S2第八章 天啓(アポカリプス)――連合艦隊の黄泉還(りよみがえり)
北緯二十四度、小笠原海溝直上。
海上自衛隊観測艦『くろしお』のソナー室には、計器が刻む単調な電子音だけが響いていた。だが、その背後にはソナー員たちのこめかみを激痛で締め上げる「呼吸音」が潜んでいた。それは湿り気を帯び、金属の錆びた臭いを孕んだ喘ぎ声。数千メートルの海水を透過し、大脳皮質に直接根を張るような悍ましい響き。
「報告……単一目標を検知。排水量……七万トン級」
ソナー手が震える手でヘッドセットを外した。耳孔からは微かな血が滲み、その瞳は魂を吸い取られたかのように空ろだ。「信号が著しく混乱しています。まるで……数万人が水底で同時に絶叫しているような。これは、一体何なんだ……? 船じゃない……これは、動く墓場だ……」
これほど曖昧な報告を、艦長が看過するはずもなかった。叱責の言葉を投げかけようとした瞬間、レーダー画面が断末魔の生物のような鋭い電子音を上げた。それは『くろしお』と連動する他の観測艦から送られてきた戦術データだった。
画面が明滅し、次いで『シブヤン(潮一)』の信号が踊り出た。
座標は……フィリピン、シブヤン海。
「馬鹿な……」艦長は座標を凝視し、その声には氷水を浴びせられたような寒気が混じっていた。「あそこは、ヤツが沈んだ場所だぞ……」
続いて三つ目、四つ目。レーダー上の赤点は、狂ったように分裂する癌細胞のごとく、暗黒の盤面を埋め尽くしていく。台湾海峡、ビキニ環礁、ソロモン諸島サボ島北西、エンガニョ岬北東、パラオ北西……。そして最後に、ミッドウェー島北西海域にて、四つの巨大な信号が同時に点灯した。まるで死人の眼球が、観測モニターを凝視しているかのように。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍。
「直ちに基地へ報告せよ!」艦長が混乱に陥った艦橋で怒号を上げた。
「な、何と報告すれば……?」通信兵の指がキーボードの上で震え、瞳孔は極限まで収縮している。
「当該海域にて不明艦と接触と伝えろ!」艦長は声を荒らげたが、内心では理解していた。あれらは「船」などではない。
その時、一筋の通信が『くろしお』の周波数を強制的にジャックした。前衛観測船『ゆうばり』が遺した最後の遺言。それはもはや人間の言葉ではなく、喉に逆流する海水と、巨力によって引き絞られる金属の軋み、そして地獄の底から響くような、毛骨悚然とする引きつけ笑いが混じっていた。
『見えた……主砲塔から血が流れている……』
『あれは水兵じゃない……黒い泥だ……』
『見るな!奴らの目を見るな!……ひひっ……』
『天皇陛下……万歳……』
通信の向こうで鈍い衝撃音が響き、続いて鋼鉄が巨大な節足動物に引き裂かれるような、耳を刺す音が響いた。深海の怪物が、缶詰の蓋を無理やり剥ぎ取っているかのような音だ。
「全艦……戦闘配備……」艦長の震える声は、もはや誰の耳にも届かないほど微かだった。彼はモニター上で重なり合い、もはや漆黒の塗り潰しと化した赤点を見つめていた。
あれは船ではない。地獄が裏返ったのだ。太平洋戦争の亡霊たちが、七十年の怨毒を抱え、深淵から現世へと這い上がってきたのだ。
神奈川県、横須賀市、船越地区。
内閣官房 国家安全保障局 特殊事態対処室(NSS SAD)臨時作戦本部。
エレベーターが降下する際の強烈なGは、胃を不快にかき回した。自衛艦隊司令部の地下数十メートルに位置するこの場所は、数十億ポンドを投じて建造された、日本周辺海域のすべてを統括すると豪語する「海上作戦センター(海上作戦センター)」だ。
戦情大ホールでは、数百枚の液晶モニターが凍てつくような青い光を放っているが、その空気には拭い去れぬ、潮の混じった重油と鉄錆の臭いが充満していた。
「観測庁(ACD)より入電、霊能指数が臨界を突破……」
若い女性官僚は目の前の電子海図を見つめ、タッチペンを握る手は激しく震えていた。海図の上、本来は何も存在しないはずの公海域が、水に落ちた墨汁のように、瞬く間に息の詰まるような漆黒へと塗り潰されていく。
