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56. スロバキアの祖産 56-1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

ブダペストから車でスロバキアへ向かうと決めたとき、エリザヴェータがそっと一枚の地図を差し出してきた。


それはコンビニで売ってるような観光地図なんかじゃない。文字どおりの羊皮紙の地図だった。端は黄ばんでけば立っていて、折り目は誰かが何度も広げては畳んだみたいに深く刻まれている。指でなぞると、乾ききった古いざらつきがまだ残っていた。


エリザヴェータはいつもの「それが当然」と言わんばかりの口調で言う。


(しもべ)よ、(わらわ)はここへ赴きたい」


俺はちらっと彼女を見下ろした。


「俺はお前の(しもべ)じゃねえ」


彼女も、すっと顔を上げて俺を見る。


そのまま、よく分からない空気のまま、ふたりして一分近く睨み合う羽目になった。


先に折れたのは、結局エリザヴェータのほうだった。施しでもくれてやるみたいに、ふんと小さく鼻で笑う。


「人の(ひとのこ)というものは、本当にこういう些事(さじ)にうるさいものよのう」


「そうだよ、俺たち"人の子"は、そういう細けえとこにこだわる生き物なんだよ、公爵閣下(こうしゃくかっか)


わざとその呼び名だけ、ひとつひとつ噛みしめるように強調してやる。皮肉なんて隠す気もない。のに、こいつは怒るどころか、口元をわずかに持ち上げて、むしろ満足そうにしていた。


「それでも、汝は妾の(しもべ)であることに変わりはない、周士達(ジョウ・シーダー)


エリザヴェータが、すっと身を寄せてくる。耳元すれすれまで近づいて、凍るように冷えた声で囁いた。


「永遠に、な」


次の瞬間、氷みたいに冷たい指先が伸びてきて、俺の首の牙痕をつんと突く。


全身が、条件反射みたいに後ろへ跳ねた。


「っ、エリーゼ、お前まさか——」


「冗談じゃよ」


エリザヴェータが声を立てて笑う。その笑い声が、妙に殴りたくなるくらい上機嫌だ。


「少なくとも——汝が妾への奉仕を誓うまでは、無効じゃからのう」


……結構。


大物のご機嫌取り、悪魔との契約者、そこへ新たに"吸血鬼予備軍"が追加。この期に及んで、俺の身に付いてるよく分からないバフが、どこまで積み重なるのか見てみたいもんだ。このまま積み増し続けていったら、そのうち病院でレントゲン撮った瞬間、担当医が「これ人間のカテゴリで合ってます?」って首かしげてもおかしくねえ。


俺は横に置いた地図へ視線を落とす。羊皮紙の上で丸く囲われた一点に、一つの名前が書いてあった。


ボイニツェ城(Bojnice Castle)。


「"Bojnice Castle"?」俺は片眉を上げる。「城見物がしたいってわけか」


「何か問題でも?」


「大ありだよ」地図の端をつまんで、ひらひら振ってみせる。「俺たち、さっきやっとブダペストの地下みたいなクソみてえな場所から生還したばっかなんだけど。まともな人間の"次の一手"ってのはな、ちゃんとしたホテル見つけて、ベッドに自分の死体投げ捨てて、翌日の昼まで昏睡することであって、わざわざ車走らせて"吸血鬼映画のポスター撮影会場です"って顔した古城に寄り道することじゃねえの」


「それで?」エリザヴェータは薄く目を細めて、さらりと返してくる。


「だからお前、"休息"って二文字の意味、本気で勘違いしてんじゃねえの?」


「それは汝の問題であって、妾の問題ではない」


一ミリもまばたきしないまま、こいつはそう言い切った。


まだ何か言い返してやろうかと口を開きかけたところで、助手席の背もたれ越しに、小さな影が身を乗り出してきた。(シキ)が、前の座席の隙間からひょいっと顔を出し、地図を覗き込んで、次に俺の顔を見る。


「この場所、知ってる。スロバキアですごく有名なお城。観光写真、絶対映える」


「お前がそんな澄ました顔でそういうこと言うときってさ、だいたいこの先八割方なんか起きるパターンなんだが」


「今回は、さすがにそこまではいかないはず」(シキ)がぱちぱちと瞬きする。「さすがに、行く国行く国、毎回まず地下施設を潰してから怪物の処理して、その後でやっとごはんなんて流れ、続かないって」


