッドの割り当てを決めるわ」
林雨瞳が傘の水滴を振り払った。その声は外氣よりも冷え切っている。
「老高とエリスは両端。私と綺安が真ん中。そして周士達――」
彼女は自分と葉綺安の間に挟まれたベッドを指差した。
「貴方は、そこよ」
「……バルコニーで寝ちゃダメかな?」
「物理的なモニタリングが必要なの。貴方の『夜歩き』を防止するためにね」
「周さん」
その時、弥生ちゃんが窓際のベッドに重々しい儀式のように機器を運び込み、パラメータの調整を始めた。
「信号を受信するために、この位置を確保する必要があります。ご容赦ください」
彼女が電源を繋ごうと身を乗り出した瞬間、巫女服を內側から壓迫する豊満な双丘が僕の視界を物理的に占拠した。僕は即座に一步後退する。それが紳士的振る舞いだからではない。キアンの視線が、僕の後頭部にドリルで穴を開けようとしていたからだ。
「ジョウ・シーダー」
キアンの声は、恐ろしいほど優しかった。
「もし夜中に『余計な音』を一言でも漏らしてみなさい。その前に、貴方の発聲機能を永久に損失させてあげるから」
「……了解しました」
シキは黙って部屋の隅に寝袋を広げ、地べたに潜り込んだ。余計な言葉は一切ない。アピスはキッチンカウンターの下で胡坐をかき、駅で買ったミニクロワッサンを静かに消滅させている。この異常な空間のパワーバランスなど、彼には関係ないらしい。老高は椅子を引き寄せ、窓際で目を閉じると、二分後には規則正しい寝息を立て始めた。
僕は横になり、無機質な天井を見つめた。
指輪は、まだ温かい。ずっと、温かいままだ。
港口 ── 霧の呼吸
午前零時を過ぎた頃、霧が立ち込めた。
それは単なる海霧ではない。粘り着くような、潮水と重油の臭いが混ざり合った霧――まるで巨大な「何か」が吐き出した吐息のようだった。
哨兵が最初に気づいたのは、形ではなく、音だった。
海面から伝わってくる低周波の律動。数千の喉が同時に擦れ合うようなその周波数は、機械の駆動音などではない。それは人の声であり、軍歌だった。
探照灯が霧を切り裂いた瞬間、彼は三隻の船を目撃した。
友鶴ともづる、金剛こんごう、矢矧やはぎ。
船体は無惨に損壊し、黒い粘液に覆われている。折れたマストは枯れた指先のように天を指し、甲板には旧帝国海軍の制服を纏った人影が埋め尽くしていた。彼らは微動だにせず、ただ、歌っていた。
『海は燃えている……黒い油で……』
『主砲塔から血が流れている……』
歌声が最高潮に達した時、彼らは次々と船から飛び降り始めた。一人、また一人。闇から溢れ出す無音の潮水のように、終わりなき行進が続く。
その中の一人――顔の半分が鋼鉄と溶け合い、襟元に一等兵曹の階級章をつけた男が、弾丸の雨を潜り抜けて哨兵の襟首を掴んだ。食らいつくわけでもない。男はただ頭を垂れ、広島訛りの、湿った、それでいて冷徹な声で耳元に問うた。
「なぜ……降伏した?」
哨兵の銃が、無機質な音を立ててアスファルトに落ちた。
自衛隊・佐世保地方隊 22:47 第一警備隊監視塔
二等海士・田中賢二、二十二歳。佐世保に配属されてから半年。
監視塔でその歌声を耳にした時、彼の最初の反応は腕時計を確認することだった。
午後十一時。演習の時間ではない。
