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S2第五章:大武山(タィウーシャン)を渡る風 ―― 悲劇の宿命(フェイト)

坑道の最後の一機が煙を吐く廃鉄へと初期化(フォーマット)されると同時に、重型昇降機のゲートが俺たちの前で緩慢に開いた。

「将軍、行きましょう!」

馬三娘マー・サンニャンが口元の禁薬(ドーピング)を拭い、後続の背嵬軍はいかいぐんへ突入の合図を送ろうとした――その時、不気味な異変(エラー)が起きた。

ロビーで千軍万馬の如く暴れ回っていた白衣の陰兵たちが、昇降機の床に足を踏み入れた瞬間、その半透明の輪郭を激しく震わせ始めたのだ。まるで、目に見えない粉砕機(シュレッダー)に巻き込まれたかのように。岳武穆がくぶぼくが馬を駆り陣頭に立つが、腐乱した軍馬は苦悶の嘶きを上げ、虚空を蹴るばかりでその境界(しきい)を越えることができない。

「将軍……禁制プロテクトです」

馬三娘の顔が蒼白に染まる。長槍【一丈紅塵】から放たれる暗紅の光が、不安定な電圧(ノイズ)のように明滅していた。

「亡魂は土に還るもの。高楼に登るは許されぬか……」

大将軍の声は、隔世の風雷となって坑道に木霊した。「末将それがし……皆様をお送りできるのは、ここまでです」

墨汁のごとき死気がゲートの前で急速に収束していく。数千の陰兵たちは晶瑩しょうえいたる白い微光へと変わり、吹雪の残像の中で大武山の地脈へとデリート(還付)された。耳をつんざく戦場の喧騒は一瞬で消え去り、そこには昇降機の駆動音だけが単調なビープ音(ハミング)として残った。

「マジかよ……」

老高ラオグァンが車両の屋根から、空っぽになった後方を見て冷や汗を流す。「ワイスマンの野郎、天井に除霊パッチでも当てやがったのか? 俺の十万の大軍が消失ロストしちまったぞ」

周波数サンプリングレートよ」

エリスリードが【ヘヴァルグ】を収め、頭上で青い火花を散らす霊能ネットを冷徹にスキャンした。「二階以上は、冥府の波長と反発する『高周波エリア』に設定されている。ライセンス(通行権)のない亡霊は、上がった瞬間に論理崩壊(スクラップ)されるわ」

地獄の軍勢という名のブースト(チート)は、ここから先は通用しない。

「行くぞ」

俺は死神の指輪(デス・リング)を起動させた。指先に灯る暗紫の火光が、この「実習死神」に与えられた唯一の管理者権限(ルート)だ。「三娘、あんたは官差(役人)だ。耐えられるか?」

「この程度の圧、私を殺すには足りないわ」

三娘が冷たく鼻で笑う。気圧されながらも、その瞳には病的な殺意がより濃くリロード(再填填)されていた。

俺はシキ(牛小琴モード)を振り返った。首筋まで這い上がった重力の紋章と、タレム譲りの「後退を知らぬ」視線。

「周士達、陰兵がいなくとも、俺たちには猟刀がある」

シキが鉄叉を握りしめると、重力場によって昇降機の床にクラック(亀裂)が走った。

エレベーターが、ゆっくりと上昇を開始する。


昇降機のゲートが重々しく開き、俺たちを迎えたのは地底の燥熱ではなく、二階外部に広がる巨大な【物資転送プラットフォーム】だった。

寒風がナイフとなって顔を削り、大武山の高高度に舞う氷晶が狂ったように渦巻いている。タレムは眉の霜を拭い、加持された猟銃を構えながら、雲海へと伸びる鋼鉄の支柱を警戒した。

「若いの、急げ! ここは開けすぎている。俺たちは格好の標的だ!」

俺は中央のコントロールパネルへと疾走した。数百トンの物資を運ぶための巨大貨物昇降機。三階「高階実験室」への唯一のアクセス・ルート()。血にまみれた掌をバイオ・スキャナーに押し当て、リングから暗紫色のパルスを放つ。総当たり攻撃(ブルートフォース)による強制ハッキングだ。

「――ゴォォォン!!」

重厚な歯車が噛み合い、直径五十メートルを超える鋼鉄の円盤が、ゆっくりと上昇を始める。

「音が変だ……」

老高が車両の屋根から、足元ではなく、惨緑色の霊能霧に包まれた深淵を凝視した。「周、レーダーにバカでかい反応がある。飛んできてるんじゃない。雲の中から直接『浮いて』きやがった!」

