16.絢爛の罠 16-3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
深藍廊から上がった後、俺たちは八階でアフタヌーンティーを取ることにした。
八階のデザートラウンジは、昨夜見たときより、昼の方がよほど本気を出していた。照明がしっかり入り、ショーケースの中のケーキ、タルト、チョコレートは、そのままジュエリーショップに並べても違和感がないレベルだ。
もともと俺は、アフタヌーンティーってやつに特別な思い入れはなかった。
だが、目の前に海があって、空調が完璧で、椅子は座り心地が良くて、スタッフがベストなタイミングで茶と菓子を運んでくる、という状況を揃えられると——人間の「糖分」と「時間」に対する抵抗力は、笑えるほど簡単に溶ける。
シキは、生まれて初めて悟ったらしい。
一見ケチくさいサイズのケーキ一切れが、「三秒黙って食べる価値」があると、素直に認めた。
雨瞳はアールグレイを一ポットと、レモンタルトを二つ注文した。食べるときの表情は相変わらず淡々としていたが、もし気に入っていなければ、無言で二口目を運んだりはしない女だ。
葉綺安は、アルコール入りチョコレートケーキを選んだ。二口食べたところで、平然とした声で言う。
「これ、確率サロンのホストより水準が高い」
いかにも葉綺安らしい評価だ。俺はそれ以上付け足すことができなかった。
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午後のフリータイム、俺たちは再び別行動になった。
雨瞳とサラは十階のフォトエキシビションへ向かい、その足でギフトショップを冷やかした。サラは、雨瞳の「無駄口は叩かないが、画とアングルはすぐに理解する」タイプをすっかり気に入ったようだ。
二人は写真の話からカメラの話へ、さらに「旅にはレンズをいくつ持っていくべきか」という、永遠に終わらない問題へと話題を広げ、最終的にはお揃いのノートまで買っていた。
シキはアドナンに勧められ、デッキのカクテルワークショップとアウトドアエリアを見に行った。戻ってきたときには、自分で調合したフルーツカクテルを片手に持ち、山で使える新しいスキルでも身につけたかのようなドヤ顔をしていた。
俺はというと、ジョナサン・リードとホフマン教授と一緒に、シガーバーで少し腰を落ち着けた。
シガーバー、と言っても、かなり節度のある作りだ。重厚な内装、座り心地のいい椅子、充実した酒とティーのメニュー。そして何より——静寂。
リードは、明らかにこういう場所に慣れていた。レストランよりも、ここにいるときの方が、ずっと肩の力が抜けている。
ホフマン教授はグラスを傾けながら、話題を自然に「今夜の劇場プログラム」へと戻していく。心の底から、海上エンタメをフィールドワークとして満喫している老人だ。
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夕方、部屋へ戻って着替えをしている最中、鏡の前に立った俺は、珍しく一瞬だけ、人生ってやつの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。
数日前の俺は、台北でワイスマン(ワイスマン)やルーマニア、あの世絡みの面倒事を話していた。
今の俺は、豪華クルーズのスイートルームで、これからキャプテンズ・レセプションに出るためのスーツに袖を通している。
この落差が他人の身に起きているのを見たら、「こいつ人生に殴られすぎてバグったな」と思うところだ。
だが、自分の身に起きていると、不思議とそこまで場違いにも感じない。
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極光号は、今夜のキャプテンズ・レセプションを、容赦なくフルコースで組み上げていた。
プレカクテル、正式ディナー、夜の劇場プログラム、そして十九階ラウンジのナイトセッション。
この船は、「夜に人を早く部屋へ返してはいけない」という信念でも持っているのか、と思うくらいだ。全員の夜を、ぎっしりと詰め込まずにはいられないらしい。
キャプテンズ・レセプションは、九階のメインバンケットホールで開かれた。
空間全体が、見事なまでに「きれいに明るい」。シャンデリア、シャンパンタワー、バンド、バイオリン、シルバーウェア、フラワーアレンジメント——どれも過不足なく揃っている。グラスの縁でさえ、誰かが事前に一本ずつ光り具合をチェックしたんじゃないか、と思うくらいだ。
