S2第四章 雪夜の残り火―― 脆弱な本音
予定ルートは力里渓の支流を遡る難路だった。無慈悲な砕石と巨木が立ちはだかり、老高の改造捜査車両は中腹で早々にシステムダウンした。残りの行程は、卑南猟団という名の体力モンスターたちが、重厚な水銀弾の弾薬箱を担いで進むデス・マーチと化した。
河床を流れる氷水は靴を越えて浸入し、まるで足首にナイフを突き立てられたような冷気が走る。泥まみれで対岸へ這い上がる頃には、午前中の貴重なリソースは使い果たされていた。
夕刻、俺たちは「旧歸崇社」の遺跡に到達した。点在する廃屋の石板は、時間に遺棄された祭壇のように荒涼としている。パオロ大酋長が沈みゆく夕闇を見つめ、短く命じた。「野営だ」
LBTの科学狂信者どもの仕業か、空からは病的な青みを帯びた砕氷の雪が降り始め、気温は垂直落下するように急落した。骨の髄まで浸食するような寒さだ。
俺は防水布とポールを前に、歩き始めたばかりの家鴨のような手つきで格闘した。三十分後、そこに現れたのは、風雪に耐えるためのシェルターではなく、吹けば飛ぶような|ポストモダンな前衛芸術《ガラクタの山》だった。
「……クソ、少なくとも立ってはいる」
自分にそう言い聞かせ、俺は石板の残骸の下に身を縮め、凍りついた保存食を咀嚼した。
石板は熱を奪うだけの冷たい墓石だった。俺は冷凍庫に放り込まれた生肉になった気分で、何度目かの眠りから寒さで強制起動させられた。佛光山の線香の熱が恋しくてたまらない。
その時、背後の闇から伸びてきた手が、黒い稲妻のごとき速度で俺を押し倒した。
「誰だ!?」――死神か、それともLBTの暗殺者か。
「死にたいの?」
耳元で爆発した、鋭くも重圧を感じさせる声。目を開けると、シキ(Siki)が俺の上に跨っていた。その瞳の中、燃え盛る火光が居丈高に俺を射抜いている。
「この異常な天気で外寝なんて。アイスキャンディーにでもなりたいわけ?」
俺は気まずそうに、雪に埋もれかけた「芸術作品」を指差した。
シキはそれを二秒ほど凝視し、やがて堪えきれなくなったように「ぷっ」と吹き出した。
「周士達……あんた、本当に規格外のバカね」
彼女は抱腹絶倒し、俺の胸に手を置いて身体を支えなければ転げ落ちそうなほど笑い転げた。「あれはテント? それとも罠か何かなの?」
彼女は笑い声を収め、その眼差しに柔らかくも支配的な光を宿した。俺の手のひらを握りしめる。ハンター特有の生体熱が、一気に俺の回路を駆け巡る。
「来なさい」彼女は拒絶を許さぬ力で俺を引きずり起こした。「石板屋へ戻るわよ。LBTの門を叩く前に、玄関先で凍死して恥をさらすつもり?」
俺は握られた手を見つめた。凍結していた俺の凍土に、小さな亀裂が走る音が聞こえた気がした。
シキに引かれ、俺たちは比較的大型の石板屋へと潜り込んだ。隅には風を遮る二人用の小型テント。帳外の火床では龍柏の薪が燃え、跳ねる橙色の炎が壁に不気味に揺れる影を投影している。
「座って」
シキは雛鳥を扱うような手つきで、俺を獣皮のマットへ押し倒した。「お父さんたちはパトロール中。ここは今、私たちだけよ」
顔の氷霜を拭い、この狭隘な空間をスキャンする。乾燥した薪が焼ける清々しい香りと、雨水と泥に混じった彼女のフェロモン。炎の熱が顔を焼き、凍傷寸前の指先が痒みを伴って疼き出した。
「……恩にきる」
自嘲気味に息を吐き、無意識に煙草を探そうとした右手を、シキが力強く抑え込んだ。
