19. 交錯する証言 19-3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
十九時、十八階「黒潮プロバビリティ・サロン」。
名前からして、まともな人間の居場所じゃない。
ここは極光号(オーロラ・インペリア)でいちばん、金と刺激をきれいにカクテルにして出してくる場所だ。空間は半分オープンで、外からは夜の海が見えるのに、中は音・光・レザー・香り、全部を計算し尽くした別世界みたいになっている。
テーブルは深い色の石材。照明は表情に陰影だけを残すギリギリの暗さ。ドリンクメニューは短編小説一冊分の厚さ。テーブルの上でチップ同士が当たる音は驚くほど軽い。その軽さが、かえって耳に残る。
着いたとき、先にシキがいた。
今日は墨緑色のワンピースに着替えていて、髪はハーフアップ。バーカウンターでフルーツカクテルを飲んでいる姿は、昼間より少し大人っぽい。けど笑うと、相変わらず遠慮のない明るさが顔に立つ。
「あ、ちゃんと昨日よりマシな格好じゃん」
「俺はカジノにランウェイしに来たんじゃねえ。稼ぎに来たんだよ」
「あんた昨日もまったく同じこと言ってたからね?」
「昨日のはな、勝ち方がちょっと優雅さに欠けてたんだよ」
「勝ち負けに美学まで求めるのウザくない?」
「人としての最低限のクオリティだ」
葉綺安は俺たちより二分ほど遅れて来た。黒の細いストラップのロングドレスに、薄手のテーラードジャケットを羽織って、冷たい綺麗さ全開だ。彼女が一歩足を踏み入れた瞬間、カウンター席の男どもの視線が、ほぼ同時にそっちへ流れ、次の瞬間には何事もなかったようにグラスへ戻る。
こういう光景、この数日で嫌というほど見た。もういちいち腹も立たない。ここまで来ると、いちいちキレてたらとっくに三回くらい過労死してる。
最後に現れたのが林雨瞳。暗いワインレッドのロングドレス。髪は少しだけ湿っていて、まるでシャワーからそのまま出てきたみたいだ。テーブルに近づいた瞬間、すぐ横の外国人の男が、ごく小さく息を呑む音がはっきり聞こえた。
ああ、今夜のこのテーブルが"地味に過ごす"ルートから外れたのは、もう間違いない。
ホフマン教授とリード夫妻(the Reids)は、少し外側のテーブルに座っている。俺たちとは同卓せず、二卓挟んでグラスを掲げて挨拶してきた。キム・ジヌ(Kim Jin-woo)とパク・ソヨン(Park So-yeon)は、どうやら今夜は別のプライベート・ディナーに呼ばれているらしく、姿が見えない。アドナンはいつものように居場所不明。でもそのうち、ふと振り向いたタイミングで、いちばん都合のいい角度に立っているんだろう。
席につき、一回目のゲームがすぐ始まる。
認めざるを得ない。この船のカジノは、陸のそれとはまるで質が違う。外の多くの店が売っているのは、熱狂と騒音と、「頭に血が上ったついでの一手」だ。
ここは違う。ここが売っているのは"快適"。
それも、一種の"慢性麻酔"って呼びたくなる種類の。
グラスはいつの間にか満ちている。テーブルサービスはいつも"ちょうどいい"タイミングで入る。少し負けても痛くない。少し勝つと、もっと欲しくなる。誰も急かさない。ただ、こっちが自分で警戒心をゆっくり外していくのを、根気よく横で見ている。
シキは最初、子どもみたいにはしゃいでいたが、数ラウンド目には、勝ったり負けたりを繰り返すうちに、いつの間にかテーブルのカードと真剣に"交渉"を始めていた。葉綺安は、打ち方が無駄に冷静で腹が立つ。勝っても負けても、感情の振れ幅がほとんどない。林雨瞳はそもそもそこまで興味がなさそうで、基本は見物。たまに乗ってきたときだけ、さっとベットして、勝てば淡々とチップをテーブルの端に寄せる。まるで「落ちてたから拾っといただけ」みたいな扱いだ。
俺の今夜の運は、悪くない。
爆勝ちってほどでもないが、とにかくスムーズだ。
スムーズすぎる。
六ラウンド目に入ったとき、俺自身がそれを少し不思議に感じ始めた。
「運いいなー」ってテンションじゃない。もっと、どこまでも平坦で、起伏を最小限に抑えられた"順調さ"。
少し多めに勝ちたいって思えば、ちゃんと取らせてくれる。かといって、負けが込みそうになると、見えない手がそっと肩を引いてくる。
