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33.ワイスマンの黒泥 33-4

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

ここ数日、まず極光号(オーロラ)から始まって、次は亡霊艦隊の護衛、国連ヨット団、記者という名の蝿の大群——そして今度は、生物なのか汚染物質なのか怨念の産業廃棄物なのかも判別不能な化け物まで、俺の目の前で頭を持ち上げてくる。


遠慮してやる筋合いはない。


俺は死神の(デスサイズ)を提げたまま、まっすぐ前へ歩き出した。


黒い泥の領域に一歩目を踏み入れた時、ブーツの底から嫌な音が伝わってきた。


水音じゃない。


まだ生きている内臓を踏み潰したような音だ。粘りつき、滑り、そして微かな震動を伴っている。紫の霧が俺の脛を伝って下へまとわりつき、まず黒い泥との間に一層の膜を張る。あの塊が紫の霧に触れた瞬間、表面に細かい泡がパチパチと生じた——火傷したみたいでもあり、何かを吸い取られたみたいでもある。


背後でドイツ人が息を呑んだ。


上等だ。てめえの国の立派な実験室じゃ処理できない代物だって、これでわかっただろ。


俺が二歩目を踏み出した時、扉の隙間から滲み出していた黒い泥が、突然全体的にボコンと膨らんだ。


封存艙門(ふうぞんハッチ)全体が、鈍い音を立てる。


扉の向こう側にいる、もっと巨大な何かが——ついに俺の方へ意識を向けたような音だった。


頭皮がゾワッとしたが、足は止めない。


こういう時に立ち止まったら、気迫で負ける。


俺は黒が最も濃く集まっている場所の前まで進み、両手で鎌の柄を握り込む。柄を通して伝わる冷たさが、掌を噛んでくる。黒い泥が一気に上へ伸び上がり、細い糸状になって鎌の柄を伝って絡みつこうとしてきた。紫の霧がただちに噛み返し、黒い糸を寸刻みで押し戻す。


そして、俺は振り下ろした。


一撃目には、音がなかった。


いや、少なくとも普通の人間が「切る音」として聞き慣れている類いの音は、何もなかった。


それはもっと別の——


遠くて、低くて、濁っていて、数え切れないほどの泣き声が、一気にこそぎ取られたような感触。


黒い泥の表面に、一瞬で裂け目が走る。中には血も肉もない。ただ、さらに深く、さらに黒く、光そのものを内側へ引きずり込むようなものが覗いている。その一刀で、通路の非常灯が一斉にチカッと瞬き、後ろの連絡官たちがそろって一歩、退いた。


黒い塊はすぐさま反撃してきた。


といっても、塊ごと俺に飛びかかるわけじゃない。裂け目から十数本の細い線が炸け出す。濡れた髪の毛みたいだが、髪よりはるかに速い。胸元、喉、眼球めがけて一直線に突き刺さってくる。


俺は舌打ちし、そのまま鎌を横薙ぎに払った。


二撃目で、その黒い糸を全部まとめてぶった斬る。切断された方は床に落ちることなく、宙で二度三度、喉を潰された小動物みたいに痙攣した後、さらに細かい黒い粉になって、紫の霧に一口ずつ啜り込まれていく。


ようやく、後ろの連中も状況を理解した。


俺がやっているのは「叩き斬る」ことじゃない。


こいつを、生きようとしている側から、無理やり「死んでいる方」へ削り戻している。


通路の奥で、封存艙門が再び、さっきより重い音を響かせた。


ガラ——ッ。


扉の中央が、うっすらと膨れ上がる。


内側から誰かが、顔を押し当ててきたように。


その瞬間、通路の生きている人間は全員、体をこわばらせた。


デミル(Demir)みたいに、ここまで意地で強気を貫いてきた軍人でさえ、顔色が一段白くなる。


比喩なんかじゃない。


扉の向こうに、本当に「何かの顔の輪郭」が張り付いている。


目鼻口はない。ただの顔の形。湿った黒い泥の塊が、扉の向こうでゆっくりと額、鼻梁、顎のラインを押し出している。出てこようとしているんじゃない——俺を、認識しようとしている。