「周士達、私を見て」
彼女の声から鈴のような清涼感が消え、重力に押し潰されたような掠れを帯びる。彼女は俺の膝に跨り、暗青色の炎が灯る瞳が至近距離で重なった。帆布のパンツ越しに、彼女の大腿部の引き締まった筋肉が、熱い律動を伝えてくる。
死神の指輪を嵌めた右手が、この過剰な生体反応に呼応して狂ったように脈打つ。黒石から放たれる死気が氷の針となって血管を突き刺し、この温もりを排除しろと脳に命じている。
「シキ……あんたの親父がすぐ外にいるんだぞ。俺を祖霊屋出入り禁止にするつもりか?」
俺の声は、砂利を噛んだように乾いていた。
「――祖霊は、生きるために必死な者を、決して見捨てはしないわ」
シキは退かなかった。しなやかでありながら強靭な彼女の手が、俺のスーツの襟元を侵食し、指先が胸の凍てつくような肌をなぞった。その瞬間、佛光山に半年間封印されていた俺の内の「野性」が、血の匂いを嗅ぎつけた獣のように、鉄籠を破壊して暴れ出した。
「この身体の中に、何が詰まっているか分かってるのか……」
俺は彼女の腰を掴み返し、骨を軋ませるほどの力で引き寄せた。「台北(都会)の軟弱なロマンスじゃない。俺と繋がれば、お前は死気に凍傷を負うことになるぞ」
「だったら、私の重力でその死気を踏み潰してあげるわ」
シキが猛然と伏せ、山嶺の野性を孕んだ焦燥と共に、俺の頸筋に深くその唇を刻みつけた。それは接吻などではなく、捕食だった。俺の全身の神経が短絡し、抑圧された喘ぎが漏れる。背後に石板の冷徹な壁、眼前に雪を溶かすほどの烈火。俺は彼女を冷たい床へと組み伏せた。
彼女の手が俺の首に絡み、指先が髪の根元に食い込む。俺たちは闇の中で、血の錆びた臭いと薬草の香りが混ざり合う呼吸を交換した。指の隙間では死神の指輪が、過負荷な生体熱を拒絶して耳障りな悲鳴を上げ、黒紅の閃光が石壁の上で狂ったように蠢動していた。
「周士達……」彼女は耳元で、自壊的な決意を込めて囁く。「……今夜だけは、あんたを私だけの周士達にして」
俺は彼女の強情な瞳に唇を落とし、世界の終焉の際で唯一の真実を噛みしめた。石板屋の外には、いつ爆発してもおかしくない戦争と死。だがこの狭隘な空間で、俺たちは最も原始的な本能を武器に、不公平な宿命へと抗っていた。
指輪は狂ったように叫び続け、この生命のオーバーロードをパージしようとする。だが、知ったことか。俺は彼女の引き締まった腰を抱き寄せ、その存在のすべてを胸へと押し込めた。この瞬間、俺は死神の代理人でも英雄でもない。吹雪の中で凍死しかけている溺死者が、唯一の酸素を貪り求めているだけだ。
午前五時。
火塘の龍柏は、今やわずかな残り火を残すのみとなっていた。外の青い吹雪は止み、代わりに窒息するような死寂の灰白色の霧が、世界を覆い尽くしている。
俺は獣皮のマットに座り、スローモーションのようにシャツのボタンを留めた。襟元に触れる指先に、シキが刻んだ生々しい傷跡の熱が伝わる。中指の指輪を見れば、激しい拒絶反応の果てに、今は不気味な暗紫色を湛えて沈黙していた。昨夜の過剰な陽気を、ようやく消化し終えたのだろう。
シキは寝袋の中で丸まり、重力の紋章が刻まれた引き締まった肩を露わにして背を向けていた。その呼吸は深く、限界を越えた後の安寧を纏っている。
「起きてるなら服を着ろ」俺は昨夜吸い損ねた長寿煙草に火をつけた。辛辣な煙が冷気に溶ける。「タレムが外を三周も回りやがった。これ以上長引けば、あのオヤジ、マジでこの家を猟銃で解体しに来るぞ」
