35. 混沌の中の秩序 35-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ルーマニアの埠頭の風は、本当にきつかった。
黒海の風とも、ボスポラス海峡のあの政治的な唾液臭のする風とも違う。トルコ側の風は制服を着た警官みたいなものだ——口では「下がれ」と叫び、手には拡声器を持っている。うるさいが、まだ一応の秩序がある。ルーマニアのこっちの風は、夜勤明けの港湾労働者に近い。丸一日コンテナを担ぎ続けて、機嫌も最悪、脾気も最悪、目に入る奴を全員海に吹き飛ばしてやりたいと思っているような風。
俺は舷梯の下に立ち、顔を上げて飛竜を振り返った。
彼女は入港しなかった。
指定された外洋泊地に、ただそこにいる。昭和の時代から無理やり引き剥がされて、現代のヨーロッパの海域にそのまま叩きつけられた、錆びた鉄板みたいに。夜はまだ完全には落ちていない。海面は灰色と青の中間で、飛竜の艦体全体がその色の中に浮かんでいる。完全には浮上しきっていない、巨大な死体みたいに。
旭日旗は、まだ掲げられていた。
降ろしていない。
仕舞ってもいない。
甲板の腐乱した水兵たちは、今も歩いている。足取りは相変わらず整然としていて、箱を運び、担架を担ぎ、簡易台車を押しながら、極光号から引き揚げられ、飛竜の上でしばらく命をつないだ人たちを、一人また一人と舷梯口へ送り届けている。顔の半分が消えている水兵もいれば、手の甲が十数年塩水に漬けたみたいに爛れている者もいる。歩くたびに制服の裾から、皮膚の欠片なのか古い繊維なのかわからない何かが落ちる者もいる。それでも奴らの動きは、埠頭の生きた人間の八割よりよっぽど手際がいい。
こんな光景は、普通なら狂人の筆の中にしか存在しない。
残念ながら、今の俺たちがいる状況は、とっくに「普通」じゃない。
山口多聞は飛竜の右舷上層観測台に立っていた。舷梯から遠くもなく近くもない、ちょうど「見える位置にはいるが、自ら見送りに来たわけでもない」という絶妙な場所だ。相変わらず旧海軍の常服で、帽庇を目深に下ろし、手には煙草まで挟んでいる。
この老亡霊は、ボスポラスから黒海まで、ルーマニアに来ても同じ一つの原則を貫いている。
死人は下船しない。
だが隠れもしない。
この言葉は、東京湾の時にも聞いた。あの時は「この老鬼は相当おかしい」としか思わなかった。今もう一度聞いて、俺はむしろこういう人間こそ提督に向いていると思う。本当に厄介な人間というのは、無秩序に突っ込んでくる狂人じゃない。ルールを明確に口にして、それでいて誰にも手が出せない、こういう死人のことだ。
ルーマニア側の担当者が、恐る恐る聞いてきた。艦上の指揮官は、正式な調整のために下船する意思があるか、と。
俺が山口の代わりに答えた。
「ない」
相手が一瞬固まった。
「では……岸側で何か——」
「無理だ」俺は言う。「彼は下船しない」
「なぜですか?」
俺は甲板の上で煙草を吸っている老亡霊を振り返り、少し考えてから、なるべく文明的な言い方を選んだ。
「筋を通す主義なんでね」
その一言を口にした途端、隣に立っていた葉綺安が、ちらりと俺を見た。
その目が言っていた——あんた、あの老鬼のために人間の言葉を使ったの?
