S2第九章 まずは観光客っぽいことから始めてみることにした
全日空(ANA)828便は、午前二時五十二分、定刻通り成田に降り立った。
ビジネスクラスのシートで目を開けると、窓の外には誘導路灯のオレンジ色の線が伸びていた。遠くの水平線は、何とも形容しがたい紫色を帯びている。まるで誰かが海底にカビの生えた蛍光灯を置き去りにして、消し忘れたかのようだった。
俺は指を動かしてみた。
黒い指輪は光らず、震えず、何の反応も示さない。
俺はそれを「良い知らせ」だと解釈することにした。
機内を見渡すと、葉綺安はすでに荷物を整理していた。その仕草には「今から買い物に行く」と言わんばかりの積極性が漲っている。林雨瞳は通路側の席に座り、目は開いているものの、前方のシートをじっと見つめるその角度が、彼女がこれからの三十六時間の行程を逆算していることを物語っていた。シキは窓に寄りかかり、半分閉じた瞼を時折動かして、自分がまだ眠り落ちていないことを確認している。老高は自分の上着を枕にし、頬に深い赤の跡を刻みながら、最後の瞬間まで眠りこけていた。
俺はこの面々を眺めた。
一週間前、俺たちは大武山の中腹で、身体を張って銃弾を弾き返していた。
それが今や、全日空のビジネスクラスに乗り、マッカランを煽り、A5ランクの和牛を平らげて成田に降り立っている。
これを「荒唐無稽」の一言で片付けるには、あまりに言葉が軽すぎた。
入国審査の列は長く、静かで、正確だった。まるでリズムを規定された輸送帯ベルトコンベアのようだ。
俺は先頭を歩き、後ろには七人が続いていた。――元警官、パイワン族の少女、どこの国籍かも怪しい金髪の女、そしてさっき台北の高級レストランで大理石のテーブルに亀裂を走らせたばかりの女。
もちろん、入国申告書デクラレーションにそんなことを書いたりはしなかったが。
「ここ、すごく静かだね」
葉綺安が寄り添い、声を潜めた。
「日本はどこもこんなもんだ」俺は言った。「慣れろ」
「そういう静かさじゃないの。……外よ」
俺は搭乗待合ロビーの掃き出し窓に目をやった。
窓の外、滑走路の尽きるところ。一機の零式艦上戦闘機が、燃えながら海面へと墜落していくところだった。翼に纏い付いた緑色の燐火りんかが金属の骨組みを伝って広がり、機首を下げ、短い弧を描いて海面へと突き刺さり、消えた。
空港の放送は、穏やかな日本語で手荷物への注意を促し続けている。
エスカレーターは平穏に動き続けている。
免税店の照明は、あらゆる品物を「買われるのを待つ商品」として、無機質に照らし出し続けている。
俺は前を向き、歩みを再開した。
「気にするな。あっちも俺たちのことなんて気にしちゃいない」
イェは一度だけ振り返り、二秒の沈黙の後、俺の後に続いた。
入国審査の番が来た。官吏は俺のパスポートを受け取ると、引き出しから拡大鏡を取り出し、写真のページを二十秒ほどかけてじっくりと照合した。
俺はそこに立ち、ポケットに手を突っ込んでいた。
心の中では必死に、自分を「薬局で買い物をするため日本に来た台湾の中年男」だと思い込ませようとしていた。決して、パイワン族の神々の戦場から這い出し、いつ光り出すか分からない不吉な指輪を嵌め、背後にどこか狂った連中を連れ回しているような「化け物」ではないのだと。
「目的は?もくてきは」
「観光だ」俺は日本語で答えた。「初めて来た。浅草が見たくてね」
彼はパスポートに目を落とし、俺の顔を見て、またパスポートに戻った。その三秒間の沈黙は、疑念ではなく、単なる職務上の手続きルーチンだった。
「機内でのお飲み物のご請求で、何か不明な点はございましたか?」