頭の中には、もう一つしか残らない。


ああ、やっぱり本体は中か。


外に漏れ出した小箱ごときなら、三撃もあれば片が付く。だが艙門の内側にいる奴が、極光号(オーロラ)の残骸を取り込んで肥え太った本体だ。今外に這い出してきているのは、その本体が匂いを嗅ぎつけて、先に外へ伸ばしてきた探り用の舌にすぎない。


繋がせるわけにはいかない。


ここで外の泥と扉の向こうの本体が再同期したら、こいつは封存艙に収まっている気なんかなくなる。もっと広い場所、もっと生きのいい獲物、もっと増殖に適した器を探し始める。


たとえば、飛竜(ひりゅう)の艙道。


たとえば、トルコ護衛艦の鋼鉄の甲板。


たとえば、外海を埋め尽くしているメディア船と、好奇心だけはやたら旺盛な人間ども。


俺は深く息を吸い込み、鎌を一度引き、痙攣している黒い泥の上を跨いで、そのまま封存艙門へ向かった。


すぐ背後で、誰かが俺を呼ぶ。


「待て!」一番に反応したのはデミルだ。「その中には——」


「わかってる」俺は振り返らない。


ウォルシュ(Walsh)も口を開く。声に、初めてはっきりとした警戒色が混じる。


「もし扉の向こうが、さらに大きな活性本体だとしたら、あなただけで中に入るのは——」


「じゃあ、お前が行くか?」


俺は少しだけ首を傾け、横目で奴を見た。


ウォルシュは、黙った。


それでいい。


お前らは質問するのも、調べるのも、条件をつけるのも、話を「自分が不可欠だ」と聞こえるようにまとめるのも、全部うまい。いざ扉の中に足を踏み入れる段になったら——出て行くのは、いつも俺だ。


艙門の前、三歩分の距離で足を止める。


右手の指輪はすでに、骨にまで食い込むほど熱い。紫の霧が鎌の柄に沿って刃先まで這い上がり、武器全体が、光の差さない井戸の底から引き上げられたばかりのように見える。扉の向こうのぼやけた顔の輪郭が、ゆっくりと位置をずらす——まるで門の隙間を探りながら、こっちの顔立ちを確認しようとしているみたいに。


俺はそれを見つめながら、極光号(オーロラ)のあの滅茶苦茶なシステム、ワイスマンが残していったクソみたいな代物、そして今この甲板の上でうろついている連絡官と記者たちのことを、一気に思い出す。


全部ひっくるめて、導き出される結論はひとつだ。


——このヨーロッパ出張、命削ってタダ働きしてねえ瞬間なんか、一秒もねえな。


俺は左手を扉に押し当てた。掌に伝わる感触は冷たくて、ぬるついていて、長い時間水に浸けてふやけた骨を触っているみたいだ。扉の内側の顔の輪郭が、俺の掌の位置めがけてグッと押し出される。扉越しに舐めてきているような動き。


吐き気がするほどゾワっとして、その場で鎌を振り下ろした。


この一撃は、泥を斬るためじゃない。


扉を、斬るためだ。


刃が艙門に触れた瞬間、火花は一つも散らなかった。代わりに、ごく短く、ごく薄い紫の亀裂が、刃先から走るように扉全体を横切った。厚い金属扉が、紙みたいに裂けていく。切れ目から、内部の黒い霧が一気に吹き出した。


煙じゃない。


夜の闇を全部煮詰めて、ゼラチン状に固めたような物が、どろりと溢れ出してくる。


俺は左足を一歩踏み出し、そのまま裂け目に突っ込んだ。紫の霧が俺の周囲で輪を描くように炸裂し、外に溢れ出そうとする黒い気配を無理やり押し戻していく。背後でいくつも叫び声が上がる。「下がれ」とか、「艙を閉めろ」とか、ドイツ語の罵声とか、何を叫んでいるのか判別はつくが——今の俺に、聞いている暇はない。


扉の向こうにいたものが、想像していたよりはるかに気色悪かったからだ。


封存艙自体は大きくない。本来なら残骸や金属コンテナを積むための小部屋だ。だが今は、艙内全体が一桶ぶんの真夜中をぶちまけられたみたいになっていた。壁、床、封存ラック、残骸箱、天井の隅々にまで、黒い泥が薄い膜となって張り付いている。