その刹那、気流の壁が暴力的に押し開かれた。

漆黒の船体、全長百メートル。凶悪なサメを彷彿とさせる鋼鉄の怪物が、重力を嘲笑うように俺たちのプラットフォームの傍らに浮上した。巨大なプロペラが重低音を響かせ、船舷には氷のようなLBTのロゴ、そして血の色をした文字が刻まれていた。

――【プリンツ・オイゲン(欧根親王)

「ツェッペリン級タクティカル・ガンシップ……あの狂信者ども、大武山タィウーシャンでこんな代物を建造(ビルド)してやがったのか!?」林曉葳リン・シャオウェイのタブレットが警告音を乱打し、データは完全に限界オーバーフローを振り切っている。

「全員伏せろッ!!」俺は喉を潰さんばかりに咆哮した。

【プリンツ・オイゲン】の側舷に並ぶ砲口が一斉に旋回し、惨緑色の霊能プラズマが砲身に収束していく。

スピーカーからは、反吐が出るほど優雅なワイスマンの声が響いた。

「抵抗を続けるか? 愚かな! 教えてやろう、ドイツの科学技術は世界一だッ!!」

「父さん! 盾をッ!!」シキが絶叫し、八丈鉄叉(グラビティ・フォーク)を床に突き立て、暗青色の重力障壁シールドを展開する。

轟音ゴォォォン――!!」

第一波のプラズマが障壁に衝突し、巨大な貨物昇降機は万丈の深淵の上で激しく震動(スイング)した。

ワイスマンは、まるでお気に入りの玩具を誇示するように、俺たちが屋内へと逃げ込むと追撃を止めさせた。だが、俺たちに安堵する余裕などない。眼前のゲートが、さらなる絶望をロード(読み込み)し始めたからだ。

その扉は、巨獣の肋骨を剥ぎ取るかのような重厚な音を立て、油圧のハミング(共鳴)と共に一層ずつ開いていった。中から溢れ出した霧は、消毒液と不気味な甘みを帯びた――血液と化学剤が混ざり合った、病院の死体安置所(モルグ)を彷彿とさせる死臭。

そして、「彼」が歩み出てきた。

「歩く」というよりは、背後に繋がれた無数のパイプに牽引(トレース)されているようだった。親指ほどの太さの透明な導管が後頸部に挿入され、脊柱に沿って枝分かれし、逆さまに生えた樹根のように筋肉の層へと釘打ちされている。左腕は冷徹な金属骨架に置換され、関節の油圧シリンダーが動作のたびに重苦しい機械の吐息を漏らす。顔の半分は呼吸マスクに覆われていたが、露出した額には、びっしりと刺青(タトゥー)が刻まれていた。

それは、排灣パイワンのハンターが成人後に刻む、仕留めた獲物の数を示す誇り高き記録(ログ)

俺には、その「モノ」が誰なのか分からなかった。

だが、タレム(Talem)は理解していた。

彼の右手が見えた。加持祈禱を施されたあの猟銃を握り締める手が。銃口は真っ直ぐ前方を指していたはずだったが、その異形が這い出してきた瞬間、重力に抗えぬようにゆっくりと、ゆっくりと、下を向いた。まるで、その右手が「自分は何をすべきか」という本能ハントを突然喪失してしまったかのように。

「若造……下がってろ」

彼は口を開いた。胸腔の底から無理やり絞り出したような、低く、掠れた声だ。一語一語に不安定な気流が混じっている。それは俺たちへの命令じゃない。自分自身がまだ指揮官リーダーであると、必死に演じようとしているだけの虚勢だった。

「タレム……」

「……俺が、ケリをつける」

彼の声は「ける」という音で、ガラスが砕けるような微かな亀裂クラックを見せた。

シキ(Siki)は退かなかった。その場に立ち尽し、八丈鉄叉を握る手の甲には青筋が毒蛇のように浮き出ている。彼女の唇が動いているのが見えた。長い沈黙の果て、山を吹き抜ける風に掻き消されそうなほど小さな声が漏れる。

