S2第二章:南廻、難帰
潮州の早朝。空気は溶けきらない廃油のように粘着質き、朝市の油煙と逃げ場のない湿熱が肺にまとわりつく。
駅の対面にある飯糰の屋台横。俺は半年ぶりとなる一本の煙草を指に挟んでいた。粗悪な葉が燃える辛辣な刺激が肺を蹂躙する。その馴染み深い焼けるような痛痒こそが、佛光山に初期化されたこの肉体に、「人間」としての実感を強引に引き戻してくれた。あの禿頭の連中、半年間も大悲咒を垂れ流しやがって。危うく魂ごと脳味噌を白紙にされるところだった。
雨瞳が、新聞紙に包まれた熱い飯糰を二つ手に歩み寄ってきた。煙に巻かれる俺の情けない姿を眉間に皺を寄せて眺めているが、意外にも以前のような怒号は飛んでこない。
「列車が来るまであと三十分よ」
飯糰を受け取ろうとした瞬間、指先が触れ合う。俺の内に残る佛門の寒気が彼女を弾き、雨瞳は無意識に手を引っ込めた。
「サンキュ」俺は顔を上げず、煙を深く吸い込む。「……乗ったら離れて座れ。今の俺は臭うからな」
雨瞳は包み紙を引き千切り、八つ当たり気味に飯糰を噛み砕いた。「何の臭いよ? 檀香? それともヤニ臭さ?」
「――死人の臭いだ」
青白い煙を吐き出し、汚れきった革靴の先に落ちる灰を眺める。「分からないか? 今の俺は歩く標本だ。あの坊主ども、俺を浄化しきれなかったどころか、残っていたわずかな人間性まで超度しやがったんだ」
雨瞳が沈黙する。彼女の視線が釘のように俺の側頭部を射抜いているのが分かった。突如、彼女の大きな瞳に、逃げ場のない湿った紅が滲む。それは祈りよりも凄絶な、執着の響きだった。
「周士達。あんたがどんな臭いをさせていようが関係ないわ。あんたの負債はまだ完済されてない。死ぬまで生きなさいよ。たとえ本当に幽霊に成り果てても、地獄の底まであんたを引きずり戻してやるから」
俺は顔を向け、その澄んでいるがゆえに凶暴なまでの意思を宿した瞳を見つめた。心臓の奥にある、とうの昔に干からびたはずの弦が、誰かに乱暴に弾かれたように震え、痛む。俺は自嘲気味に笑い、火のついた煙草を熱せられたアスファルトに押し付けた。
これ以上は、ただのセンチメンタルだ。
スーツの灰を払い、立ち上がる。地平線の向こう、晨霧を切り裂いて現れた列車が、錆びついた咆哮を上げながら近づいてくる。巨大な鋼鉄の獣が、新たな生贄を求めてその口を開こうとしていた。
「行くぞ」
彼女の荷物を掴み、プラットフォームへと歩を進める。
潮州駅のアナウンスは、南台湾特有の倦怠を纏って響いていた。
莒光号のオレンジ色の車体は、暴力的な日差しを受けて刺々しく輝いている。
「周士達、台北は北よ。あんた、魂だけじゃなく方位磁石まで山に置いてきたの?」
「たまにはいいだろ。お前、ずっと台東の海が見たいって騒いでたじゃないか」俺は彼女の背中を押し、車内へと促す。「台北に戻ったところでどうせロクな事がない。台東で原住民の同胞に熱い洗礼でも受けて、その都会の毒を洗い流してこいよ」
「……あんたが厄災を連れ込まないことだけが、唯一の神の加護ね」
彼女は呆れたように白眼をむいたが、その声には無意識の期待と、拭いきれない懸念が混じっていた。
列車はゆっくりと枋寮を離れ、レールを叩く「ガタン」という単調なリズムが、空虚な車内に響き渡る。
この列車は、まるで移動する鋼鉄の墓場だった。乗客は俺たちの他に、数席後ろで死んだように眠る登山客が二人だけ。荷物を棚に放り込み、雨瞳の向かいに腰を下ろす。窓の外、内獅を過ぎれば、左手には崩落寸前の断崖、右手には不気味なほど青い太平洋が広がっていた。