シキが身じろぎし、こちらを振り返った。重力の火を宿した瞳は、晨曦の中で一層冷徹に、だが微かな柔和さを孕んで俺を射抜いた。彼女は何も言わず、迷彩ジャケットを羽織ると、俺の目の前で淡々とボタンを留めた。
「周士達」
彼女は立ち上がり、八丈鉄叉を手に取ると、ハンターの冷酷さを取り戻した声で告げた。「昨夜のこと、雨瞳に一言でも漏らしてみなさい。この叉であんたの魂を大武の山頂に釘付けにしてやるわ」
「安心しろ」俺は煙を吐き出し、この半年で初めての、純粋な悪意を込めた笑みを浮かべた。「俺の特技は、秘密を隠蔽することだからな」
午前六時、大武山の霜が、微かな第一条の光を受けて細砕のような音を立てて弾けた。
石板屋の扉が「ギィ……」と乾いた悲鳴を上げ、俺はシキの背を追うように外へ出た。冷気はナイフとなって頬を削り、後半夜にわずかに残っていた熱量を無慈悲に吹き消した。
タレムは五十メートルほど先の老木の下で、俺たちに背を向けて蹲っていた。足元には「長寿」の吸い殻が山を成している。ざっと二箱は空けた計算だ。扉の音を聞いても、彼は振り返らない。ただ、崩落寸前の断崖のような重苦しい背中から、濃密な紫煙を吐き出すだけだ。
「お父さん……」
シキが鉄叉を手に声をかける。その喉には、まだ昨夜の残響がハスキーな色を残していた。
「呼ぶなッ!」
タレムが猛然と立ち上がり、振り返った。その血走った眼球は、怒り狂った山猪よりも鋭く、丸い。彼は俺を凝視し、右手の親指が猟銃のセーフティを神経質になぞっている。その構えは、マジで俺の脳天に風穴を開ける実行キーを探しているようだった。
「……よぉ、お義父さん、早いな」
俺は心底バツが悪そうに鼻をすすった。指先の死神の指輪が、俺の動揺を嘲笑うように暗く明滅した。
「早いだと!? 抜かすなッ!」
タレムは暗紅色の檳榔汁を雪原に吐き捨て、一歩一歩、雪を悲鳴させながら歩み寄ってきた。彼は俺の襟首を掴み上げ、長年の狩猟で培われた捕食者の威圧で俺を締め上げる。
「若造……娘に雨を凌がせろとは言ったが、暖炉代わりにしろとは言ってねえぞッ!」
彼は声を潜めたが、そこには「今が戦時中でなければ、貴様を即刻土に埋めてやる」という殺意が凝縮されていた。
「いいか、要塞に入ったら、一歩でも娘の後ろに隠れてみろ。俺の初弾はLBTじゃなく、お前のケツにブチ込んでやる! 分かったかッ!?」
「……了解しました」
俺は全力で頷いた。これまでの人生で、これほど脆弱ことはない。
「車を出せッ!」
タレムは俺を突き飛ばすと、シキへと視線を移した。その瞳には、「娘が大人になってしまった」という喪失と、「このクズを細切れにしたい」という暴怒が複雑に混ざり合っていた。
捜査車両の中でこの|ドメスティック・バイオレンス《家庭倫理劇》を観賞していた老高は、手に持った飯糰を落としそうなほど、下品に笑い転げていた。
「エリスリード、頼むぞ」
俺の言葉が終わるより早く、その金髪の美貌は氷藍色の残像へと変わり、精霊細剣【ヘヴァルグ】を手にリヴァイアサン(LBT)の鋼鉄要塞へと肉薄した。挨拶など必要ない。初手から高層ビルを解体する規模の殺招を放つ。大武山の生態系に配慮して「永久凍土」の使用は禁じていたが、彼女はこの複合装甲を排除するために、より直接的な手段を選んだ。
