30.国際問題 30-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
山口が全艦に旗を掲げるよう命じたとき、俺は飛竜号の右舷甲板で、熱い茶なのか湯なのか、それとも腐った軍需品の副産物なのかよくわからない液体を片手に、海風を浴びていた。
そして、船全体が動き出すのを見た。
ただの慌ただしさじゃない。見ている側の頭皮がじわじわ粟立つような、整然とした動きだ。各艙門が開き、当直水兵、伝令兵、甲板兵が、見えない一本の糸に引かれるように一斉に外へ出てくる。海に浸かり、腐り、それでも立ち上がった軍服が、風の中で一列一列広がっていく。ロープがマストへ引き上げられ、古びた金属滑車が乾いた摩擦声を立てる。
そして、一枚の旗が先に上がった。
赤い日輪と、放射する光芒。
海上自衛隊でもない。現代日本でもない。目立たないよう通り過ぎるための識別旗でもない。
旭日旗だ。
俺は二秒ほど固まり、そのあと最初に浮かんだのは、歴史でも国際的体面でもなく——
クソ、この死に損ない、本気でやりやがった。東京湾で一回やって飽き足らず、また同じことをやる気か。
飛竜が上げた。蒼竜が上げた。翔鶴、瑞鶴が上げた。榛名、霧島も上げた。外周を巡回している菊月、夕月、卯月、筑摩、利根まで、灰青色の海風の中で旗を引き上げた。
十一隻、同じ旗。
存在を示しているんじゃない。存在感そのものをぶん回して、全世界の顔面に叩きつけているんだ。
近くにいた、ようやく少し落ち着きを取り戻していた極光号の生存者たちが旗を見上げ、表情が瞬時に書き換わった。「幽霊船だけど一応秩序はある」から「俺たち一体何に拾われたんだ」へ。
葉綺安は後ろの手すりに寄りかかり、アドナンが改良した亡霊カレーの皿を半分持ったまま、旗を一瞥してから俺を見た。
「あんた、すごい顔してるわよ」
「すごい顔にならない方がどうかしてるだろ」俺はカップを横の鉄箱に置き、鼻梁を揉む。「提督のあれ、外交姿勢じゃない。公開挑発だ」
葉綺安は肩をすくめる。
「あの人のスタイル、最初からそうじゃない」
「そこが問題なんだよ」俺は風にはためく旗を見ながら言う。「山口多聞のやり方は、荒っぽいんじゃなくて、直球すぎる。生きてた頃から怖いもの知らずだったんだろうし、死んでからはなおさら遠慮がない」
甲板の反対側では、シキが軍用毛布を抱えて弾薬箱の上に座り、かじりかけの固いパンを口に含んだまま、旗を見上げていた。
「あれ掲げると、マズいの?」
俺は振り向く。
「マズいかって? 今まで頭痛で済んでた連中が、一発で高血圧にクラスチェンジする」
シキはぱちぱち瞬きをする。完全には理解していないようだ。でも牛小琴の方は理解している。シキの肩がわずかに震え、次の瞬間、いつもとは違う、心底うんざりした声色が出た。
「生きてる人間って、ほんま面倒くさいな」
「そうだよ、死人は気楽でいいよな」俺は投げやりに返す。「貧乏くじ引くのはいつだって生きてる側だ。特に、あんたらの尻拭いさせられる俺みたいな奴はな」
シキが小声で付け足す。「牛姉は、尻拭いちゃうわ、戦果の収拾やって言ってる」
「じゃあその戦果とやらを、自分でトルコ人に説明しろって伝えとけ」
そう言い終わったとき、背後から山口の声がした。
「あれは旗だ。言い訳の道具ではない」
振り返ると、いつの間にか甲板の後方に立っていた。軍服は乱れ一つなく、両手を背中に組み、艦隊を一周してきたついでに俺に一発入れていったような顔だ。
「提督」俺は単刀直入に言う。「あれは旗を掲げてるんじゃない。これから始まる交渉の難易度を、最初から三段階引き上げてるだけだ」
山口は俺を淡々と一瞥した。
「旗というのは本来、相手に『何を恐れるべきか』を教えるためのものだ」
「その発想が、現代じゃ通じないんだよ」
「俺は現代人ではない」
この一言で、完全に詰まった。
そうだよ、クソが。こいつは本当に現代人じゃねえんだ。
山口は俺の横を通り過ぎ、手すりまで歩くと、風にはためく旗を見上げた。その表情は、あるべきものがようやく定位置に戻ったのを確認しただけの、平然としたものだった。