「この半年……」雨瞳が不意に顔を向け、声を潜めた。「和尚たち、本当に何もしなかったの? 精進料理と掃き掃除以外に」
「ああ、せいぜい退屈な佛学講座を聞かされたくらいだ」俺は自嘲的に笑い、習慣でポケットの煙草を探そうとして――禁煙であることを思い出し、無様に手を引っ込めた。「沈博文……あの男、その後お前たちの前に現れたか?」
「一度、来たわ」雨瞳の瞳が、瞬時に凍てつく霜を纏った。「葉綺安が霊体にぶち壊しにされた記者会見を、彼が片付けたの。去り際、一言だけ残していった」
「……なんて言ったんだ?」心臓が嫌な跳ね方をした。あの老狐、沈博文が無駄口を叩くはずがない。
「『老周はすぐに戻る。だが、戻ってくるのは……もはや老周ではないかもしれない』」雨瞳が俺の瞳を射抜く。角膜の奥に潜む俺の魂を検分するかのように。「周士達、あんたは今、一体誰なの?」
俺は口を開き、いつもの誤魔化しのジョークを吐き出そうとした――。
その瞬間、列車が耳を潰さんばかりの鋭利な悲鳴を上げた。莒光号の巨体が何者かに引き摺られるように激しく震動し、全長八キロメートルに及ぶ中央トンネルへと突っ込んだ。
闇が、すべてを飲み込んだ。
金属の衝突音で鼓膜が裂け、意識が断線した電球のように明滅する。再び目を開けた時、世界は反転していた。
横転した車両。砕け散ったフロントガラスは、闇の中でダイヤモンドの灰のように降り注いでいる。鼻を突く重油の臭いと、焼き切れた配線の煙が肺を封鎖する。俺は左手に、粘着質な熱を感じた――雨瞳の血だ。彼女の白い服に、闇の中で狂い咲く妖異な紅い花のように、急速にその領土を広げていく。
歪んだ荷物棚の鋼管が、彼女の側腹部を無慈悲に貫き、反転した座席へと縫い付けていた。
「雨瞳……雨瞳ッ!」掠れた声で叫び、溢れ出す温度を指で塞ごうとする。だが、鮮血は俺の指の間から、嘲笑うように零れ落ちた。
彼女の視線が俺の肩越しに、背後の陰影を凝視する。言葉を発しようとした彼女の口から、内臓の欠片を孕んだ暗紅色の塊が吐き出された。
その刹那、空気が凍結した。
トンネルの壁に張り付いていた焦げた影が、歪に引き伸ばされ、壁面から剥離した。一人、二人……無数の、ボロボロの灰衣を纏った形体。虚空から滲み出した病原菌の群れ。フードの下には顔がなく、ただ虚無の黒が広がっている。枯れ木のような両手が、錆び付いた巨大な鎌を引き摺り、砕石の上で耳障りな音を立てた。
――死神。
奴らは俺を見ない。生きている俺の肉体など、目障りな残飯に過ぎないと言わんばかりに。そのすべての視線は、雨瞳へと固定されていた。今まさに散逸し、透明度を増していく彼女の「魂の光」へと。
先頭の死神が、緩慢な動作で鎌を持ち上げた。刃先が雨瞳の喉を照準する。周囲の酸素が強引に奪われ、脊椎から魂を力任せに引き抜かれるような絶対零度の引力が全身を襲う。
「……失せろ」
俺は震える手で、西装のポケットから「それ」を取り出した。佛光山で掃き掃除をしていた際、肉を漬け込むためにくすねた大悲咒の浄塩を。
「失せろと言ってるんだ……この、役立たずどもがッ!!」
浄塩を撒き散らした瞬間、大気中で耳を刺すような焦熱音が爆発した。まるで沸騰した油の中に、巨大な生肉の塊を放り込んだかのような音だ。数体の死神が悲鳴を上げ、その虚無の灰衣には醜悪な焦げ跡が刻まれた。
鎌を携えた冥府の役人たちは、明らかに困惑していた。
奴らの永いキャリアの中で、命乞いをする者や、金塊で買収を試みる者、あるいは失禁する者は数え切れないほど見てきただろう。だが、脱線事故の瓦解した瓦礫の中で、肉の塩漬け用の塩を死神の顔面に叩きつける狂人など、前例があるはずもない。
