20. 完璧すぎる 20-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
D-6 マダガスカル——ケープタウン
目が覚めたとき、海面はやけに気に食わない青をしていた。
絵葉書に使われるような観光用の青でもないし、モルディブの「スキンケア商品でも売ってんのか」ってくらいクリーンな青でもない。もっと重たい。誰かがインクをバケツ半分ぶちまけて、それを太陽光で無理やりかき混ぜて薄めた、みたいな色だ。
窓の外はやけに明るくて、波も高くない。極光号は相変わらず、海全体を見下すみたいな顔で、まっすぐ先へ進んでいる。
ベッドサイドのリストバンド端末は、もう光っていた。
手を伸ばしてつかみ上げると、画面には高級レストランのメニューみたいに整列した文字が並んでいる。
『おはようございます、周士達様。極光号は現地時間07:10、マダガスカル寄港エリアに到着いたしました。 お客様はすでに「赤土の王冠・ロイヤル・コンサーベーション・ロッジ プレミアムツアー」をご予約済みです。 本ツアー内容:専用ファストトラック、岸側ヘリコプター送迎、キツネザル保護区ガイドツアー、バオバブ並木でのランチ、サファイア&バニラのプライベートセレクション会。 集合時間:09:20。推奨ドレスコード:軽めのリネン、サンハット、薄手のアウター』
最後まで読み終わって、最初に湧いてきた感情はワクワクじゃなくて、胸の痛みだった。
「クソ、このツアー、名前からしてすでに高ぇんだが」
システムは愚痴を聞いたかのように、その下にもう一行足してきた。
『過去五日間のお客様の消費傾向に基づき、本ツアーはお客様の体験価値レンジに適合しております』
「慰め方がクソ高級なのやめろ」
リストバンドをベッドに放り投げ、顔を両手でこすりながら起き上がる。モルディブを離れてからというもの、この船に対して抱く感覚はずっと微妙だ。
嫌いになったわけでもないし、怖くなったわけでもない。ただ、すごく柔らかいマットレスに寝転んでいて、ある瞬間ふと、「これ、俺の腰のカーブ、分かりすぎてねえか?」って気づく感じ。どこまでが快適で、どこからが"行き過ぎ"なのか、急に線引きが分からなくなる。
とはいえ、今日は高額の上陸ツアーがある。
半日でも船を離れられるだけで、人間の機嫌はけっこう回復する。こういう豪華クルーズって、長くいればいるほど「高級刑務所」と本質が似てくる。違うのは、刑務所はロブスターを出さないし、タオルを白鳥に折ってくれたりもしないってことだけだ。
シャワーを浴びて着替え、リストバンドの推奨どおり、薄い色のリネンシャツにダークなロングパンツ、その上から軽いジャケットを羽織る。鏡の中の顔は、まだギリギリ人間を保ってる。連日遊び倒して脳みそが溶けた廃人には見えない。少なくとも、見た目だけは。
部屋を出ると、廊下は相変わらず「高級な静けさ」だった。
カーペットが足音を完全に飲み込み、遠くをスタッフが朝食用のカートを押していく。タイヤの音すら、ほとんどしない。
極光号がいちばん得意なのは、「これが当たり前」って顔をして、全部を用意してくることだ。世界は本来、あなたにこうあるべきですよ、とささやき続ける。長くここにいると、その声をバックグラウンドノイズとして受け入れてしまう。
で、ある日ふと我に返る。
——いや、普通こんな扱い、あり得ねえからな? って。
十二階のオーシャンビュー・レストランは、今日はいつもより賑やかだった。
窓際の席はほぼ埋まっていて、明らかに「今から下船します」な格好の連中ばかりだ。サンハットにサングラス、リネンシャツ、柄入りロングスカート。金を持ってる大人たちが、朝っぱらから巨大なガラス越しの港を眺めながら、「今日が人生最後の朝食か」みたいな勢いで食っている。光景だけ切り取れば、高級旅行雑誌の見開きページだ。