「――巨人の力ッ!!」
北欧の古言が響くと同時に、剣先から網膜を焼き切るほどの光が爆発した。それは純粋かつ極致の物理衝撃。要塞の大門は鋼鉄の悲鳴を上げ、わずか三秒の抵抗の末、フレームごと粉塵へと分解された。
俺は隣で黒い煞気を纏う馬三娘に向き合い、視線で伝えた。「……全部、任せたぞ」
三娘は無言で、底知れぬ闇を湛えた二本の符水を仰ぎ、一気に飲み干した。冥府と現世を強引にリンクさせる禁薬だ。刹那、墨汁のごとき死気が彼女の周囲で狂い咲き、付近の雑草は瞬時に枯死し、黒く腐食していく。
「地獄の道なり。生者は退避せよ――ッ!!」
咆哮が山谷を揺らし、三族の戦士たちの魂を直接震動する。
「――起きなさいッ!!」
長槍【一丈紅塵】が凍土を穿つ。かつてのSホテルでの戦いと同様、死者の軍勢は土中から這い出すのではない。周囲の灌木、樹影、大地の歪みから滲み出してきたのだ。
腐乱し、あるいは白骨化した宋代の歩人甲たちが、四方八方から同期を開始する。前回の数倍に及ぶ物量。この女、台北では完全に出力制限をかけていたわけだ。
だが、三娘の演算は終わらない。三本目の符水を飲み干し、再び槍を大地に叩きつける。
「――諸将、集結せよッ!!」
霧の向こうから重厚な蹄の音が響き、銀の残鎧を纏い、半面が髑髏と化した将軍が虚無を裂いて現れた。そのあまりに巨大な存在圧に、大武山の猛吹雪さえもが静止する。
馬三娘は背を正し、拱手してその影を讃えた。
「拝謁いたします……岳大将軍ッ!!」
俺の指の死神リングが狂ったように警告を鳴らしている。これはもはや戦争ではない。LBTの要塞を、靖康の変の再現現場へと書き換えようとしているのだ。
「老周……」老高が車両の屋根で震えている。「あいつ、どこの寺からあんな化け物を呼んできやがった? 俺、今すぐ降りて土下座した方がいいか?」
「必要ない。老高」俺は蛇腹剣をスライドさせ、瞳に暗紅色の火を灯した。「あんたはただ、あの民族の英雄を轢かないように運転してくれればいい」
「岳将軍、お力添えを。現場の指揮は将軍に委ねます。我らは敵陣へと斬り込み、その首級を上げましょう!」
車上で拱手する馬三娘の姿は颯爽としていたが、その瞳には伝説の英雄に対する絶対的な畏怖が宿っていた。
俺は眼前の銀甲の残骸を凝視する。半面は髑髏と化しているが、立ち昇る浩然の正気は、間違いなくあの伝記の「岳武穆」その人だった。大武山の吹雪の中で俺が粛然と襟を正そうとしたその時、馬上の将軍が不意に口を開いた。
「――数百年ぶりだな。だが次回は……別の呼び方を考えてくれ」
一瞬、思考がスタックした。大将軍の霊体が、微かに、本当に微かに震えた気がしたのだ。
「私は……金牌にはアレルギーがあってな」
危うくその場でコケそうになった。岳飛の旦那、洒落が利きすぎていないか? 数百年死んでてなお自分の歴史的トラウマをネタにするとは。脳内の荘厳な英雄像が音を立ててクラッシュし、代わりに奇妙な親近感がシステムにマウントされた。
十万の陰兵による強力なブーストがあれば、LBTのパトロール隊など俺たちの車の排気ガスを吸う暇さえない。純白の背嵬軍に「護送」され、要塞の正面大門へと到達する。直後、牛のように屈強な陰兵たちが巨大な攻城槌を担ぎ出し、精密なクロック信号に従って門を叩き始めた。
「……あれで、開くのか?」