それは、奴らにとって「屈辱」という名の未知のバグだった。
「おっと、悪い。先に胡椒も振ってやるべきだったか?」俺は血の混じった唾を吐き捨てる。
本来、陽寿の尽きていない生者には手を出せないはずの「陰間公務員」たちが、完全に逆上した。錆び付いた鎌を振り回し、骨の芯まで凍結させる陰風を伴って、規約違反の絞殺を開始する。
「クソったれが……」
雨瞳を庇いながら、俺は右手を腰へと走らせた。
これは佛光山の禿頭どもに没収されていた祖霊の大ナタだ。奴ら、これを溶かして「仏法浄化デバイス」に改造しようとしやがったが、俺が『原住民基本法』を盾に罵詈雑言を浴びせて奪還した代物だ。最終的に、奇想天外な発想を持つ和尚たちが、この鉄塊をある兵器へと再構築した。
――「金剛経・蛇腹剣」。
普段は目立たない黒いベルト(皮革)だが、バックルを解除した瞬間、それは驚異的な柔軟性と金剛経の経文を刻んだ肉挽き機へと変貌する。
「――ッ!!」
蛇のごとくしなる剣身が、暗闇の中で刺すような寒光を放つ。このなまくらで死神を「殺す」ことはできないが、経文に付随する物理的超度は、奴らの形体をボロ雑巾のような煙へと叩き切るには十分だ。俺はムチを振るうように長剣を荒れ狂わせ、金属と鎌が衝突する火花をトンネル内に乱舞させた。
だが、これが単なる時間稼ぎであることは明白だった。雨瞳の呼吸は秒単位で希薄になり、今にも吹き消されそうな残灯と化している。彼女は死にかけており、俺の体力は限界に近い。
「……背に腹は代えられねえ、イチかバチかだ」
俺はバッグの奥底から、ボロボロになった一枚の護符を引き出した。かつてSホテルでの騒動の際、地蔵王から直接手渡された「記念品」だ。冷兵器の戦場に、いきなり核兵器の信管を持ち出すような絶望的な一手。
「東方の親分! あんたの出番だッ!!」
俺は迷わず、その護符を握り潰した。
ドォォン!!
視界を焼き切るような、純白かつ苛烈な金光が爆発した。全長八キロメートルのトンネル内に、無理やり太陽をねじ込んだかのような規模だ。万仏朝宗にも似た轟音が死神たちの悲鳴をかき消し、灰衣のゴミ屑どもは抗う間もなく、原子レベルの塵へと分解された。
光が収束し、再び死のような静寂が訪れる。大気には、焼香の残り香が不気味に漂っていた。
俺は床に膝をつき、激しく喘ぐ。どうやって雨瞳を連れて、この悪夢からログアウトすべきか。混濁する意識の中で、それだけを考えていた。
その時、吐き気を催すほど優雅な拍手が、車両の連結部から響いてきた。
「パチ、パチ、パチ」
砕け散ったガラスを踏みしめる革靴の音。そのリズムは、強迫観念を抱いた音楽家のように正確だった。オールバックの髪に金縁の眼鏡。サヴィル・ロウの仕立てと思われるスリーピース・スーツを纏った男が、悠然と歩を進めてくる。血肉と重油が混ざり合う惨状の中で、彼はまるで迷い込んだ保険外交員のように見えた。
「ベルタス.メフィスト……」
俺は蛇腹剣の柄を握りしめ、歯の隙間から凍りついた罵声を漏らした。
「この大惨事、あんたが書き上げたシナリオか?」
「周さん……」
この地獄の王は、砕け散ったガラスの上を、まるで自宅の裏庭でも散策するかのように歩み寄ってきた。金縁の眼鏡が、反吐が出るほど慇懃無礼な光を反射している。彼は優雅に両手を広げた。「私なら、初対面から血を吐き散らすような真似はせず、まずは礼節を重んじますがね」
言い終えるや否や、彼は手品師のように指先から湯気の立つ紅茶を生成させた。陶器のカップの縁が、火光の下で冷たい光を放っている。
