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36.ルーマニアの狼 36--1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

ルーマニア政府が俺たちをホテルまで運んだやり方は、証人護送と大差なかった。


車列は港湾エリアからコンスタンツァ市街までそのまま突っ走る。前後にパトカーが一台ずつ、そのあいだをナンバープレートを外した黒いSUVが二台、ぴったり挟んでいる。窓の外は、ひたすら光だらけだった。港のサーチライト、報道各社の補助ライト、パトカーのルーフで点滅する青い光――それから、もっと遠く。黒海の上に、そもそもここにいるはずのない一隻の船。


飛竜(ひりゅう)は、まだ沖に停泊していた。


夜の海面は油みたいに真っ黒なのに、あいつだけは一目で分かる。別に明るいわけじゃない。ただ、あまりにも「歴史の教科書から無理やり引っぺがしてきて、死体の残り汁に浸した鉄板」みたいな代物が、陰々と浮かんでいるからだ。旭日旗はまだ掲げられたまま。山口多聞(やまぐち・たもん)のあの老いぼれ亡霊は、あいかわらず降ろす気がない。サーチライトが船体をなめるように横切ると、甲板の縁には腐りかけた水兵が何人か歩いているのが見えた。白い手袋、古い制服、黒ずんだ皮膚。動きは、まるで葬儀場で黙ってテーブルを運んでいる葬儀社スタッフみたいに静かだ。


世界中のカメラマンが、狂ったようにシャッターを切っていた。


いくつかの画は、わざわざ港に近づかなくても撮れるはずだ。ホテルの高層階から外を見下ろすだけで、海岸沿いにニュース車が夜市の屋台みたいにずらりと並んでいるのが分かる。中継車のパラボラアンテナが何本も伸び、ドローンが中空をぐるぐる旋回し、赤いランプを点滅させながら飛び回る。まるで海辺に、飛ぶ蚊の群れがわいたみたいだ。世界中が、あの幽霊船が何かヘマをするのを待っている。旭日旗、死人の水兵、旧日本海軍の提督、そしてヨーロッパの港――その四つが一枚の画面に収まってくれさえすれば、明日の一面は文字でぎっしり埋め放題、というわけだ。


俺は窓にもたれたまま、その光景をずっと眺めていたが、出てくるのは頭痛だけだった。


別に怖いわけじゃない。


ただ、疲れた。


ここ数日、海の上から陸に上がるまで、ずっと騒ぎっぱなしで、もう自分が人を助けに来たんじゃなくて、「世界中のゴミの後始末係」として派遣されてきたんじゃないか……そんな錯覚すら出てきていた。生きてるやつのゴミ。死んでるやつのゴミ。それから、本来ならとっくに地面の下で眠っているべきものを、わざわざ掘り起こして、研究材料だの、商品だの、取引品だの、オークション目玉商品だのにしている連中のゴミ。


ルーマニア側が俺たちに用意したのは、海沿いの大きなホテルだった。新しくはないが、十分に広く、十分に清潔で、いちばん大事な条件――「封鎖しやすい」――は満たしている。


ロビーは客が半分ほど追い出されていて、ソファは両脇に寄せられ、入口にはスーツ姿の国家保安要員が立ち、エレベーターの前には警官、フロントの奥にいる二人のホテルマネージャーは、無理やり葬式に参加させられたみたいな笑顔を貼り付けていた。天井から下がるシャンデリアはやたら明るくて、そのせいで、なにもかもが現実感を失っている。船から一緒に降ろされた難民の何人かは、地下の臨時医療フロアに回され、俺たちのような、事情がややこしくて、説明しづらくて、そしてニュース映えしそうな連中は、高層階へと送り込まれた。


「ジョウ(周)さん。」


港からずっと付き添ってきたルーマニアの官僚が、エレベーターの中で俺に言った。口調だけ聞けば、これからディナーにでも招待しそうな丁寧さだ。


「安全上の理由から、本日はお部屋の中でお休みいただきたいのです。なにかご入用のものがあれば、フロアのスタッフにお申し付けください。」


俺はそいつを一瞥した。


「タバコ吸いたいってときも、いちいち申請が要るのか?」


男は一拍置き、今の一言を「冗談」として処理すべきか、「脅し」として扱うべきかを計算しているみたいだった。


最終的に、こう返してきた。


「管理区域から出られなければ、問題ありません。」


「ずいぶん太っ腹な"管理区域"だな。」


笑って返す余裕はなさそうで、聞こえなかったことにするしかない、という顔をした。


エレベーターのドアが開くと、廊下にも人がずらりと並んでいた。制服組もいれば、スーツ組もいて、中にはホテルのスタッフのふりをしている連中もいるが、立ち方が「いつでも銃が抜けます」と言っている。こういう光景には、もう見慣れた。ひとたび超常だの怪異だの、そういう鳥のようなクソ話が起こると、生きてる人間は本能的に、椅子を並べ、テープを張り、イヤホンをつけ、手順書を唱え始める。――あたかも、事態がまだ自分たちの理解の範囲内にあるかのように。