「にい……に……?」

配管と金属で別のナニカへと縫い合わされたその男が、足を止めた。

彼女の声が届いたからではない――そもそも、あの改造された鼓膜センサーが、そんな感傷的な周波数を拾えるのかさえ怪しい。彼が止まったのは、ただ面罩マスクの奥の瞳が、獲物を走査スキャニングしていたからに過ぎない。

視線がシキの上でコンマ数秒だけ停止し、そして――道端のゴミでも見るかのように、俺たちという資産アセットの列へと滑っていった。

認識していない。

その人工水晶体の瞳には、憐憫ピティという名のノイズすら存在しなかった。

「彼の名前かね? 残念ながら本人はもう忘れてしまったよ。再構築リモデルの際の副産物でね」

ウェイスマンの嘲笑が、拡音器から汚液のように漏れ出す。

「だが、戦闘データを見る限り、忘却は彼にとって『福音』だった。知っての通り、苦痛に満ちた記憶というジャンクファイルごみは、プロセッサの反応速度を鈍らせるだけだからね」

タレムが、一歩踏み出した。

待てとも言わず、振り返ることもない。タレムはただ、ゲートと俺たちの間に広がる「空白の処刑場」へと足を踏み出した。左手で猟銃を水平に構え、右手は腰から三十年連れ添った猟刀ハンティングナイフを抜く。その刃は大武山の寒風を切り裂き、鈍い銀光を弾いた。

俺はタレムの戦い方を知っている。それは山の流儀だ。速く、正確で、無駄がない。一撃で相手を「物」に変えるための動きだ。

だが、今の彼はただ、そこに立ち尽くしている。

構えも、足運びも、彼の肉体は完璧に「戦い」を記憶していた。しかし、その内側の歯車が、たった一つだけ決定的に噛み合っていない。目の前にある「ナニカ」の、自分を認識すらしない瞳センサーを凝視したまま、彼の喉の奥で言葉にならない塊が、虚しく震えているだけだった。

「どうした? 仕掛けてこないのかね」

ウェイスマンの声に応えるように、タレムの猟刀が、空中で微かに、絶望的に震えた。

「バル……お兄ちゃん……?」

鋼鉄の怪物は答えない。面罩マスクの奥で緑色の電子眼が規則的に点滅し、次の瞬間、ヤツは空気を歪める残像アフターイメージへと姿を変えた。

ウェイスマンの、ノイズの混じった笑い声が走廊に響き渡る。耳膜に無数の細い針を突き立てられるような、吐き気を催す湿った不快感だ。

「これこそが、私の最高傑作だ」

彼は拡音器の音量を上げ、学術的な狂信に満ちた口調で続ける。

「パイワン族男性の筋肉密度と神経反射……それに地脈の純質を注ぎ込んだ。驚くべき安定性だよ。ミスター・ジョウ、データが証明している。これこそが――血脈鎮圧ドミネーターだ」

「ウェイスマン、このクソ野郎……!」

俺は怒りで目の前が暗転しそうだった。コイツは「人間」として超えてはならない最後の境界線を踏みにじったんだ。

「度胸があるなら出てきてタイマンを張れ! 遺体を弄んで、後ろに隠れてるのがそんなに楽しいか!」

「私は馬鹿ではないよ、ミスター・ジョウ」

ウェイスマンの含み笑いが聞こえる。

「私は科学者であり、霊魂学者だ。君のような『野分野郎バーバリアン』ではないんでね」

「てめぇはただの犬の糞ピース・オブ・シットだ!」

今の俺には、虚飾の礼儀なんて欠片も残っちゃいない。この畜生、後で絶対に逃がさねぇ。バラバラにしてやる。

「美しい怒りだ、ミスター・ジョウ。だが、あまりに無意味だ」

「若造、シキを頼む」

タレムは振り返らず、ただ無造作に、空になった『長寿タバコ』の箱を足元の深淵へと投げ捨てた。祝聖された猟銃を握り締めると、銃身に刻まれた百歩蛇ヒャッポダの紋様が、寒風の中で冷酷な殺意オーラを放ち始めた。

「アパ(父さん)……行かないで……あれは、バル兄ちゃんなんだよ!」

シキ が金属の床に崩れ落ちる。八丈鉄叉が彼女の絶望に共鳴し、重苦しい唸りを上げた。背後の牛頭神将の虚影は、主の精神崩壊に引きずられるように、今にも霧散しそうなほど激しく震えていた。