ピ、ッ。
モニター中央に、巨大な赤点が浮かび上がった。
【YAMATO――大和】
次いで、古びた歯車が強引に回されるように、地図上のあちこちから赤点が対をなし、群れをなして湧き出した。
「【MUSASHI――武蔵】出現。座標、シブヤン海」
「【NAGATO――長門】……【MUTSU――陸奥】……信号が重複しています!」
「報告! ありえません! ミッドウェー海域にて一航戦、二航戦の信号、計四つが同時に点灯!」通信官の声は泣き出しそうだった。「【AKAGI――赤城】、【KAGA――加賀】、【SORYU――蒼龍】、【HIRYU――飛龍】……ヤツら、編隊を組み、東京湾へ向かって航行中!」
戦情センターは死の静寂に包まれた。響くのは、精密機器の無機質な稼働音だけだ。無数の赤点が西太平洋を覆い尽くし、遠目には海に毒々しい血色の眼球が無数に生えたかのように見えた。
「これは、まるで葬式の準備だな」
指揮官は窓の外を――たとえ地下にいようとも、横須賀港の地盤そのものが震えているのを感じていた。それは地震ではない。太平洋戦争の亡霊たちが、重厚な鋼鉄の足音を鳴らし、生死の境界を越えて帰還しようとしているのだ。
「特対室(SAD)の増援はまだか?」
「報告……台湾から派遣された『あの男』が、羽田の税関を通過しました。神楽機関の者が、接点へ向かっています」
「急がせろ」指揮官は、日本列島を飲み込もうとする赤点の群れを見つめ、絶望を隠せぬ語気で言った。「ここにいる全員が狂ってしまう前に……急がせろ」
東京、永田町。
首相官邸地下、内閣危機管理センター。
ここは核攻撃すら耐えうる、日本で最も安全な場所のはずだった。だが今、その空気には深海溝の底から湧き上がるような、湿った腐敗の臭いが混じり始めていた。
「官房長官、横須賀MOCより送られてきたリアルタイム海図です」
秘書官が震える手でタブレットを差し出した。モニター上の日本列島周辺は、無数の赤点によって侵食され、もはや青い海面は見えない。内閣官房長官はそのリストを凝視した。大和、武蔵、長門、赤城……その横顔は死人よりも青ざめている。
「自衛隊はどうした? 海上保安庁は!」彼の声は掠れ、現実を拒絶する怒りが滲む。「我々のイージス艦はどこにいるんだ!」
「長官……」
SAD特対室室長が深く頭を下げた。その声は氷のように冷たい。「『くろしお』とは連絡が途絶えました。最後の通信によれば、現代最強の防空ミサイルをもってしても、あの『船』にとっては水面に落ちる雨粒に等しいとのこと。実体がないのか、あるいは――彼らの実体そのものが、数万の戦没者の怨念によって構成された鋼鉄なのです」
その時、会議室の朱塗りの大門が押し開かれた。
白衣緋袴に黒のタクティカルコートを羽織った女が歩み寄る。長刀を背負い、その周囲にはハイテクセンターとは極めて不調和な、粛々とした殺気が漂っていた。SAD神楽機関の筆頭――九条院 桜だ。
「長官、モニターを眺めるのはもうお止めなさい」
九条院の声は清廉で、古き家系特有の傲慢さを孕んでいた。「これは『武力攻撃事態』などではありません。神罰です。ウェイスマンが黄泉の門をこじ開け、終わらなかった戦争を現世へ連れ戻したのです」
「……ならば、神楽に対策はあるのか?」長官は藁にも縋る思いで問いかける。「天皇陛下へ奏上し……」
「必要ありません」
九条院は冷淡に遮り、暗雲に覆われた東京湾を見つめた。「台湾からの『あの男』が羽田に到着しました。彼はベルタスBerithの指輪を持っている。あの亡霊たちの宴のルールを、強引に書き換えることのできる唯一の鍵です」
彼女は背を向けた。黒いコートの裾が空中に冷酷な弧を描く。
「私がこれより迎えに行きます。大和が領海線へ侵入する前に、最悪の覚悟をしておいてください。もし私たちが失敗すれば、この都市は一九四五年の姿に戻ることになるでしょう」
彼女は一秒だけ、足を止めた。