部屋に入る前に、俺はもう一度、窓の外に目をやった。


遠くの海上には、まだ飛竜がいる。


山口多聞も、あそこにいるはずだ。


あいつはトルコ側の護送要請を飲み、多国籍の連絡将校を受け入れ、ルーマニアによる生存者の受け入れにも頷いた。だが、たった一つだけ、最初から最後まで頑として譲らなかった条件がある。


死人は、上陸させない。


東京湾のときもそうだったし、今も変わらない。


あいつが守っているのは、規則なんかじゃない。もっと古臭くて、もっと頑固な、死者の原則だ。生きている者を岸に届ければ、そこで任務は終わり。死者は、死者のいるべき場所に留め置く。全世界の記者が望遠レンズ越しにあいつの喫煙シーンを撮りまくっていようが、山口多聞は、墓石みたいに古びた艦橋の縁に突っ立って、ゆっくり煙を吐くだけだ。隠れもしないし、説明もしない。


あの立ち姿は、全ての生者に向けてこう言っているみたいだ――

「好きなだけ撮ればいい。俺は、お前たちに見せるためにここに立っているわけじゃない」と。


部屋に入って、俺が真っ先にやったのは、上着を椅子に放り投げることだった。


部屋はやたら広い。オーシャンビューのスイートで、カーテンを開けると港の夜景が一面に広がる。ベッドはモデルルームみたいにきっちり整えられ、デスクの上にはミネラルウォーターが二本と、誰も手を出す気がしないフルーツの盛り合わせが一皿、申し訳程度に置かれている。窓の前に立って三十秒ほど外を眺めると、下のエントランスにもやはり警備が敷かれているのが分かった。黒い車が二台、パトカーが一台、それから風に打たれながら一般人のふりをしている私服が二人。


上等だ。


少なくとも、「ホテルに押し込んでおけば監視完了」とは考えていないらしい。


俺はバスルームに行き、顔を洗った。水は妙に冷たくて、頬に当たる感触は、細かい刃物で皮をこそがれているみたいだ。鏡の中の顔は完全に死人だ。充血した目、伸びかけの無精ひげ、口元にはさっきの黒泥騒ぎで裂けた傷がまだ残っている。右手の指には、あの指輪がいつものように収まっていた。黒い金属の表面がかすかに冷たくて、眠っている毒蛇みたいだ。


俺はそれを二秒ほど見つめてから、ひとこと吐き捨てた。


「クソったれが。」


ここ数日、この指輪は、俺に息をつかせる気がまるでない。


船の上で黒泥を片づけていたときは、骨まで焼き抜かれるんじゃないかってくらい熱くなり、今こうして静かにしているほうが、かえって腹が立つ。リビングのソファに、機嫌の悪い取り立て屋がどっかり座り込んでいるのを分かっていて、そいつが黙っているからといって、このあと請求を取り下げるわけじゃない――その程度の違いだ。


手を拭いてから、テレビをつけた。


案の定、どの局も同じニュースを流していた。


昭和の亡霊空母、ルーマニア沖に到達。

旭日旗、黒海のヨーロッパ港湾に翻る。

旧日本海軍・亡霊艦隊、多国籍難民を護送か。

腐敗水兵の映像、世界同時配信。

謎のアジア系男性、各国情報要員と同行。

映像はディープフェイクか、大規模情報戦か――専門家の大激論。


二分ほど眺めたところで、電源を切った。


このまま見続けていたら、下まで走っていって、あの辺一帯に並んだカメラを海に叩き込まずにいられなくなる。


廊下から足音が近づいてきて、続いてノックの音。


俺は動かずに、「誰だ」とだけ声をかけた。


「ホテルサービスです。」外の声は英語だった。「ホットティーをお持ちしました。」


「ドアの前に置いてけ。」


「ですが、こちらは――」


「ドアの前に置いてけって言ってる。」


数秒、外が静まり返る。そのあとで、何かが床に置かれる小さな音がして、足音は遠ざかっていった。俺はドアのほうへ歩いていき、いきなり開けずに、まずドアスコープから覗いた。さっきのウェイターはもう廊下の向こうに消え、突き当たりには、あの二人の私服がまだ直立している。考えるより先に動きそうな、出来の悪いハンガーが二本、という感じだ。


