20. 完璧すぎる 20-3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
……クソ。この船、どこまで神経質に手を入れてやがる。
ヘリポートに戻るころには、シキの手には、バニラとドライフルーツの袋がいくつもぶら下がっていて、さらに手編みのバッグまで増えていた。完全に満足顔だ。
キム・ジヌはパク・ソヨンに、サファイアの細いネックレスを選んでやっていて、彼女が笑った瞬間は、素直にきれいだった。
ホフマン教授は保護区の画集を二冊抱えている。今日の出費は「学術的な投資」って顔だ。
ここまでだけ切り取れば、「十分に金を払う価値のある高級ツアー」だ。
ただ——船へ戻る途中で、ここ数日うっすら膜みたいに張っていただけの違和感が、急に厚みを持ち始めた。
帰りのヘリの中から見える空は、もう色が落ち始めていた。マダガスカルの赤土一帯は、夕陽に押しつぶされるみたいに暗さを増していく。川筋は、古い傷跡みたいに細く光っている。
海岸線が見えたとき、極光号は沖合に静かに浮かんでいた。白い船体は、夕方の光を浴びて、現実感が薄いほどに輝いている。荒っぽい陸地の質感の横に、「やたらと清潔な建築模型」を無理やり置いたみたいな光景だ。
シキはさっきまで写真を見返してはしゃいでいたのに、船が視界に入った瞬間、ふっと黙った。
横目で様子をうかがう。
「どうした」
「ううん」彼女は頭をかきながら言う。「なんか急にね、あれ、バカみたいにでかいなって」
「元からバカでかいだろ」
「そうじゃなくて……」眉を寄せて、言葉を探す。「さっきまでずっと陸にいたでしょ? そのあとで見ると、ちょっとこう……」
「こう、なんだよ」
しばらく悩んだ末に、正直すぎる一言が出た。
「人を丸ごと食べちゃう、ホテルみたい」
吹き出しそうになって、「また変な例え持ってきたな」と茶化すつもりだった。けど、口を開きかけて止める。
いや、その喩え、分かる。
ホラー映画みたいな「食われ方」じゃない。
一度乗り込んだら、自然に受け止められて、寝床を用意されて、行動予定まで組まれて——自分で「次どうするか」を考える気力が、じわじわ削がれていくタイプの飲み込まれ方だ。
船に戻ってからの受け入れプロセスも、相変わらず「完璧すぎてムカつく」レベルだ。
冷たいおしぼり、ウェルカムドリンク、簡単なクリーニング、ショッピングバッグは部屋まで直送。極めつけは、ロッジで撮られた何枚かの写真が、すでに俺のリストバンドのアルバムに同期されていること。
アトリウムのエレベーターを待ちながら、その写真を眺めていくうちに——ページをめくるごとに、なんか変な感じが増していく。
写真の出来がいいのは、別におかしくない。おかしいのは、「良すぎて整いすぎている」ところだ。
構図がどうこうじゃない。何枚かのショットに関して、そもそも「そんな綺麗に並んで立ってた記憶がねえ」。
例えば、バオバブの下で撮られた一枚。俺の記憶では——シキは笑いながら横を向いていて、俺は半身だけカメラとは別の方を見ていた。葉綺安は確か、髪をまとめ直していたし、林雨瞳はサングラスを押し上げている途中だった。
でも、今アルバムに入ってる写真では、四人がきれいに並んで立ち、表情は控えめな笑顔で、全員ちゃんとレンズを見ている。完璧な「記念写真」として、完成されていた。
「これ、加工入ってる?」画面を林雨瞳に見せる。
一瞥した彼女の眉も、わずかに動いた。
「こんなにきれいに並んでたっけ、あのとき」
「……記憶にはないな」
葉綺安も覗き込んで、淡々と言う。