「その台詞な、慰めっていうより、もはや呪いにしか聞こえねえ」


後部座席で林雨瞳(リン・ユートン)が腕を組んだまま、地図にちらりと目をやり、すぐに視線をエリザヴェータへと移した。


「そこへ行きたい理由。あるはず」


エリザヴェータは、二秒ほど黙り込んでから、ようやく口を開いた。


「ただ、戻ってみたくなっただけである」


その言葉は、驚くほど平坦だった。「今日は少し暖かいな」みたいな、その程度の温度。なのに、それがこの女の口から出ると、どうにも違う色を帯びる。俺の気のせいかもしれない。あるいは、こいつみたいな生き物は、生まれつき「ただの一言」を別の重さで響かせる才能でも持ってるのか。あの一拍の中に、かすかに——本当に薄い、ほとんど匂いだけになった懐かしさみたいなものが、混じっている気がした。


一瞬、頭が空白になって、それから眉をひそめる。


「待て、"戻る"ってどういう意味だよ」


エリザヴェータが、こちらを一瞥する。


「文字どおりの意味であるが?」


「そういう、中身のねえ回答が一番ムカつくんだよ」


「それは汝の理解力が乏しいからであろう」


「……クソ」


前の席から、(シキ)が吹き出した。林雨瞳(リン・ユートン)も、わずかに顔をそむけて、口元だけほんの少しだけ動く。葉綺安(イェ・キアン)はというと、最初から最後までこの不毛な口撃戦に参加する気ゼロで、地図を一瞥しただけで、簡潔にひとこと落とした。


「目的地が決まったなら、出発する。日が高いうちに。移動で余計な時間は潰さない」


……やっぱりこいつが一番現実的だ。


そういうわけで、車はそのまま走り出した。


ブダペストを離れるにつれて、道沿いの景色が少しずつ緩んでいく。埃っぽい街の外縁は、やがて丘陵と林と、遠くへ広がる畑に飲み込まれていった。ときどき、小さな町や、教会の尖塔や、ポストカードの構図をそのまま切り出したみたいに整った家並みが見える。空はまだ少し曇っているけれど、少なくとも、地下施設のあの「肺の中まで押し潰されるような圧」はない。どちらかといえば、ようやく何かの口の中から這い出てきて、再び世界を見上げられるようになったみたいな、そんな軽さがあった。


正直、その感じは悪くない。


少なくとも——地底で誰かに頭蓋骨をこじ開けられる順番を待つより、地上で生きたままハンドル握ってるほうが、いくらかマシだ。


ハンドルを握りながら、横に置いた羊皮紙の地図に、もう一度視線を落とす。


折り目は深く、ただの骨董品には見えない。長い時間、誰かの手元で、実用品として持ち歩かれてきたもの——そういう気配がある。そう思うと、俺はまた、無意識にエリザヴェータを横目で盗み見ていた。


彼女は窓にもたれかかるようにして、半ば目を閉じている。珍しく、誰かをあげつらってもいないし、わざとらしく"高みの見物"を決め込んでもいない。雲の切れ間から漏れた陽光が、ときどき彼女の蒼白い横顔に差し込み、その輪郭を、どこか違う時代の油絵具で薄くなぞったみたいに見せていた。


普段から十分「現代人離れ」しているのに、この光景となると一層だ。


まるで——もともと今という時間に属していない誰かが、自分が置き去りにしてきた、もっと昔のどこかに帰ろうとしている、そんなふうに見える。


そこまで考えたところで、自分で自分がバカバカしくなってきた。


ついこの前まで命がけで訳の分からない連中と殴り合ってた俺たちが、今は他の観光客と変わらない顔をして国境をまたぎ、「絵本からそのまま飛び出しました」みたいな童話全開の城へ、休暇気分で向かっている。作品のジャンルが違う台本を、誰かが間違って俺の人生に綴じ込んだんじゃねえのかと疑いたくなるレベルの、急カーブな画面転換だ。