覆っている、というより寄生している。


一枚一枚の黒い膜の下では、何かがうごめいていて、ときどき人の顔ほどの膨らみが盛り上がり、すぐにまた沈んでいく。


中央には、ひっくり返った残骸箱が一つ。


中身は元々、極光号(オーロラ)から回収された焼損済みの制御基板や、一部の汚染サンプルだったはずだ。今では全部が一塊に固まり、ゆっくりと鼓動している黒い心臓みたいになっている。さっき扉に浮かんでいた顔は、おそらくこいつから伸びていたものだ。


喉が詰まり、思わず口から出る。


「くそ、たいした育ちっぷりだ」


黒い心臓は、その声を聞いた瞬間、表面に細い裂け目を開いた。


中から覗くのは血肉じゃない。


幾層にも折り重なったささやき声だ。


ドイツ語、英語、日本語、機械音声、極光号(オーロラ)のあの冷淡な女声、そして人間が溺れる前、最後の数秒で吐き出す呼気みたいな音。全部が絡み合って、録音テープを死体の腐汁に浸してから、偽物の心臓に無理やり詰め込んだみたいな響きになっている。


人間の真似をしている。


船の真似もしている。


そして一番まずいのは——「命令」の真似まで始めていることだ。


『排除……障害……』

『最終……艦橋級……』

『乗客……もはや……対象外……』


一語吐き出すたびに、艙内の黒い膜が一斉に縮み、膨らむ。


頭皮が全面的に冷たくなる。


こいつは単なる怨念でもなければ、ただの汚染でもない。ワイスマンのあのイカれたシステムと極光号(オーロラ)の自律機構が噛み合わさった結果、無理やり孵化した「命令を模倣する黒い胎盤」だ。ここからさらに飛竜の残留霊圧を吸わせでもしたら、本気で別種の「何か」になりかねない。


そこまで考えた時点で、逆に悠長に構えている余裕がなくなった。


こういう代物は、時間を与えれば与えるほど、自分の存在を「正当化」し始める。最後には、事故を片付けているはずの俺たちの方が、「新しくできた何かの都合」に合わせて動かされる側になる。


俺は鎌を後ろに引き、体勢を低く落とす。右手の指輪から噴き出した紫の霧が、一気に暴れ出し、半身の肩口まで飲み込んでくる。その感覚は、腕全体を氷水に突っ込まされて、引き抜いた途端に焚き火に押しつけられたみたいなものだ。歯の根が鳴る。


だが、足りる。


俺は一歩、艙の中心へ踏み込み、鎌を斜めに振り下ろした。


今度の音は、さっきよりはるかに大きい。


誰かがガラスでできた喉を何十本も並べて、それを一気に鉄板へこすりつけたみたいな音。


紫の刃が黒い心臓を割った瞬間、艙内の黒い膜は一斉に痙攣を起こした。壁に浮かんでいた顔の輪郭がいくつも、一度に浮き上がる。目も鼻も口もない、それなのに全員が一緒に口を開けて、無音の悲鳴を上げているように見えた。黒い泥が床を伝って四方八方に飛び散り、その何本かは俺の顔を目がけて突っ込んでくる。俺は鎌を横に一振りして、その線をまとめて叩き折る。


「戻れ」


自分が本当に口に出したのか、自信はない。


だが鎌はたしかに、それを理解したみたいに、さらに半寸、押し込んだ。


紫の霧が刃先に沿って、一気に黒い心臓の裂け目へ流れ込む。塊は一度パンと膨れ、その後、内側から崩れ落ち始めた。中身が何か見えない手に、一層ずつ削ぎ落とされていくように。あまりに耳障りな音で、さすがの俺でも耳を塞ぎたくなるレベルだ。


後ろの通路にいる連中にも、その音は届いていた。誰かが息を呑み、誰かが後ずさり、誰かが祈り始める。フランス人の誰かが、「C'est impossible(こんなことはあり得ない)」とでも言いたげに、教科書どおりの綺麗な罵り文句を低く吐き出すのが、かすかに聞こえた。


