16.絢爛の罠 16-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
D-2 シンガポール
二日目の朝、目が覚めて最初に感じたのは、腹が減ったでも疲れたでもなかった。
——この船、人間を堕落させるのが上手すぎる。
ベッドは柔らかすぎるし、枕は静かすぎる。部屋のエアコンは完璧な温度で、窓の外の海は誰かが先に色補正でもかけたみたいに青い。こういう場所で目を覚ますと、人間の脳みそに「向上心」なんて単語が最初に浮かぶはずがない。頭に来るのは、今日の朝メシは何階で食うか、ランチはどこの国の料理にするか、午後は先に日光浴か、それとも先に散財か——そういうことだけだ。
寝返りを打った拍子に、耳の後ろの端末が軽く光った。高級ブランドのCMにそのまま使えそうな、極光号の柔らかい女声が静かに響く。
『周士達様、おはようございます。本日の海況は穏やか、天候は晴れでございます。ご希望でしたら、オーロラが十二階オーシャンビュー・ブランチ、十五時二十分の深藍廊観覧枠、および夜のキャプテンズ・レセプション前のメンズ・グルーミングサービスを手配いたします』
俺はベッドに横たわったまま二秒黙って、最終的に空気に向かって一言だけ返した。
「最後のは要らねえよ。俺の顔、サービスで盛れるタイプじゃねえから」
オーロラはもちろん、そんな戯言には付き合わない。ただ礼儀正しく沈黙を保つだけだ。このAIの一番居心地のいいところは、いつ熱心に振る舞い、いつ上品に口を閉ざすべきかを完璧にわきまえていることだ。
ベッドから降りてシャワーを浴び、着替えて、ミニバーからミネラルウォーターを一本抜いた。バルコニーへ向かおうとしたところで、ドアベルが鳴った。
開けると、シキがもう立っていた。
髪は半乾き。昨日買ったばかりの新しいジャケットとショートパンツ。足元はあの大層気に入っているハイエンド機能シューズ。全体の雰囲気は、クルーズでバカンス中というより、今から山でイノシシを狩りに行く人間のそれだ。
「やっと起きた」
「お前、早すぎだろ」
「早い?」彼女は俺の部屋を覗き込む。「雨瞳なんて、向こうでもう朝ごはんオーダー済みだよ」
「この船で、あいつより『任務遂行中』みたいな顔してる客がいるか?」
「綺安」
「あれは違う。船を乗っ取りに来た顔だ」
シキはクスクス笑いながら、ごく自然に俺の部屋へ入り込み、冷蔵庫からジュースを引っ張り出した。それを飲みながら、今朝の最新状況を報告してくる。
雨瞳が一番早く起きて、今日メンバーが回れそうな施設を全部一通りチェック済み。葉綺安は三十分ほど前に起きたばかりだが、起きるなりバルコニーでブラックコーヒーを飲んでいる。昨夜、確率サロンでテーブル全員の目を据わらせたとは思えないほど冷めた顔で。ホフマン教授は朝イチから九階で劇場のデイタイムツアーに参加中。リード夫妻(the Reids)は甲板で日の出を撮りながら散歩していた。
聞き終えて、俺の感想は一つだけだった。
「じゃあ、一番普通の観光客っぽいのは俺だけか」
「違うよ」シキは真面目な顔で訂正する。「普通の観光客は、初日からあんなふうにはならない」
「あんなふうって、どんなだ」
彼女はニヤリと笑った。何かを知っているが、あえて口には出さない笑い方だ。
「自分で分かってるでしょ」
俺は相手にするのをやめて、ドアを閉め、シキと一緒に向かいの部屋へ向かった。
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二つのスイートを繋ぐコネクティングドアは、とっくに開いていた。
雨瞳はリビングのソファに座り、半透明の船内ガイドインターフェースを目の前に投影している。片手でページをスワイプし、もう片方でコーヒーを飲む。昨日よりさらに、この高級クルーズの実際の運営者みたいな雰囲気だ。
葉綺安はバルコニー側に座っていた。黒のノースリーブにワイドパンツ、脚を組み、手に持ったコーヒーは純粋なブラック。「今話しかけたら、このコーヒーを顔面にぶちまけるわよ」とでも言いたげな殺気だ。
俺は二人の間に立ち、投影されたインターフェースを覗き込んだ。
「スケジュール、もう組んだのか?」
雨瞳は顔も上げない。
「だいたい。ブランチは十二階。食べたらデッキを一周。午後は深藍廊。その後フリー。夜はキャプテンズ・レセプションとディナー。劇場かラウンジかは後で決める」
「旅行代理店かよ」
「クルーズ船って、そういうものでしょ」
そこで葉綺安が、ゆっくりと口を開いた。
「午後のフリー前に、確率サロンに寄る」
「昨日まだ足りなかったのか?」
「昨日は準備運動」
俺は彼女を見て、心から言った。
「船側は、お前が二日目まで残ってくれることを本当に感謝してるだろうな」
葉綺安の口角がわずかに動いた。それで笑ったつもりらしい。
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四人で十二階のブランチへ向かう頃には、船全体が完全に「昼モード」に切り替わっていた。
