22. 夢の終わり 22-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
D-7 ケープタウン——外海
壊れる直前のものは、まるで仕組まれた夢のように美しくなる。
オーロラ・インペリア極光号のあの夜も、最初からそういう夜だった。
出港後の海は黒かった。汚れのない純粋な黒さで、まるで世界の全てを外側へ押しやって——この船だけを光の中に残したような。上層デッキのカクテルパーティーはまだ続いていて、音楽と笑い声が吹き抜けの中庭を伝って下へ流れてくる。シャンパンの泡がフロアの縁からゆっくり溢れ出すように。八階レストランのガラス壁は宝石箱みたいに輝いて、七階のブティック街は柔らかすぎる光を放っている。バーの中でグラスが触れ合う音は小さく、まるで誰もがこの上質な夜航を起こしてしまうのを恐れているみたいに。
それだけ見ていれば——この船は永遠にこのまま続くんだと信じてしまえた。
だが海は、そんな茶番に付き合っちゃくれない。
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21:12
警報が炸裂したとき、俺はちょうどスイートルームを出ようとしていた。
あの音は「お知らせ」じゃない。演習前に形だけ鳴らしてくれる予告チャイムでもない。尖って、硬くて、容赦がなかった——まるで誰かが鉄槌で直接船体の骨を殴りつけて、フロア全体の安逸を粉砕したみたいな音だった。
シャワーを浴びたばかりの湯気がまだ部屋に残っていて、俺の手にはカフスボタンが半分しか留まっていない。最初の二秒は完全に固まった。
——また極光号が、過剰演出の夜間ショーでも仕掛けたのか。
二度目の警報が来た瞬間、それが違うと分かった。
壁の照明まで、一緒に点滅したから。
オーロラ・インペリアは普段、「ちょうど良さ」の調律が完璧だ。照明は常にちょうど良く、温度は常によく、スタッフが現れるタイミングも常にちょうど良い。だが警報一発で、その「ちょうど良さ」が瞬時に割れた。見えない場所から誰かが爪を立てて引っ掻いたみたいに——この夢に、細くて醜い亀裂が一本入った。
ベッドサイドのレシーバーを掴んだ。
点灯している。
だが反応がない。
画面には夕方にオーロラが送ってきた通知が一件、止まったまま表示されていた。その下に次々と流れてくるはずのおすすめ行程、案内、気の利いた挨拶——全部死んでいる。
フリーズじゃない。完全に死んでる。
普段はやたら口数が多い奴の口に、いきなり綿を詰め込んで黙らせたみたいな状態だった。
二回押した。無駄だった。
室内コントロールパネルはまだ生きていたが、反応が明らかに普段より遅い。ドアへ歩いて引き開けた瞬間——廊下はもう、高級ホテルみたいな静けさじゃなかった。
部屋から顔を出す客。
廊下に出て様子をうかがう者。
遠くの角に立つ二人のスタッフは、耳に通信機を挿したまま——初めて、本物の空白を顔に浮かべていた。
これが一番まずかった。
乗客が慌てるのは普通だ。
だが、スタッフまで次に何をすべきか分かっていない——それは、この船のどこかが本気で「切れた」ということだ。
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## 21:13
船内放送は数秒遅れてから流れた。
オーロラの、人を白目にさせるほど穏やかな声でもなく、船長の訓練された落ち着きを装った公式口調でもなかった。最初はスピーカーからただのノイズが漏れた——遠くでマイクの埃を払っているような音。それからやっと、一人の男の声が割り込んできた。明らかに焦りを帯びた声で。
「各位乘客請保持冷靜,這不是演習。請先待在原地,等候船方指示。重複,這不是演習——」
中文のまま、早口でがなり立てる。中国系クルーだな、と一瞬で分かる。
その言葉が言い切られる前に——船全体が、左前方へガクンと突っ込んだ。
揺れた、なんてもんじゃない。
下のどこかを、何かが思いっきりわしづかみにして、そのまま船体ごと下へ引きずり込んだみたいな感覚だった。
俺はドア枠に片手をぶつけるようにつかんで、ギリギリで転倒を免れる。廊下の突き当たりに、さっきまで上品に停められていたルームサービスのワゴンが一台——それが丸ごとひっくり返り、銀色のカバーや皿、グラスが一斉に飛び出した。絨毯の上は、次の瞬間にはスープとガラス片だらけになる。
悲鳴。
膝から崩れ落ちる客。
隣の部屋のドアの向こうから、鈍い衝突音。