ドアを開けてティーポット一式を部屋に引き入れ、ついでにもう一度、廊下を横目で確認する。


異常なし。


だが、胸のあたりにまとわりついている、あのざわざわした感覚は消えなかった。


危険の匂い、というのとは違う。


「見られている」。


そういう感覚だ。


しかも、ルーマニアの公務員的な監視とは質が違う。もっと古くて、もっと直接的で、「獲物が獲物を値踏みする」ような視線。


ティーポットをテーブルに置き、結局、飲まずじまいで、俺はタバコとライターをつかんで部屋を出た。


さっきの説明どおり、「管理区域から出なきゃいい」って話なら、タバコくらいで咎められる筋合いはない。


廊下はやけに静かで、足元のカーペットはやたら厚い。踏んでも、ほとんど音が出ない。フロアの端には非常口があって、その脇にはこぢんまりしたバルコニーがついていた。おそらく、宿泊客の喫煙や気分転換用に作られたスペースだろう。二人の私服は、俺がそちらへ向かうのを目で追い、そのうちの一人が手を動かしかけたが、結局なにも言わなかった。


ドアを押し開けると、外の風が一気に吹き込んできた。


海風には塩の匂いがあり、港特有のディーゼルの排気と鉄錆の匂いも混じっている。遠くからヘリのローター音も聞こえる。街全体が眠れていない――というより、一隻の幽霊船に付き合わされて徹夜している、というほうが近い。


俺はバルコニーの手すりに寄りかかり、火をつける。一口目の煙をまだ吐ききらないうちに、背後でもドアが開く音がした。


あの二人の私服がついてきたんだろうと決めつけて、「タバコ一本吸うだけなのに、付き添いが要るのかよ」と、振り向きもせずに言った。


返事はない。


不審に思って振り向く。


ドアのところに立っていたのは、私服刑事じゃなかった。


老人だった。


六十代半ば、といったところか。短く刈った灰色の髪。がっしりした肩幅。立っている姿勢は、今でも軍隊に所属していると言われたほうがまだ納得できる硬さだ。濃い色のジャケットに、着古されたセーター。太い首。普通の同年代の男より一回り太い前腕。手の甲には、無数の古傷。ああいうのは、ジムでマシンをいじくり回していてもつかない。荷物を担ぎ、人を殴り、殴られ、銃やナイフを握り、山の中や地下室で長いこと生きてきた人間の手だ。


顔も、決して「愛想がいい」とは言えない。醜い、というのとは少し違う。


ただ、硬い。


杭みたいに、容赦なく硬い。


老人はまず俺を一瞥し、それから海上の飛竜に視線を移した。二秒ほど沈黙してから、口を開く。


「お前が周士達(ジョウ・シーダー)だな。」


疑問形ではなかった。


英語には濃い東欧訛りが乗っているが、ひとつひとつの音は揺るぎなく、はっきりしている。


俺は煙を吸い込みながら、返事をせずに訊き返した。


「あんた、記者じゃねえな。」


「俺が記者に見えるか?」


「見えねえな。」俺は言った。「記者はだいたい、"人をコンクリ詰めにして海に沈めそうな雰囲気"なんかしてない。」


老人の口元が、わずかに動いた。笑ったのか、顔面の筋肉が痙攣したのか、判別しづらい程度に。


「それなら結構だ。少なくとも、お前の目は節穴じゃない。」


俺はそいつを上から下まで眺める。


「ルーマニア政府の人間か?」


「違う。」


「軍か?」


「それも違う。」


「じゃあ、わざわざケンカ売りに来たってわけだ。」


「俺が揉め事を起こす気なら、」老人は言った。「一人で来たりはしない。」


それはまあ、道理だ。


俺は煙を吐き出しながら、老人を見据える。


「で、あんたは何者だ?」


老人は、すぐには答えなかった。手すりのそばまで歩いてきて、俺と半歩ぶん距離を空けて立ち、同じように海上の飛竜を見やる。夜の闇の中で、あの船は、海底から浮かび上がった傷痕のようだ。サーチライトがちょうど艦橋をかすめ、そこに山口多聞が立ってタバコを吸っているのが、かすかに見えた。あの、腹の立つほど微動だにしない姿勢で。


