20. 完璧すぎる 20-2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
フライト時間は長くない。降りた先は、やたらときれいに整えられたプライベートロッジの専用ヘリポートだった。周りは背の高い木々に囲まれていて、着地した瞬間に、熱気が一気にまとわりついてくる。船の中みたいにエアコンで調教された快適さとは、まるで別物だ。ここにあるのは、ストレートな暑さ。ちゃんと「本物に焼かれてます」っていう日差し。空気そのものが、少し重く感じる。
ロッジ自体も、かなり凝った造りだ。外観は、植民地時代の広いひさしと背の高い窓のラインをそのまま残しつつ、細部は全部アップデートされている。ウッドデッキ、白いサンシェード、ゆっくり回る大きなファン、冷えたおしぼりにウェルカムドリンク。必要なものは最初から全部そろってる。
ここのすごいところは——場所はたしかにマダガスカルの赤土の上なのに、「極光号の延長線上」にちゃんと見えるように、全部チューニングしてあることだ。
まずは保護区のツアーからだった。スタッフに案内されて林の奥へ入っていく。道の両側は背の高い木と低い茂み。葉の隙間からこぼれた光が、地面にパッチワークみたいなまだら模様を作っている。
少し歩いただけで、シキが小声で俺の腕をつかんだ。
「ほら、あそこ!」
指さす方を見やると、一本の枝の上にキツネザルが一匹、ちょこんと座っていた。長い尻尾をだらんと垂らして、丸い目は完全にアニメキャラ。こっちを見ているくせに、「別に興味ないけど?」みたいな顔をしている。
「反則だろ、これは」
シキは、もう幸せが過ぎて言葉を失いかけていた。あいつの喜び方は、作ってない。顔と手足の動きから、そのまんま感情が溢れてくるタイプで、見てるこっちの気分まで、勝手に引っ張り上げられる。
林雨瞳は隣で、シキが必死にシャッターを切る様子を見ていて、口元がときどき、ほんの少しだけ上がる。シキみたいに全身で飛びついたりはしないけど、この「見栄を貼らなくていい場所」を、彼女もそれなりに気に入ってるのが分かる。
葉綺安は、少し後ろの方で木の上の連中を見上げていた。表情は、いつもよりわずかに柔らかい。今日の彼女には、あの「わざと自分を締めている感じ」があまりない。海の上のライトや香りや酒と人混みから、物理的にも心理的にも距離がある場所の方が、むしろ力が抜けるらしい。
横に並んで、小声で聞いてみる。
「お前、まさかこういうの好き派?」
「カジノよりは、よっぽど可愛いでしょ」
「それは否定しねえわ」
「少なくとも、こいつらは"あなた勝つの上手いですね"なんて錯覚は仕掛けてこないから」
言いたいことは、痛いほど分かったので、そこで笑って飲み込む。
ジョナサン・リード(Jonathan Reid)は、終始静かにシャッターを切っていた。シキみたいに「目についたもの全部保存!」タイプでもなければ、一般観光客みたいに動物見えた瞬間バシャバシャ連写、ってわけでもない。
彼の撮り方はちょっと変だ。まず立ち止まる。しばらく待つ。まるで、「何か」が勝手にフレームに入ってくるのを待っているみたいに。
サラ・リード(Sarah Reid)は、その横でそれを見守り、ときどき角度を指さして提案し、ときどきはただそこに立って、肩を滑る陽光の一部になっている。
キム・ジヌ(Kim Jin-woo)とパク・ソヨン(Park So-yeon)も、分かりやすく楽しんでいる。小さなキツネザルが低い枝に飛び移った瞬間、パク・ソヨンの目が本気で光った。あれは、SNS用に作った笑顔じゃない。
キム・ジヌはその横でスマホを構えて、彼女の写真を撮る。迷いのない手つきで、「どの角度の彼女がいちばんいいか」完全に把握している動きだ。
ふと、どうしようもない事実を思い知らされる。
人間ってやつは、本当に「きれいなもの」に弱い生き物だ。
海でも、動物でも、酒でも、光でもいい。環境の設定をミスらず、温度を合わせて、隣にいる人間のバランスまで整えてやれば——たいていの奴は、いったん自分のストレスをどこかへ置いてくれる。
問題は、極光号が、その仕組みを「知りすぎている」ってことだ。
そんな考えが頭をかすめたところで、ガイドに呼び戻された。次は、バオバブ並木だという。
正直、木なんかにそこまで期待してなかった。けど、実際その場に立ったら、認めざるを得なかった。これは「来てよかった」側だ。
いわゆる「きれいな景色」とは、ちょっと違う。もっと、「古くて」「黙ってそこにいるもの」が、正面から出てきた感じだ。
赤土の道の両脇に、バオバブの木がずらっと並んで立っている。幹は笑えるくらい太くて、巨大な瓶をいくつもひっくり返して、そのまま地面に突き刺したみたいだ。空は高くて、風は乾いていて、遠くから射してくる光が、一本一本の輪郭をくっきり浮かび上がらせている。
そんな場所のど真ん中に、ロングテーブルがどん、と置かれていた。
白いテーブルクロス、銀色のカトラリー、氷で冷やされたワインクーラー。この乾いて重たい風景の中に、そのセットをそのまま持ち込んでるのは、だいぶ図々しい。図々しすぎて、かえって「極光号らしいな」と納得してしまうくらいだ。
テーブルに近づいたシキが、思わず声を出す。
「いや、マジでやりすぎでしょこれ」
「今日そのセリフ、五回目な」俺が言う。