探照灯の光を向けた先には、船がいた。
後に彼は同期に語った。その瞬間、脳裏に浮かんだのは訓練マニュアルのどの項目でもなく、祖父の書架にあった『激闘・太平洋』の表紙だった。色褪せ、黄ばんだ古い写真の中の軍艦が、今、目の前にある。
ただ、写真の中の船は静止していたが、これは動いている。
彼は無線機を手に取った。手は、自分でも驚くほど震えていた。
「第一監視所より通報。不明艦艇三隻、方位……」
言葉が詰まる。
「方位……港湾内。既に入港済み」
「トネージ(排水量)は?」無線から上尉の声が響く。
田中は三隻の船を見つめた。甲板を埋める人影、砕けたマスト、船体から滲み出す黒い油脂。
「報告します……排水量は判別不能。旧式です、極めて古い。艦番号も確認できません」
三秒の沈黙。
「武装を確認せよ」
「人が……甲板に大勢います。彼らは、歌っています」
無線の向こう側で、先ほどよりも長い沈黙が流れた。
上尉・橋本修
上尉・橋本修、三十八歳。佐世保での勤務は十二年。台風、海難事故、領海侵犯――あらゆる事態に対処してきたが、これだけは経験がない。
彼は窓辺に歩み寄り、港の方角から放たれる探照灯の光を見つめた。ノイズに混じって響く、聞いたこともない軍歌。地方総監室への直通電話を取る。
呼び出し音の後、彼は深呼吸をして口を開いた。
「報告。港湾内に不明艦艇を発見。初期判断によれば――」
一瞬、躊躇した。
「……旧式軍艦、三隻。艦型は第二次大戦時の帝国海軍艦艇と推測されます。甲板上に多数の人員。相手側は既に上陸を開始しており、基地外縁の要員と接触、被害が――」
『橋本、何を言っているんだ?』電話の向こうで声が遮る。
「ありのままを報告しています、閣下」
橋本の声は極めて安定していた。それは冷静さゆえではなく、脳が現実を拒絶した結果の、不自然なまでの平坦さだった。
「基地外縁にて死傷者が発生中。相手は口頭指示に一切応じません。小火器による攻撃も効果なし。……指示を乞います」
沈黙が、重く、粘り強くその場を支配した。
「電話をかける前にな、」橋本は続けた。「田中二士に発砲を許可した」
『結果は?』
「六発命中だ、」橋本は窓の外を凝視したまま答える。「だが、相手は歩みを止めなかった。それどころか、田中の前で立ち止まり、こう問うたんだ――」
一拍。
「なぜ、降伏したのか、とな」
電話の向こうで、まる八秒間の沈黙が流れた。橋本はその秒数を、心の中で正確に数えていた。
『橋本、貴官の今の状態だが……』
「私の状態なら、」上尉は長官の言葉を遮った。十二年の軍隊生活で初めての反抗だった。「極めて清醒です。閣下、指示を乞います」
受話器の向こうの声が、幽かな、頼りないものへと変わる。
『……県知事室に連絡を入れる。それまで、現場を維持せよ』
通話が切れた。
橋本は受話器を置き、港に停泊する三隻の黒い輪郭を見つめた。防衛線が崩壊しつつある地点から目を逸らさず、基地の放送システムから漏れ出す、データベースに存在しない軍歌の旋律に耳を傾ける。
ふと、祖父がかつて口にした言葉が脳裏をよぎった。
――俺たちの世代の人間はな、死ぬ時まで一つのことが理解できなかったんだ。
――それは何ですか?