「ウイスキーが一杯多く計算されていたが、」俺は言った。「苦情を言うつもりはない。タイミングが悪かっただけだ」
彼は俺を一度見た。
カツン。
「ご旅行をお楽しみください」
俺はパスポートを仕舞い、背後に向かって手招きをした。
「急げ、バスが出るぞ」
その車両は入国ロビー外の第七駐車場に停まっていた。車体は深紫色――通常の光の下では黒に見え、雨の夜にだけ紫だと確信できる、そんな深い黒だ。ナンバープレートの反射がどこか不自然だった。材質の問題ではない。光の角度が周囲の灯影と噛み合っていないのだ。まるで、その車両だけがこの駐車場とは別の時区タイムゾーンに属しているかのように。
ドアはすでに開いていた。
「このバス、色が変だぞ」老高が俺の背後で声を潜めた。
「分かってる」俺は言った。「乗れ」
車内は暗く、天井の読書灯が一列だけ点灯し、無人の座席を照らし出していた。運転手は最前列に座り、帽子の庇を深く下ろして、振り返ることも案内を放送することもない。俺たち八人が順に乗り込むと、ドアが閉まった。その瞬間、空港の喧騒はハサミで切り落とされたかのように消え去った。あまりにも不自然なほどの静寂だ。
車両は空港を出て、首都高速へと上がった。街灯が一本、また一本と後方へ遠ざかっていく。
インターチェンジを降りたあたりで、シキが窓に顔を寄せ、数秒ほど静かに外を眺めていた。そして、俺の方を振り向いて問いかけた。
「あれ、何……?」
俺は、彼女が指差す方向へと目を向けた。
護岸の防波堤の上に、三人の男が座っていた。旧式の日本海軍服を纏い、その輪郭は透き通っている。まるで誰かが空中にクレヨンで形だけを描き、色を塗り忘れたかのようだ。そのうちの一人が顔を向け、俺たちのバスを見た。その眼の中には何もなかった――「空洞」ではない。空洞ならまだ形がある。ただ、そこに「何もない」だけだ。
遠くの海面では、何かが緩慢に動いていた。巨大で、沈黙し、時折鋼鉄特有の鈍い光を反射させている。
「さあな」俺は言った。「だが、あっちも俺たちのことなんて気にしちゃいない」
シキは一度だけそれを見つめ、再び窓の外へと視線を戻した。それ以上、何も訊かなかった。
俺は背もたれに身を預け、目を閉じた。
ある報告書で読んだ、排水量三万トンを超える「ナニカ」が、今この瞬間も東京湾に向かって移動しているという事実を考えないように努めた。
……無駄な努力だったが。
バスは新宿三丁目のバス停で停まった。放送もなく、予告もない。運転手はただ路肩に寄せ、停車し、ドアを開けた。
俺たちが降りる時も、ヤツは振り返らなかった。
午前四時の新宿。歌舞伎町のネオンはいまだ灯り続け、錆びついたような、消えることを拒む赤と青の光が、数階建てのビルから降り注いでいた。路傍のラーメン屋がまだ開いており、店主が中でタオルを畳んでいる。泥酔寸前のサラリーマンが丼を抱えてぼんやりと座っていた。遠くからカラオケの歌声が漏れ聞こえ、閉め忘れた窓から薄く街へと霧散していく。
俺たち八人は歩道に立ち、足元に荷物を置き、新宿の夜色に凝視されていた。
「それで、」葉綺安があちこちを見渡し、口を開いた。「どこに泊まるの?」
「決めてない」俺は答えた。「まずは食い物を探そう」
老高は俺の隣に立ち、沈黙したまま街を一周見渡した。その表情には見覚えがある――山で生きてきた人間が、周囲三百六十度すべてをビルと人間に囲まれ、どこにも「出口」が存在しないことを悟った時の顔だ。
「大丈夫か?」俺は訊いた。
「光が多すぎる」彼は言った。「音も多すぎる。……空が狭すぎる」
俺は何も言わなかった。
林曉葳が彼の腕に手を置き、何も言わず優しく叩いた。
俺たちは歩き出した。