俺は顔の雪を拭った。宋代の軍事テクノロジーを疑うわけじゃないが、相手はセラミック繊維と複合装甲の重防磁門だ。丸太で突っついてどうにかなるものか……。
無意味な物理計算を脳内で行っていたその時、鋼鉄が引き裂かれる重低音が響き、二号門の装甲が内側へと無残に陥没した。
「そこまでだ! 突火営、入れッ!」
陰兵の将校が旗を振り、怒号を上げる。
門前にいた背嵬軍が即座にパージする。プロの工兵が火薬樽を持ってくるのかと思いきや、事態は狂気へとアクセルを踏み込んだ。
全身に祝聖された爆薬を巻き付けた突火営の戦士たちが、無表情のまま門の隙間へと滑り込み――そして、爆発した。
戦術ではない。地狱版の自殺式攻撃だ。一人が弾ければ、後方の霊穴から即座に次の一人が現れ、隙間へ潜り込み、再び爆発する。彼らは陰兵だ。霧散しても後ろで復活すればいい。中には笑いながら突っ込む連中さえいた。「足りねえよ、もう一回だ!」とでも言いたげなハイな状態で。
「……マジかよ」
俺は呆然と、その「無限自爆」という名の暴力的なハッキングによって、無敵のはずの装甲門が徹底的に玩弄され、崩壊していく様を見届けるしかなかった。
「全軍、突撃――ッ!!」
馬三娘が廃車の屋根に飛び乗り、長槍でその空いた穴を指し示す。墨汁のような黒い瘴気が津波となって内部へと流し込まれた。
一階ロビーの警備勢力は、瞬く間に鎮圧された。魏斯曼がどれほどの傭兵を雇おうと、岳飛の率いる「理屈の通じない」十万の軍勢の前では、この霊魂の海嘯に飲み込まれる一粒の砂に過ぎなかった。
一階の最深部、この工場の罪深き心臓――「万魂抽出煉獄」へと辿り着いた。
眩い白熱灯と惨緑色の霊能チューブが交差し、山体を抉り取って造られた空間を冷徹な遺体安置所へと変えている。硝煙の臭いはない。あるのは高電圧の放電に焼かれたような、極限まで乾燥した焦げ臭さだけだ。
「背嵬前鋒、破陣ッ!」
馬三娘が車上で長槍を振り下ろす。ホールの中心には三基の巨大な「霊魂遠心分離機」がそびえ立ち、血管のごとき導管の中を、祖霊たちの残光が崩壊寸前の悲鳴を上げながら流動していた。
岳武穆が馬を駆る。その背後、背嵬軍が白い旋風と化し、重厚な甲冑の摩擦音を響かせてLBTの守護方陣へと衝突した。
「電磁振動波(EMP)起動! 阻止しろ!」
二階回廊で技術主任が引き攣った声を上げる。電磁シールドを掲げる黒騎士たちが立ち塞がるが、背嵬軍の麻札刀は容赦なく機甲の関節を切除し、大斧が冷酷にその首を刎ね飛ばしていく。
「老高、左のやつを叩け!」
暗紫色の死神リングが俺の指で過負荷を起こす。閉じ込められた魂たちのエラー信号が直接脳を焼く。
「合点承知! プユマの兄弟たち、投下だ!」
老高が笑いながら、浄塩とテルミットを詰め込んだ「廃棄物」を分離機の基部へと叩き込む。プユマの猟師たちが放つ焼夷ボルトが、コンソールの技術員を|物理的にシャットダウン《即死》させた。
「轟音――!!」
激しい爆発と共に、惨緑色の冷却液が床を埋め尽くす。解放された魂が俺のリングへと強制吸入され、その衝撃で腕の感覚が麻痺する。俺は歯を食いしばり、シキの元へと走った。
「――オォォォッ!!」
シキが凄絶な咆哮を上げる。八丈鉄叉に凝縮された百倍の重力が、強化鋼鉄を紙細工のように圧縮し、第二の心臟を粉砕した。
その時、巨大モニターに病的な潔癖さを纏った老人が現れた。ハインリヒ・フォン・ワイスマン。LBTのCEO。
「野蛮な先住民どもが、私の高貴なラボで何をしている……?」