――値打ちがあったのかどうか、だ。
橋本は窓枠に背を預け、二度と電話を手に取ることはなかった。
外では、田中二士が「なぜ降伏した」と問いかける亡靈に襟首を掴まれたまま、凍りついたように立ち尽くしている。二つの時代の残影が重なり合い、どこへも行けずにそこに停滞していた。
午後十時五十九分。
基地の広報チャンネルが強制的に切り替わる。
全音量で流れ出したあの軍歌が、銃声も、警報も、怒号も、すべての音を塗り潰していく。
基地全体が、わずか三秒間だけ、完全な静寂に包まれた。
直後、三つの防衛ポイントが、同時に、そして呆気なく決壊した。
爆発音が響き渡った瞬間、僕らは弾かれたように同時に跳ね起きた。
窓辺へ駆け寄ると、佐世保港が燃えていた。
「あれは友鶴ともづるの汽笛です」
背後で神代弥生じんだい やよいの声が低く、だが明晰に響く。彼女は既に計測器の数値を読み取っていた。「船倉に閉じ込められた人々の助けを求める声が聞こえます。溺死していく者たちの……水を含んだ悲鳴が」
誰も口を開かない。沈黙を破ったのは、ジャケットを羽織り、銃を手に取った葉綺安イェ・キアンだった。老高は既に立ち上がり、その手には車のキーが握られている。
僕はバルコニーから飛び降りた。
「行くぞ。港へ」
「――ッ!」
ウィンチェスター M1897から放たれた浄塩じょうえんの散弾が空間を切り裂く。腐乱した影たちが黒い灰となって霧散するが、次の瞬間には湿った潮風を吸い込み、再びおぞましい形を成していく。
「これじゃ消耗戦だ」僕は無線を叩く。「ユートン、何か見えるか!」
『奴らは共鳴しているわ』
無線越しに届く林雨瞳の声。彼女はゲストハウスの最上階で望遠鏡を港へ向けていた。『海域全体が予備バッテリーのようなものよ。叩いても叩いてもキリがないわ』
その時、何かが僕の手首を掴んだ。
下半身が甲板の鋼板とどろりと溶け合った水兵だった。その力は異常なまでに強く、そして氷のように冷たい。海底から引きずり出された死の温度だ。引き金を引こうとした僕は、しかし、その瞳と合ってしまった。
それは、怪物の瞳ではなかった。
狂気も、憎悪もない。そこにあるのはただ、半世紀もの間、暗い海底で澱んでいた乾いた「清醒」だけだった。
「なぜ……ここにいる?」
声は掠れ、錆びた金属が擦れ合うような音を立てていた。それは、哀願にも似た響きを帯びて。
僕は動けなかった。
彼もまた、動かなかった。
砲声と軍歌、そして燃える港の狂騒の中で、僕らはわずか二秒間、視線を交わし続けた。
「周さん――退いて!」
弥生ちゃんの叫び声。いつもの冷静さは微塵もない。
「信号源は船ではありません! あの軍艦たちはただのレシーバーに過ぎない。発信源は陸地――北東方向、あの丘です!」
僕はその手首を振り解き、一歩後退して黒い雨の向こう側にそびえる輪郭を仰ぎ見た。
東山海軍墓地ひがしやまかいぐんぼち。
港へ目を向ける。米軍と自衛隊の防衛線が、黒い泥と亡霊の圧力に押され、一節、また一節と瓦解していく。これがウェイスマンの描いた盤面か。終わりのない戦場に僕らを縛り付け、真実の場所へは一歩も近づかせないつもりだ。
「全員車に乗れ! 目標、東山海軍墓地だ」
老高の車が斜面を駆け上がる時、佐世保港に佇む金剛こんごうが、ゆっくりとその主砲塔を旋回させた。
発砲はしない。ただ、かつて自分が記憶していた何かを慈しむように、静かにその方向を凝視していた。
後部座席に座る神代弥生じんだい やよいは、窓の外を流れる凄惨な光景を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。
「あの水兵たちは問うているのです……この八十年の平和は、一体誰からの恩寵なのか、と」
「ウェイスマンウェイスマンの野郎、死者たちの忠誠心を利用して、生者の選択を侮辱してやがるんだ」
僕は黒い霧が支配する地平を睨みつける。「その上で、俺たちにその尻拭いをさせようってわけだ」
誰も、言葉を返さなかった。
車窓を叩く雨水が後方へと流れ去っていく。それはまるで、逆流していく時間の断片のように見えた。