そのコンビニエンスストアは街角にあった。二十四時間営業。自動ドアが開くと、エアコンの冷気と関東煮おでんの湯気が混じり合って押し寄せてきた。
イェが真っ先に駆け込み、おでんの什器の前で足を止めた。その顔には、一種の宗教的なまでの厳格さが浮かんでいた。
「みんな、何がいい?」彼女は振り返って訊いた。
誰も答えなかった。皆、それぞれが別の商品棚を呆然と見つめていたからだ。
エリスはカップ麺のコーナーで、人類学者がフィールドワークでもしているかのように、一つ一つのパッケージを裏返しては検分していた。シキは缶コーヒーを手に取ると、軽く振り、蓋の匂いを嗅いでから元の場所に戻し、隣の缶でまた同じ動作を繰り返す。林雨瞳リン・ユートンは冷蔵飲料の棚を一瞥し、ミネラルウォーターを一本掴むと、迷いなくレジへと向かった。
老高は雑誌ラックの傍らに立ち、手にした煎餅の袋を、まるで難解な未解決事件でも扱うかのような複雑な表情で見つめていた。
俺は熱いコーヒーを二つ買い、彼の隣へ歩み寄った。
「ほら」
彼は受け取り、礼も言わずに一口啜った。
「山のやつより不味いな」
「分かってる」
俺はガラス戸越しに外の通りを眺めた。
街角の電柱の影に、「ナニカ」がうずくまっていた。背丈は低く、夜の闇と街灯の境界線に溶け込んだその輪郭は、正体を特定することを拒んでいる。それは動かず、こちらを見る風でもない。――いや、正確には「見ている」かどうかさえ判別できないのだ。顔のあるべき場所に、顔が見当たらないのだから。
俺は視線を戻した。
レジでは、葉綺安イェ・キアンが半覚醒状態の店員に対し、どのおでん関東煮をいくつ欲しいのかを、日本語と中国語と英語を交えて熱心に説明していた。店員は「拝聴しています」という極めて事務的な表情を完璧に維持している。
外にいるヤツのことについては、誰にも言わなかった。
あっちが干渉してこないなら、こっちも干渉しない。それがこの世界の歩き方だ。
俺たちは路上に立ったまま食事を済ませた。食べている時間よりも、ただ突っ立っている時間のほうが長かった。
イェは食べ終えた竹串を一列に揃え、当然のようにガオのジャケットのポケットに差し込んだが、ガオは瞬き一つしなかった。シキは路上にしゃがみ込み、指先で地面に何かを描いていたが、俺はそれを覗き込もうとはしなかった。リンは壁に寄りかかり、スマホの画面の光に顔を照らされたまま、最初から最後まで一言も発さなかった。
俺は顔を上げた。
ホテルグレイスリー新宿の屋根の上。ゴジラの頭部が、夜明け前の新宿を沈黙のうちに見下ろしていた。都市のスケールで見れば決して巨大すぎるわけではないが、午前四時の静寂、照明の角度、そしてこの一週間、俺たちが山で見てきたモノたち――その文脈に置かれた時、それは言い知れぬ「重み」を放っていた。
俺はそれを見つめる。
それは新宿を見つめている。
「ここにするぞ」俺は言った。
誰も理由を問わなかった。
俺たちは荷物を引きずり、その短い距離を歩いた。前方に回転ドアの明かりが見える。ロビーの照明がガラス越しに透けていた。暖かく、清潔で、外の世界とは完全に遮断された小さな器コンテナのようだ。
俺が回転ドアに手をかけた、その瞬間――。
黒い指輪が、微かに熱を帯びた。
警告ではない。召喚でもない。ただ、温かいのだ。まるで誰かが小さな陽光を金属の中に封じ込め、それをふと思い出して、ほんの少しだけ解放したかのように。
俺は半秒ほど、動きを止めた。
それからドアを押し、中へと足を踏み入れた。
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