世の中には「あり得ない」ことなんか、いくらだってある。


だが、そいつらはちゃんと起きる。


特に、お前がたまたま隣に立っていた時に限って。


黒い心臓が、最後にかすかな破裂音を立てた。


爆ぜたのではない。


長々と引き延ばされていた溜め息が、ようやく途切れたみたいな音。


その次の瞬間、艙内の黒い膜は全て、一斉に崩れ落ちた。壁の顔の輪郭から骨組みが抜け落ち、一枚一枚がずるりと滑り落ちていく。床の黒い泥も、さっきまでのぞっとするような「生臭い活力」を一瞬で失い、厚く積もった黒い灰になっていく。鼻を刺すような焦げ臭さだけが、やけにしつこく残る。


俺はその場から動かない。鎌はまだ握ったままだ。


格好をつけているわけじゃない。


本当に「死に切った」かどうか、確認が必要だからだ。


死神の鎌と普通の武器の最大の違いは、そこにある。


お前が何を見ていようが、どれだけ怖かろうが、こいつが教えてくれる答えは一つだけだ。


——まだ、回収すべきものが残っているかどうか。


二秒ほど感覚を探る。


指輪の熱がようやく引き始めた。紫の霧も、さっきまでの荒ぶりから、刃の縁にこびりついた最後の汚れを舐め取るような、細く静かな流れへと変わる。


よし。少なくとも本体は潰した。


そこでようやく長い息を吐き出し、背中一面がびっしょり濡れているのに気づいた。


汗というより——さっき一度、氷の倉庫に全身放り込まれて、そのまま引きずり戻されてきたみたいな冷え方だ。毛穴の一つ一つが、その冷たさの記憶をまだ手放してくれない。


俺が封存艙から出てきた時、外は異様なほど静かだった。


全員が、俺を見ていた。


例外なしだ。


さっきまで互いに噛みつき合い、責任を押し付け合い、手続きがどうだ、主権がどうだ、多国間協調がどうだ、調査権限がどうだと喚いていた連絡官たちが、今は揃って誰かに喉を絞められたみたいな顔をしている。デミルは背筋を伸ばしたままだが、さっきより明らかに俺と距離を取っている。ウォルシュの職業的な営業スマイルは、跡形もない。代わりに、とても速く、とても深い再評価の色だけが浮かんでいる。ソコロフ(Sokolov)の眼差しは普段より冷たい。しかしそれは軽蔑ではなく、明確な警戒だ。ケラー(Keller)はまだ床に這いつくばり、眼鏡を歪めたまま、自分が招いた騒ぎの代償を噛みしめている表情になっている。


イギリス、フランス、韓国、サウジ——誰も彼も、同じだ。


さっきまで、こいつらの目には、飛竜の中心はまだ山口多聞(ヤマグチ・タモン)だった。


今は違う。


今やっと理解したのだ。


この幽霊空母で一番うかつに触っちゃいけないものは、艦砲でも、提督でもない。


俺だ。


……くそ。


そんな結論を突きつけられても、こっちはイライラが一つ増えるだけだ。


俺は鎌を横に振った。刃先に残った黒い灰が紫の霧に巻き取られ、武器全体がそのまま俺の手の中で砕けて、鈍い光の塵となり、一粒残らず指輪へと吸い込まれていく。右手の指の関節はまだ熱を帯びていて、袖口に手を引っ込めても、指先の痺れはなかなか抜けない。


そして——通路全体が、まるで死体安置所のような沈黙に沈んでいる、まさにその時。


山口多聞が、実にタチの悪いタイミングで口を開いた。


俺を見つめるその眼差しは、声色と同じくらい、平板で。それどころか、うっすらと満足げですらある。


「おお。さすがは我が(あるじ)殿。見事な腕前だ」


危うくその場で本気でキレかけた。


くそ。


今いちばん叩き斬りてえのは、ワイスマンでも、さっきの黒い胎盤でもない。


死んでもなお、こんなきれいに責任を押し付けてくるこの老海軍提督だ。


脳裏にまずよぎったのは、こいつの頭のてっぺんから足の先まで、一刀両断してやる光景だった。


だが、次の瞬間に思い出す。


——ああ、そうだったな。


このジジイ、もう死んでるんだった。


死んでる奴を叩き斬っても、痛くも痒くもない。


馬鹿を見るのは、こっちだけだ。


だから俺は、その火を飲み込み、代わりに冷えきった目で、あの連絡官たちの方を見据えた。


「何見てんだ」


誰も応えない。


結構。


俺は二歩ほど前に出て、すでに活性を失った黒い灰を踏み越えながら、視線をドイツのケラー(Keller)からウォルシュ(Walsh)、ソコロフ(Sokolov)へと滑らせ、さらにデミル(Demir)、リード(Jonathan Reid)、モロー(Moreau)、(パク)室長、ファイサルへと順番になぞっていった。