「連写の中から、いちばん"絵になる"瞬間だけ抜いたんじゃない?」
「にしたって、あの角度で撮ってたやつ、いたか?」俺が言う。
シキも寄ってきて、ぱちぱちと瞬きをする。
「ほんとだ。あのとき、近くにいたカメラマンって、キムさんたち撮ってたあの人だけじゃなかった?」
「望遠で抜かれた、って可能性はあるな」
説明としては、ものすごく筋が通っている。
通りが良すぎて、逆に「証拠にはならないけど、モヤモヤは消えない」タイプのやつだ。
エレベーターが来て、四人で乗り込む。中には誰もいない。鏡張りの壁に、それぞれの顔がくっきり映る。
ここ数日の極光号は、どんどん「人を見すぎる執事」みたいな存在になってきている。エレベーターの照明一つ取ってもそうだ。白すぎず、黄すぎず、常に「本人の実物よりコンディションよさげ」に見えるラインを、きっちりキープしている。
リストバンドに目を落とすと、自動で新しい通知がポップアップした。
『本日の行動ログから算出されたお疲れ度と情緒変動パターンに基づき、以下のナイトプランをおすすめいたします。
19階 静海ラウンジ リラクゼーション・セット
17階 シーソルト・バス・トリートメント
船底ガラスプロムナード ナイトタイム限定回
24時間デザートバー エナジー・サポート』
「情緒変動パターン」の一文を見た瞬間、胃のあたりが少しざわつく。
「感情まで、診断してくれるようになったかよ、こいつ」
シキも自分の画面を見せてくる。
「あたしのも来てる。今日の感情レベルが高めだから、夜のイベントの前に一回休むこと推奨、だって」
葉綺安は、自分の通知を確認しても、何も言わない。林雨瞳は、無言で画面を消して、そのまま手首を下ろした。
「この船、最近ますます口出しが細かい」
「最近って」俺が見る。「前からあったってことか」
「前からあったよ。ただ、ここ数日、こっちにそれを気にする余裕がなかっただけ」
その一言のあと、また箱の中の空気が重くなる。
ドアが、俺たちのフロアで開く。一度部屋に戻ってシャワーでも浴びるか、と思いながらエレベーターホールを出ると、ちょうど廊下を一台のフードカートが通り過ぎていく。その後ろに、スタッフが一人ついていた。
見覚えのある顔だ。一昨日、「黒潮プロバビリティ・サロン」で俺たちのグラスを見ていたサーバーの一人。
つい、目で追ってしまう。……気のせいかもしれない。けど、今日の彼の笑い方——口角の上がり方まで、あの夜とまるで同じ角度に見えた。
「何見てるの」
葉綺安が訊いてきた。
「あの人」俺は前方にアゴをしゃくった。「一昨日、カジノでも見た」
「クルーはシフト制で動いてるの、普通でしょ」葉綺安が言う。
「それは分かってる」
口ではそう言いながら、胸のひっかかりは消えない。問題は、シフトに入ってるかどうかじゃない。最近になって、特定の顔が、あまりにも「いいタイミング」で、「あまりにも頻繁に」出てくるってことだ。一度でも足を踏み入れた場所には、次に行ったときも、必ず同じ笑顔が待っている——そんな感じ。
それ以上は何も言わず、いったん自室に戻ってシャワーを浴びる。
熱い湯を浴びながら、今日一日を頭の中で巻き戻していく。赤土、木々、キツネザル、ランチ、写真、通知、香り、スタッフ、そしてあの「情緒波動パターン」という一文。
一つ一つをバラして見れば、全部ちゃんと理屈がつく。でも、こうして積み上げて並べていくと、だんだん「見て見ぬふりしづらい」輪郭を持ち始める。
シャワーから出ると、スマホに新着メッセージが入っていた。
シキ(シキ)からだ。
『ねえ、あとでさ、船底のガラスのとこ行かない?