「そして今度は――降伏という選択肢すら、存在しません」
東京湾沖、深海四千メートル。
リヴァイアサン・バイオテクノロジー(LBT)深海研究プラットフォーム――『リヴァイアサンの喉』。
一部のデータ転送に異常あり。情報遮蔽セクタを確認。
ウェイスマンは強化ガラスの前に立ち、地脈の純質によって深紫色に染まった海域を見つめていた。彼の義眼は休むことなく回転し、前方にある巨大な『聚魂棺ソウル・コフィン』をスキャンし続けている。圧力チャンバー内で狂ったように攪拌される数万の幽霊の欠片が、無数の毒蛇が舌を鳴らすような「嘶き」を上げていた。
「なんと美しい律動だ」
ウェイスマンは優雅に赤ワインのグラスを掲げた。緑色のモニターに照らされたその乾いた顔は、墓から這い出したばかりの食屍鬼グールそのものだった。
彼の背後の陰影から、溶け出したような黒い泥が床に這い出し、凝集していく。それはゆっくりと形を成し、旧日本海軍の将官服を纏った一人の男へと変貌した。男の顔の半分は爆発によって削げ落ち、その奥には焦げた骨と流動する霊魂物質が露わになっている。
彼は ████ ――あの ████ にて ████ と共に深淵へ沈んだ男。
「ウェイスマン卿……」 ████ の声は、数千メートルの海水を隔てた向こう側から響くように、湿った冷気と金属の錆びた臭いを孕んでいた。「我々は……まだ戦っているのか? ████ の火は、潰えたのか?」
ウェイスマンは振り返り、完璧で、かつ虚偽に満ちたゲルマン式の微笑を浮かべた。彼は歩み寄り、氷のように冷たい黒い軍服の肩に手を置く。その語気は、悪魔的な扇動に満ちていた。
「 ████ 提督、火は決して消えてなどいない」
彼の声は低く、そして力強い。
「ベルリンは陥落などしていない。我らゲルマンの戦友は、常に帝国海軍との再会を待っていたのだ。今、海面ではアメリカ人の鋼鉄どもが狂ったように吠え猛っている。時間をかければ、諸君の栄光を覆い隠せると増長しているのだよ」
████ の唯一残った独眼に、瞬時に『玉砕ぎょくさい』という名の狂った火花が宿った。七十年間封じ込められていた執念が、ウェイスマンの嘘という名の出口を見出したのだ。
「盟友よ……」
彼は黒泥で形成された右手をゆっくりと掲げ、虚空を切り裂くように一閃した。
『リヴァイアサンの喉』が激しく震動する。聚魂棺内の霊圧が瞬時に爆発し、無数の黒い魂の蛇たちが地脈のパイプを伝い、海底に眠る鋼鉄の残骸へと突き進んだ。
「【HIRYU――飛龍】、帰還。大和YAMATO、ソウルリンク開始」
ウェイスマンはモニターに躍るデータを見つめ、興奮に身体を震わせた。
海面下では、巨大な主砲塔が耳を刺す摩擦音を立てて旋回を始める。七十年間沈黙していた鋼鉄が、ウェイス曼の嘘と地脈のエネルギーによって再構築されていく。これは復活ではない。地獄がウェイスマンの手によって『実体』へと変貌を遂げたのだ。
「行け、 ████ 」ウェイスマンは深海に向かって乾杯を捧げた。「諸君の海域を取り戻すがいい。この東京湾を、永遠に終わらぬ葬列に変えるのだ」
台湾海峡、北緯二十五・五度。
海面上、張り詰めていた対峙は吐き気を催すような静寂に呑み込まれた。海巡署の巡視船と中国海警局『14603』号の間に立つ波は、突如として流体としての物理特性を失い、油臭い気泡を噴き上げるアスファルトのような黒い膠質へと変貌した。
無線から人の声は消えた。代わりに響くのは、数千枚の錆びた爪で鉄板を掻きむしるような尖鳴。それは網膜を剥離させるほどの、非人類による囈語だった。
「あれは……何だ……?」海警船の指揮官の喉から、乾いた掠れ声が漏れた。
フジツボと鉄錆、そして深海の粘液に覆われたマストが、死神が地底から突き出した指骨のごとく、猛然と海面を刺し貫いた。次いで、三万トンの呪われた鋼鉄――戦艦『金剛こんごう』が、八十年の深淵の怨気と泥を纏い、悪夢から醒めたリヴァイアサンの如く咆哮を上げながら浮上した。
ドォォォォォン!!