「どうせ話し合うなら、まず誰が来たのかを知らせておく」
胃がじりじりと痛んだ。
「そんなことしたら、向こうは中佐あたりを様子見によこすつもりだったかもしれないのに、『外務大臣と国防長官と神父を何人か連れてきた方がいいんじゃないか』って悩み始めるぞ」
「それなら都合がいい」山口は言う。「手間が省ける」
俺はその背中を睨みつけながら、心の中で毒づく。
裸足の連中は、靴を履いてる側の苦労なんか、死んでも理解しない。
それからの二時間、艦隊全体が極めて古風な「接敵前待機」に入った。騒がしく走り回るわけじゃない。それぞれの配置が、より精密に噛み合っていく。飛竜が中央に座し、蒼竜、翔鶴、瑞鶴が外側の環を形成する。榛名と霧島が遠くから重石のように睨みを利かせ、三隻の駆逐艦が水面を切りながら往復する——群れの中で真っ先に風向きを確かめる狼のように。
甲板で旭日旗を眺めながら、俺の頭には一つの確信しかなかった。
これから来るのは、トルコ海軍だけじゃない。
結果として、予想は当たった。ただし先陣はやはりトルコだった。
完全に日が落ちてから、右舷の外海に現代艦艇の灯りが現れた。商船でも小型巡視艇でもない。正規の編制訓練を受けた軍艦だとひと目でわかる艦影だ。動きは抑制されていて、接近速度の加減が絶妙で、過剰な敵意は見せないが、ただ通りかかっただけのふりもしない。
飛竜側も、相応の礼を尽くした。
接舷灯が点く。甲板が整理される。腐った水兵たちが二列に並んで通路を作る。甲板の血痕や、数日前に極光号から人を引き上げたときの混乱の跡まで、「年代の風合い」は残しつつ「災害の痕跡」は消されていた。
見れば見るほど、この死人どもは演出が上手い。
トルコ海軍の艦が飛竜の舷側外に止まったとき、向こうの甲板に立つ将校の気持ちを想像するだけで十分だった。今すぐ辞表を書きたくなっているに違いない。
夜の闇の中、とっくに歴史の底へ沈んだはずの日本空母が旭日旗を掲げて浮かんでいる。甲板には旧式軍服の腐った水兵が並び、背後には戦艦と空母が編隊を組んでいる。これをどこの国の海軍レーダー官に見せても、まずは「残業しすぎたかな」と自分の頭を疑うはずだ。
乗り込んできたのは三人だった。
先頭は四十代前半。軍帽をきっちり被り、肩章は清潔で、顔つきは規律そのものを削り出したように硬い。隣の若い副官は鋭い目をしているが、両脇の亡霊水兵たちの顔を見ないよう努力しているのがわかった。三人目は連絡官兼通訳らしく、ファイルを抱え、船に足を踏み入れた瞬間、指先が明らかにこわばった。
飛竜が接舷梯を下ろしたとき、山口は自ら甲板通路の先頭に立っていた。
歓迎するためじゃない。相手に知らせるためだ——お前が今踏んでいるのは国際法の条文ではなく、俺の船だ、と。
俺は山口の左後ろ、半歩下がった位置に立ち、「たまたま生き残っただけです」という顔を必死に作りながら、頭の中では次にどの言葉なら言ってよくて、どの言葉が絶対NGかを計算していた。
トルコの将校が上がってきて、最初に見たのは山口だった。
次に俺を見た。
三度目に、ようやく甲板両側に並ぶ腐った水兵の列を見た。
その瞬間、目尻の筋肉がわずかに引きつった。俺は見逃さなかった。
正直、あの程度で済ませたのは相当な修練だ。
山口は手を差し出すことも現代的な挨拶もせず、ただ静かに、わずかに頷いた。
「乗艦を歓迎する」日本語で言う。
横の亡霊通訳が即座に英語に訳した。トルコ将校は明らかに心の準備ができていたようで、大きな動揺は見せず、抑制された自己紹介を返した。名前は忘れたが、階級は覚えている——大佐だ。
いい。様子見の少佐じゃない。向こうも事の重大さをわかっている。
俺はてっきり会議室へ直行するのかと思ったが、山口は違った。踵を返して歩き出し、一言だけ落とした。
「まず、人間を見ろ」
トルコ大佐が一瞬呆気にとられた。この昭和の提督の最初の一手が、海権でも航路でもなく「人間見学」だとは思っていなかったのだろう。
だが、だからこそ、彼はついてきた。
これが山口の陰湿なところだ。
