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33.ワイスマンの黒泥 33-2

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

最初にやらかしたのは、ウォルシュだった。


いや、「やらかした」というより、「現場を押さえられた」と言うべきか。


飛竜の中層、右舷側に、古い艦内通路が一本ある。普段、俺でさえあまり近づきたくない場所だ。


湿気がこもり、空気はよどみ、照明も、ついたり消えたりを気まぐれに繰り返す。歩いていると、本当に「会いたくない年長者」に呼び出されている気分になってくる。


山口は、極光号(オーロラ)から引き揚げた残骸と資料の一部を、その通路の先にある旧式射撃管制庫に封じ込めている。扉の外には、腐った水兵が二人、持ち回りで立っている。


で、その日の午後三時過ぎ。俺がちょうど、英仏独の三カ国連絡官に、同じ五つの質問をローテーションで繰り返されているとき——


背後から、水兵が報告に来た。


ウォルシュ中佐が、封鎖区画への侵入を試みた、と。


「侵入を試みた」という表現は、ずいぶんと婉曲だ。実際は、どこからかかき集めてきた「臨時通行証」を片手に、笑顔で見張りの水兵に、


「危険物サンプルの安全確認に来ただけだ」


そう説明しながら、通してもらおうとしたらしい。


で、門番は——一切、取り合わなかった。


なにしろ、門番は死人だ。


死人には、ひとつだけ最高の長所がある。

こっちが笑いかけようが、圧力をかけようが、肩書きをちらつかせようが——出世したいなんて欲望は、微塵もねえ。


俺が駆けつけたとき、ウォルシュ(Walsh)はちょうど艙門(ハッチ)の前に立っていた。表情はまだ平静を保っている。

左右には腐乱した水兵が一人ずつ。きっちり直立して、まるで礼儀正しい墓石が二本、通路を塞いでるみたいだった。


「これは誤解ですよ」

ウォルシュは俺を見るなり、先に笑った。

「私はただ、あの極光号(オーロラ)の残骸に、二次汚染のリスクがないか確認したくて」


「お前らアメリカ人の『確認』の定義って、ずいぶんアクティブだな」


「もし中にワイスマン関連の資料が本当に含まれているとしたら、みんな、一刻も早く把握したいはずでしょう?」


「みんな?」

俺は奴を見た。

「それとも、『お前ら』か?」


そのとき、背後からもう一つ、足音が追いかけてきた。


ソコロフ。


奴はウォルシュを一瞥し、それから艙門を見て——鼻で笑った。


「間に合ったようだな。アメリカ人はいつだって、世界中の代わりに真っ先に検品するのが一番得意だ」


ウォルシュがそっちを向く。


「あなたこそ、ここには散歩しに来たんですか?」


ソコロフは、笑いもしない。


「私はただ確認しに来ただけだ。ある国が、自分の物でもない物を先にポケットに突っ込んでいないかをな」


上等だ。

同じ骨の匂いを嗅ぎつけた犬が二匹。


俺はその真ん中に立ちながら、急に自分が町内会長にでもなって、隣人の水道メーター泥棒を仲裁してる錯覚に陥った。


「よく聞け」

俺は艙門を指さす。

「中にある物は、今この時点ではお前らの物でも、あいつの物でも、俺の物でもない。少なくともルーマニアに着くまでは、触った奴が漏れなく呪われるだけの事故残骸だ。調べたいなら、構わねえよ。港に着いてから、正式に手続き踏め。今ここで、もう一回でもこの扉に指一本触れたら、艦橋の放送で名前読み上げてやる。ついでに、この船でどこの国が一番コソコソやるのが好きか、全員に教えてやるよ」