それは衝突ではない。神格化された「処刑」だ。
金剛の、十インチの厚さを誇る旧時代の滲炭鋼装甲は、熱したナイフでバターを斬るように海警船を真っ二つに叩き切った。現代テクノロジーの合金は、この剥き出しの暴力の前ではアルミホイルのように無力で、卑屈だった。爆炎の火光が、甲板で蠢く影を照らし出す。それは旧海軍の制服を纏い、五官を失い、顔面には漆黒の空洞だけを湛えた亡霊水兵たちだった。
海に投げ出された船員たちは、粘つく黒水の中で足掻き、その液体が皮膚の毛穴から体内へ潜り込んでくる恐怖に絶叫した。
『見えた……主砲塔から血が流れている……』
海巡船のソナー手はヘッドセットを死に物狂いで押さえ、白目を剥き、鼻腔から鮮血を流していた。耳に届くのは機械音ではなく、数万の狂った意識が編み上げた集団の低語。金剛の四基の三五六ミリ連装砲がゆっくりと旋回を始める。砲口からは紫黒の粘液が滴り、巨獣の涎のようだった。ヤツは足元の羽虫など目にもくれず、神性を帯びた獲物の気配を嗅ぎ取ったかのように、北方――災厄の帰宿である、東京湾へと照準を合わせた。
ソロモン諸島、サボ島。
豪州作業船のソナーに、物理法則を無視した四十ノットの高速で蛇行接近する目標が映し出された。その信号は次元の境界で水切りをするように歪み、跳ねている。
『夕立……見参……』
通信チャンネルに、性別すら定かではない幼い笑い声が響き渡った。そこには人間性は欠片もなく、生者への純粋な悪意だけが満ちている。直後、布地が乱暴に引き裂かれるような轟音とともに、駆逐艦『夕立ゆうだち』が波を割り、その姿を現した。全艦が燐光を放つ緑の炎に包まれ、さながら海面を焼く鬼火の如し。
最も悍ましいのはそのマストだ。そこには、干からびた人皮を縫い合わせ、縁から鮮血を滲ませた純白の帆布が掲げられていた。
ヤツは自殺的な勢いで突っ込み、作業船の甲板を強引に横切った。一二七ミリ主砲が至近距離で咆哮する。放たれたのは鋼鉄の弾丸ではなく、腐食性の悪臭を放ち、黒い歯型が刻まれた「呪詛の塊」だった。作業船は救難信号を送る暇もなく、圧倒的な霊圧によって構造そのものがバラバラに解体された。
海面には焦げた救生衣が漂い、狂気に満ちた笑い声だけが、いつまでも海風の中に木霊していた。
フィリピン、シブヤン海。
海面には酸に似た刺激臭を放つ黄色の濃霧が停滞していた。フィリピン海軍の巡邏艇が、その山脈のような「浮島」に息を殺して接近する。強力な探照灯が霧を切り裂いた瞬間、全船員の胃がひっくり返り、絶望的な嘔吐の音が響いた。
それは島などではなかった。かつて二十本の魚雷と十七発の爆弾を喰らい、深海三千フィートに永眠したはずの怪物――戦艦『武蔵むさし』そのものだったのだ。
それは、冥界から無理やり引きずり戻された、悪意に満ちた鋼鉄の腐死体ゾンビだった。
断裂した艦首は鋼鉄の溶接ではなく、無数にうごめく暗紫色の、血管のように拍動する巨大な触手によって強引に縫い合わされていた。錆び付いた装甲の隙間からは、腐肉の臭いを孕んだ暗紅色の霧が絶えず噴き出している。それはこの鋼鉄の巨屍が吐き出す「呼吸」そのものだった。数十年沈黙していたはずの対空砲塔は、今や意志を持つ金属の節足動物のごとき、歯の浮くような摩擦音を立てて甲板を這い回り、神経質に獲物を、生者を、狩り続けている。