指輪が、焼けるように熱い。
記録ファイル:佐世保港口異変タイムライン(22:30–23:15)
22:30 ──────────────────────────────────────────
【前兆・第一波】
港湾東側海面に突如として濃霧が発生。視程は50m以下に急落。
気象観測所の数値に異常を確認。気温、気圧、湿度が同時に正常値から大幅に逸脱。
港湾レーダーに正体不明の干渉が発生。スキャン画面に複数の不定形な残像が定着。
22:35 ──────────────────────────────────────────
【通信障害開始】
海上自衛隊佐世保地方隊の無線チャンネルにノイズが混入。
ノイズ内に周期的な低周波音を確認(事後解析により「軍歌の残響」と判明)。
第一警備隊が異常気象を通報。当直人員による哨戒を強化。
22:40 ──────────────────────────────────────────
【電磁異常の拡大】
港湾全域の電磁干渉が深刻化。一部の監視カメラ映像がフリーズ。
哨兵より「海面から、大勢が囁き合うような声が聞こえる」との報告。
指揮室は音響幻覚と判断、警戒レベルは維持。
22:45 ──────────────────────────────────────────
【探照灯失効・霧中の怪光】
探照灯を照射するも、光が30m先で完全に吸収される。
霧の深部に不定形の橙紅色の光点を確認。
「重油と腐敗した魚が混ざったような悪臭」の報告が相次ぐ。
22:47 ──────────────────────────────────────────
【田中二士・不明艦艇三隻の入港を確認】
探照灯の二次照射により霧が一時的に霧散。
二等海士・田中賢二が不明艦艇三隻(友鶴・金剛・矢矧)を視認。
艦型は旧帝国海軍のものと一致。船体は黒い粘液に覆われている。
甲板上には大量の人影が直立。合唱を確認。橋本上尉へ通報。
22:50 ──────────────────────────────────────────
【海兵上陸・基地警戒レベル引き上げ】
三艦の甲板人員が一斉に飛び降り、基地方向へ移動開始。
外縁哨兵による阻止行動は無効。弾丸は貫通するが、個体にダメージを与えられず。
橋本上尉、全隊に厳戒態勢を発令。上層部へ指示を要請。
第七艦隊が異常信号を受信、モニター開始。
22:55 ──────────────────────────────────────────
【発砲事件・「なぜ降伏した」】
田中二士が接近する亡霊水兵に対し六発発砲。相手は停止せず。
亡霊水兵が田中の襟首を掴み、「なぜ降伏した?」と下問。
田中が銃を遺棄し精神崩壊。外縁防衛線に最初の破綻が発生。
22:59 ──────────────────────────────────────────
【通信途絶・放送システム占拠】
橋本上尉から地方総監室への直通電話が切断される。
基地放送システムが電磁的にハッキングされ、チャンネルが強制移行。
帝国海軍軍歌『海ゆかば』が最大音量で基地内および市内へ流出。
民間放送、スマホの緊急警報システムにも信号が波及。
23:00 ──────────────────────────────────────────
【防衛線三点同時崩壊】
北門、東埠頭、第二警備区が同時に突破される。
黒い泥状の物質が基地内部へ浸透開始。気温が5℃まで急降下。
金剛の主砲が緩慢に旋回、米軍基地方向を指向。
第七艦隊がイエロー・アラートを発令。駆逐艦二隻が抜錨準備。
23:05 ──────────────────────────────────────────
【米軍の反応・金剛砲撃準備】
米軍佐世保基地が緊急避難を開始。非戦闘要員を後方へ。
金剛副砲が米軍基地方向へ威嚇砲撃を二発実施。爆音波が市内に波及。
防衛省が深夜緊急会議を招集するも、前線指揮官との連絡が途絶。