「何を考えておる?」


エリザヴェータは目を開けてもいないのに、さっきから俺が彼女を盗み見ていることに、ちゃんと気づいていたらしい。


「俺の人生も、そろそろ"平和な日常編"に突入してくれねえかなって」


「汝が?」彼女の口元がわずかに持ち上がる。「寝言も大概にいたせ」


「せめて、一回くらいは深呼吸させろよ、公爵閣下」


「それは汝の働き次第であろう」


「その言い方、ブラック企業の搾取社長そのものなんだが」


「いいや」彼女はゆっくりと目を開けて、こちらを見た。腹が立つくらいに、落ち着いた声で言い放つ。「妾は、汝の"雇い主"ではない。——"(あるじ)"である」


「……お前、今日はその設定にいつも以上にこだわる日か?」


「面白いからな」


俺は露骨にため息をついて、そっぽを向いた。


これ以上相手してたら、そのうち高速道路のど真ん中で、五百九十六歳の吸血鬼と本気で口論をおっぱじめる羽目になる。その光景を俯瞰で想像して、あまりのアホらしさに、自分の黒歴史を自分で増やす気にはなれなかった。


後部座席で、林雨瞳(リン・ユートン)がしばらく黙って窓の外を見ていたが、やがて、ぽつりと呟く。


「——でも。こういうのも、悪くない」


ルームミラー越しに、俺は彼女を見た。


「どういう意味だ」


「少し、休む」流れていく木々の影を追いながら、彼女は淡々と続ける。「みんな。張り詰めすぎ」


その一言で、車内に数秒、言葉が落ちた。


誰も、それを否定しなかった。


否定できなかった。


ブダペストでのあれこれは、あまりにも苛烈すぎた。その後にぶら下がってきたものも、重すぎた。ベルタス、西方の地獄、指輪、死神の(デスサイズ)。そして、もう視界の端には入っているのに、誰もあえて言葉にしようとしない、いくつかのこと。そういうもの全部が、埃みたいに身体にまとわりついている。見えやしないのに、払っても払っても取れない。


そういう状況で——たかが数時間余分に車を走らせて、誰も斬らなくていいし、誰にも斬られずに済む場所へ向かうくらいで、「得した」と感じてしまうのも、無理はなかった。


「……聞いたかよ、公爵閣下」俺は雨瞳の言葉に乗っかって、わざとらしくエリザヴェータを横目で見る。「今この国の"人民"が求めてるのは、休養と立て直しであって、ある気まぐれな吸血鬼貴族様の里帰りツアーに付き合うことじゃねえそうだ」


エリザヴェータの眉が、ほんの少しだけ持ち上がる。


「ますます、言葉遣いが大胆になるではないか」


「どうも。最近、生命への執着が目に見えて落ちてきててな」


二秒ほど、彼女はじっと俺を見て——そして、不意に笑った。


それは、いつもの刺ばっかりの、「人の不幸をつまみにしてる」みたいな笑い方じゃなかった。本当に、ごくかすかで、一瞬で消えてしまうような、見間違いかと錯覚するレベルの、短い笑みだった。


「好きに申すがよい」視線を窓の外へ戻しながら、彼女は続ける。「どうせ、汝は妾をそこへ連れて行く」


……それについては、反論のしようがなかった。


さらにしばらく走ると、遠くの丘の切れ目から、ようやく城の輪郭が浮かび上がってきた。


白い壁、尖った塔、濃い色の屋根。誰かが童話のページの中でも特にやりすぎな一枚を、まるごと破り取って、現実世界の真ん中にそのまま立ててしまったみたいだ。あり得ないくらいに堂々とした"きれいさ"で、逆に現実味がない。威圧するような重厚さじゃなく、「周りのどの風景よりも物語っぽいのは俺だ」と、真っ向から宣言している種類の存在感だった。


しばらく前方を凝視してから、つい口笛が漏れる。


「おお……こりゃまた、思い切りぶっ飛んでんな」


「気に入ったか?」エリザヴェータが問う。


「もし"気に入らねえ"って答えたら、引き返してくれるのか?」


「いや」


「じゃあ、何のための質問だよ」


(シキ)がまた笑い出し、林雨瞳(リン・ユートン)も首を回して、城のほうをじっと見る。葉綺安(イェ・キアン)でさえ、いつもより二秒くらい長く、その景色に目を留めた。


正直なところ——ここは、休むには悪くない場所に見えた。


少なくとも、外見上は。


地下施設はない。勝手に生えてくるおかしなモンスターもいない。ドアを開けた瞬間、地獄へ真っ逆さまコースの罠が口を開けているわけでもない。ただ、場違いなくらい静かで、場違いなくらいきれいな、古い城が一つ。それだけだ。