最初に俺を見つけたのはシキ(シキ)だった。レストランの半分向こうから、派手に手を振ってくる。
「シーダー! こっちこっち!」
今日は全身から「色」の栄養を吸収しました、って顔をしている。明るいショート丈トップスに、薄手の羽織り。首からは昨日船内で買ったカメラを下げていた。今日のツアーが本気で楽しみなんだろう。いつもより瞳のハイライトが一段増しだ。
林雨瞳はその隣。一方の手でメニューを押さえながら、もう片方の手でコーヒーカップを持っている。俺が近づくと、まるで荷物検品でもするみたいな平らな目で、一度だけ全身を確認した。
「珍しく、レコメンドに従ったんだ」
「俺だってたまには、金の言うことくらい聞くわ」
「賭け事の言うことしか聞かない人だと思ってた」
「それ、俺の信仰の最深部な」
葉綺安は向かい側。今日はきちんと感のある格好だ。オフホワイトのロングワンピースに、濃い色の薄手アウター。髪はまとめていて、首筋のラインが全部見えている。ちらりと俺を見上げて、温度の低い声を落とす。
「少なくとも今日は、南国詐欺師には見えない」
「お前、それ一生言うつもりか」
「またやらかすなら、ずっと言う」
椅子を引いて腰を下ろすと、すでに料理が並んでいることに気づく。シキ(シキ)の前にはワッフルとフルーツ。林雨瞳は卵料理とスモークサーモン。葉綺安は、やけに質素なヨーグルトとブラックコーヒーだけ。昼まで完全に意志力だけで乗り切るつもりらしい。
俺の前には——湯気を立てているエッグベネディクトと、焼き加減が完璧なクロワッサンのバスケット。
皿を見て、眉をひそめる。
「……まだ何も頼んでねえぞ、俺」
シキはワッフルをほおばりながら、俺のリストバンドを指さした。
「オーロラが先に組んでくれたんでしょ? さっき、あたしのも『昨日気に入ってたバター、もう一セットお持ちしましょうか』って聞いてきたし」
「ついに、朝メシまで人の代わりに決め始めたのか、あいつ」
林雨瞳はコーヒーを一口飲み、淡々と口を挟む。
「ここ数日、同じの二回食べてたでしょ」
「つまり、見られてたってことだな」
「"見られてた"じゃなくて、あんたが"見せまくってた"だけ」
クソ正論すぎて、反論の余地もない。
外の港を眺めながら、飯を口に運ぶ。
マダガスカルの海岸線は、これまで寄った港とはだいぶ違う。モルディブみたいに、視界に入った瞬間こっちのメンタルを勝手に上げてくる青でもないし、コロンボみたいに、暑さと騒がしさを遠慮なく投げつけてくるわけでもない。
もっと分厚い。陸が陸として持ってる"重さ"みたいなもんが、遠目にも伝わってくる。ガントリークレーン、倉庫、赤い土、低い山の稜線。ガラス越しなのに、空気の熱を感じる。
ホフマン教授とジョナサン・リード(Jonathan Reid)、サラ・リード(Sarah Reid)も、少し離れた席にいた。教授は今日はクラシックな形のソフトハットをかぶっていて、いつもより姿勢がさらに真っ直ぐだ。これからフィールドワークにでも出る学者そのもの。
リードは、すでにレンズを装着済み。サラは砂の色のロングドレスに、冷たい飲み物を持っている。どこに立っていても、「見られていること」に慣れている人間の立ち方だ。
キム・ジヌ(Kim Jin-woo)とパク・ソヨン(Park So-yeon)が、俺たちより少し遅れて入ってくる。この夫婦は、「小綺麗」の教科書みたいな存在だ。下船するだけの格好ですら、さっきまでブランド広告の撮影をしてました、って言われたら信じるレベル。
パク・ソヨンは、今日は小さな白のハンドバッグ。手首のブレスレットは、一目で「安くない」と分かる。キム・ジヌはスタッフ一人ひとりに笑顔で会釈しながら進んでくる。ここを自宅リビングの延長くらいに思ってる動きだ。
最後に現れたのは、アドナン。
今日は、岸上ツアー担当マネージャーみたいな、軽そうに見えてきっちり仕立てられたユニフォーム姿。袖口まできれいにまとめていて、笑顔もいつも通り、「欠点の見つからない笑顔」だ。