俺は肩をすくめた。
こういうことはある。普段は靴底で引っぱたきたいと思っている相手が、ある瞬間だけ、生きた人間よりよっぽどまともに見える。
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先に下船したのは、俺たちじゃない。難民だ。
この手順だけは、最初から乱してはいけない。
ルーマニア政府もおそらく急遽叩き起こされたのだろう、港全体が見事に三層に分かれていた。最外層は警察、海軍、どの部署のバッジをつけているのかよくわからない私服の人間たち——記者、野次馬、幽霊空母を一目見ようとする全ての人間を堰き止める役割だ。中層は医療と身分振り分けの区画で、仮設テント、トリアージ台、温風機、移動発電機、大型の湯沸かし容器が一列に並んでいる。最内層にようやく各国連絡官、受け入れ名簿、通訳、大使館員、警備要員、そして「手伝っているように見えるが、頭の天辺から足の爪先まで『後で必ず報告書を書く』と書いてある官僚たち」が控えている。
港全体が、無理やり組み立てられた国際災害博覧会みたいだった。
全員が忙しい。
全員が、ミスを恐れている。
なぜなら、ここで受け入れるのは単純な難民船じゃないからだ。
幽霊空母から下りてきた多国籍難民だ。
たった一文字の差で、その後の外交文書の色合いがまるで変わる。
アメリカ人はあの夫婦を真っ先に確保したがっている。
韓国側は自国の夫妻から目を離さず、誰かに先に画面を取られることを警戒していた。
ドイツ人はホフマン教授の身を案じながら、同時に教授がどこまで見ていたかを知りたがっていた。
サウジアラビア側から来た人間は、一番落ち着いていた。目立たないことに徹していたが、アドナンが姿を現した瞬間、医療、食事、個室の休養スペースがすでに整っていた。
英仏の二国は船上の人数こそ少なかったが、どの顔も「争っているわけではありません、ただもう少し適切に対応すべきだと思っているだけです」という高級官僚特有の語法を完璧に体現していた。
俺は振り分けラインの横に立ち、飛竜から下りてくる人たちを見張りながら、岸上の秩序線も見張っていた。自分が超大型ツアーの現地添乗員になったような気分だ。
くそ。
数日前まで船の中で鎌を振って黒い泥を削っていたのに、今日は多国籍難民移送の現場総務になっている。
人間、あまり有能になるものじゃない。
有能になると、全ての面倒事が自分の手元に滑り込んでくる。
林雨瞳は傷病者優先で、先に医療トリアージのテントへ送られた。担架に乗せられて俺の横を通り過ぎる時、まだ白目を剥く元気があった。
「言っておくけど、あの腐乱した軍医を一緒に下船させないでよ」
「安心しろ」俺は言う。「死人は下船しない」
雨瞳は眉をひそめた。少し残念そうにさえ見えた。
「惜しいわね。あの老人、ここの生きてる医者より縫い方が上手いのに」
俺は少し顔を傾けて奴を見下ろした。
「それをルーマニアの医療チームに聞かれたら、今夜から自分の学んできたものを疑い始める人が出るぞ」
雨瞳はフンと鼻を鳴らし、押されていった。
希は、もう少し落ち着きがなかった。下船の順番が来ても、飛竜の炊事区画の方向を振り返り、鼻に皺を寄せた。
「やっぱり言うけど、あの船のカレー、変な匂いがした」
俺は頷いた。
「歴史の匂いだ」
「嘘つけ、古い鍋の匂いでしょ」
横で人の流れを見ていた葉綺安が、その一言を聞いて思わず笑った。
「どっちも正解かもしれない」
希はフンと言ったが、それ以上は言い返さなかった。ただ下船前に、高いところに立っている山口を見上げた。何とも言えない目つきだった。嫌いだけど、認めざるを得ない古いものを見る目つき。
山口も奴らに気づいた。手は振らない。ただ、ごく軽く一度だけ頷いた。
正直に言えば、その光景は少し妙だった。
現代のヨーロッパの埠頭。
仮設テント、報道車、税関灯、外交官たち。
その上に昭和の提督が立ち、下船する生きた人間たちに向かって頷いて見送っている。
あの何とも言えない儀式感に、俺はもう少しで感動するところだった。
だが次の瞬間、外周の報道陣が爆発した。
比喩じゃない。
文字通りの意味で——
カメラ、シャッター、フラッシュ、生中継のアナウンサーの声、全部が一斉に炸裂した。
誰かが、ちょうどいい位置に望遠レンズを合わせたからだ。