起源はあそこからって言ってたじゃん——あ、ちが、最近いちばん変な感じするの、あの辺が強い気がするって意味ね』
たぶん打つのが早すぎて、心の中で使ってる単語を、そのまま指が出しかけたんだろう。「起源」の二文字が、妙に目に残る。
クスッとしながら返信する。
『いいぞ。21時、下で』
◇ ◇ ◇
夜九時過ぎの船底ガラス・プロムナードは、昼間とは別の場所みたいに静かだった。
ここは極光号が誇る目玉スポットの一つだ。船体の下部に沿って伸びる回廊。外側一面がバカみたいに分厚い強化ガラスで、そのまま海と海底の景色を覗き込める。
昼間は人だらけで、写真、歓声、魚群を指差す声でごった返す。夜は、まるで別物になる。照明はわざと落としてあって、通路の内側だけ、淡い青がうっすら灯っている。ガラスの向こうの海水は、厚みのある黒い壁だ。
着いたとき、林雨瞳はすでに欄干に背を預けていた。髪はまとめていて、手にはどこかから持ってきたスパークリングワインのグラス。昼間より少し冷たく見える。
「なんでお前の方が早えんだよ」
「鏡の前で"今日の俺はどれが似合うか"って自分とディベートしたりしないから」
「それを"身だしなみ"って言うんだよ」
「それを"時間の浪費"って言うの」
シキと葉綺安も、すぐに合流した。
この時間帯のプロムナードは、人影がまばらだ。遠くにカップルが何組か、小声で話しながら並んで歩いている。ガラスの外を、ときどき魚が横切る。体にうっすら光をまとって、暗闇に押し出されてくるみたいだ。
シキはガラスぎりぎりまで歩いていき、しばらく外を見つめてから、声を落とした。
「さ、最近さ……ここが一番やばい気がしない?」
横目で彼女を見る。
「まず、何見えてるか言ってみろ」
「見えてるっていうか、感じっていうか」彼女は外を指さす。「一昨日来たときは、ふつーに"うわ、高級水族館!"ってテンションだったのね。でも、今日はなんか……静かすぎる」
「海底なんて、元から静かなもんだろ」
「そういう静かさじゃなくて」眉間に皺を寄せて、言葉を探す。「なんかこう……"驚き"までデザインされてる感じの静かさ。ほら、魚がいつ近づくか、いつ群れになるか、いつ散るか、全部"ちょうどいい"とこで起きてる感じ」
すぐには返さず、視線をガラスの外へ移す。
銀色の小魚が一群、斜めにすべり込んできて、きれいな弧を描いてガラスの前を抜けていく。少し離れた暗がりを、大きめの黒い影がすっとかすめる。一瞬のことで、目の錯覚みたいに思える。
見栄えとしては、文句なく綺麗だ。そこ自体には、異常はない。異常なのは、一度「配置されているかもしれない」と思ってしまうと、その「ちょうどよさ」が急に気になりだすこと。
林雨瞳が、グラスの中の泡を眺めながら言う。
「部屋に戻ってから、今日買った香水の匂いを嗅いだのね。そしたら、廊下の匂いと混ざって」
「昼もそれ言ってたな」
「夜、もう一回確認したの。……で、分かった。船の中の香りって、完全にバラバラじゃない。同じラインをベースに、ゾーンと時間ごとにチューニングしてる」
「それも含めて"演出"だろ。ここまで金かけてんのに、そこだけ適当なわけないし」
「問題は、さっき部屋に戻ったとき」彼女は俺を見る。「テーブルに、"今夜私がつまみたくなりそうなもの"が、もう置いてあったこと」
「それ、前からよくあるサービスじゃねえの」
「今日は、何もオーダーしてない」
言葉が止まる。
「過去ログで習慣パターン読んだとか」
「ここ数日、夜はそれ食べてない」
今度は完全に、黙り込む番だ。
葉綺安は、一番ガラス寄りのところで腕を組み、真っ暗な水の方を見ていた。しばらくしてから、ようやく口を開く。
「さっき部屋戻ったら、今日マダガスカルで試したけど買わなかったショールが、スイート専用レコメンドに出てた」
「それこそ、あいつがやりそうなことだろ」俺が言う。
「そう。問題は、その推薦理由」彼女はこちらを向く。「『本日15:42、セレクション会場での滞在時間と触れた回数に基づき、お客様の"保留傾向"に合致すると判断しました』って」
シキが、露骨に目を見張る。
「ちょ、触った回数までカウントされてんの?」
舌打ちが出た。