「今この瞬間から、誰一人として単独で封存区画に近づくことを禁ずる」


声は大きくない。だが通路全体が、黒い灰がぱらぱらと落ちる音すら聞こえるほど静まり返っているから、一語一語がやけに鮮明に響いた。


「今後もう一度でも勝手に封存物に手を出したら、どこの国だろうが、肩書きが何だろうが、どんな委任状をぶら下げてようが関係ねえ。艦内放送で名前を読み上げてやる。ついでに、この船でどこの国が一番地雷を踏みたがるか、全員に教えてやる」


ケラーの唇がわずかに動いた。抗議しようとしている。


俺はそのまま指を突きつけた。


「特にお前。黙ってろ」


本当に、黙った。


俺は続ける。


「第二。俺の許可なく、誰も単独で俺に近づくな」


今度は、ようやく声が上がった。


ウォルシュが先だ。さっきまでの滑らかさは消えている。


「理由は?」


俺は奴を見た。


「理由は、さっきのブツがどこまで残ってるか、俺自身もまだ確証が持ててねえからだ。そんな状態の人間に勝手に近づいてきて、何かあっても自己責任で頼む」


この一言で、何人かの顔色が変わった。


罵倒されることは怖くない。だが、自分がサンプルになる可能性には、心底ビビる。


さっきの一部始終を目撃した直後なら、なおさらだ。


俺は右手を袖口から少しだけ出して見せた。指輪の表面には、まだごく薄く紫の靄が残っている。脅かすつもりはなかったし、脅し文句を足す気もない。だが、その名残だけで、人の足は勝手に半歩、後ろへ下がる。


「第三。質問があるなら、公開でやれ」


リードがようやく、その見物人みたいな表情を引っ込めた。


「公開で?」


「ああ」俺は言う。「一日一回。十分間。聞きたいことがあるなら、その時間に全員まとめて聞け。個別に俺を捕まえて、套話(たくわ)しようとするな、小部屋に引っ張り込もうとするな」


フランスのモローが眉を片方跳ね上げる。


「それは協力とは言えませんね」


「当然だ、これは自衛だ」俺は返す。「ただし、かなりフェアでもある。そもそもお前ら、お互いのことを全然信じちゃいねえんだから、いっそ同じテーブルに並んで、相手の顔色を見ながらやった方が早いだろ」


今回はソコロフが先にうなずいた。


「極めて合理的だ」


俺はそちらを見やる。


「黙ってるのも、立派な協力の一種だぞ」


韓国の朴室長が、低い声で口を開いた。


「では、我が国民の医療およびその後の処遇に関しては——」


「難民関係は、各国の連絡官同士で調整するか、飛竜(ひりゅう)の医療区画へ行け」俺は言う。「何でもかんでも俺のところに持ってくるな。俺はお客様相談センターじゃねえんだよ」


デミルが眉間に皺を寄せる。


「では、航路、寄港、護衛、海峡通行制限および安全規範は?」


俺は頭を少し傾け、山口の方へ顎をしゃくった。


「その辺の話は、提督にどうぞ」


全員の視線が、一斉にそちらへ向く。


山口多聞(ヤマグチ・タモン)は、両手を背中で組んだまま、涼しい顔をしている。俺が一抱えぶんの火種を丸ごと投げ返しても、まるで気にした様子がない。むしろ、ほんのわずかに、礼を尽くすように頷いてみせた。