巡邏艇の指揮官は驚愕し、己の手を凝視した。皮膚は瞬く間に乾いた褐色の斑点で覆われ、皮下組織は萎縮し、炭化していく。まるで、彼の毛穴の中で「時間」が百年の速度で早回しされているかのようだった。
戦艦『武蔵むさし』は、もはや発砲する必要すらなかった。ただそこに「存在」するだけで、その『衰敗霊圧』が半径十海里内のあらゆる生物学的構造を徹底的に崩壊させる。海水は腐り、空気は老い、すべての活物は、この鋼鉄の墳墓の眼差しの下で、異臭を放つ黒水へと化していった。
ミッドウェー島北西海域、高度三万フィート。
米軍のP-8A哨戒機は、レーダーの消失点ギリギリを旋回していた。インパネの針は狂ったように跳ね、死にゆく電子機器のような哀鳴を上げている。眼下の蒼い太平洋はとうに消え失せ、代わりに地平線を遮っていたのは、タールのような質感を湛えた重苦しい黒雲だった。
「機長……雲の中に何かいます……上昇してくる……!」
副操縦士の声は、極度の恐怖によって裏返っていた。
それは編隊を組み、翼に干からびた海草を纏った九七式艦攻と零式艦上戦闘機の群れだった。エンジンの轟音はない。代わりに響くのは、数億匹の蝿が同時に羽撃くような、大脳皮質を麻痺させる羽音だった。
その亡霊機隊の源流は、眼下の雲海から覗く巨大な黒い傷口――航空母艦『赤城あかぎ』。
赤城の木製飛行甲板からは血が滲み出していた。焦げた甲板の木目一枚一枚の奥に、苦痛に歪み、絶叫する無数の人間の顔が蠢いている。まるでこの船そのものが、数千万の生霊の苦難によって鋳造されたかのようだった。
「黒い鴉」の群れがP-8Aに衝突した瞬間、パイロットが風防越しに見たのは兵器ではなかった。それは焼かれ、虚ろな空洞となった亡霊パイロットたちの眼窩だった。彼らの顔はコックピットのガラスに張り付き、「七生報国」という名の、耳元まで裂けた歪な微笑を浮かべていた。
電子機器は瞬時に焼き切れた。P-8Aの堅牢な機体は、幽霊戦機たちの体当たりを受け、紙細工のように引き裂かれ、分断された。機体は空を舞う火球と化し、一切の光を拒絶する漆黒の深淵へと堕ちていった。
アメリカ、ネバダ州、地下指揮本部。
国土安全保障省 次元間脅威管理局(ITCB)。
P-8Aが墜落してから十分も経たぬうちに、世界各地の変異報告は洪水のごとく本部へと流れ込んだ。巨大な冷光モニター群は人類文明の「死の宣告」を映し出し、防護服に身を包んだ技術員たちは、油塗れのキーボードを叩いて、その「計測不能」な恐怖を数値化しようと足掻いていた。
「局長、熵值エントロピーが臨界点を超えました」
一人の観測員が振り返った。その瞳はモニターの霊圧波動を直視し続けたせいで、微かな血を滲ませている。「太平洋はもはや地理的な海ではありません。あれは……巨大な意志を持つ、『消化システム』へと変貌しつつあります」
【ITCB 世界変異評価報告 機密等級:オメガ】
真珠湾 ―― 鋼鉄の逆流
ITCBのドローンが捉えたのは、毛骨悚然とする光景だった。海底に八十年眠っていた『アリゾナ』の朽ちた船体が、見えない巨手に捻じ曲げられ、再構築されている。漏れ出した重油はもはや黒ではなく、腐敗した内臓のような暗紫色に変色し、海底から逆流している。白骨化していた乗組員たちは、その紫の粘液に包まれて吸盤の生えた半透明の肉肢を再生させ、膿の詰まった弾薬を機械的に搬送していた。
「これは復活ではない、」局長はモニターを見つめ、声を掠れさせた。「維度寄生ディメンション・パラサイトだ」