「手品を披露しにわざわざ来たのか? 用がないなら消えろ。今の俺は、あんたの接待をしてる余裕なんてないんだ」俺は血の混じった唾を吐き捨てる。掌は冷や汗でぐっしょりだ。
「ああ、失敬。林お嬢様でしたね?」
ベルタスはわざとらしく目尻を拭い、殴り飛ばしたくなるほど軽薄なトーンで続けた。「可哀想に。まさに夭折の模範例というべき惨状だ」
「周士達、今回のバグは深刻ですよ」
彼の顔から笑みが消え、冷徹な|プロジェクト・マネージャー《業務主管》の表情へと切り替わる。
「あの灰色の連中は確かに鼻持ちなりませんが、名目的には『神』に雇用されていた。そしてあなたは今、衆人環視の中で神殺しをやってのけたわけだ」
俺は腕の中で次第に温度を失っていく雨瞳を抱きしめ、もう片方の手で蛇腹剣を握りしめた。手負いの獣のような視線で奴を射抜く。この男が現れる時、地獄の仲介手数料は決まって法外なものになる。
「それで? あんたみたいなクソ野郎が、親切心で警告しに来たわけじゃないだろ」
「天国のプロトコル・第001条:神殺しは人神共に憤るべし」ベルタスは含みのある笑みを浮かべた。「ですが、私のお気に入りがこうも簡単に退場されては困るのですよ」
彼が軽やかに指を鳴らした。
その刹那。雨瞳の傷口から溢れ出していた鮮血が、ビデオの逆再生のように、おぞましい軌跡を描いて彼女の体内へと還っていった。
「……士達」
彼女が微かな呻き声を上げ、ゆっくりと瞼を開く。
「雨瞳ッ!」
胸の内の重圧がようやく霧散し、俺は必死に彼女の呼吸を確認した。ベルタスはその光景を、低予算のメロドラマでも鑑賞するかのような冷めた目で見つめていた。俺が彼女を横たえ、立ち上がるのを待って、奴は再び口を開いた。
「どうです? これでようやく、文明人として話し合える準備が整った」
「……要求は何だ」
「話が早くて助かる。やはり私の見込んだ男だ」ベルタスは硫黄の臭いと古の邪気が漂う巻物を取り出した。「死神たちは一応、私の従業員だ。あなたが彼らを無断で大量解雇したせいで、全体の効率が著しく低下した。そこで……」
彼が広げたのは、魂を永久にロックする悪魔の規約。
「彼らの代わりを務めてもらう。期間は六日間、あるいは百の魂を回収すれば、この負債は相殺される」
「三日間、五十個だ」俺は目を光らせ、いきなり半値の交渉を吹っかけた。
「四日間、六十個」
「……三日間、七十個」
「ディール(成約)だ」
ベルタスは額の汗を拭う振りをし、その笑みに獰猛な本性を滲ませた。「いい度胸だ。地獄の王を相手に蚤の市のような値切り交渉を楽しむとは」
彼は純金製で黒石をあしらった指輪を差し出した。「死神のIDカードだ。これを嵌めれば、あのみっともない魂たちの悲鳴が受信できるようになる」
俺がサインをしようと手を伸ばした瞬間、ベルタスは意地悪く巻物を引っ込めた。「地獄の契約に署名は不要。必要なのは……魂の刻印だ」
「どうやるんだ?」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
問いが終わる前に、このクソ野郎は残像すら残さぬ速度で俺の懐に飛び込んできた。そして雨瞳の目の前で、俺の後頭部を強引に固定すると、その唇を俺の唇に力任せに押し当ててきたのだ。
「――ッ!! ふざけんなッ!!!」
あまりの屈辱に、蛇腹剣を奴の喉笛に突き立てようとしたが、ベルタスは涼しい顔で口を拭い、暗紅色の光を放つ契約書を掲げてみせた。
「さて、カウントダウンの開始だ。三日間で七十。指輪があなたを監視している。……ああ、そうだ。早めに救援を呼ぶことをお勧めしますよ。私は彼女のセッションを維持しただけで、完全修復するとは言っていませんからね」