「皆様、本日は早朝からありがとうございます」テーブルの横に立ち、旧知の客に個人的なパーティをセッティングしているかのような、自然な調子で言う。「マダガスカルのこちらのコースは、やや長めとなっております。お戻りは少し遅くなりますが……そのぶん、必ずご満足いただけるかと」
顔を見上げて軽く睨む。
「お前らが『必ず満足します』って言うとき、大体俺のカード会社が一緒に泣いてんだよな」
彼は悪びれもせず、きれいに笑った。
「体験が十分によければ、金額は単なる"装飾"になります」
「今の一文、そのまま請求書の下に印刷しとけよ」
シキは横で、肩を震わせながら笑っている。
「シーダー、絶対いつかこの船に殺されるよね。……いや、殺される前にカード限度額が死ぬか」
「人の尊厳を安く見積もんじゃねえ」コーヒーを一口飲む。「ちゃんと限度額の手前で、綿密に計算してから突っ込むわ」
葉綺安が、氷のトーンで刺してくる。
「それ、世間では"合理化"って呼ぶ」
朝食を終えて、俺たちは専用エレベーターで、岸上レセプションフロアまで降りる。
今回の停泊位置は、そこまで賑やかな港じゃない。コロンボみたいに、港を出た瞬間からディーゼルとスパイスと人の声が一塊になって押し寄せてくるわけじゃない。ここは、空気がもっと乾いていて、もっと重い。赤土と、太陽に焼かれた植物の匂いが混ざっている。
少し離れた埠頭には、ヘリコプターが何機か並んでいて、ローター音が一定のリズムで朝の空気を切り刻んでいく。そのシャープさが、やけに目を覚まさせる。
デッキの縁から下を覗いた瞬間、「ああ、陸って、ほんとに揺れねえんだな」と、妙な感慨が湧いた。
船の上に長くいればいるほど、「安定」が嘘っぽくなって、「揺れ」が背景になる。今こうして、びくともしない地面を見ていると、笑いが込み上げてくる。
「何その顔」林雨瞳が隣に来て聞く。
「いや、地面って、ちゃんと止まってんだなって」
「あんた、自分でも分かるくらいバカになってる自覚ある?」
「これを"航海後遺症"って言うんだよ」
「何日乗っただけで言ってんの」
「十分長えよ。あと二日もしたら、廊下に情が湧き始めるかもしれん」
後ろを通り過ぎた葉綺安が、容赦なく一言だけ落としていく。
「もう湧いてるでしょ」
この高額ツアー、最初の一手からして、きっちり値段どおりだ。
観光バスでもなければ、小さなボートでもない。
初手、ヘリコプター。
機体に乗り込んで、前方の二列に並んだ、ふざけた柔らかさのシートを見た瞬間、確信する。この船は、本気で「普通の旅行」に戻る気を、こっちに一ミリも残させるつもりがない。
離陸すると、港と船体がぐんと下に沈んでいく。赤い土、濃い緑の木々、点々とした集落が、遠くまでタペストリーみたいに広がる。マダガスカルの色味は、さっきまで見ていた海の青とは、完全に別物だった。
土は赤。木は深い緑。時折横切る川筋は、濁っているのに、不思議と"重心"のある光を返してくる。
シキは窓側の席で、もうシャッターが止まらない。
「やば、ここ映画じゃん!」
「お前、この数日、行く先行く先全部にその台詞使ってんぞ」俺が言う。
「だって、どこもかしこも映画なんだもん!」
「単に、今お前が"映画に金かけまくる船"に住んでるだけだ」
ちょっと考えて、素直に頷く。
「……それも、だいぶある」
ホフマン教授は前の列で、下の赤土と森を見下ろしながら、思わずといった口調で漏らした。
「島から島へ、こんなにも違うものかね」
「教授、今の顔、完全にこのあと講義始まるやつだぞ」俺が言う。
「自制心はある」彼はいたって上品に帽子を直した。「ただね、もしこれからバオバブを見かけたら、私は自制に失敗するかもしれない」
「せめて、みんなが昼飯食い終わってから失敗してくれ」
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