経験ある軍人なら知っている。重要なのは先に理屈をこねることではなく、相手に「何を見せるか」を決めることだ。最初に見せるものが、相手の頭の中に「これはどういう事件か」という枠組みを作る。その枠組みが先にできれば、あとの言葉はその中に収まるしかない。
山口は俺たちを二層下へ案内した。元の乗員休憩室、今は臨時収容区画になっている場所へ。
そこには、泣き叫びも、パニックも、わざとらしい悲惨さもなかった。
ただ「人間」がいた。
いちばん厄介な種類の人間だ。
極光号から引き上げた数百人の生存者は、数日の整理を経て、ただの「災難の残骸」から、再び「群衆」へと戻っていた。下段ベッドで湯を飲む者、横になって眠る者、子どもを抱く者、ぼんやりする者、小声で話す者。壁際にはアドナンが整理した食材箱が積まれ、隅にはベネデッタ修女が洗った子どもの服が干され、反対側ではホフマン教授が紙とペンを持って水兵に質問している。相手は無視しているのに、教授は楽しそうに続けていた。
シキは下段ベッドの端に座り、今日のカレーを皿に乗せたまま眺めている。アドナンに採点でもつけようか考えているような顔だ。林雨瞳は仮設の車椅子に座り、脚を固定したまま、顔色はまだ悪いが口は健在で——俺がトルコ軍人たちを連れて入ってきたのを見た瞬間、「やっぱりあんた逃げられないのね」という目を向けてきた。
ジョナサン・リード(Jonathan Reid)は腕を吊り、サラ・リード(Sarah Reid)は目の下が濃く落ちくぼんでいたが、少なくとも生きている人間の顔をしていた。キム・ジヌ(きむ・じぬ)とパク・ソヨン(ぱく・そよん)は水の配給を手伝っていた。修女は二人のドイツ人の子どもの体温を測り、ホフマン教授はいつの間にか旧式の通行証を首から下げ、すっかり飛竜の怪人の一人になっていた。
トルコ大佐が中へ入った瞬間、全身がぴたりと止まった。
最初に見えたのは「日本軍艦」ではなく「災害の生存者」だった。次に見えたのは「多国籍」という事実。三度目にようやく、その生存者たちの間で秩序を保ち、水を渡し、薬を届け、食事を運んでいる腐った水兵たちが見えた。
幽霊を怖がるのは自由だ。旭日旗を嫌うのも自由だ。この艦隊に主権上の敵意を抱くのも自由だ。
だが、そこにアメリカ人がいて、ドイツ人がいて、韓国人がいて、修女がいて、教授がいて、子どもがいて、手術直後の傷病者がいる——そうなった瞬間、「単純な軍事侵犯」という枠組みは、もう使えなくなる。
山口は余計な説明を一切しなかった。ただそこに立ち、相手に自分で見させた。
そして相手も、確かに見ていた。
ドイツ人の老紳士が温かいカップを握って暖を取っているのを。アメリカ人夫婦が通風口の近くに配置されているのを。アドナンが毛布を羽織り、炊事兵に「今日も塩が多すぎる」と文句を言っているのを。パク・ソヨンが眠る子どもを抱き、キム・ジヌが畳んだ寝具を上段へ押し込んでいるのを。修女が胸に十字架を下げたまま、耳の半分欠けた亡霊水兵に頷いて見せているのを。
あまりにも荒唐無稽な光景だった。感情を深く隠すことに長けているトルコ大佐でさえ、頭の中のシナリオを書き換えざるをえないほどに。
彼がようやく口を開いた。
「この者たちは皆、極光号の乗客か」
英語だ。発音は硬いが、明瞭に聞き取れる。
俺が答えようとした瞬間、山口が先に、わずかに頷いた。
「生存者だ」
トルコ大佐の視線が、もう一度何人かの顔の上を巡り、最後にあのアメリカ人夫妻のところで止まった。
旦那の方も、自分が「証拠の一つ」になっていることに気づいたらしく、「俺は運が悪いのか、それとも重要人物なのか」という複雑な表情を顔に浮かべた。奥さんの方はもっと直接的だった。彼女は先に口を開いた。
「We were on Aurora. The ship tried to kill us.」
その言い方が、あまりにも平坦だった。だからこそ、余計に真実味があった。
トルコ大佐の顔色は変わらなかったが、その一言で、彼が後ろに準備していたいくつかの強硬な姿勢が、少なくとも一段階は引っ込んだのが俺にはわかった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