「だって、マジでずっとレベル上げてくるんだもん!」
ランチのメインは、炭火で焼いたビーフとハーブたっぷりのシーフード。そこにローカルスパイスと、酸味の強いソースが合わせてある。サイドには、冷菜とデザートがずらっと並んでいた。
こんなロケーションでも、スタッフはグラスを空にしないし、カトラリーも散らからないし、声も決して大きくならない。そのプロっぽさは、「これ、船内からコピー&ペーストしてきたろ」と言いたくなるレベルだ。
ワインを二杯ほど空けたあたりで、ホフマン教授が、案の定「木の話」を始めた。
「バオバブはね、多くの地域で"時間"の象徴とされているのだよ」
「教授、今、口の中ステーキなんで。急にランチを文芸作品にしないでくれ」
教授はくすっと笑って、怒るでもなく続ける。
「言いたいのはね、こうしてここに立っていると、人は"本当に長く存在し続けているもの"を信じやすくなる、ということだ。……船の上の、ああいう——」
そこで言葉を切った。
顔を上げて、教授を見る。
「"船の上の、ああいう"って、どういう?」
教授は眼鏡を押し上げて、少しトーンを落とした。
「極光号の、あの"新しすぎる快適さ"とは違うということです」
声は穏やかだったが、言いたいことははっきり届いた。
葉綺安も、理解したようだ。フォークを持つ手が一度だけ止まり、顔は上げずに静かに言う。
「新しすぎるものって、大抵、人の"普通"を簡単に上書きできるから」
林雨瞳は冷たい水を一口飲んで、さらにストレートに重ねる。
「元々どうだったか、簡単に忘れさせる」
テーブルの上に、短い沈黙が落ちた。シキは周りを見回して、「これただの世間話じゃないな」と気づいたっぽい顔をしたが、あえて何も言わず、切っておいた肉を口に運んだ。
そこで俺が笑って、空気を戻す。
「おいおい、遊びに来てんのに、ステーキをシンポジウムの議題にすんな。これ以上続けたら、このテーブル、『資本主義と感覚の馴致』国際フォーラムの分科会になんぞ」
サラが、とうとう吹き出した。
「そのタイトル、意外と悪くないわよ」
「変に乗るな」
ランチのあとは、プライベート・セレクション会。
中身は要するに、高級バージョンのショッピング・トラップだ。ただし、会場が船内のブティック回廊から、ロッジ脇の半分オープンな展示エリアに変わっただけ。
バニラやドライフルーツ、エッセンシャルオイル、手織りの布、彫刻木工、サファイアにルビー。どれも照明とディスプレイで綺麗に飾られている。プライスタグですら、「驚かせたくありませんので」と言わんばかりに、妙に控えめな小さい字で書かれている。
最初は「まあ見るだけ」と思ってたのに、シキはバニラとドライフルーツのコーナーでテンション爆上がり、林雨瞳はその横でいくつかオイルの香りを試している。気づけば葉綺安は、いつの間にかジュエリーの方へ消えていた。
近づいていくと、ちょうど彼女が青い石のついた細いリングを見つめているところだった。
元から綺麗な指に、スポットライトが当たって、その指輪だけが静かに冷たく光っている。
「買うのか?」
「まだ分かんない」
「いや、さっきからずっとガン見してんじゃん」
「長く見る=買う、じゃないでしょ」彼女は顔を上げて、俺を見る。「そこをごっちゃにするから、あんたみたいなのは、いつまでもカジノに飼われるの」
「それは"即断力"って言うんだよ」
「それを"よく釣れる"って言うの」
ショーケースに背中を預けて、値札をちらっと見る。この「針」も、だいぶよく出来てる。
「じゃあ俺が買ってやるよ。それで、今日の俺にセンスあったって認めろ」
彼女は露骨に「バカなこと言った」と言いたげな顔をして、指輪をそっと元の場所に戻した。
「結構です。そのお金は、自分の治療費にでも取っときなさい」
「お前、その口で俺を殺しにかかってんだろ」
「自分で自分を甘やかす気しかない人に言われたくない」
そのまま彼女は次のショーケースへ移動する。俺もちらっと最後に指輪を見るが、結局買わない。金をケチったからじゃない。さっきの彼女の顔が、はっきり教えていた。
——これは「見る分にはいいけど、自分のものにする気はない」ってラインのものだ。
逆に、最後に買い物をしたのは林雨瞳だった。すごく淡い、バニラとウッディの香りの香水を一本。
会計しているのを見て、つい口が出る。
「お前、こういうの興味ないタイプかと思ってた」
「興味ないからって、買っちゃダメなわけじゃない」
「にしては、さっきやたら時間かけてたろ」
「だって、いくつかは船と同じ匂いがしたから」
一瞬、言葉が止まる。
「そんなのまで分かるのかよ」
紙袋を受け取りながら、彼女は平坦なトーンで続ける。
「気づいてない? 極光号って、場所ごとに香りを変えてるようで、実は同じラインを少しずつ変えてるだけのとこ、多いよ」
彼女の顔を見つめたまま、返す言葉が出てこない。
本当に、まったく気にしてこなかった。けど一度指摘されると、頭の中でいくつかの場面が、勝手に線で結び直される——カジノ、廊下、ラウンジ、スイート。確かに匂いは違う。でも、その奥底に「細い一本の共通線」みたいなものが通っている気がする。
はっきり意識に上るほど強くはない。そのせいで、ここまでずっと、違和感をスルーし続けてきた。
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