破産させたいわけじゃない。ただ「テーブルから立たせない」ラインで、ずっとつなぎ止めている感じ。
手元のチップを前に押し出しかけて、ぴたりと止めた。
ディーラーの笑顔は相変わらず完璧。音楽のボリュームも変わらない。隣のグラスが触れ合う音も、チップの音も、全部いつも通り。
けど、その"いつも通りのちょうどよさ"が、またじわっと背中に張り付いてくる。
今日だけじゃない。
ここ数日ずっと、だ。
椅子にもたれかかりながら、ホール全体をぐるりと見渡す。
何卓か離れたところで、別の客たちが、驚くほど静かにゲームを続けている。緊張で固まってるとか、殺気立っているとかじゃない。ぜい肉を全部削いだあとの、よく躾けられた静けさ。
勝てば笑う。負ければ肩をすくめて、新しいグラスを頼む。それだけ。感情はぜんぶ、ワンサイズ小さく仕立て直されている。
ここはカジノというより、「感情管理ラウンジ」とでも言いたくなる。
「さっきから、何見てるの」
いきなり林雨瞳に聞かれた。
「この場所、今日ちょっとお行儀よすぎねえかって」
彼女は意味を理解したらしく、視線を軽く場内に一周滑らせてから、低く呟く。
「気づいてたんだ」
「お前も、変だと思う?」
「変っていうか——」彼女はグラスを手に取り、一口含む。「静かすぎる。平らすぎる。波がない」
葉綺安はカードを捲って、今のラウンドを勝ち取る。声のトーンは相変わらずフラット。
「昨日あたりから、ちょっとそう」
「なんで昨日言わねえの?」
「昨日のあんた、"自分、遊び方分かってる男"モードにどっぷりだったし」
「……その切り口やめね?」
シキがぱちぱちと瞬きをして、俺たち三人を見回す。
「え、待って。じゃあ、今日みんなも"変"って感じてるってこと? あたしだけじゃないの? てっきり、自分が酔いすぎて、世界が二周目に入ったのかと」
「いや、お前はお前で十分飲んでる」
「そこは今関係ないの!」
声を落として、ちらっと場内に視線を流す。
「なんかさ、人いっぱいいるのに、今日、ずーっと"同じシーン"を見てる気がしてさ。さっき入ってきたとき、ドアのとこで銀色のドレスの女の人が、スタッフとしゃべってたのね。で、トイレ行って戻ってきたら、まだ同じとこで同じ感じでしゃべってて。そのあと、ぐるっと回ってバーカウンター側から見たら、また同じ姿勢で立ってる気がしたの」
テーブルの端を、指でとん、と軽く叩く。
葉綺安はすぐには応じず、チップの山を静かに整えながら、ゆっくり口を開く。
「午後。ブティックフロアでも、似たような感じ、あった」
林雨瞳が、彼女の横顔を見る。
「あなたも"リピート再生"見た?」
「同じ人たちだったかは分かんないけど」葉綺安は言う。「動線自体が、一回"整理"されてる感じ」
椅子の背にもたれかかり、視線を弧を描くガラスの向こう——カジノの外側の夜の海へ滑らせる。黒が濃すぎて、かえって鈍く光って見える海。船体は前へ進んでいるのに、揺れはほとんどない。中の人間は安定していて、外の海も安定していて。胃の中に落ちるアルコールの速度まで、一定に調整されている気がしてくる。
あまりにも、安定しすぎている。
世の中、大抵のものは、"安定しすぎた瞬間"から、急に作り物じみてくる。
無性にタバコが吸いたくなって、椅子から腰を上げた。
「ちょっと、外で風に当たってくる」
林雨瞳がちらっと俺を見る。引き留めはしない。ただ一言。
「変なとこまで一人で歩き回らないで」
「それ、完全に子どもへの言い方だろ」
「だって時々、そういうレベルで目離せないから」
「言い方ってもんがあんだろ」
「私はずっとマイルドな方だよ。あんたが自分を盛りすぎなだけ」
これ以上の応酬は面倒になって、上着だけつかんで外へ出た。
◇ ◇ ◇
カジノの外に出ると、テラスは中より一段冷たい。
夜風が、船の側面を滑るように吹き抜けていく。塩気を含んだ湿った空気。真っ黒な海面に、ところどころだけ光の破片が浮いている。極光号(オーロラ・インペリア)の航行は、笑うくらい滑らかで、デッキに立っていても、ほとんど揺れが伝わってこない。
こういう大きさの船が夜の海に出ると、毎回同じ変な錯覚にハマる。
ここが海のど真ん中なのは、頭では分かってる。でも、あまりにも何も起きなさすぎて、まるでどこにも行ってないみたいな気分になる。
手すりに寄りかかって、タバコに火をつけた。
