33.ワイスマンの黒泥 33-3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
中層右舷の警鈴が鳴り出した時、俺は食堂の端で、イギリス人とフランス人が違う訛りで同じ戯言を垂れ流すのを聞かされていた。
一方は「限定的かつ透明性の高い情報交換メカニズムの構築」を希望すると言い。
もう一方は「相互尊重を前提とした調査の柔軟性を確保」すべきだと言う。
台湾語に翻訳すれば、大体こうだ——
你先把你知道的全吐出來,但我不保證我會回你同樣多。
(要するに、てめえの知ってることを全部ゲロしろ、ただしこっちが同じだけ返す保証はねえ)
半分寝かけていたのに、あの三回の短い警報が響いた瞬間、逆に頭が一気に冴えた。
ここ数日、飛竜がどれだけ幽霊じみていようが、その幽霊ぶりには徹底した秩序があった。腐乱した水兵、腐乱した軍医、炊事兵、見張り、荷役係——誰も彼もが山口の古い海軍流を忠実にトレースして動いている。
この船で一番不気味なのは、死人そのものじゃない。
死人の方が、生きてる連中よりよっぽど規律正しいって事実だ。
だから——戦闘警報じゃないのに艙内でいきなり警鈴が鳴ったとなれば、普通は一つの意味しか持たない。
生きてる誰かが、余計なことをやらかした。
俺が立ち上がると同時に、右側の通路から腐乱した水兵が一人、小走りで駆けてきた。軍帽を目深にかぶり、左頬はごっそり削げているが、声だけは妙に落ち着いている。
「周士達さん。中層封存区画、異常漏出」
封存区画と聞いた瞬間、胸の奥が沈む。
アメリカのウォルシュ、ロシアのソコロフ、ドイツのケラー——こいつらは乗艦してからずっと、大人しくしていた試しがない。昼間は建前上、難民だの航路だの人道手続きだのを回っているが、実際には視線の先は一つだけ——極光号から引き揚げた残骸、記録、封存サンプル、そしてワイスマン関連のあらゆる物。
その場で一言、吐き捨てる。
「くそ」
隣のフランス人が何事かと聞こうとしたが、無視して踵を返した。イギリスのリード(Jonathan Reid)は賢い。何も尋ねず、ただゆっくりティーカップを置いて俺の後に続く。第二ブロックの艙梯まで来る頃には、背後の足音は一人二人じゃなく、ぞろぞろとした列になっていた。
上等だ。
蠅が全員、釣れた。
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飛竜の中層右舷封存区画は、そもそも人間がのんびり散歩するような場所じゃない。
旧火器管制庫と予備弾薬庫を改装した倉庫群に近いあの一帯は、天井が低く、艙壁は年中湿っていて、照明はどれも死にかけたような黄色だ。昼間通るだけでも気が滅入るのに、夜ともなれば——誰かが意図的に棺桶の廊下を一本、長々と引き伸ばして歩かせているような気分になる。
第三の横通路に折れたところで、最初に鼻を突いたのは海水の匂いじゃなかった。
錆びた鉄に、焦げたプラスチック。
そこに腐った肉の臭いをひとつまみ。
その匂いは間違えようがない。
極光号で一度嗅いだら、一生忘れられない類の匂いだ。
ワイスマン由来のあの化け物じみた物質の、いちばん厄介なところは黒いことじゃない。
——「本来、絶対に混ざるはずのないもの同士を、無理やり掻き混ぜて一体化させた」ような臭いがすること。
しかも、掻き混ぜてる奴が心底楽しんでやってる。
通路の前方はすでに封鎖されていて、腐乱した水兵が二人、旧式小銃を横ざまに構えて立ちふさがり、その向こうに人だかりができていた。トルコのデミル中佐の顔は、今すぐボスポラス海峡ごと吹き飛ばしそうなほど険しい。いつもニコニコしているウォルシュの顔からは、笑みがようやく引っ込んでいる。ソコロフは一番外側に立ち、腕を組んだまま、誰が最初に手を出したか告白を待っている処刑人みたいな目つきだ。
ドイツのケラーは、腐乱した水兵二人に床へ押さえつけられ、眼鏡を曲げたまま、それでも半分だけ開いた金属封存ボックスをしがみつくように握りしめていた。
黒い泥は、あの箱から漏れ出していた。
いや、違う。
「漏れる」なんて言葉は、生ぬるすぎる。
あれは単純に流れ出したわけじゃない。異常なほどの黒さ、異常なほどの粘り気、挙げ句の果てには自分で進行方向を判断しながら、鉄板の継ぎ目に沿って前へ這い進んでいる。水でもない、油でもない。濡れた影を削り取って練り直し、そこに少しばかり神経と悪意を練り込んだような代物だ。