招待客はほとんど全員、フォーマルウェアに着替えていた。
シキは、昨日買ったシャープなダークカラーのジャケットに、シンプルなシャツとパンツ。普段の「今すぐ山に走り込めます」感が薄まり、代わりにちょっと独特な清潔感が出ている。
雨瞳は、ミニマルな黒のロングドレス。首筋と肩のラインが出ているが、余計な装飾は一切ない。それなのに、誰よりも「服に頼らなくていい人間」に見えた。
葉綺安は、場そのものを身にまとっていた。
今夜の彼女は、ディープレッドのロングドレス。布地が身体に沿ってさらりと落ち、肩と首のラインが露わになる。バンケットホールにいる人間の半分は、彼女が入ってきた瞬間、無意識にそちらを見ていた。
そんな三人の横に立ちながら、俺は心から一つの事実を認めざるを得なかった。
こういう時、男に求められる役割は、たいてい二つだけだ。
グラスを持つこと。
そして、恥をかかないこと。
幸い、その二つくらいなら、俺にも何とかこなせる。
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レセプションでは、顔見知り連中が自然と再集合した。
リード夫妻は今夜もフォーマル仕様。サラのフィルムカメラはさすがに首にかかっていなかったが、視線の動きは完全に「職業病」のそれで、先に人、その次に場の構図をチェックしていた。
ホフマン教授は、珍しくボウタイまで締めている。もはや、どこかのヨーロッパ小説から抜け出してきた登場人物だ。
キム・ジヌとパク・ソヨンは、相変わらず華やかだ。特にキム・ジヌは、今夜のシャンパン全グラスに「成功への乾杯」を見出すつもりでいるらしく、一杯一杯を投資案件のような勢いで空けていく。
バンドが演奏し、船長が挨拶を述べ、シャンパンが次々と運ばれてくる。レセプションは、あっという間に熱気を帯びた。
クルーズ船の正式な場は、陸上のそれとは違う。全員が「同じ船に一時的に閉じ込められている」という事実を知っているから、距離感が溶けるのが早い。航路の話、海景の話、施設の話——二言三言交わせば、もうグラスを合わせている。
シキは船長から「実に元気がいい」と声をかけられ、振り返って俺に小声で聞いてきた。
「ねえ、もしかして私、食べる量が多いから目立ったのかな」
口の中のシャンパンが危うく鼻から出るところだった。
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正式ディナーは、さらに本気だった。
前菜、スープ、魚料理、メインコース、デザート、食後酒——完全なフルコースが流れていき、途中にライブ演奏まで挟まる。
ホフマン教授は、コース全体の配楽と食事のテンポを絶賛し続けた。サラ・リード(Sarah Reid)は、そのうち「人を観察する目」をしまい込むのが惜しくなってきたらしく、テーブル越しにちらちらと周囲を眺め始めた。ジョナサン・リード(Jonathan Reid)は口数こそ少ないが、この「節度ある賑わい」を、明らかに楽しんでいる。
葉綺安はというと、こういう正式な場では逆に静かになるタイプだ。必要なときだけ口を開き、あとはグラスを持って人を眺めている。
なのに、その静けさの方が、ずっと笑い続けて喋り続けている誰よりも、目を引く。
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ディナーが終わると、シキが「三次会の肉を探しに行きたい」と言い出したが、雨瞳に即座に却下された。
「これ以上食べたら、明日の行程が全部横になることになる」
最終的に、二手に分かれた。ホフマン教授とリード夫妻(the Reids)は大劇場の夜間公演へ。韓国夫妻(the Kims)は確率サロンへ戻る。俺たち四人はまず十九階のラウンジで一息つき、その後は流れで決めることにした。
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十九階の夜の風は、昼間とは別物だった。
昼は明るく、「今あなたはバカンス中です」と教えてくれる。夜は柔らかく、海もより静かになる。ラウンジの照明は落とされ、音楽は夜更けに合ったテンポに変わり、窓の外も露台の向こうも、遠い海だけがある。
こういう場所は、時間を引き伸ばす錯覚を起こさせる。比べるものが何もないから——目の前には酒と灯りと、隣にいる人間だけ。
席についてから、話題は昼間よりずっとゆるくなった。
シキが、今日いちばん気に入ったものを真剣にランキングし始めた。
第一位:深藍廊。
第二位:炙火レストラン。