ウォルシュはまだ何か言いたそうだったが、先に口を開いたのはソコロフだった。


「フェアだ」


俺は奴を一瞥する。


「黙ってるのも、立派な貢献の一つだぞ」


表向きには、これで一旦収まった。


だが本当の厄介事は、こいつらが現場を押さえられたことじゃない。

アメリカ側もロシア側も、相手が同じ物を探してるって、もう確信してしまったことだ。


この前提さえできちまえば、その先が静かで済むわけがない。


---


海峡の半分を過ぎた頃には、メディアは完全に狂っていた。


沿岸で飛竜(ひりゅう)の姿を捉えられそうなポイントには、ほぼ全部、人が張り付いている。

何機かのニュース・ヘリは、トルコ海軍に警告されるリスクも構わず、外周をぐるぐる旋回。

ドローンは蚊みたいに船団のまわりを飛び回り、中には甲板すれすれを掠めようとしたバカもいたが、飛竜に据え付けられた旧式対空機銃の銃口がクイッと向いた途端、即座に高度を上げて空気を読んだ。


山口多聞(ヤマグチ・タモン)は、発砲命令を出さなかった。


出したのは、全主砲の砲衣を外せという命令だけ。


その光景は、実際に撃つよりずっと効き目があった。


記者たちは一瞬で、距離感というものを学習した。


艦上のリエゾン担当たちは、それぞれ衛星電話を取り始める。顔つきは誰も彼も便秘三日目みたいに微妙で、いちいち盗み聞きするまでもない。何をやってるか、丸わかりだ。


上から飛んでくる問いは——


映像はコントロールできそうか?

世論はどう誘導する?

まず人道を前面に出すべきか?

それとも、先に安全性を強調するか?

ワイスマンの責任は、最終的にどこの国の背中に乗せる?

日本政府が絡んでいる兆候は、何か一つでもあるか?

周士達(ジョウ・シーダー)とは何者だ?

山口多聞は、「生きている」と見なしていいのか?