非常灯の光の下で、その塊の表面はかすかに波打っている。まるで誰かが下で呼吸しているみたいに。
胃がその場でギュッと縮んだ。
「誰が開けやがった?」
ケラー(Keller)は床に押さえつけられながらも、まだ口だけは強気だった。
「封印はもともと破損していた。私はただ確認のために——」
「確認なんざ知るか」
俺はその場でしゃがみ込み、奴の顔の真正面で怒鳴りつける。
「てめえ、これが何だかわかってて触ったのか?」
「もしこの中に極光号事件に関連する汚染源が本当に含まれているなら、なおさら——」
「なおさら、てめえみたいなドイツの役人が素手でほじくり返すべきだって?」
ケラーの顔色が悪くなるが、まだ意地を張っている。
「ホフマン教授は我が国の国民だ。これらの物証は彼と——」
「今ここで飛竜ごと全滅させてみろ。ホフマン教授は証人じゃなく、ただの遺体になるんだよ」
横からウォルシュ(Walsh)が割り込んでくる。語調は相変わらず平静だ。
「まず責任の所在を明確にすることを提案します。今は感情的になるべき時ではない」
俺は立ち上がり、振り返って奴を見る。
「どの口が言ってんだ?」
ウォルシュは俺を見据えたまま、一歩も引かない。
ソコロフ(Sokolov)がその場で鼻で笑った。
「アメリカ人の言う通りだ。まず責任を明確にしよう。例えば、誰が最初の封印を破り、誰が第二の封存記録を消し去ったのか」
ウォルシュの目に、ようやく冷たいものが宿る。
「それは告発ですか?」
「忠告だ」ソコロフが返す。「協力を謳いながら、夜中にコソコソと倉庫に忍び込むのが大好きな国があるからな」
デミル(Demir)はすでに完全にブチ切れている。
「いい加減にしろ!ここは現在、トルコ護送下の危険封存区域だ。いかなる国も、無通報で——」
言い終わらないうちに、あの黒い泥の塊が前方へ向かってビクッと震えた。
流れる速度が上がったわけじゃない。
泥の線全体が、内側から何かに引っ張られたように、地面に張り付いたまま「シッ」と音を立てた。極めて短く、極めて軽い音。だが、通路にいる全員を同時に黙らせるには十分だった。
俺はその黒い泥の先へ視線を這わせる。
前方の分厚い封存艙門の下から、同じ黒い痕跡がじわじわと滲み出してきている。まるで扉の向こう側にもっと巨大な塊があって、外に「漏れ出した」この部分と再び接続しようとしているかのように。
まずい。
これは単なるサンプル漏出じゃない。
こいつは、道を探している。
二人の腐乱水兵も明らかにそれに気づいた。一人が半歩前に出て、銃剣の切っ先を黒い泥に向ける。動作は極めて標準的だった。だが次の瞬間、泥の表面にごく小さな凸点がポコッと膨らんだ——内側から誰かが軽く突き上げたみたいに。
その水兵の手が、ピタリと止まった。
奴だけじゃない。
その場にいた他の腐乱水兵たちも、全員が同じタイミングで動きを止めた。
はっきりと見えた。
恐怖じゃない。
触れられない。
こいつは奴らにとって、敵軍でもなければ生者でもない。銃剣や素手で押さえつけられる代物じゃない。飛竜の秩序に属さず、いかなる正常な艦上事故の範疇にも収まらない何かだ。
山口多聞が到着したのは、まさにその時だった。
通路の反対側から歩いてくる。足取りは極めて安定しており、少し言うことを聞かない区画を見回りに来ただけのような雰囲気だ。あの黒い泥と、扉の隙間から滲み出す第二層の汚染痕を目にしても、眉をわずかに寄せただけ。その表情は、誰よりも澄み切っていた。
「状況を」
デミルが即座に口を開く。責任を真っ先に放り投げようとするような早口だ。
「貴艦の封存物が漏出!ドイツ連絡官が無許可で証拠物に接触、さらに別の何者かが先に封印を——」
山口が手を上げる。
「責任を問うているのではない」
俺を見る。
「周士達」
俺は息を吸い込んだ。鼻腔の奥まで、あの吐き気を催す鉄の悪臭が満ちる。
「黒い泥は単なる残留物じゃない。道を探してる。外のやつは呼び水で、扉の中にいるのが本体だ。腐乱水兵は触れない。あんたもわかってるだろ——こいつを飛竜の艙壁に染み込ませるわけにはいかない」
山口は一言だけ問う。
「処理できるか」
俺はあの扉を見つめたまま、すぐには答えない。
心の中には、とっくに答えが出ていたからだ。
問題は、できるかどうかじゃない。
問題は——くそ、今から馬三娘を呼んでも間に合わない。
牛小琴と馬三娘のラインは、今はこの区画にいない。ここで喉が裂けるほど叫んだところで、奴らが駆けつける頃には、この黒い泥は鉄板の継ぎ目に潜り込み、ケーブルダクト、排水孔、通気管を伝って外へ這い広がっているだろう。