小さな炎が一瞬だけ明るくなって、すぐ夜の色に飲まれていく。煙は風に千切られて、跡形もなく消えた。
少し離れたところに、もう一人、人影がある。ジョナサン・リード(Jonathan Reid)だ。手にカメラは持っていない。グラスを片手に、完全に「何もしない」をしに来ている顔だ。目が合うと、軽く顎を引いて挨拶してきた。
「Nice night, huh(いい夜だ)」
「そのセリフ、妙に皮肉に聞こえるんだけど」
彼は小さく笑う。
「Maybe a little(まあ、少しはね)」
隣に並んで、同じように海を眺める。
「なあ、あんたも、今日のこの船、ちょっと"変"だって感じてる?」
「旅が五日目に入るとね」彼は言う。「人のテンションが、やっと興奮のピークから半歩だけ降りる。その半歩で、今まで"楽しい"に塗りつぶされて見えなかった細部が、急に輪郭を持ち始める」
「いちいち言い回しがプロっぽいな」
「Photographerは、基本そうやって食べてる仕事だからね。みんなが"主役"を見てるときに、誰かは"背景"を見てないと」
言ってることは難しくない。なのに、胸の内側になぜかざらつきが残る。
煙を吐き出して、訊いた。
「で? 今のところ、何が見えてんだよ、プロさんは」
リードはグラスの中身を、かすかに揺らす。すぐには答えない。
「Still nothing clear。ただ——この船、"人のコンディションを組み立てる"のが、やたら上手すぎる」
またそれだ。
アレンジ。セッティング。セッティングされる側。
今日一日で、似たようなニュアンスの言い方を、何人にされただろう。
「なあ、インテリはさ、もうちょっとストレートに日本語しゃべってくんない?」
「例えば」彼は横を向いて、穏やかな目で言う。「今日もし君の気分が落ちていたとしたら、この船はすぐにアルコールや音楽、景色、食事、光の質、それから"偶然出会う人"を用意する。"騒ぎたい"って空気なら賑やかさを、"一人にしてくれ"って空気なら静かな場所を。それぞれに"ちょうどいい"を、ほぼ途切れなく差し込んでくる」
思わず眉が動く。
図星だからだ。
今日は、じゃない。この数日ずっとそうだった。少しでもぼーっとし始めると、リストバンドからおすすめが飛んでくる。重いものを食ったあとには、絶妙なタイミングでデザートが差し込まれる。部屋に戻ろうかと思っていたところで、ちょうど興味を引く何かと出くわす。
感情の"すき間"ってやつを、片っ端からパテ埋めしてくる。
いつもなら、それは「最高級のおもてなし」と呼ばれる。
だが、視点をほんの少しずらすと——
ただ、「誰にもじっくり考える隙を与えないための仕組み」にも見える。
「で、結局どうすりゃいい? 俺ら、ただのヒマ人で、時間ありすぎて考えすぎてるだけ、とか?」
リードは、また小さく笑った。
「Or maybe、遊び疲れて、やっと頭が本来の仕事を思い出しただけかもね」
さっきより、さらに嫌なところを突いてくる。でも、さっきより、さらに納得もする。
タバコの火が半分ほど短くなったところで、テラスの反対側の自動ドアが音もなく開いた。誰かが一歩外へ出て、すぐに足を止める。最初は気にも留めなかったが、なんとなく視界の端でとらえたシルエットに、見覚えがあって、きちんと目を向けてしまう。
さっきカジノの中で見かけた、銀色のドレスの女だ。ショートカット。手には、薄い色のカクテルグラス。
彼女は欄干のそばで立ち止まり、海の方を眺める。
立ち位置、体の角度、ライトに切り取られる横顔のライン……さっき見たときから、ほぼそのままコピー&ペーストされてきたみたいだ。
二秒ほど、ただ見つめる。
彼女は、視線に気づいたように、こちらを振り向く。自然な微笑みを浮かべて——そのまま何事もなかったように、自動ドアの向こうへ戻っていった。
一連の動きには、何の"異常"もない。
完璧なまでに、「普通」。
普通すぎて、どこを指差して「おかしい」と言えばいいのか分からない。
それでも、胸のどこかがじりっとイラつく。
それは恐怖じゃない。何かが起きた確信でもない。ただ、同じシーンが何度も再生されていること、自分の気分が手厚くケアされすぎていること、その全部が、「これは単なる偶然の積み重ねだよ」と信じ続けるには、そろそろしんどくなってきた、ってサインだ。
タバコを欄干の灰皿で押し潰す。
「奥さんは?」