23:10 ──────────────────────────────────────────
【ゲストハウス・全員覚醒】
副砲の衝撃波により市内の宿泊施設のガラスに亀裂。
周士達ジョウ・シーダーら一行が覚醒。
神代弥生の計測器が霊圧指数のオーバーフローを記録。
23:15───── ─────────────────────────────────────
【出撃・信号源の再定義】
周士達がバルコニーより跳躍、全隊が港湾部へ突入。
埠頭にて浄塩弾を用いた消耗戦が展開。
神代弥生による二次校正により「発信源は北東の山丘(東山海軍墓地)」と特定。
全隊転進、目標を墓地へ設定。
金剛の主砲が老高の車両を追尾するように旋回を開始。
───── ─────────────────────────────────────────
「ガオさん、車を横にしろ! 山道を塞ぐんだ! 総員、降車して戦闘開始!」
僕は咆哮とともに車から飛び降りた。
地面に足がついた瞬間、地底から滲み出した黒い泥が、僕を地獄へと引きずり込もうとした。その泥は海底から汲み上げたばかりの死水のように冷たく、一歩踏み出すごとに何かが足首に絡みついてくる。この土地そのものが、僕らが立っていることさえ拒絶しているかのようだった。
十メートル先には、半ば鋼鉄と化した加来止男かく とめおの巨軀が屹立していた。
彼が手に持つ竜骨軍刀りゅうこつぐんとうが緩やかに水平に構えられる。刃からは暗紅色の液体が絶え間なく滴り落ちていた。――それは空母「飛龍」から流れる血だ。八十年経ってもなお、乾くことを知らぬ怨念の滴。
「……海へ……還れ……」
彼が猛然と一歩踏み出す。重厚な金属の足音が石段を粉砕した。振り下ろされた一太刀が切り裂いたのは、風ではない。幾千トンの海水が一瞬にして船倉へと流れ込む轟音――「飛龍」の最期の記憶が、その刃に凝縮されて叩きつけられたのだ。
「――ッ!」
シキが両手を地面に叩きつけ、重力場を爆発的に膨張させた。加来の足がぴたりと止まる。だが、彼は跪かない。その鋼鉄の肉体は内部から何か異質な力で支えられているかのように、膝がわずかに三センチほどしなっただけで、無理やり押し戻してみせた。
コンクリートが悲鳴を上げ、十センチほど陥没する。
竜骨軍刀が空中に歪んだ弧を描き、戦艦の装甲すら切り裂く重圧をもって、シキの重力場を強引に弾き飛ばした。
その、硬直したコンマ数秒の間――。
神代弥生が側面から突っ込んできた。失神せんばかりの霊圧を絞り出し、複雑な浄化の印を組む。紫色の霊圧が鎖と化し、加来の巨大な鋼鉄の手首に絡みついた。振り下ろされる刃を、強引に半空で釘付けにする。
「周さん、今です!」
それは懇願ではなく、冷徹な命令だった。
僕は既に動いていた。
三発のタングステン芯徹甲弾が、正確なリズムで彼の胸部へと吸い込まれていく。
加来止男は、すぐには倒れなかった。
彼は石畳の上に跪き、支えにするように竜骨軍刀を地面に突き立てた。頭が緩やかに垂れる。半ば鋼鉄と化したその瞳が見つめていたのは、僕ではない。足元の泥――彼が八十年間立ち続け、一度たりとも離れることのできなかった、あの泥だった。
彼は何かを呟いた。声が低すぎて、僕の耳には届かない。
それは日本語だったのか、あるいは、ただの最期の呼気だったのか。
直後、霊圧が断絶した。爆発ではない。電源を引き抜かれたような、背筋が凍るほどの唐突な静寂。
――慰霊碑は、わずか三歩先にある。
指輪の熱が、正確にその場所を告げていた。誰かが石の向こうから指を差しているかのように。この石碑の右下、石の隙間に、それは埋め込まれている。
僕は手を伸ばした。
一秒だけ、躊躇した。
なぜ手を止めたのか、自分でも分からない。おそらくはこれが初めてだったからか、あるいは――不意に悟ってしまったからだ。この石の下に押さえつけられているのは、かつて本当に生きていた人間たちなのだ。一九四五年、空母「飛龍」と共に沈んでいった、名前があり、顔があり、帰る場所と母親がいた、そんな人間たち。
手が、わずかに震えた。
それでも僕は、それを引き抜いた。