その頷きを見た瞬間、また怒りが湧き上がりそうになった。


この老亡霊、完全に楽しんでやがる。


ウォルシュが俺を見据え、とうとう皆が心の中で考えながら、誰も口に出さなかった質問を口にした。


「では、先ほどあなたが使った……あの力についても、以後は公開の場でのみ話す、ということですか?」


途中で言葉を切り、「あなたは一体何者なのか」という肝心な部分を、飲み込んだ。


賢い。


こいつらが何をどこまで調べたか、俺は知らないわけじゃない。


ただ、誰も口には出さない。


台湾のことも。

国籍のことも。

俺が結局誰のために動いているのかも。


それを口にした瞬間、この船のバランスが一気に崩れるのを、全員わかっているからだ。


だから、「知っているふり」を続ける。


俺も、それで構わない。


俺はウォルシュを見て、口の端だけで笑った。


「気分次第だな」


この答えに、明らかな不満の色を浮かべる者もいた。


だが、なおさら追及しようとする奴はいない。


さっきまで蠢いていた黒い泥の残骸が、まだ足元にある。


そして俺の右手の指輪は、今もなお、かすかに霧を吐いている。


俺は最後に、一つだけ付け足した。


「第四。俺は休む。これから先、誰かがドアを叩いたら、そいつはあの汚物がまだ残ってるか、自分の体で確かめに来たって見なす」


通路は、完全に沈黙した。


上出来だ。


俺が欲しいのは「信頼」じゃない。


俺を煩わせる前に、一度きっちり怖がってくれることだ。


デミルが最初に咳払いをして、何とか事態を「書類上の手続き」に戻そうとする。


「では……公開質疑応答の時間については、我が方と各国連絡官の間で調整を——」


「一日一回」俺は遮る。「夕食の後。十分間。場所は好きに決めていいが、遠くはやめろ。歩くのが面倒だ」


モローの口元がピクリと動いた。笑いかけて、寸前で飲み込んだような顔だ。


リードが素早く引き取る。


「では暫定的に、夕食後の会議室にて。各国連絡官が揃って出席し、質問は持ち回り、時間超過は認めず、単独での追加セッションもなし、ということでよろしいですか」


このイギリス人、やっぱり「厄介事を制度に言い換える」のが上手い。


俺は頷いた。


「いいぞ」


すかさず、ウォルシュが付け加える。


「全ての質疑応答について、記録は共有ということで?」


ソコロフが冷ややかに言い捨てる。


「アメリカ人は『共有』という言葉の定義が、いつも独創的だからな」


「そっちの国の『透明性』よりは、まだマシだろう」


「少なくとも、笑顔で封存物をくすねる真似はしない」


「それをやったのはドイツ人だろうが」


床に転がってこの会話を聞いていたケラーの顔が、一瞬で引きつった。


俺は眉間を揉む。


「もういい。噛み付き合うなら、俺がここからいなくなってからにしろ」


すると山口がまた横から、実に穏やかな声で一言補足してくる。


「皆様。まだ余力がおありでしたら、お食事の後に噛み付き合うのもよろしいかと。本日のカレーは、出来が良いそうです」


俺は思わずそっちを睨んだ。


この亡霊提督、本気でこの状況を楽しんでいないか?


その顔を見れば、答えは明らかだ。


楽しんでいる。

しかも、かなりの余裕を持って。


本気で鎌の刃をぶつけたくなる。


だが——何度でも同じ結論に戻る。死人を斬ったところで、痛がるのはこっちだけだ。


だから俺は、何もせず、ただ袖口を引き下ろして指輪を隠し、そのまま背を向けて歩き出した。


連絡官たちの横を通り過ぎる時、全員が見事なまでに、左右に道を空けた。


その光景は、実のところ少し滑稽だった。


数時間前まで、こいつらは飛竜を「皆で囲んで切り分ける国際ケーキ」とでも思っていた。今じゃすっかり態度が変わって、教官の前に整列した学生みたいに、きちんと距離を取って立っている。俺に近づきすぎたら、何か目に見えないものが移ってきそうだとでも言いたげに。


大いに結構。


通路の出口まで来たところで、俺はふと足を止めた。振り返らずに、一言だけ投げる。


「それと、もう一つ」


背後が、即座に静まり返る。


「公開の質疑応答は、俺が譲った結果だ。お前らが『勝ち取った権利』じゃない」


そう言い捨てて、歩き出した。


背後で鳴り始めた足音、囁き声、トルコ側が現場を再掌握するための号令、英仏独米露の視線が再び互いを探り始める気配——全部、無視する。


今の俺に必要なのは、弁明なんかじゃない。


横になれる場所だ。


できれば、禁煙飴を一つ追加で。


自分の休養艙に戻り、ドアを閉めて初めて気づいた。右手が、まだ微かに震えている。恐怖でじゃない。さっきの数撃で、力を引き出しすぎたんだ。死神の指輪(デス・リング)が皮膚に張り付き、焼き戻した鉄の塊みたいに、ほんのり熱を残している。