「Up there with Sarah(上のデッキ。サラと散歩中だよ)」
「二人とも、だいぶ落ち着いてんな」
「Calm is cheaper(落ち着いてる方がコスパがいい)。それに、まだ"落ち着かなくていい"段階にすら届いてない」
それは、受け入れやすい答えだ。
なぜなら、俺の感覚とも合致してるから。
今はまだ、テーブルをひっくり返すタイミングじゃない。ただ、水面の下から何かが顔を出しつつある。まだ小さい。まだぼやけてる。でも、輪郭だけはもう見えている。
それだけで、十分、胸の中に小さなひっかかりを残す。
◇ ◇ ◇
カジノへ戻ってから、そう長くは座らなかった。
シキはまだテンション高めだが、さすがに集中が切れはじめていて、目線がゆらゆらと場内のあちこちをさまよっている。林雨瞳は、もう何も言わない。ただ立ち上がる前に、残っていたグラスの酒を一気に飲み干した。葉綺安は、とっくに自分なりの結論を出している顔で、それをあえて今は口にしない、という選択をしている。
四人で「黒潮プロバビリティ・サロン」を出て、エレベーターで上階へ向かう。
箱の中は静かで、やけに柔らかいBGMだけが流れている。その"気遣いすぎな心地よさ"が、逆にイラッとくるタイプのやつだ。
シキが、最初に口を開いた。
「やっぱあたしたち、最近遊びすぎてさー、何見ても"これ何かの伏線かな?"って勘ぐる病にかかってない?」
「十分あり得るな」俺は言う。
「でも、全部が全部、考えすぎってわけでもない」林雨瞳が続ける。
「じゃ、今どうするのが正解?」シキが聞く。
エレベーターのドアに映った自分の顔を見ながら、少し考える。
「どうもしない。とりあえず、覚えとくだけ」
葉綺安が頷く。
「そう。変な違和感は、まずストック」
「結論出すのは、もっと後だ」
「明日は明日でスケジュールあるしな」俺は言う。「遊ぶのも続行。観察も続行。今いちばんバカなのは、自分で勝手に怖がって、自分で勝手にパニックになるパターン」
林雨瞳が、横目で俺を見る。
「珍しく、まともなこと言ったね」
「いつもまともだっつーの」
「いつも"自信だけは"まともだよね」
「自信は、長所だ」
「それは、病名だよ」
シキがぷっと吹き出して、エレベーターの中の張り詰めた空気が、やっと少しだけ緩む。
ドアが開くと、廊下の灯りは相変わらずあたたかく、別フロアからはまだどこかで音楽が聞こえてくる。極光号(オーロラ・インペリア)はきれいで、安定していて、「乗客の感情まで面倒を見る海上都市」というコンセプトを、余裕で体現している。
スタッフがデザートカートを押して通り過ぎる。きっちりお辞儀をして、進路を譲ってくれる。少し先から、深夜デザートバーの甘い匂いが漂ってくる。その甘さは、「ここでは何も悪いことは起こらない」と言い張るかのようだ。
シキが伸びをしながら言う。
「なんかさ、急にお腹すいてきた」
「お前、ブラックホールか女子高生かどっちかにしろ」
「両方って選択肢は?」
「アリだな」笑いながら言う。「よし、じゃあ夜食いくか」
「今から?」
「ほかに何すんだよ。まだ何も起きてねえなら、その間に食えるもん全部制覇しとくのが正解」
葉綺安は小さく鼻で笑う。でも、別に止めはしない。
林雨瞳は「ほんと面倒くさい」と口で言いながら、足はちゃんとこっちについてくる。
四人で廊下を、二十四時間営業のデザートバーの方へ歩く。上質なカーペットが、足音を全部飲み込んでしまう。窓の外は真っ黒なまま。
ぱっと見た限り、この船の何も変わっていない。
でも、もう知ってしまった。今日を境に、ここは単なる「楽しむための場所」ではいられなくなったってことを。
相変わらず豪華で、相変わらず心地よくて、人間をいくらでもダメにできるくらい、ぬるく甘い。
その"心地よさ"の下に、何かがある。
ただの不吉とか、霊が出るとか、明日いきなり船がひっくり返る、とか、そういう話ではない。
旅の五日目。騒ぎが一段落して、やっと冷静さが戻ってきたときに、じわじわ浮かび上がってくる種類の感覚。
——この船、人を"扱う"のがうますぎる。
そして、"うますぎるもの"っていうのは、大抵、「ただ楽しくさせたいだけ」じゃ終わらない。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