問いは増え続け、答えは書けば書くほど地獄行きの文章になる。


いちばん笑えるのは、どこの政府も同時に二つのことをやってるって事実だ。


対外的には、自制を呼びかけ。

対内的には、「少しでも多く取れ」とケツを叩く。


実にインターナショナル・ポリティクス。

実に、どいつもこいつも厚顔無恥。


夕方、飛竜は正式に海峡を抜け、黒海へと針路を取る。

トルコの護衛艦はなお陣形を維持していて、俺たちを完全に自由にするわけじゃないが、距離を限界まで詰めてくることもしなくなった。

岸の街は遠ざかったのに、レンズの数は減るどころか増えている。

ニュース船、チャーターした高速艇、さらには度胸だけは一人前の個人所有ボートまでが外周をうろつき、まるで海の上のスーパースターでも追いかけているみたいだ。


俺は甲板に立って、その光景を眺めながら、頭の中には一つの感想しか浮かばない。


——このクソみたいな世界は、自分で招いた滅びによくお似合いじゃねえか。


---


夜になって、最初の正式な衝突が来た。


砲でもない。

艦でもない。

人だ。


二十一時十六分。林雨瞳(リン・ユートン)のいる医療区画から、最初の騒ぎが上がる。すぐ後に、中層通路の警報。

それから、船内放送が三回だけ短く鳴った——戦闘警報じゃない。内部封鎖の合図だ。


そのとき俺は、ケラー(Keller)に医療記録を、モロー(Moreau)に難民移送のフローを同時に問い詰められていた。

警報を聞いた瞬間、ろくでもない予感しか起きなかった。


ここ数日、飛竜はたしかに幽霊じみてはいたが、幽霊なりの秩序は保っていた。

そんな船内で急に区画封鎖がかかったとなれば、十中八九——生きてる人間の誰かが、余計なことをしでかしたって合図だ。


中層まで駆けつけると、通路はすでに大渋滞になっていた。


デミルがトルコ語で怒鳴り散らしている。

ウォルシュの顔からは、初めて笑いの余裕が完全に消えていた。

ソコロフは少し離れた場所で、誰かが罪を認めるのを待っているかのような、冷えきった目つきで立っている。

(パク)室長は、あの韓国人夫妻をかばうようにして後方に下げていた。

ファイサルはアドナンを自分の背後に引き寄せている。

イギリスのリード(Jonathan Reid)は、いつの間にかすでに「全体を一番よく見渡せるポジション」に立っていた。

フランスのモローは、ついさっき高級葬儀から戻ってきたばかりかというような顔で、眉をひそめる仕草すら上品だ。


そして通路のど真ん中では——

二人の腐った水兵が、一人の男を鉄板の床に押さえつけていた。


言うまでもない。

ドイツのケラーだった。


もっと正確に言えば——ケラー(Keller)の手には、半分開いた金属封存ボックスが、まだ握られていた。


箱は大きくない。灰黒色で、極光号(オーロラ)から引き揚げた時についた焦げ跡が表面に残っている。


最悪なのは——その箱が漏れていたことだ。


水じゃない。


黒さが明らかに異常で、粘り気が生き物みたいな何かが滲み出していた。


細い一筋となって、鉄板の継ぎ目に沿って外へ這い出してくる。


それを目にした瞬間、胃がズドンと沈んだ。


ワイスマン。


あるいは少なくとも、ワイスマンと同じ位牌に名前が載ってる一族の穢れ。


ドイツのケラーは床に押さえつけられながら、まだ意地を張っていた。


「これはドイツ国民に関わる証拠だ!ホフマン教授には権限が——」


「権限があるわけねえだろが!」


俺はその場でしゃがみ込み、奴の顔に向かって怒鳴る。


「てめえ、箱を開けやがったな?」


ケラーの顔に、初めてわかりやすい狼狽が浮かんだ。


「封印はすでに誰かに触られていた。最初に開けたのは私じゃ——」


ウォルシュが即座に冷たく割り込んでくる。


「俺を見るな」


ソコロフがその場でフッと笑った。


「素晴らしい。ドイツ人が箱を開けて、アメリカ人が真っ先に否定する。完璧なリズムだ」


デミルが激昂する。


「ここは現在、トルコ護送下の危険証拠管理区域だ!誰が許可を——」


言い終わる前に、通路の奥から、かすかで金属的な音が響いた。


カチ。


全員が、一瞬だけ沈黙した。


その音は、俺たちのいる場所からじゃない。


もっと奥——封存艙門(ふうぞんハッチ)の向こう側からだ。


何かが、内側で自分ひとりで動いたような音。


次の瞬間、飛竜(ひりゅう)の中層艙壁の照明が、一斉に落ちた。


非常灯だけが薄赤く灯り、その場にいる全員の顔を死人みたいに照らし出す。


そして床を這っていたあの黒い泥が——暗赤色の非常灯の下で、ゆっくりと艙門の方向へ縮んでいった。


流れているんじゃない。


這い戻っている。


口から出かけていた悪態がまだ形にならないうちに、艙門の向こうから二度目の音がした。


ガラッ。


今度は、金属が緩む音じゃない。


誰かが——いや、何かが——内側から(かんぬき)に手をかけたような音だった。


通路全体で、もう誰も口を開かない。


一番よく喋るリエゾン担当でさえ、黙り込んだ。


全員が同じことを理解したからだ——


最初の大きな衝突は、国家と国家の間で起こると思い込んでいた。


だが、違った。


一番最初に本気でキレたのは、あの箱の中身だ。


俺はゆっくり立ち上がり、微かに震え始めた封存艙門を見つめながら、首筋一面が冷たくなっていくのを感じた。


通路の後方から、山口多聞(ヤマグチ・タモン)の足音がようやく近づいてきた。


奴は赤い非常灯の中に踏み込み、床の黒い泥、押さえつけられたケラー、そして三度目の異音を立て始めた艙門を一瞥した。


それから、ただ平らに言った。


周士達(ジョウ・シーダー)


俺は振り返らない。


「わかってる」


艙門の内側から、低く、湿った肺が笑っているような声が漏れ聞こえてきた。


そのとき飛竜の前方で、トルコ護衛艦の探照灯が、ちょうど俺たちのいる外舷を掃いていった。

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