大西洋 ―― バミューダの「眼球」
大西洋中央部、海面が直径五十海里を超える巨大な渦となって陥没した。それは潮流ではなく、充血した肉質の深淵がゆっくりと回転しているのだ。その上を航行する貨物船は、レーダー上で一瞬にしてノイズと化した。衛星が最後に受信した音声は、数万の船員が同時に唱える、リズムの揃った古の賛美歌。直後、生魚を引き裂くような巨響が轟き、万トン級の巨船は薪のように折れ、底知れぬ喉の奥へと吸い込まれた。
北海 ―― 沈没した幽霊レーダー
欧州海域では、解体されたはずの第二次大戦時の潜水艦たちが群れをなして浮上。その司令塔には深海魚のような巨大な発光誘餌が生え、濃霧の中で民間の航空機を海へと誘い込んでいた。傍受された通信によれば、潜水艦内部の空気はすでに、人を狂わせる高濃度の催眠ガスに置換されているという。
本部内では、暗紅色の警告灯が死にゆく心臓の鼓動のように狂ったリズムで点滅していた。空気には電子回路が焼き切れる焦げ臭さと、不可名状の存在を前にした時の凍てつくような恐怖が充満していた。
「日本側の状況はどうなっている?」
局長は、爪がコンソールのレザーに食い込むほど強く握りしめて問いかけた。大モニター上では、桃園と横須賀を結ぶ航路が、すでに「亡霊の海」と化した太平洋の上に、一本の千切れそうな蜘蛛の糸のように孤立していた。
「局長……日本側参謀本部の緊急回答によれば、彼らはある『高人』に協力を仰いだとのことです。ウェイスマンによる次元汚染に対抗しうる、唯一の非対称戦力だと」
「その男はどこだ?」
局長は血走った目で振り返った。数日間眠らず、カフェインとアドレナリンで無理やり意識を繋ぎ止めた狂者の眼差しだった。
「奴はどこにいる? 監視網に捉えているのか?」
オペレーターの指が、キーボードの上で凍りついた。衛星が捉えた隠しカメラの映像を見つめる彼の声には、底知れぬ困惑と、理性が崩壊したゆえの虚無が入り混じっていた。
「局長……ターゲット、周士達ジョウ・シーダーを捕捉……ヤツは今、全日空(ANA)旅客機のビジネスクラスにいます」
オペレーターは唾を飲み込み、声を震わせた。「ヤツは今、A5ランクの黒毛和牛を注文しました。客室内の隠しカメラの映像によれば……優雅に肉を頬張りながら、二十一年物のマッカランを堪能しています」
「FUCK!」
局長は怒りに任せて指揮テーブルを殴りつけた。金属が凹む鈍い音が、静まり返った司令部に虚しく響き渡る。
「世界は八十年前の鋼鉄のゾンビどもに食い尽くされようとしてるんだぞ! 太平洋はウェイスマンの培養皿と化した! なのに、この混帳ろくでなしは高度三万フィートで美食を楽しんでいるというのか!?」
局長はモニターに映る、淡々とナプキンで口元を拭う男を睨みつけた。ITCBの霊圧モニター上では、周さんの周囲の数値は極めて不安定な、まるで黒洞ブラックホールのような特異点を示していた――それは人間が発する周波数ではない。狂気そのものが「捕食」している際の波形だ。
「ヤツは世界を救いに行くわけじゃない、」
局長はモニターを見つめ、歯の隙間から冷酷な呪いを吐き出した。
「ただ地獄の門が開くのを、一番特等席で眺めようとしているだけだ」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