誰かが額から、壁にキスでもかましたみたいな音だ。
一撃目が終わりきらないうちに、二撃目が来た。さっきより、もっと荒っぽいのが。
船体の中腹を、横から思いっきり突かれたみたいに、全体がぐしゃっと押される。廊下の天井灯が、一斉に死んだ。
残ったのは、ドア横の非常口サインと、いくつかの客室から漏れてくる情けない残光だけ。
闇が、いきなり、そこに落ちてくる。
その一瞬で、廊下のざわめきが変質した。さっきまでまだ、文句を言うやつもいれば、スマホを取り出してどこかに電話しようとしているやつもいた。次の瞬間には、むき出しの反応だけが残る。
叫び、荒い息、転ぶ音、一番近くの何かをつかもうとする手の音。
俺の頭に浮かんだのは、単純なひと言だった。
下の階で、何かが起きている。
しかも、シャレにならないレベルで。
予備電源が立ち上がるまで、さらに数秒。冷たい白色の非常灯が、フロアごとにレイヤー状に点いていく。さっきまで「上品なムード」を演出していた金色の間接照明は、その光に叩き落されて、ショッピングモールのバックヤードみたいに、急に安っぽく見え始める。
こういう光は正直だ。一度ついてしまえば、豪華さなんて、半分どころか七割くらい吹き飛ぶ。
エレベーターを待つ気は、最初からない。俺は踵を返し、非常階段へ走った。
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21:15
階段室には、足音が満ちていた。
上へ。下へ。途中で止まり、壁にぶつかり、また動き出す。
そういう音が一定の数を超えると、金属製の階段シャフトは、いやな響き方をする。この船に乗っている連中全員を、一本の巨大な鉄パイプに流し込んで揺さぶっているみたいな音だ。
二階分を駆け下りたところで、ホフマン教授と真正面から鉢合わせになった。
いつもは、学会のパネルディスカッションあたりからそのまま連れてこられたような格好をしているじいさんだが、今日はネクタイを外し、シャツの袖を肘までまくり上げている。手には、どこからか引っ張ってきたらしい救急バッグ。眼鏡は片方だけずれて、髪もぐしゃぐしゃだ。
さっきまで、この船を相手に相当ひと暴れしていたのが、一目で分かる。
「大丈夫か?」俺が声をかける。
「身体は、一応まだ全体としては無事だよ。」教授は息を切らせながらそう返し、すぐに下のフロアを一瞥する。「メインのエレベーターは停止していた。私は上層から回り道して降りてきた。多くの人が八階とアトリウムの方へ向かっている。Aber、それが正しいとは限らない。」
「俺はまず人探しだ。」俺は言う。「雨瞳と、希と、綺安、三人ともバラバラにはぐれた。」
教授はうなずき、余計なことは言わない。「なら、私も君と一緒に行こう。」
こういう状況で、じいさんが自分から「ついていく」と言うだけで、もう十分だ。
さあ行くか、と再び下へ踏み出そうとしたとき——階段の上から、誰かの影が、手すりにしがみつくようにしてよろよろ降りてきた。
ベネデッタ修女(Sister Benedetta)だった。
さっきまで別の、穏やかな世界にいた人間を、無理やりこの惨状のど真ん中に引きずり出してきた——そんな風情だ。修道服の裾は途中まで濡れていて、手には小さな祈祷書を握っている。胸元の十字架が、彼女の動きに合わせてカチカチ当たる。顔色は紙みたいに白い。
俺たちを見つけた瞬間、彼女は一瞬だけ固まった。ようやく知っている顔を見つけた、とでもいうように。唇が小さく動き、やっと声になる。
「さっきまで、ずっと祈りの部屋に……何が起きたのか分からないのです……」声は震えている。だが、完全には壊れていない。「さっき、この階全体が大きく揺れて、灯りも消えて……Dio mio(主よ)……この船、何かあったのですか?」
「ああ。」俺はストレートに言う。「でかいのが、来てる。」
こういうときに、耳ざわりのいい嘘で誤魔化す意味なんてない。
彼女は一度、きゅっと目を閉じる。その瞬間だけ、心の中で天主に悪態でもついたんじゃないかってくらいの表情になって、そしてまた目を開けた。
「では、私もご一緒します。」
「走れますか?」
「私は年を取っているけれど、まだ死んではいません。」
上等。その反骨精神があれば上出来だ。
俺はうなずき、三人でさらに下の階へ向かう。
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21:16 B1 深海観察室(The Abyss)