「タレムさん、俺も行く! この指輪なら——」

周士達(ジョウ・シーダー)!」

タレムが猛然と振り返った。その眼窩には死神よりも凄惨せいさんな炎が揺らめいている。

「これは俺たちの『家族の務め』だ。息子があの鉄の棺桶の中で泣いてるんだよ。俺が連れて帰らなきゃならねぇ……部外者は黙って見てな!」

俺——ジョウ・シーダー周士達は立ち尽くした。右手の死神の指輪が、かつてないほどの紫光を放っている。指輪は感知していた。鋼鉄に包まれた「超級戦士」の奥底で、微かに、そして無惨に砕け散りながら叫び続けている魂ソウルを。それはバル。かつて大武山の麓を駆け抜けていた、あの青年だ。

タレムは咆哮ほうこうと共にシキSikiを突き飛ばした。直後、バルの右腕から伸びたプラズマ長刀が床を切り裂き、溶岩のような火花が変調した悲鳴を上げて飛散する。

「周士達! シキを連れて下がれ! 息子をここまで壊しやがって……この手でブチ壊してやる!」

老猟師の動きは驚異的だった。狭い遮蔽物を縫うように閃転騰挪ステップし、猟銃が絶え間なく怒火を噴く。

水銀弾マーキュリー・ブレットが装甲を叩き、貫通こそせぬものの、殺戮マシンの動きに僅かな遅延ラグを生じさせた。

「バル! 俺を見ろ!」

タレムは側面に回り込み、空の銃を捨てて腰から巨大な剥皮刀を抜いた。

「大武山の風が吹いているぞ! お前のアマ(祖母)が工寮で小米酒を温めて待ってる! 忘れたのか!!」

バルの巨躯が激しく揺れ、面罩マスクから耳を刺す電子雑音ノイズが漏れる。それは、一人の若い男の苦悶に満ちた叫びと重なっていた。

「ア……パ……殺し……て……俺を……」

「データ安定度、12%低下」

天井からウェイスマンの冷酷な指令が降り注ぐ。

「『神経強制連結(Neural Link)』起動。メイン・プログラムで運動中枢を強制接収ジャックしろ」

刹那、バルが非人間的な悲鳴を上げ、背中の導管から刺すような緑光が噴き出した。ヤツは逆手の拳でタレムの肋骨を粉砕し、老猟師を防弾ガラスへと叩きつけた。

「ガハッ……」

タレムが鉄臭い暗紅色を吐き出す。

「若造……来るな! これは、俺がコイツに負っている……借金けじめだ」

バルは魂を失った収穫機のように、プラズマ刃を引きずり一歩ずつ迫る。その足踏みごとに、金属の床が恐怖にむせぶような軋み声を上げた。

長刀がタレムの心臓を貫こうとしたその瞬間、老猟師は老練で、残酷で、それでいて慈愛に満ちた笑みを浮かべた。彼はバルの足首の液圧シリンダーを掴み、懐から聖塩を詰め込んだ特製爆薬を奪い取った。

「バル、最後の授業だ……」

タレムは息子の機械の脚を死に物狂いで抱きしめ、眼底に命の最後の灯火を宿した。

「猟師なら……死んでも相手の肉を食い千切れ!」

ドォォォン!!

爆炎と紫光が入り口で炸裂し、衝撃波が俺とシキSikiを数メートル先まで吹き飛ばした。

煙が晴れた後、ラボの深淵へと続く道に残されていたのは、歪んだ残骸と、死してなお重なり合い、物言わぬ二つの肉体だけだった。

タレムは死の間際まで手を離さなかった。このドイツの悪夢から、息子を強引に連れ戻し、大武山の抱擁へと帰すために。

「アパァァァアアア————!!」

シキの慟哭どうこくが、天井の電灯を粉々に砕いた。

俺は地面に膝をつき、顔を覆う血と涙を拭った。指の指輪は二人の至親の魂を吸い尽くし、深淵アビスのように深化した。その力は、手の感覚を奪うほどにてついている。


高等実験室へと続く重厚な扉が、鋭い液壓音を立てて開いた。噴き出す白霧は骨まで凍らせるほどに冷たい。だが、誰も動かなかった。地板に滴る血の音さえ聞こえるほどの、死の静寂しじま

俺は振り返り、後方で待機していた二人の部族の青年を呼んだ。本当なら、彼らに無理矢理にでもシキを山へ連れ帰らせたかった。数分足らずの間に父と兄を同時に失うという、破滅的な劇慟げきどうに耐えられる者など、この世にいるはずがない。