「何だぁ? テメェの母ちゃんに聞いてきなッ!」
タレムが血の混じった檳榔の滓を、純白の無塵床へと吐き捨てた。その鮮血のような赤は、ワイスマンが築き上げた偽りの秩序を汚染する致命的なノイズだった。
「この……下等な……!!」
ワイスマンの顔が屈辱で歪む。「ならば見せてやろう、ドイツ科学の真の力を!」
モニターが断絶し、床が激しく震動する。側壁を突き破り出現したのは、四本の機械腕を持つ六メートルの「地脈採掘機」。対霊装甲に覆われたドリルが、破滅の咆哮を上げて回転を始めた。
「三娘! エリスリード! 接敵!」
エリスリードの【ヘヴァルグ】が氷藍の光を放ち、機甲の動力核を穿つ。俺はその戦いを見届けず、ゆっくりと上昇を始めた後方ゲートを見据えた。
一階後二区:『涅槃倒影――骸骨精錬坑道』
背後で大門が重々しくロックされ、岳家軍の冷気は遮断された。代わりに押し寄せたのは、重油と硫黄が混ざり合った、窒息しそうな燥熱だ。
そこはもはや清潔なラボではない。剥き出しの鋼鉄と油圧シリンダーが蠢く、巨大な縦穴。無数のドリルが大武山の内核を貪り、その震動は祖霊の骨を削るドリル音のように響いていた。
「プユマの兄弟、散開しろ! 遮蔽物を探せ!」
アダウ頭目の咆哮が坑道に木霊する。老高の捜査車両が狭い通路でドリフトし、車載重機関銃が過熱による白煙を吹き上げる。
「周士達! 左の回廊だ! あの『缶詰』どもがまた来やがったぞ!」
老高が引き金を絞ると、祝聖された水銀弾が暗い坑道に無数の銀色のアークを描いた。
ゲートの奥から這い出してきたのは、もはや凡庸な騎士ではない。LBTの「精錬工頭」。動力外骨骼を纏い、右腕には火炎放射器、左腕には巨大な油圧クランプを溶接した怪人たちだ。面罩の奥の瞳は、地脈エネルギーの過負荷によって惨緑色の凶光を放っている。
「失せろッ! この山はお前たちの遊び場じゃないわ!」
シキが深藍色の重力雷火と化して躍動した。コンベアの上を跳ね、八丈鉄叉を大地に穿つ。【阿鼻重踏】の重力場が、突撃しようとした工頭たちを伝送帯の歯車へと力任せに押し潰し、金属が粉砕される凄惨な音が響き渡る。
俺は暗紫色の死神リングを嵌め、複雑に入り組んだ配管の隙間を縫うように走った。蛇腹剣が工頭の頸部の継ぎ目を断つたび、リングは強引に注入された魂の残滓を狂ったように吸い上げる。指輪が熱を帯びている。より純粋で、より高位な霊魂を渇望しているのだ。
「ワイスマン、この山を工場にした報いだ。ここをお前たちの墓場にしてやるッ!」
蛇腹剣をしならせ、銀光と紫光が蒸気の中で死の網を編み上げる。
その時、坑道の最深部から歯を剥くような機械の駆動音が轟いた。
ワイスマンが配備した「地脈圧砕機」が咆哮を上げた瞬間、シキは深藍の隕石となってその天蓋に激突した。鉄叉が突き立てられ、数トンの鋼鉄が重力によって床へと圧着され、火花が鉄の雨となって降り注ぐ。
「二基目は私が貰うわッ!」馬三娘が獰猛に笑い、爆薬を背負った数多の突火営を排気口へと流し込んだ。
「轟音――!!」
狭い坑道を火炎が暴走し、頬を焼くような熱風が通り抜ける。数億ドルを投じたLBTの尖端兵器は、俺たちというバグの前で三分と持たなかった。
だが、昇降機の前で俺たちは足を止めた。