B1の深海観察室は、本来ならこの船が売る「夢」の目玉のひとつだ。
バカみたいに分厚い観覧用ガラス。客席は劇場みたいに、船底側へ沈み込むように段になっている。抑えられた青い照明の下、一番「海に近い」席に座って、船体をなでるように流れていく外の黒い水を眺める。
普段のあの空間は、「海もショーの一部になりうる」っていう錯覚を、人に信じ込ませる場所だ。
だが、ショーが一度制御不能になったとき——最初に牙を剥くのも、やっぱりそこだ。
右側、二枚目の観覧パネルの表面に、最初に「白い傷」が浮かんだ。
一気に全面が割れるんじゃない。どこか一点から始まる。
誰かが目に見えない針を握っていて、その針先で分厚いガラスに、ほとんど見えないほど小さな傷口を一つ、ぐさりと開ける。そこから、その傷が周囲へ一気に走る。放射状に伸びていく亀裂の蜘蛛の巣。
最初の破裂音は、妙に鈍い。
外側から、海水越しに太鼓の皮をぶち抜いたみたいな音。
一番前の席に立っていたスタッフは、下がる暇さえなかった。ガラスにかかっていた水圧が、傷を中心に一気に噴き出す。
強化ガラスのパネル全体が、内側へ向かって爆ぜた。
最初に飛び込んできたのは、「普通の海水」じゃない。この外海まるごとの重さを引きずり込んでくるみたいな、真っ黒な濁流だ。
最前列のシートはまとめてひっくり返る。金属製の手すりが段差に叩きつけられ、砕けたガラス片と海水が入り乱れて空中を飛ぶ。
壁沿いのLEDライトが短絡を起こし、青白い火花が、パネルの縁から縁へ、ぴょんぴょん飛び跳ねて走っていった。
悲鳴の音程が、その場で変わった。
第二波はさらに速く、さらに重かった。観察室の中央部分は、ほぼ瞬時に黒く冷たい海水に支配された。美しくデザインされた弧状のフロアが、数秒のうちに斜め下向きの巨大な漏斗と化し、人も、椅子も、荷物も、展示パネルも——すべてを亀裂の方へ引きずり込んでいく。
天井の赤い警告灯が点灯した。
片側の防水隔壁が、降下を始める。
あのゲートは本来、第一報と同時に完全に閉じて、観察室と外部通路を二つの世界に分断するはずだった。だが、半分まで降りたところで——止まった。
警告灯はまだ点滅している。
モーターはまだ唸っている。
金属製のドア枠が、負荷に耐えかねて悲鳴を上げ続けている。
だが、ゲートはそれ以上降りなかった。
海水は、そんな茶番に付き合っちゃくれない。
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21:18
九階付近まで駆け上がったとき、レシーバーが突然光った。
正常に復旧したわけじゃない。瀕死の機器が最後に一度だけ息を吸う、あの光り方だ。画面がまずノイズで潰れ、それからかろうじて数文字が浮かび上がる。足をもがれた虫が、画面の上をゆっくり這い回っているみたいに。
……中央……早く……
差出人の欄が、一瞬だけ点滅した。
林雨瞳。
俺の足が、その場で一拍止まった。
後ろからホフマン教授が、ほぼ正面衝突しそうになる。「Was ist los?」
「雨瞳だ。」俺は画面を彼に向ける。「これだけ送ってきた。」
修女が下から覗き込んで、顔がさらに白くなった。
「中央……中央ホールのことですか?」
「中央エレベーターかもしれない。」俺は言う。
その言葉が口から出た瞬間、胃の底にある重石が、ずん、と沈んだ。出港前に乗船したとき、確かに林雨瞳はキム・ジヌ(Kim Jin-woo)とパク・ソヨン(Park So-yeon)と一緒に船の中段で立ち止まっていた。預け荷物の受け取りか何かの話をしていたはずだ。もし彼女がさっき非常階段を使っていなかったなら、中央エレベーターへ向かった可能性は十分ある。
そしてこういう状況で、エレベーターは一番死ぬ場所だ。
「中段寄りに行く。」俺は言う。
「だが、八階の方から煙が出ている。」教授が指摘する。
「分かってる。でも彼女が本当に中央区にいるなら、今は上へ迂回してる暇がねえ。」
その時だった。船の左前方の深いところから、鈍い爆発音が響いた。
ガラスが砕ける音でも、機械トラブルの音でもない。もっと大きく、もっと重い。圧力で限界まて膨らんだ何かが、とうとう破裂した音。階段の手すりがびくんと震え、修女でさえ反射的に手を伸ばして壁を押さえる。
次の瞬間、遠くでまた別の警報が鳴り始めた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