彼は横転した車両の縁まで歩くと、そのままトンネルの断崖へと身を投げた。傲慢な笑い声が山霊の叫びのように響き渡る。
「死ねッ! くたばれベルタス!!」
ベルタスが消失した瞬間、何者かに止められていた時間のネジが狂ったように巻き戻された。清晨の光は一瞬にして夜の帳に絞殺され、大気は氷のごとく冷え切る。
俺はよろけながら山壁の標識を見上げた。火光の残影の中で「39」という数字が歪に揺れる。内獅、枋山……大武山の深部へ足を踏み入れた瞬間、俺たちは白昼という名のデータを丸ごと奪われたのだ。あの老狐、ベルタスは最初から知っていたはずだ。奴の戯言を信じた俺の脳こそ、バグに侵されている。
深夜の大武山。冷杉の林を吹き抜ける風の音は、無数の冤魂が森を彷徨い、叫び声を上げているかのように聞こえた。俺は雨瞳を背負い、膝まである草むらを迷走する。この巨大な山そのものが、今は巨大な胃袋と化し、俺たちという不速の客をじわじわと消化しようとしていた。
「周士達……寒い……」
「喋るな、酸素を節約しろ」俺は奥歯を噛みしめる。口内は鉄錆の臭いが充満していた。
ポケットの中の死神の指輪が、異常な熱を放っている。黒石が放つ禍々しい幽光が俺の感覚を突き刺す。まるで「一つの指輪」を押し付けられたフロドにでもなった気分だ。
それに呼応するように、樹影の隙間から歪な形体が滲み出し始めた――地縛霊どもだ。奴らは今にも吹き消されそうな雨瞳の「命の灯火」を、飢えた獣のような目で見つめている。
「失せろッ!」
蛇腹剣を荒れ狂わせる。経文の銀光は暗闇の中で弱々しく明滅し、まるで俺たちの葬式を先取りしているかのようだった。
渓谷へ転落しかけたその時、強烈な光が霧を切り裂き、俺の顔面を射抜いた。
「おい! 前の奴、手を上げろ! それは何だ!?」
粗野な怒号と共に、銃を構える音が響く。岩陰から二つの人影が飛び出してきた。先頭の男は熊のごとき巨躯で土製猟銃を肩に担ぎ、後方の少女はタクティカル・ベストを纏い、隼のような鋭い視線を放っている。
「助けてくれ……」俺は膝から崩れ落ち、砕石の山に沈んだ。「列車が脱線したんだ……彼女を、救ってくれ……」
父娘は顔を見合わせた。男の銃口は、佛光と死気がコンフリクトを起こしている俺の異様な気配をロックしたままだ。
「若造……お前の魂……」男が思案するように口を開く。
「俺の魂なんてどうでもいいッ!」俺は半狂乱で叫んだ。「雨瞳が死にそうなんだよ!」
男は腹部を鮮血に染めた雨瞳を一瞥すると、唐突に猟銃を収めた。豪快に笑いながら俺の肩を叩くと、背負っていた雨瞳をひょいと担ぎ上げる。その動作は、仕留めた山羌でも運ぶかのように軽やかだった。
「若いの、お前は今日、宝くじに当たるよりツイてるぜ」
彼は歩きながら声を張り上げた。「俺の姉貴がちょうど花蓮から戻ったばかりだ。彼女は医師免許持ちのプリンガウ――巫師なんだ。行くぞ、車はすぐ上だ」
改裝されたオフロード・ジープが、産業道路の突き当たりで強制停止した。娘と男は手慣れた動作で二枚の仕切り板を担架代わりとし、雨瞳の肉体を後部座席へと固定した。
「俺はタレム(Talem)。歸崇部落のベテランハンターだ」
彼は運転席に飛び乗り、隣の少女を指差した。「こいつは娘のシキ(Siki)。排湾族で最年少の巡山員だ」
「周士達だ……彼女は林雨瞳。頼む、助けてくれ。話はそれからだ」
俺は後部座席に崩れ落ち、雨瞳の蒼白な顔から視線を外せなかった。