老人はしばらくそれを眺めてから、ようやく口を開いた。


「あの船は、陸に近づきすぎるべきじゃない。」


俺は片眉を上げた。


「その台詞、今日だけで十数カ国の人間に言われたぞ。」


「連中が恐れているのは政治だ。」老人は言った。「俺が恐れているのは、別のものだ。」


俺は口を挟まなかった。


老人がこちらを向く。眼光は真っ直ぐで、迷いがない。


「お前の船の死人が上陸しないのは、正しい判断だ。」


今度こそ、俺はちゃんと正面からそいつを見た。


「そこまで知ってるのか。」


「港全体が見ている。」老人は言った。「双眼鏡で見ている者もいれば、衛星で見ている者もいる。スコープ越しに見ている者もいる。カメラを回しているのが記者だけだと思っているのか?」


その一言で、胸の中でくすぶっていた苛立ちが、また少し上に押し上げられた。


「もったいぶってねえで、さっさと吐け。」


老人は頷いた。こういう物の言い方には、特に驚いていない様子だ。


「ワイスマンは、ルーマニアに友人がいる。」老人は言った。


風が、俺たちの間を吹き抜けた。


俺は動かなかった。ただ、タバコの灰を弾いた。


「驚きはしない。」


「普通の友人じゃない。」老人は続けた。「金を運んでやる人間でも、薬を融通してやる人間でも、偽造パスポートを手配してやる人間でもない。あいつの思想を信じている人間だ。不老不死を信じ、浄化を信じ、人間はより高度な存在に改造できると信じ、死者はより優れた兵器になれると信じている連中だ。」


俺はそいつを見据えた。


「続けろ。」


老人はジャケットの内ポケットに手を伸ばした。俺の体が、反射的に緊張する。老人の動きはゆっくりで、銃を抜くつもりはないと、こちらに分からせるような速度だ。取り出したのは、折り目がすっかり擦り切れた一枚の写真だった。


老人が差し出す。


俺は受け取り、バルコニーの薄暗い照明の下で目を落とした。


写っているのは死体だ。あるいは、かつて死体だったもの、と言うべきか。


胸腔が切り開かれ、また縫い合わされている。縫い目は荒く、獣医が雑にやったような手仕事だ。皮膚は蒼白く灰色がかり、口は大きく開かれたまま、犬歯が異様に長い。眼窩は空洞ではなく、黒い何かが詰め込まれていた。乾燥してひび割れた、べったりとした何かが。最も不快なのは、首の後ろだ。金属とも骨ともつかない小さな異物が埋め込まれていて、その周囲の皮膚と肉は壊死しているのに、その異物だけが、まだ内側へ向かって食い込んでいくようだった。


数秒眺めてから、写真を裏返す。


鉛筆で日付が書かれていた。二週間前。それから地名が一つ。俺には読めない。


「これは何だ。」


「失敗作だ。」老人は言った。


「どういう失敗だ。」


「吸血鬼と死霊の融合。」老人は淡々と答えた。「少なくとも、そうしようとした者がいた。」


俺は思わず笑った。


おかしくて笑ったわけじゃない。


あまりにもひどく、あまりにも馬鹿げていて、それでいてあまりにも「本当にありそうな」話を聞いたときに出る、怒りが笑いに転化したやつだ。


「なるほどな。」俺は言った。「俺がやっと昭和の亡霊艦隊をヨーロッパまで引っ張り込んだと思ったら、今度はここで吸血鬼とゾンビのミックス定食を研究してる連中がいるって話か。」


「笑えばいい。」老人は言った。「だが、こっちは三ヶ月間、死体を回収し続けている。」


俺は写真を返した。


「お前たちは何者だ。」


老人は、今度は答えた。


「グレゴール。」


握手の手は出さない。名前だけ。


俺も握手する気はない。


「それで、グレゴールさん、」俺は言った。「夜中に俺が煙草を吸いに来る場所に忍び込んできたのは、その腐れ写真一枚で俺を怖がらせるためか?」


「忠告しに来た。」老人は言った。


「何を。」


老人は海上の飛竜に目を向けた。


「あの船の死体どもは、宝だということだ。」一拍置いて、声がさらに冷えた。「ある種の人間にとっては、な。」


俺は黙っていた。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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