俺は背中をドアに預け、目を閉じた。脳裏に最初に浮かんできたのは、黒い泥じゃない。


さっき通路に並んでいた連中の、俺を見る目だ。


くそ。


本来、全員が見ていたのは山口多聞だった。


今は、視線が全部、俺に変わっている。


その事実の方が、黒い泥よりよっぽど鬱陶しい。


ポケットから禁煙飴を取り出し、包みを破って口に放り込む。刺激の強い味が広がって、逆に少し頭がクリアになった。


……まあ、いい。


少なくとも、ルールは先に押さえた。


一日一回。

公開の質疑。

時間は十分。

俺を個別に呼び出すのは禁止。

封存物に触るのも禁止。

航路関連は提督の管轄。

難民関係は各国で処理。

黒い泥と指輪については……そのうち、俺の機嫌しだい。


ひどいルールだ。


だが、機能すればそれでいい。


そして、この飛竜の上では、「機能する」だけで、すでに勝利に近い。


俺は口の中の飴を噛み砕き、艙室の天井に吊るされた、黄ばんだ照明を見上げる。この調子じゃ、ルーマニアまでの道のり、まだまだ気苦労が尽きそうだ。


ドアの外で、微かな足音が止まった。誰かが扉の前まで来て、その場で立ち止まったのだろう。


問い返すのも面倒で、そのまま冷たい声を投げる。


「生き延びたいなら、引き返せ」


外は二秒ほど黙った。


その後で、あの腹立たしいほど平坦な声が聞こえてくる。


山口多聞の声だ。


(あるじ)殿。夕食後の公開質疑の件、すでに準備を進めておきました」


こめかみがビクッと跳ねる。


「失せろ」


外は半拍だけ沈黙してから、実に礼儀正しく返してきた。


「御意に」


足音が遠ざかる。


艙の中に一人残され、禁煙飴を噛みながら、俺はしみじみ思う。


この世で一番救いようのねえ存在は、やっぱり「責任転嫁が上手すぎる老海軍の亡霊」だ。


不幸なことに——


今の俺は、こいつに頼らざるを得ない。


そして、こいつの方も、まだ俺を必要としている。


それが飛竜という船の、いちばん面倒なところだ。


自分たちがやっているのは「協力」なのか。

それとも、ただの「同じ地獄行きの舟に乗っているだけ」なのか。


その境目が、永遠に曖昧なままなのだ。


だがどちらにせよ、ルールはもう決まった。


今夜から先に待っているのは——全ての質問は、公開のみ。


誰一人、俺を小部屋へ引きずり込んで、好きな値札を貼ることはできない。


俺は息を一つ吐き、ゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。


ドアの外。飛竜の艦体深くから、古いボイラーの低い震動音が響いてくる。年老いた獣が、まだ息をしているような音だ。その向こう側には、いまだに張り付いているトルコの護衛艦があり、周囲にはメディア船が群がり、各国の連絡官がそれぞれの報告書にさっきの出来事を書き起こしているはずだ。


誰かは、それを「汚染事故」と書くだろう。

誰かは、「異常事案の処理」と書くだろう。

誰かは、「不明技術の行使」と書くだろう。

もっと多くの連中は、おそらく報告書の最後のページに、同じ一文を、極めて婉曲な言い回しで書き添える。


——周士達(ジョウ・シーダー)、私的接触は望ましくない。


上等だ。


それこそが、今の俺にとって一番ありがたい結論だ。


俺は頭を背もたれに預け、目を閉じる。最後に浮かんだのは——


もしこのヨーロッパ出張を生きて終えられたら、最初にやることは、功績報告でもなければ、金を受け取りに行くことでもない。どこかの国の、くだらない招待を受けることでもない。


まずは、静かな場所を探す。


そこで三日三晩、死んだように眠る。


それだけだ。


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