「シキ、おばあに連絡しろ。アジ(姉貴)に重傷者がいると伝えろ。それから大武衛生所の救急車を手配して、アジに先に応急処置をさせるんだ」
俺の困惑を察したのか、タレムは豪快に笑った。「おばあは頭目だ。村の放送システムの鍵を握っている。緊急事態には一言叫べば、山中の連中が一斉起動する」
「でもお父さん、いつも悪用してるじゃない。この前も酒に誘うのに放送を使ったでしょ」
助手席からシキが無情な暴露を放つ。
「チッ、あれだって俺にとっては緊急事態だったんだよ!」
タレムは気まずそうに乾いた笑いを漏らし、アクセルを底まで踏み抜いた。ジープは蛇行する猟路を、狂ったようにドリフトしながら駆け抜ける。
ほどなくして、俺たちは歸崇部落の境界へと突っ込んだ。薄暗い街灯の下、多くの族人たちが顔を出してこちらを覗き込んでいる。鮮血にまみれたジープは、移動動物園のように好奇の視線に晒されながら、巨大な工寮の前で停車した。
タレムは猛然とエンジンを切り、俺を振り返った。「気にするな、若いの。ここは辺鄙な場所だ。平地人なんて一年で数人も見かけない。お前たちは今や『貴客』だ。俺たちが助けてやる――大武山の祖靈は、臆病者は見捨てないからな」
工寮の木扉が荒々しく押し開かれた。脳内では依然としてレールの衝突音が響いている。小山のような巨躯の青年たちが、錆びついたストレッチャーと共に中から躍り出た。
「バル(Baru)! アラン(Alang)と後ろへ回れ! あの娘を中へ運び込め!」
タレムが指示を飛ばしながら、俺に向かって怒鳴る。「お前のマブダチの血液型は!?」
「A型だッ!」掠れた声で叫ぶ。
「A型か……」タレムは通りすがりの若者の襟首を掴んだ。「サカヌ(Sakinu)に連絡しろ! 今すぐ血を出しに来いとな! 来なければ、俺があいつのケツを直接叩き割ってやると伝えろ!」
この光景は、もはや制御不能な祭礼だ。助けに来る者、野次馬、その間を走り回る子供たち。狭い工寮の入り口は一瞬で人だかりとなり、俺の喉元までせり上がった心臓は、この騒乱によってさらに掻き乱される。
「ガキども! いつまでそこに突っ立ってる! 全員山から叩き落とされたいのかッ!」
中気溢れる一喝が、喧騒を切り裂いた。白衣を纏いながらも、内側には伝統的な刺繍背心を覗かせた中年女性が、大股で歩み寄る。騒いでいた若者たちは、鷹に遭遇した鶉のように一瞬で縮こまった。
「布林奧……」
タレムは先ほどまでの不遜な態度を即座にデリートし、恭しく部落の礼を捧げた。
女は俺の前で足を止めた。傷口を見るのではない。濁ってはいるが異常に深邃な双眸が、直接俺の視線を射抜いた。
「怪我はないか?」
彼女は、壊れた家具の状態でも尋ねるような、冷淡なトーンで問いかけた。
俺は焦燥に駆られ、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。「頼む、俺のことはいい、雨瞳を……彼女を助けてくれ! 息が止まりそうなんだ!」
女は三秒ほど俺を凝視した後、意味深な冷笑を浮かべた。
「――霊魂が半分欠落していながら、これほど活発に動けるとは。お前も、相当なものだな」
俺は凍りついたように立ち尽くした。背筋に絶対零度の悪寒が走る。彼女は佛光山が残した「初期化」の後遺症を、そして俺の身に宿る「生者ならざる死気」を、その一瞬で見抜いたのだ。
彼女は返答を待たず、高医のロゴが入った救急箱を手に工寮へと消えた。重厚な木扉が、俺の絶望的な視線を拒絶するように、物理的に閉鎖された。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




