74.ウィーンへ 74-4
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
午後七時。オーストリアからの返信がまず届いた。
俺の予想より、ずっと早い。
そして期待どおり、実に彼ららしい内容だった。
文調は落ち着いていて、過度な表現も、白々しい偶然を装う言い回しもない。
永遠領からの返信を受け取ったことへの謝意。こちらの前向きな意向に対する歓迎。近日中に、極めて小規模で、礼節と法務意見交換を主とする会合を設定し得ること。場所はオーストリア国内の国境寄りの都市で構わないこと。形式は完全非公開でも、限定公開でもよいこと。
そして最後に、一文が添えられていた。
現段階の地域感情への配慮を踏まえ、貴方方が政府側の情報把握のための同行を望むのであれば、我々としてはこれに異議を唱えない。
読み終えて、俺は顔を上げる。
「オーストリア、よくできてるな」
ヴァヴラが頷く。
「だな。スロバキアの面子をほんの少しだけ守りつつ、自分たちの手札もきちんと残している」
林雨瞳はスマホを置いた。
「この形が一番いい。誰も、致命的に格好悪くならない」
俺は笑いながら言う。
「だろ。ヨーロッパ人は一つ分かってる――刃は鋭くていいが、構えはきれいでなきゃならない」
エリザヴェータは、その返信に一瞥をくれただけで、すぐに視線をスロバキア政府からの返答を待つほうへ戻した。
そちらのほうが、今日のところは重みがある。
オーストリアが受け入れるのは、別に驚くことじゃない。
本当に面白いのは、「一字一字、顔を立ててやった」上で、「はっきりと『出しゃばるな』と書かれた」この書簡に、スロバキアがどう返すかだ。
答えは、あまり待たせなかった。
午後八時十二分。希が最新の来文をウォールに叩き出す。
来た。
政府からの正式な返答だ。
最初に目を通した瞬間、俺は意外なほど満足していた。
ヒステリックに騒ぎ立てるでもなく、自分たちを門番に祭り上げるでもなく、「一切の対外往来は政府の同意を要する」なんて、見た瞬間に再炎上確定の愚かな文言もない。
連中は別の言い回しを選んできた。
政府は、永遠領側が具名書簡に対して予定している礼節的答礼の手配に留意している。現在の既存秩序再整備、公衆の安定、および対外状況把握の必要性に基づき、政府は必要最小限の同行行政窓口を指名し、情報の把握と既存公共秩序の継続性を確保することができる。政府の同行は、発言の優先権を構成せず、代位による説明を構成せず、永遠領側の既存窓口手配に影響を与えるものでもない。
読み終えて、俺は二秒ほど沈黙してから、心の底から言った。
「悪くない」
林雨瞳が俺を横目で見る。
「今日は随分と優しいじゃない」
「違う」俺はその数行を指差した。「政府文書の中で、ようやく『脇に立つ』という三文字の書き方を学習した人間を見たからだ。滅多にお目にかかれない」
ヴァヴラがその一段を拡大する。
「特にここだ――『発言の優先権を構成せず、代位による説明を構成せず』」
俺は口元を緩める。
「そうだ。その一文は値千金だ。今後連中が勝手なことを喋り出したら、この紙切れをそのまま顔面に叩き返せばいい」
エリザヴェータが頷く。
「重畳」
つまり――オーストリアへの線は、正式に開通した。
しかも、極めて体裁のいい形で。
こっそり抜け出すのでもなく、互いに踏みつけ合うのでもなく、スロバキアの顔を衆人環視の前で殴りつけてから荷物をまとめて出ていくのでもない。
スロバキア政府は承知の上で、低姿勢での同行を申し出る。オーストリアは正式に祝賀を送り、礼節的な接待を提供する。永遠領は前向きに応じ、答礼という名目で出向く。
この一連の構え、どこを取っても清潔だ。
希はすでに第四号公告の骨組みを作り始めていた。
俺が覗き込むと、タイトルは簡潔そのものだ。
第四号公告・オーストリア具名祝賀に対する答礼日程の確認について
俺は笑った。
「この見出しなら、誰が見ても駆け落ちには見えない」
彼女は呆れた顔をする。
「今日の頭の中、そういう比喩しかないの?」
「便利だからな」
エリザヴェータが口を開く。
「第四号公告は、明朝発する」
ヴァヴラが顔を上げる。
「内容は?」
彼女は一語一語、明確に区切って告げる。
「オーストリア側の礼節的答礼手配を受け入れることの確認」
「スロバキア政府が承知し、必要な同行行政窓口を派遣することの確認」
「今回の出向の性質が、答礼、法務意見交換、および接触秩序の確立であることの確認」
「既存の地籍、収益保全、および租回管理手続きの停止を伴わないことの確認」
最後の一条を聞いた瞬間、俺は即座に頷いた。
そうだ。
これが肝心だ。
俺たちが一歩外に出た途端、外野は勝手な想像を膨らませる――女大公はこの機に遠くへ飛ぶつもりか? 手続きは止まるのか? 城は空になるのか? スロバキア政府は留守を狙って何かを動かすんじゃないか?