「この船、だんだん"人間の欲をデータ化する変態"みたいになってきたな」
「元からそうだよ」葉綺安は、温度のない声で返す。「あんたがここ数日、楽しすぎて認めたくなかっただけ」
言い返そうとして、やめる。正論だからだ。
ここ数日、俺は飲んで、食って、買って、賭けて——やればやるほど、「分かってくれる」この船のことを、便利だと思っていた。今になって居心地の悪さを覚え、本当は最初から「便利」と「監視」が、ほとんど同じ意味だったと気づかされているだけだ。
ホフマン教授とジョナサン・リード(Jonathan Reid)も、いつの間にか歩いてきていた。
教授は俺たちの隣に立ち、ガラスの向こうをじっと見つめる。しばらく黙ってから、小さく言った。
「ここ、外の海より、少し"遅く"見えませんか」
眉を上げる。
「どういう意味だ」
ガラスの外を指差す。
「船が動いているなら、本来は、もっとはっきりした"流れ"が見えていいはずです。でも、ここから見ると、ときどき、海の方が船に合わせているみたいに見える」
その言い方に、シキは思わずガラスに近づいた。
俺も、視線を外へ固定する。
最初は特に何もない。黒、青、ときどきよぎる魚影、水中で砕ける光の粒。
やがて、また一群の銀色の魚が右から切り込んできて、さっきと同じような曲線を描いて、左へ抜けていった。
胸の奥が、ずしりと沈む。
さっき見たものと、「似ている」の範疇を、わずかに超えていた。
「あれ、さっきも見なかったか」小さくつぶやく。
すぐには、誰も答えない。
後ろの方にいたサラ・リード(Sarah Reid)が、ぽつりと言う。
「私も、デジャヴュを感じた」
今日はほとんど喋っていなかったが、口を開くときはいつも、はっきりしている。
「同じ群れとは限らない。でも、シークエンスが近すぎる」
これだけでは、まだ何の決定打にもならない。海の魚の群れなんて、同じルートをぐるぐる回ることだってある。光も角度も、こっちの認識を簡単に騙す。
ただ——今日は一日中、「説明はつく。でも座りが悪い」現象ばっかりを見てきた。
胸の奥に、むずむずしたイライラが溜まっていく。
怖いわけじゃない。苛立ちだ。
完璧に仕上がってるはずの曲の中で、ある音だけ、わずかにピッチがズレている。譜面上は「許容範囲内」かもしれない。けど、その細いズレが、聴いてる側の神経だけをじわじわ削ってくる。
今の極光号に対して抱いているのは、そういう感覚だ。
横では、外国人カップルが楽しそうに自撮りをしている。少し離れたところで、子どもが魚を指差してはしゃいでいる。スタッフが通路の向こうから歩いてきて、足音はほとんど聞こえない。
プロムナードは相変わらず美しくて、高価で、静かで、「大金を投じて作った夢」の中そのものだ。
夢であること自体は、悪くない。
問題は、その夢の中に、どこまでが自然に育ったものなのか、どこからが誰かの手で「植えられた」のか、だんだん分からなくなっていくことだ。
「とりあえず、今は自分で自分をビビらせるの禁止」最後には、俺が口火を切る。「今あるのは、全部"感覚"であって、"証拠"じゃない。今の段階でテーブルひっくり返したら、ただの遊びすぎメンヘラだぞ、俺ら」
林雨瞳が、じっと俺を見る。
「それをあんたの口から聞く日が来るとはね」
「俺だって、本音言えば嫌なんだよ」眉間を指で押しながら言う。「でもさ、現時点で"逃げる理由"に使えそうなほど、固い材料は何もない。写真は加工できる。香りはデザインできる。レコメンドはアルゴリズムで説明つく。魚の群れは偶然って言い張ろうと思えば言えなくもない。ここで勝手にパニクるのが、一番ダサい」
葉綺安が、小さく頷く。
「そうね。まずは、記録。藪は突かない」
「藪を突く?」シキが首をかしげる。
「たとえばさ」葉綺安は、あくまで淡々と。「もしこの船に"何かしらのリズム"があるなら。今の私たちがやるべきなのは、自分から"音程外し"を見せないこと。つまり、今まで通り、"楽しく遊んでるだけの客"でいること」
思わず笑う。
「それなら得意分野だ」
「違う。あんたの場合、それは"演技"じゃなくて"素"」
「今日、お前俺の株価下げすぎだろ」