六メートルの巨躯、巨大な蜘蛛を彷彿とさせる「骸骨執行官・三型」が、唯一の脱出路を塞いでいた。六本の脚はメスのように鋭利で、背には巨大な霊能バッテリー。何より悍ましかったのは、そのコア・ユニットに惨緑色の光を放つ半透明の胚が浮遊していたことだ。
「周先生。データによれば、あなたの破壊衝動は線形的に増大しているようだ」
ワイスマンの声が木霊する。「その機体は大武山の地脈中枢と直結している。パーツを一つ壊すごとに、この山の霊力は失われていく。……さて、どう解体するかな?」
「――知るかよッ!」
老高が重機関銃を掃射するが、水銀弾は抗霊装甲に弾かれる。
俺はあの胚を見つめた。リングから伝わる死の予感が、俺の内核を窒息させる。これは機械ではない。ワイスマンが魂をコードとして書き換え造り出した「バイオ・メカニズム」だ。
「三娘、シキ、こいつの主攻は俺がやる」俺は濡れたネクタイを引き千切り、蛇腹剣を床に引き摺りながら火花を散らした。「データが見たいなら、見せてやるよ。論理崩壊ってやつをな」
「老高、光学センサーを潰せ! シキ、重力で脚を固定しろッ!」
俺は咆哮し、電漿弾の弾幕を蛇行で潜り抜ける。リングがコアの非自然的な霊能に反応し、歓喜と嫌悪が脳内で激しく火花を散らした。
「了解だ! プユマの連中、フラッシュバンを全弾ブチ込めッ!」
老高が機銃を撃ち切り、銀の火花が機体の頭部で爆ぜる。シキの踏み込みが、見えない山の重圧となって蜘蛛の六脚を床へと圧し折った。
――今だ。
俺は伝送帯を蹴って宙へと舞い上がり、猟鷹のごとき軌道で身を翻すと、蛇腹剣を外殻の隙間へと正確に貫入させた。
「ワイスマン、よく見ておけ……これはデータじゃない。負債だッ!」
左手の五指を揃え、惨緑色の光を放つ生体液槽へと直接突き立てる。死神の指輪が溶液に触れた瞬間、暗紫色の死気が決壊した濁流のごとく、光ファイバーの導管を逆流して流れ込んだ。
【警告:不正コマンドの注入を検知】
【システムロジック……エラー】
要塞の放送スピーカーから、ついに余裕を失ったワイスマンの荒い呼吸が漏れ聞こえる。
死気の奔流に呑み込まれた胚が、見る間に乾き、風化し、無数の灰色の塵へと変わっていく。それは死などではない。初期化だ。俺はこの霊魂の容器に書き込まれたすべてのコードを、物理的に抹消したのだ。
「あああああ――ッ!!」
蜘蛛型機甲が、鼓膜を裂くような電子ノイズを上げた。全身の基盤から同時に火花が爆ぜ、重力と死気の双重の圧殺を受けた巨大な肉塊は、握り潰された缶詰のように、轟音と共に爆砕した。
衝撃波が俺の身体を跳ね飛ばし、坑道の岩壁へと叩きつける。喉の奥からせり上がる鉄錆の味――吐き出した鮮血が、焦げた泥土にどす黒いシミを作った。
「周!」
老高が駆け寄り、瓦礫の中から俺を強引に引きずり出した。
口元の血を拭い、黒煙を上げる巨大な残骸を見据える。右手のリングは、饗宴を終えたばかりのように、どす黒い光を湛えて静止していた。
「……大丈夫だ」
荒い呼吸を整えながら、剥き出しになった重型昇降機を睨みつける。「ワイスマンの防火壁は、たった今、突破されたぞ」
昇降機のゲートが緩慢に開き、二階【高階実験室】へと続く通路が、氷室のごとき死寂の白光を漏らしている。
「行くぞ」
震える身体を奮い立たせ、その眼差しをナイフのように鋭く研ぎ澄ます。「あの老いぼれの最後のデータも、残さずデリートしてやる」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