この一条を先に釘付けにしておくのは、実に鮮やかな手だ。
林雨瞳が一言加える。
「さらに――領内代理権と窓口は通常通り稼働する、も入れて」
ヴァヴラが即座に引き取る。
「俺は残る」
俺は彼を見た。
「行かないのか?」
「ここで地図を見張る必要がある」
俺は思わず吹き出した。
「その言い方、相当変態的だぞ」
「お前よりはマシだ」
葉綺安が横で声を立てて笑う。
「じゃあ、女大公のお供は誰?」
部屋が一瞬、静まり返った。
そして、数対の視線が一斉に俺のほうを向く。
俺は一瞬固まり、自分を指差した。
「俺?」
林雨瞳は躊躇すら見せない。
「あなた」
「理由は?」
彼女は冷たく返す。
「現場で呼吸している証人として一番それらしく見えるから。それに、今のあなたが出て行けば、人間の温度が出る」
俺は口元を引きつらせた。
「人間の温度って何だ。ヴァヴラにはないのか?」
ヴァヴラは顔も上げずに呟く。
「俺は文書番号の擬人化だからな」
俺はその場で爆笑した。
「それは確かに否定できない」
エリザヴェータは俺を見て、平坦な声で告げる。
「汝が共に参れ」
俺は片眉を上げる。
「これで決まりか?」
「そうじゃ」
「理由は?」
彼女は俺を一瞥する。
「汝は、物事を誰もが理解できる形に語り直すゆえな」
それを聞いて、俺は一秒沈黙し、それから笑った。
これは、どうやら本物の褒め言葉らしい。
「よし、ありがたく受け取っておく」
実のところ、俺にも分かっている。
今回のオーストリア行きは、条文と法務的姿勢だけを並べれば済む話じゃない。
扉、地図、租回管理、受付、地籍、収益――この一連の道のりを、「生きた一本の線」として語れる人間が横に立つ必要がある。これが抽象的な法務ショーではなく、実際に扉を開け、地図を引き、国家を「脇に立たせる」まで追い詰めた、生身の出来事なのだと分からせるために。
誠に遺憾ながら、今のところその適任者は、俺しかいないらしい。
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翌朝九時。第四号公告は定刻通りに公開された。
フォーマットは端正で、無駄な文字は一つもない。
ドラキュリヤ=バートリ大公永遠領 第四号公告
一、永遠領は、オーストリア側が具名祝賀に際して提示した礼節的答礼および法務意見交換の手配を、正式に受け入れる。
二、今回の出向の性質は、答礼、法務意見交換、および接触秩序の確立であり、第一号から第三号公告に関わる手続きの停止を伴うものではない。
三、スロバキア政府は今回の行程を承知しており、必要な同行行政窓口を派遣する。政府の同行は、発言の優先権を構成せず、代位による説明を構成しない。
四、領内代理、窓口受付、地籍初期標示、旧鉱業権重複の一次調査、および収益保全の手続きは、通常通り継続する。
五、今回の行程の正式な窓口および詳細については、永遠領が追って別途発表する。
俺はその数行を眺めながら、実に安定した気分でいた。
そうだ。
これで盤石だ。
扉は閉ざさず、手続きは止めず、地図は引き続け、収益は保全し続ける。俺たちはただ外へ一歩踏み出し、最初に正式に手を差し伸べてきた相手を、この画の中に引き入れるだけだ。
公告が出た途端、メディアは案の定、三つのポイントに食いついた。
永遠領、オーストリアの答礼招待を受諾 スロバキア政府は承知の上で同行 優先発言権は持たず 手続きは停止せず 地籍と収益保全は同時進行
この三つの見出しが並ぶと、全体の空気が決まる。
対立の激化じゃない。
秩序の、穏やかな外溢だ。
しかも、極めて礼儀正しい形での。
俺は城の二階の窓際に立ち、前庭に再び集まり始めたメディアの群れを眺めながら、ふと笑いが込み上げてきた。
数日前まで、連中は「城の扉が開くかどうか」を見物していた。
今では、成立したばかりの永遠領が、最初の外出でどこへ答礼に向かうのかを追いかけている。
世界のひっくり返る速度は、本当に容赦がない。
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そのとき、階下から小さからぬ騒めきが聞こえてきた。