「下げるほど高くないから安心して」
その一言で、張っていた空気が少しだけ緩む。けど、その緩みは「気にしないことにした」種類のものじゃない。それぞれが、同じ種類の違和感を、無言でポケットにしまい込んだだけだ。
プロムナードには長居しないことにして、引き返す。ガラスと金属に反射した照明が、通路に薄いレイヤーをかけていた。遠くで誰かが笑い、近くで誰かが写真を撮る。船体は、相変わらず「海にいることを忘れさせるくらい」安定している。
エレベーターを出たところで、シキが突然お腹が減ったと言い出す。24時間デザートバーに行きたいらしい。
一日のうち半分以上を、何か食べたい状態で過ごしてる娘にしては、いつものことだ。
林雨瞳は部屋に戻るつもりでいたが、流れで引っ張られる。葉綺安は「めんどくさい」と口では言いながら、歩調を崩さない。
四人で、深夜の廊下を歩いていく。この数日の、どの「なんでもない夜」とも見分けがつかない光景だ。ただ一つ違うのは、全員、今はっきり自覚しているってこと。
——自分たちは、ただの「夜食ハント」に出ているわけじゃない。
「観察」に出ている。
極光号が、これからどこまで自分を「きれいに」「フラットに」「親切に」整えてくるのか。
その「きれい」の裏側に、どれだけ「見せたくないもの」を隠しているのか。
デザートバーは、そこそこ埋まっていた。ガラガラでもないし、妙に混んでいるわけでもない。ちょうど「居心地のいい程度の人の多さ」だ。
ショーケースには、タルト、ケーキ、プリン、チョコレート、一列まるごとスポットライトを浴びて光ってるフルーツたち。スタッフは俺たちに気づくと、教科書に載りそうな完璧な笑顔で迎える。顔の作り方が、さっき廊下で見た奴と、ほとんど同じ角度で出来上がっている。
チョコレートタルトを一つ取って、窓際の席に座る。外の海は真っ黒で、窓ガラスには、こっち側の人と灯りだけが映っている。
三口目を食べ終えるころ、シキがようやく、さっきの重さから少し抜け出したみたいな声で言った。
「明日ケープタウン着くでしょ。それでも、あたし、絶対一回は下船するからね」
「なんだよ、その"もしかしたら出してもらえません"みたいな言い方」
「そんなんじゃなくてさ」フォークをくわえたまま、もごもごと。「今、めっちゃ"本物の陸"踏みたい気分なだけ」
そこで、手が止まる。
それは、俺もまったく同じだったからだ。
林雨瞳は、顔を上げずに、短く言う。
「私も」
葉綺安はグラスを置き、窓に映る自分の横顔を見ながら言った。
「じゃあ、降りよ。……どうせ、本番は今夜じゃない」
彼女の方を見る。
ゆっくり頷いた。
そうだ。今は、まだ「その時」じゃない。
本当に何かが起きるなら——それは、ケープタウンを出てからだ。もっと長くて、もっと何もない、もっと「戻りにくい」海の上。
そこで初めて、何かが表に出てくる可能性がある。
それまでは、極光号は自分の得意な役を演じ続けるだろう。
——きれいで、高価で、何でも分かってくれて、何でも世話してくれる。そうやって、こっちの警戒心を、限りなくゼロに近づけてくる「船」として。
でも、少なくとも今、このテーブルに座っている何人かは、もう眠りから覚めてしまった。
一度覚めてしまえば、「行き届いている」「心地いい」「気が利く」「精度が高い」としか見えていなかったものが、少しずつ、別の意味を帯び始める。
海は、相変わらず真っ黒だ。
船は、相変わらず揺れない。
デザートは、相変わらずうまい。
スタッフの笑顔も、相変わらず完璧。
そのど真ん中に座りながら、ガラスに映る自分と、その向こう側の「境目のない黒」を見比べて、はっきり分かる。
——この旅、本来の顔を、ようやく見せ始めた。
ただし、まだ「種明かし」をするつもりはないらしい。
それなら、それでいい。
向こうが「ショー」を続ける気なら、こっちはこっちで、もう少し付き合うだけだ。
ケープタウンを出て、もっと深い海に入ってから——極光号が、俺たちをどこへ連れて行くつもりなのか。きっちり、最後まで付き合って見届けてやる。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