第三位:ブランチのソーセージ。
第四位:新しい靴。
第五位:昨日のジャケット。
雨瞳が冷静に指摘した。
「五つのうち三つは、本質的に食べ物」
シキは反論しない。堂々と言い切る。
「旅行は、まず腹を満たすものでしょ」
葉綺安は横でグラスを持ったまま、ぼんやりしているように見えた。だが、ときどき一言だけ挟んでくる。その一言が毎回、俺と雨瞳の二人を同時に詰まらせる精度で飛んでくる。
三人を眺めながら、俺は一つのことに気づいた。
こういう時間が面倒なのは、女が多いからじゃない。一人一人が、ちゃんと自分の軸を持っているからだ。一言でごまかせないし、黙ってやり過ごすのも難しい。
だが逆に言えば、誰も誰かにもたれて答えを探すタイプじゃないから、一緒にいても余計な芝居がない。みんな海の上の高空ラウンジで、それぞれのペースで飲んで、それぞれのペースで喋って、ときどき互いに刺し合いながら、意外なほど居心地よく過ごしていた。
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結局、俺たちはそこから別の場所へは移動しなかった。
昼間に使い切ったのか、それともこの船が人の気力を「ちょうどいいところ」まで削るのが上手いのか——夜が深くなるにつれて、「次の場所を探さなければ」という気持ちが、誰の中にも残っていなかった。
部屋へ戻る前、シキが盛大なあくびをして、今日は正式に「満足した」と宣言した。
雨瞳は下を向いて、明日の行程をもう一度確認していた。
葉綺安は、グラスの最後の一口を飲み干し、立ち上がった。ドレスの裾が、脚のラインに沿ってさらりと落ちた。その動作は、相変わらず誰よりも綺麗だった。
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十六階の廊下は静かだった。
厚いカーペット。柔らかい照明。このフロアでまだ起きているのは、俺たちだけみたいだ。
シキは自分の部屋の前で俺たちに手を振り、あっさりと言い切った。
「今夜はもう誰も私を引きずり出せないから」
雨瞳はルームカードをしまいながら、俺を一瞥した。その目は穏やかで、今夜何が起きてもおかしくない、という顔でもあり、何も起きなくてもいい、という顔でもあった。
葉綺安はポケットに手を突っ込み、ドア枠にだるそうにもたれながら、俺に聞いた。
「明日の朝、十二階に行く?」
「行くよ」俺は答えた。「この船がこれだけ食わせてくれるなら、何回転でも行かねえと割に合わない」
彼女は俺を見て、口の端をほんの少し上げた。
「士達、最近ちゃんと楽しんでる顔になってきた」
「しちゃいけねえのか?」
「悪くない」彼女は淡々と言った。「ただ、忘れないで。旅ってのは、楽しくなればなるほど、終わらせたくなくなるものよ」
その言葉は、こういう夜に口から出ると、ごく普通の感慨のように聞こえる。俺は軽く笑って、何も返さなかった。三人がそれぞれ部屋へ消えていくのを見届けてから、自分もカードをかざして中へ入った。
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部屋は、昨日と変わらず居心地がよかった。
海はまだ外にある。極光号は、相変わらずプロフェッショナルすぎる優しさで、明日のアクティビティと食事の予約を耳元で確認してくる。
俺はバルコニーに出て、しばらく風に当たった。
頭の中に浮かんでいるのは、今日の昼間の、明るく完結した場面の断片ばかりだ。十二階のブランチ。甲板の風。深藍廊の海。確率サロンの笑い声。ディナーの酒。十九階の夜景。
あえて言葉にするなら、極光号(オーロラ・インペリア)の二日目と一日目の、一番大きな違いはこれだ。
一日目は、まだ「開封したて」だった。新鮮さと好奇心が混じっていた。
二日目は、本当に「使いこなし始めた」感覚だ。この船がいかに人を喜ばせるのが上手いか、分かってきた。どのレストランの席が一番落ち着くか。どのフロアの酒が一番いいか。どの時間帯に海を見るのが一番いいか。
要するに——俺たちは、ようやく本物の旅客になりつつあった。
グラスをテーブルに戻し、シャツの第一ボタンを外した。
珍しく、頭の中に余計なことが浮かんでこなかった。少なくともこの夜だけは、この船はただの「よくできた豪華クルーズ」で、俺たちはただ「南へ向かう途中で、人の金と自分の時間を存分に使い切っている旅客」でしかない。
明日は——
明日も続ける。
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