希の声がすぐにイヤホンに飛び込んでくる。
「同行名簿が届いた」
俺は踵を返して階段を降り、大広間に出ると、ヴァヴラが新たに届いた政府文書をテーブルに広げていた。
覗き込んで、俺は危うく吹き出しそうになった。
政府が派遣してきたのは、たった二人だ。
司法協調室 連絡官一名。 外交行政系統 随行記録窓口一名。
大臣もいない。次官もいない。一目で「カメラに映りたがっている」と分かるような大物は、一人もいない。
上出来だ。
本当に学習した。
俺はヴァヴラを見る。
「今回は何点つける?」
「七十五点」
俺は眉を上げる。
「七十五止まりか?」
「まだ一行、見苦しい文言が残っている」彼は下の補足説明を指差した。「『必要に応じて政府による説明の補助を提供し得る』」
一目で理解して、俺はその場で笑い出した。
「なるほど。まだ手が疼いてるのか」
エリザヴェータが歩み寄り、一瞥する。
「線を引け」
ヴァヴラは一瞬も迷わず、返信欄に直接打ち込んだ。
政府は承知するのみとし、自発的な説明を禁ずる。必要な事実確認は、永遠領窓口を先行とする。
付き合うのは構わない。 だが、余計な口は挟むな。 それが本当の低姿勢同行ってやつだ。
すぐに先方から「修正に同意する」との返事が来た。 今日一日で、スロバキアの官僚システム全体が急速進化してる気がする。しかも、殴られて覚えるタイプの進化だ。
昼を過ぎた頃、オーストリア側からも会談場所の確認が入った。 ウィーンじゃない。それは別に意外でもなんでもない。 実に頭のいい選点——国境に近くて、十分にフォーマルで、安全も確保できて、それでいて誰も国賓級の芝居を打たなくて済む場所。
俺はその地名を見て、特に何も言わなかった。 それより今は、別のことの方が気になっていた。
振り返って、エリザヴェータを見る。
「で、今回は城から直接出るってことでいいんだな?」
彼女は頷いた。
「然り」
「どんな姿勢で?」
あの紅い瞳が俺を射抜く。天気予報でも読み上げるような、平坦な声だった。
「既に成立せし姿にて」
俺は少し笑った。
「ああ、それでいい」
この一言で十分だ。 本当に、それだけで足りた。
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外の空は少しずつ夕暮れに向かっているのに、城の中には緩む気配が一ミリもなかった。 館務はチェックリストを抱えて走り回り、地政の初期入札チームは地図の線をさらに細かく引き直している。収益保全の名簿が一枚また一枚とヴァフラの机に積み上がり、外ではメディアが第四号告示を追いかけ回している。 スロバキア政府はほっと胸を撫で下ろしつつ、「どうやって横に立てばいいか」を必死で学習中。 その一方で、オーストリアは向こう側で俺たちを待っている——「まず扉の意味を理解してくれてありがとう」、その一言を今度は現場の空気に変えるために。
俺は大広間の真ん中に立ち、壁に掲げられた四枚の告示と、初回入札用の地図と、月翼血鋒を見上げる。 そして、妙にはっきりした感覚だけが胸に残った。
俺たちは、ただ扉を取り戻しただけじゃない。 その先の道を、「先に手を伸ばすのは向こう。俺たちは、その手を見てから踏み出す」という形にまで、きっちり舗装してしまったのだ。
これは重要だ。 とんでもなく重要だ。
なぜなら、それはつまり——今この瞬間から、永遠領は「扉番しかできない場所」じゃなくなる、ということだからだ。 自分から歩き出す領地になる、ということだからだ。
俺は小さく呟いた。
「——いいな」
林雨瞳が横から俺を一瞥する。
「真似?」
「いや。やっと、この言葉の使いどころが分かっただけだ」
彼女は鼻で小さく笑い、そっけなく顔をそらしてメディアラインの方へ視線を戻した。
俺は窓の外、ゆっくりと暗さを増していく空を見上げながら、口元をゆっくりと吊り上げた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