旭日旗が映った。
山口が映った。
甲板に並んだ腐乱した水兵たちが映った。
その中の一人が医療物資の箱を持ち上げるために腰を曲げた時、袖口の下から覗いた、生きた人間にはあり得ない爛れた白い手首が映った。
俺は反射的に外周を見た。
港の安全線の向こうはもはや「人山人海」なんて言葉では足りない。カメラ、マイク、防風ベスト、望遠レンズ、そして一刻も早く名を上げたい顔たちで構成された、一枚の壁みたいな潮流だ。
怒鳴っている記者がいる。
同時通訳で叫んでいる人間がいる。
カメラに向かって矢継ぎ早に喋り続けるキャスターがいる。
車の屋根に登って撮影しているカメラマンがいる。
正規のメディアじゃない個人配信者、ライブ配信チャンネル、陰謀論チャンネル、心霊番組、軍事評論チャンネル、なぜかフード旅行ブロガーまで混入している連中が、血の匂いを嗅ぎつけた鮫みたいに世界中から泳いできている。
これは本当に収拾がつかなくなった。
ボスポラスで撮られたのは「正体不明の旧型艦隊」だった。
ルーマニアで撮られたのは、甲板に立つ生きた亡霊提督と腐乱した水兵たちだ。
この差は大きい。
前者なら、光学的錯覚だとか、旧船の改修だとか、何らかのマーケティング手法だとか、まだ議論の余地があった。
後者は無理だ。
顔の半分が爛れたまま箱を運んでいる水兵を、どこかの特撮会社のインターンだとは言えない。
絶対に無理だ。
俺自身でさえ、この光景はやりすぎだと思う。
ルーマニアの警察ラインが押されて後退し続けている。海軍の人間が拡声器で何ヶ国語もの「下がれ」を叫んでいるが、叫べば叫ぶほど人が前へ来る。小型のプレジャーボートやスピードボートが何艘か、警戒線が張られているとわかっていながら飛竜を撮ろうと強引に回り込もうとしている。港湾警備艇は攻防を繰り返しながら罵声を上げていて、外海全体が国際版の年越しカウントダウン花火会場みたいになっていた。
俺はテントの入り口の脇に立ち、この一切を眺めながら、ただ一言だけ思った。
くそ。
もう本当に、収められない。
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難民の安置作業は、昼から夜まで続いた。
港の仮設照明が全灯する。発電機の轟音、トランシーバーの雑音、何ヶ国語もの怒鳴り声が一緒くたになって、煮すぎた国際スープみたいになっている。ルーマニア側は最初、検疫と安置が一番大変だと思っていたはずだ。だがすぐに気づいた——一番大変なのは、難民一人一人の後ろに一つの国家が立っていて、その国家の後ろにはメンツを潰されることを何より恐れる官僚システムが立っているという事実だ。
アメリカ人の妻が感情的に崩れた瞬間、医療チームと大使館員の両方が前に出てきて、どちらが先に対応するかの空気が走った。
ホフマン教授がドイツ側の用意した保護休養区に入ろうとすると、フランス人がEUレベルの調査チームに話す意思があるかを教授に確認しようとした。
韓国人夫妻は韓国の連絡官の顔を見た途端に全身の力が抜けた。その隙に報道陣が縫い目から入り込もうとして、朴室長が埠頭でそのまま怒鳴りつけそうになった。
アドナンに至っては、温かい茶を受け取った最初の一言が感謝ではなく、眉をひそめながら「ルーマニアが難民に出すスープ、塩が足りなくないか」だった。
俺はその言葉を聞いた瞬間、思わず笑い出しそうになった。
「この状況で、まだスープの味を気にしてるのか?」
アドナンは紙コップを手にしたまま、俺を一瞥する。
「緊張すると食べられなくなる人間もいれば、胃がひっくり返る人間もいる。こんな味のしない熱湯を飲ませたら、夜になってもっと悪くなる」
俺は奴を見て、思わず頷いた。
「なるほど。この世界にも、本当に大事なことを気にかける人間がまだいるんだな」
アドナンの口元がわずかに動いた。笑おうとしているみたいだ。
「鎌を振り回してる人間よりは、少しはまともだろう」
「今日は何でみんな俺を一回ずつ踏みつけないと気が済まないんだ?」
「まだ生きてる証拠だ」と奴は言う。「死人は、からかわれない」
これは意外と、筋が通っている。
俺は舌打ちしたが、言い返さなかった。
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