「飛龍」の魂釘ソウル・リベットを抜いた瞬間、掌の中で何かが弾けた。痛みではない。それは重く、沈み込むような「重質」だった。八十年間、彼らが背負い続けてきた何かを、ほんの一瞬だけ代わりに背負い、そして手放したような感覚。
黒い泥のうねりが止まる。
風が、凪いだ。
神代弥生じんだい やよいは俯き、数秒の沈黙の後にようやく口を開いた。
「……戦いは、終わりました」
それは勝利ではなかった。
これは、ただの「見送り」だ。
リベットを引き抜けば、指輪の熱も引くものだと思っていた。
だが、それは違った。
熱は引くどころか、むしろ激しさを増していく――方向が変わったのだ。目の前の慰霊碑ではなく、さらに北へ。遥か北、九州の地平を超え、まだ名も口にしていない「どこか」を指し示している。
弥生ちゃんが顔を上げ、計測器の画面に目を落とした。表情は変わらない。ただ、微かに溜息を漏らす。
「次の信号です、」彼女は平坦な声で言った。「北。……かなり遠い場所です」
老高が三秒の沈黙の後、重々しく口を開いた。
「……大湊おおみなとか」
誰も答えなかった。
だが、全員がその答えを知っていた。
僕は掌の中で今も鈍い痛みを放つリベットを見つめ、それから、ようやく微かな曙光が差し始めた佐世保の街を眺めた。
最初の夜。僕らはどうにか、生き延びた。
佐世保港を覆っていた黒い泥は次第に霧散していったが、重油と塩霧が混ざり合ったあの腥い臭いは、まるで消えない呪いのように僕らの鼻腔にこびり付いていた。埠頭からは断続的にサイレンの音が響き、自衛隊の防線は辛うじて維持されているものの、「なぜ降伏した」という精神的衝撃を食らった基地全体が、巨大な精神病院のような狂気を孕んでいた。
僕は右手に、もはや冷え切り、墨のように黒ずんだ「飛龍」の魂釘ソウル・リベットを握りしめていた。傷口から伝わる焼けるような刺痛のせいで、煙草に火をつける気力すら残っていない。
僕らは満身創痍のまま、佐世保駅へと駆け込んだ。本来なら静かなはずのその場所は、今やパニックに陥った避難民と慌ただしく動く警察官で溢れかえっていた。
神代弥生は、僕と葉綺安に抱えられるようにして歩いていた。彼女の誇る豊満な双丘は、極度の虚脱によって歩調を合わせるたびに激しく上下している。濡れて綻びた巫女服の薄い布地の下で、冷気にさらされたその神域の容積は、見る者の視線を釘付けにするほどの存在感を放ち、ホームにいる人々の驚愕の眼差しを一身に集めていた。
「シーダー、その手、どこに置いているのかしら?」
林雨瞳が優雅に傘の水滴を振り払った。その火眼金睛の光は消えていたが、「逃がさないわよ」と言わんばかりの威圧感が僕の背筋を凍らせる。
「彼女のバランスを保ってるだけだ! これは戦術的搬送ってやつだよ!」
僕は慌てて弥生ちゃんの腰から手を離した。危うく魂釘を落としそうになる。
特急「みどり」の始発列車が、滑るようにホームへと入ってきた。オレンジ色の先頭車両が朝陽を浴びて冷たく輝く様は、血の池から這い上がってきたばかりの錦鯉を彷彿とさせた。
僕らはグリーン車に逃げ込んだ。車内はほぼ貸切状態だ。僕は脱力した弥生ちゃんを窓際の席に押し込んだ。彼女の神域の容積は狭いテーブルの上に重々しく預けられ、微かな寝息に合わせて規則正しく震動している。
「……海が……静かだ……」
弥生ちゃんが寝言で、加来艦長が遺した最期の言葉を呟いた。
シキは心得た様子でドア付近に陣取り、重力場を緩やかに展開して、外界の混乱した霊圧を遮断した。エリス様はといえば、博多で購入した抹茶のミルクレープを優雅に広げている。彼女にとって、先程までの死闘は退屈なオペラの幕間に過ぎなかったらしい。
僕は座席に沈み込み、遠ざかっていく佐世保の街を眺めた。
「北か……大湊……。ウェイスマンの糞ジジイ、日本中の墓地をひっくり返すつもりかよ」
手に残る氷のようなリベットを強く握りしめ、僕はそっと目を閉じた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