助手席のエリザヴェータが、その城を見つめる目も、いつもより、わずかに柔らかかった。


本当に、本当にわずかに。


それでも、俺には分かった。


指摘はしない。ただ、ハンドルを握ったまま、ゆっくりと車を進める。


……まあ、いいか。


もし、ここが本当に「帰ってきてみたかった場所」だっていうなら。この寄り道も、そこまで悪い話じゃないのかもしれない——そう思い直しながら。


なにしろ、俺たちの中で目的地を「里帰り」って言葉で表現できるやつなんて、こいつくらいのもんだろう。


で、俺はというと?


ルームミラーに映る、首筋に牙痕の残った自分の顔をじっと見つめて、心の底から誠実な結論を下した。


——はいはい、了解。


他人が里帰りして、俺が運転手。


ついでに、よく分からないうちに「吸血鬼予備軍」への階段を着実に転がり落ちている、不運の極みたいな立ち位置を継続中ってわけだ。


車を近づけるにつれて、ボイニツェ城(Bojnice Castle)という代物の正体が見えてきた。遠目には童話だが、近くで見ると金持ちの悪趣味そのものだ。


尖塔、白壁、濃色の屋根。周りに整備された綺麗すぎる緑地までが、「ようこそ、ヨーロッパ式ロマンチック妄想フルコースへ。一日券には自撮りとフィルターが標準装備です」とでも言いたげだ。もし今日の俺が普通の観光客だったなら、車を停めて深呼吸のひとつでもして、「うわ、これ作り物みたいだな」と感嘆の声を漏らしていたかもしれない。


残念ながら、俺は違う。


首に牙の穴が開いてて、訳の分からないオカルト系バフを全身にぶら下げてて、五百九十六歳の吸血鬼女大公を里帰りさせる羽目になった、不運な専属ドライバーだ。


そう考えると、目の前にどれだけ夢みたいな景色が広がっていようが、頭に浮かぶのは「駐車スペース足りるか?」という極めて現実的な問題だけになる。


ゆっくりと車を停めて、エンジンを切る。手がハンドルから離れるより早く、エリザヴェータはさっさとドアを押し開けて外へ出た。


誰かに先を越されるのを恐れるみたいな、やけに素早い動きだった。


一瞬呆気にとられて、俺も後を追って降りる。ドアを閉めた瞬間——彼女がその場に立ち尽くしているのが見えた。わずかに顎を上げ、静かにあの城を見上げている。


こいつがこんなに静かなのは、珍しい。


普段なら、誰かを刺すか、次に刺す獲物を探すかで忙しい。なのに今は、午後の風の中に立って、小さな日傘を支えながら、自分の「里帰りの地」をただ見つめている。その横顔は、何を考えているのかほとんど読めないくらい、ひどく淡白だった。


だからこそ、あまりに薄いその表情が、妙に邪魔しにくかった。


隣に立ちながら、俺は珍しく、いつもの軽口を叩かないほうがいいかもしれないと思った。


……三秒後には、口が勝手に動いていた。


「どうだよ。故郷を見て、胸に込み上げてくるものは? なんなら俺がナレーションでも入れてやろうか。『数百年の星霜を経て、故人はついに故土に帰り立つ』とかさ」


エリザヴェータが、ゆっくりとこちらを向く。


「汝が黙っていれば、もう少し雰囲気が整うのだが」


「了解です、公爵閣下。里帰りドキュメンタリー、ナレーション一時停止しました」


彼女は軽く鼻を鳴らして、俺を無視して入口へと歩き出した。


(シキ)が俺と彼女を交互に見て、小声で聞いてくる。「今、機嫌いいの? 悪いの?」


「難問すぎるだろ」俺も声を潜めて返す。「熊に『お前ベジタリアンか?』って聞くようなもんだ」


林雨瞳(リン・ユートン)が横を通り過ぎながら、淡々と一言添えた。


「少なくとも。まだ噛みついてない。上出来」


葉綺安(イェ・キアン)は、いつもどおり現実的だ。


「まずは中に入る。話はそれから」


そういうわけで、俺たちはエリザヴェータの後を追って入口へ向かった。


そして——悲劇が起きた。


いや、厳密に言えば、悲劇ではない。

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