周士達(ジョウ・シーダー)

シキが口を開いた。その声は氷原の底を流れる石のように冷たく、微塵の震えもない。彼女はゆっくりと立ち上がり、地面に遺された八丈鉄叉を拾い上げた。顔の血涙を無造作に拭う。その瞳は、重力のブラックホールと化していた。

「今私を追い払うのは、パイワン族の猟師の魂に対する侮辱よ」

シキが俺を射抜くように見つめる。背後の牛頭神將の虚影はもはや揺らぐことなく、不気味で重苦しい、漆黒の実体エンティティへと凝固していた。

俺の指で、魂を飽食した指輪が狂ったように律動している。それは「復仇」という名の低周波の鳴響ノイズを脳内に直接叩きつけてくる。

「分かった。君の決定を尊重する」

肺の損傷による焼けるような痛みを感じながら、一文字ずつ紡ぐ。

「結果がどうなろうと、俺は君と行く」

俺たちは血に染まったしきいを跨ぎ、高等実験センターへと足を踏み入れた。

内部の灯が段階的に点り、緑色の溶液に満たされた無数の培養槽を照らし出す。ウェイスマンの声はもう拡音器越しではなく、正面にある巨大な黒の回転椅子の背後から直接響いた。

「多麼動人的家族絆。これこそが、私がずっと捕捉したかった『感情溢出データ』だよ……」

椅子がゆっくりと回転し、その男が立ち上がった。

純白の白衣を纏っているが、医者の慈悲など微塵も感じられない。風乾した陳年皮革のような枯黄の顔。左眼の義眼は異様なまでに不調和で、その冷たい機械の光沢は、生理的な嫌悪感を呼び起こす。

「待ちわびたよ。私はハインリヒ・フォン・ウェイスマン」

男は布教する狂信者のような語調で宣言した。

「リヴァイアサン・バイオテクノロジー医療部門の最高責任者であり、人類史上、最も傑出した男だ」

「喋り疲れたか?」

俺は刃の上を滑らせるような冷徹な声で、彼の言葉を断ち切った。

「お前に提案オファーがある。聞いてみるか?」

「ほう?」

ウェイスマンはクスクスと笑い始めた。その神経質な震えは、彼葉綺安(イェ・キアン)に勝るとも劣らぬ狂人であることを示している。「聞かせたまえ」

「お前さ……」

俺はポケットからベルトナイフをゆっくりと引き抜いた。金属の摩擦音が、死んだように静かな空間に響く。



「今ここで一思いに首でも吊るなら、全屍ぜんし――綺麗な死体で残してやると保証してやるよ」

ウェイスマンは下劣なツボを突かれたかのように、仰け反って狂った笑い声を上げた。その義眼が、眼窩の中で不安げに跳ねるほどに。

「面白い! 実に面白いよ、周さん!」

ウェイスマンの視線が、俺の右指で黒光りする指輪に釘付けになった。その眼底には、隠しきれない強欲の火花が散っている。

「私からも提案がある。もしその指輪を置いていくというなら、私も慈愛を授けよう。君たち全員を、綺麗な死体ぜんしのままで残してあげるというのはどうかな!!!」

次の瞬間、実験室全体が予兆もなく激しく震動した。ウェイスマンの狂った笑い声が、天井、壁、床の間を狂ったように跳ね回り、四方の鋼壁が上げる悲鳴と混じり合う。

シキだった。

彼女は何も語らない。だが、その足元の金属床は、まるで使い古された紙屑のように歪み、陥没し始めていた。彼女を中心に発生した深淵なる「超量重力オーバー・グラビティ」が、津波となって周囲の空気をことごとく呑み込んでいく。

「な……ッ!?」

ウェイスマンの余裕が、剥製のような顔から剥がれ落ちた。彼の義眼が、異常な数値を検知して激しく明滅する。

シキはゆっくりと顔を上げた。その瞳の中には、もはや少女の面影など微塵も残っていない。ただ、愛する者を奪ったこの世界を、根底から押し潰そうとする「特異点」がそこにあるだけだった。

「ウェイスマン……あんたの提案、却下だ」

俺は重力の嵐の中で、重く、確実な足取りで前へ進む。右手の指輪が脈打ち、シキが放つ破壊の波動と共鳴し始めた。

「あんたには、全屍ぜんしすら贅沢すぎる」


「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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