昨夜の夜景、バー、音楽、人の流れ。それらが太陽光を浴びると、今度はもっと直接的な贅沢に変わる。甲板は眩しく、海は眩しく、プールは眩しい。廊下を行き交うスタッフも旅客も、全員ライティングを当てられているみたいだ。
クルーズ船ってのはすごい。夜は高級な夢の中にいる気分にさせ、昼になると即座に顔を変えて「超大型快楽マシン」としての本性を見せつけてくる。
十二階のオーシャンビュー・ブランチエリアは、文句なしに快適だった。
一面のフルフラット窓。外には、警戒心を溶かすのに最適な青い海。ビュッフェ台にはコールドミート、チーズ、ベーカリーから鉄板コーナーまで一通り並び、エッグベネディクト、ワッフル、オムレツを目の前で作ってくれるシェフまでいる。
シキはビュッフェ台の前で、人生の重大決断でも下すような真剣な顔をしていた。雨瞳はコーヒー、サラダ、卵、焼き立てのパンからあっさりと選び始める。どれだけリラックスしても、食生活だけは崩さないタイプの選び方だ。
葉綺安は一般的なブランチにはほとんど興味がなさそうで、最終的にスモークサーモン、ちょうどよく焼けたサワードウ二切れ、小さなフルーツボウル、ブラックコーヒー一杯。量だけ見れば、食事じゃなく「俺たちの海眺めに付き合う口実」程度だ。
俺が自分の皿を持って席に着くと、シキのテーブルはすでに大変なことになっていた。ベーコン、ソーセージ、目玉焼き、グリルトマト、ハッシュドポテト、チーズ二種、オレンジジュース特大。最初の一口を食べた時の満足そうな顔は、昨夜のスカイラウンジより、ずっと本物だった。
「このソーセージ、やばい」
「その言い方だと、食い物の話してるのか人生総括してるのか分からなくなるぞ」
「今は食い物だけ」彼女はソーセージを切りながら、顔も上げない。「人生は昨日で十分だった」
その一言で、雨瞳のコーヒーカップが一瞬止まり、葉綺安は何事もなかったようにパンにナイフを滑らせている。真ん中に座っている俺は、世界で一番鮮やかに修羅場を作り出すのは、たいてい悪気のない奴だと実感した。
朝食がいきなり裁判になるのを避けるため、俺はさっさと話題を変え、今日他に回るべき施設はあるかと聞いた。
雨瞳は案の定、すぐにモードを切り替え、インターフェースをテーブルに投影して簡潔に戦況報告を始めた。
十二階にはアウトドア・プロムナード、プール、スポーツエリア、炙火レストラン。十九階は昼間はテラスバーとサンデッキ、夕方からスカイラウンジに切り替わる。九階と十階はエンタメの中核で、劇場、IMAXシアター、テーマバー数軒、プレミアム・エンタメエリアが並ぶ。八階には昨日行ったスーパー寿司バーと確率サロンの他に、デザートラウンジ、アフタヌーンティーバー、各国料理レストランがある。
深藍廊については、人気施設で枠がいつもパンパン。昨日早めに予約したからこそ、今日の午後分が取れた。
聞き終えて、俺はこの船の本当の価値が分かった。
どこまで遠くへ行けるかじゃない。船の上にいる間、誰も「目的地なんてどうでもいい」と思わせる才能の方だ。
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ブランチの後、シキが真っ先に「十二階の外のエリアに行きたい」と言い出した。
昨日からアウトドア・クライミングウォール、周回プロムナード、甲板の水上施設に興味津々だった彼女は、腹を満たした今、さらに有り余るエネルギーを持て余している。
俺たちはガイドに従って外へ出た。目の前に広がったのは、「バカンス」という二文字をそのまま絵にしたような甲板の風景だった。
プールエリアはすでに大盛況。外国人客、子供、カップル、老人、自撮り勢、日焼け組が全員配置についている。水に浸かりながら酒を飲む者、デッキチェアで日焼け止めを塗る者、プールサイドバーでカクテルを頼む者。どこかの中東系大家族らしき一行が、デッキチェアエリアの半分を丸ごと占領している。
俺は手すりに寄りかかってそれを眺め、一つのことを思った。
——人間、金を持つと、怠け方にすら高級感が出てくる。
シキはプールにはそれほど執着せず、プロムナードとクライミングエリアに食いついた。周回プロムナードを早足で一周し、甲板のフィットネス施設を確認した後、極めて現実的な結論を出した。
「この船、本気で長期滞在になっても、そんなに退屈しないかも」
「お前、もう老後の生活設計してんのかよ」
「いいじゃん」彼女は振り返る。「昼は海見て、夜は肉食べて、ベッドメイクしてもらえるんだよ?」
「それは腐敗って言うんだ。老後じゃねえ」
雨瞳が横に立ち、風に髪を払いながら、淡々と補足した。
「もともと腐りやすいのよ、あの子。ブラックカードといいベッドがあれば十分」
「失礼な!」シキが反論する。「昨日、靴は自分で選んだもん」
「それは、腐敗に少し主体性を持たせただけ」
手すりにもたれて俺たちを見ていた葉綺安が、ようやくゆっくりと笑い出した。今日は機嫌が悪くないらしい。相変わらず多くを語ろうとはしないが、いつも目尻に張り付いている冷たさが、昼間の陽光と海風でだいぶ散らされている。こういう女は甲板によく似合う。周りが騒がしいほど、逆に際立つからだ。
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