黒い泥が一度飛竜の本体に食い込んだら、封存区画一つの問題じゃ済まなくなる。
まず艙内を汚染して、次に制御ケーブルを侵食して、機械に触れて、それからもともと死に方が穏やかじゃなかった残留霊圧を刺激し始める。そうなったら飛竜だけの問題じゃない——周囲のトルコ護衛艦も、外で追いかけ回しているメディア船も、上空でまだブンブン飛んでいるドローンも、全部まとめて次の事故の素材になりかねない。
そうなったら、口が千枚あっても言い訳できない。
誰が最初に箱を触ったのか説明できない。なぜ幽霊空母が黒海の入り口で超常汚染事件を起こしたのか説明できない。もしこの汚物がトルコ軍艦に飛び移ったとして、それをファンタジー版第三次世界大戦の開幕と呼んでいいのかどうかも、説明できない。
俺はその場でもう一度、吐き捨てた。
「クソったれが」
ウォルシュはてっきり俺がドイツ人を罵倒したと思ったらしく、何か言いかけた。俺は直接奴を押しのけた。
「全員、下がれ」
誰も動かない。
俺は顔を上げ、その場の全員を一瞥した。声を一段落とす。
「もう一回言う。全員、下がれ」
今度はデミルでさえ手続きを主張しなかった。すぐに手を振って自分の部下を後退させる。英仏独の連絡官たちは不満そうに下がったが、本当に近づこうとする奴は一人もいない。ソコロフは下がりながらも、あの黒い泥から目を離さない。まるで視線だけでモスクワまで持ち帰ろうとしているみたいだ。
俺が最前列に立った時、右手はすでに熱くなり始めていた。
死神の指輪が皮膚に張り付き、最初に来るのは馴染みのある灼熱感——それから、もっと深い層から、細い針が血管を伝って這い上がってくるような冷気。その感覚が嫌いだ。砕いた氷と燃える炭を一緒に骨の中に詰め込まれて、「さあ、お前の番だ」と告げられるような感覚。
俺は右手を見下ろした。
紫色の霧が、指輪の表面から一筋一筋、滲み出している。
後ろでデミルの声が少し掠れた。
「あれは何だ——」
「黙れ」俺は振り返らない。
紫の霧は最初、指の隙間から溢れる程度だったが、あっという間に手の甲全体を伝って巻き上がっていく。煙じゃない、煙より重い。炎でもない——死人の喉から吐き出された寒気そのものだ。光が当たると、霧の縁に薄い黒の輪郭が浮かんだ。光でさえ、近づくのを躊躇っているみたいだ。
通路の全員が静まり返った。
連絡官だけじゃない。
腐乱した水兵たちまでが、半歩後ろに引いて、より広い通り道を空けた。
ケラーが地面でかすかに息を呑む音が聞こえた。イギリスのリード(Jonathan Reid)はいつの間にかポケットから手を抜いていた——立ち姿が少し無造作すぎると、今さら気づいたかのように。ウォルシュの、いつでも保険を売れそうな笑顔が、今度こそ本当に消えた。ソコロフは目を細め——その目つきは初めて、計算じゃなく、純粋な判断だった。
山口多聞は一番外側に立ち、両手を後ろで組んで俺を見ていた。何も言わない。
俺は右手の五指をゆっくりと開く。
紫の霧が掌の中で一瞬沈んだ——別の次元から、何かの重みが押し寄せてくるように。
次の瞬間、黒い光が一閃した。
死神の鎌が、俺の手の中に現れた。
天から降ってきたわけでも、舞台手品みたいに突然現れたわけでもない。
もともとずっとそこにあって、ただ今この瞬間、ようやく生きている人間たちに姿を見せることにした——そういう出方だった。長い柄は暗黒色で、表面には古い血が乾いて変色したような鈍い光沢がある。刃は冷たく湾曲し、その縁は金属の反射光じゃなく、ほとんど透明に近い灰白色だ。
鎌が現れた瞬間、通路全体の温度が一層分、強引に剥ぎ取られたように下がった。呼吸するたびに、空気がわずかに刺さる。
後方で誰かが小声で悪態をついた。言語は判別できないが、感情は十分すぎるほど明確だった。
俺は鎌を一度、手の中で持ち直した。手応えは以前と変わらず最悪だ。
重さの問題じゃない。
この物を握るたびに、毎回同じことを思い知らされるからだ。
——今お前がやってるのは、生きてる人間の仕事じゃない。
前方の黒い泥が、何かを感知したように全体を後ろへ縮め、続いて極細の先端部分をすっと持ち上げた。
蛇みたいに。触手みたいに。床の影から伸び出した、小さな舌先みたいに。
こいつ、俺を試してやがる。
俺はそれを見つめながら、急にまた腹が立ってきた。
くそ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




