15. オーロラ・インペリア 15-3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
シキが次の店に向かおうと角を曲がった時、トレイを持ったクルーと危うく正面衝突しかけた。
そのクルーの反応は異常に速かった。手首をスッと返しただけで、トレイ上のグラスは一滴のシャンパンもこぼれない。むしろバランスを崩したのはシキの方で、一歩後ずさりしてから慌てて手を上げる。
相手もすぐに頭を下げた。態度は終始落ち着いていて、声にはわずかな異国訛り。ネームプレートには「アドナン」の文字。
「申し訳ございません、お嬢様」
「私が前見てなかっただけです」シキは慌てて言う。「ていうか、すっごい安定感ですね」
アドナンは薄く笑った。嫌味のない、控えめな笑いだ。
「トレイをひっくり返すと、弁償が大変ですから。練習あるのみです」
シキは「へえ」と声を上げ、本気で感心してうなずいた。
彼が歩き去ってから、俺は小声で言った。
「次からちゃんと前見て歩けよ。ぶつかる相手がトレイじゃなくてシャンパンタワーだったら大惨事だぞ」
「でも、めちゃくちゃ上手かったじゃん」
「この船で一番上手く運ばれてくるのは、酒じゃなくて請求書だ」
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シキがようやく満足するまで買い倒し——完全に高級アウトドア雑誌の撮影に出られるレベルまで装備を整えた頃——雨瞳がやっと彼女をブティックエリアから引きずり出した。
三人とも荷物は山盛りだが、機嫌は悪くない。特にシキは、「毎日こうやって他人の金を使えるなら、クルーズ百回乗ってもいい」というオーラを全身から放っていた。
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葉綺安の方は、完全に別の世界だった。
確率サロンは八階の後方にある。名前こそ雅だが、中身は実に正直だ——ゲームテーブル、チップ、酒、アルゴリズム、習慣そして財布より複雑なストーリーを持っていそうな客たち。
船会社は露骨に「カジノ」と言うのを嫌がり、すべてをエレガントかつ遠回しに包装している。ディーラーですら「エンターテインメント・ホスト」と呼び換える始末だ。
だが、言葉をどう言い換えようが本質は変わらない。
人が席に座る。
——そして、今夜の自分の運を、いつもより強めに信じ始める場所だ。
葉綺安は、明らかにこういう場所によく似合う女だった。
今日は控えめだが何かを引っかけてくるような黒いドレス。テーブルに座る姿は、客というより「場そのもの」を支配しているかのようだ。
彼女は何かを誇示する必要がない。指先でチップを前に押し出すだけで、周りにいた連中は自然と口数が減り、視線だけが彼女に吸い寄せられる。
彼女の前に立つホストは教科書通りの笑顔を保っているが、額にはうっすら汗がにじんでいる。彼女に弄ばれるのは、今夜が初めてではないらしい。
隣のテーブルには、ちょうどあの韓国人夫婦が座っていた。
男の方はキム・ジヌ(Kim Jin-woo)。どこかの業界で最近一山当てたような身なりで、腕時計は暗闇でも道案内ができそうなほどギラギラ光り、話すテンポも速い。
女の方はパク・ソヨン(Park So-yeon)。洗練された雰囲気で、笑うときの視線の運び方が、相手の懐に滑り込むのが上手い。
二人は最初、自分たちのゲームに集中していたが、そのうち完全に葉綺安の方へ意識を持っていかれていた。彼女がテーブルの空気を自分のホームグラウンドに組み替えていく様子を、ほとんど一挙手一投足逃さず見つめている。
俺が近づいた時、ちょうどキム・ジヌが思わず英語で隣の客に漏らしているのが聞こえた。
「Is she… like, professional?」
パク・ソヨンの方はもう少し冷静で、口元だけで笑った。
「Not professional. She just doesn't care if she wins or loses(プロじゃないわ。ただ、勝ち負けを本気でどうでもいいと思ってるだけ)」
それは、かなり核心を突いていた。
葉綺安がこういう遊びをするのは、金を稼ぐためじゃない。誰かが念入りに磨き上げたルールを一度丸裸にしてから、気が向いたタイミングで軽く踏みにじる作業を楽しんでいるだけだ。
笑うことすら、ほとんどない。その「わざわざコメントするほどのことでもない」という表情の方が、逆にテーブルの連中を余計にそわそわさせる。
俺は彼女の横に立ち、手元のチップに目を落とした。
「今夜の夜食代まで稼ぐつもりか?」
「このサロンがどれくらい気前がいいか、ちょっと確かめてるだけよ」
「で、判決は?」
「酒の方が、テーブルより太っ腹ね」
俺は思わず笑ってしまう。
葉綺安は指先で一山分のチップを弾き、俺の方に滑らせた。
「持ってきなさい」
「何だよ、これ」
「さっき寿司食べてたんでしょ? そのお礼」
「俺が女の賭け金をもらうような男に見えるか?」
彼女はちらりと俺を見上げ、淡々と告げた。
「見えない。どっちかっていうと、受け取ったうえでまだ文句言い続けるタイプに見える」
横でキム・ジヌが思い切り吹き出し、パク・ソヨンはグラスを持ち上げて、チケット代の元が取れるリアリティショーでも見るような目でこっちを見ている。
俺はそれ以上逆らわず、そのチップをポケットに収めた。どうせ最後は酒に変わって消えるだけで、人間性を売ったってほどの話でもない。
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四人が再び集合したときには、すっかり外は暗くなっていた。
船はすでに港を離れ、香港の夜景は高層ビルと海岸線から、遠ざかる光の帯へと変わっている。
十九階のスカイラウンジがちょうどオープンしたところで、俺たちは昼間の戦利品やショッピングバッグを抱えたまま、直接そこへ向かった。
オーロラは人の流れと席の配置も絶妙に調整しているらしい。俺たちが到着したころには、すでに一番縁に近いビュースポットが「偶然」空いていて、すぐに案内された。
シャンパンがまず運ばれ、続いてシーフードタワー、フィンガーフード、カクテル。普段なら「肉さえ旨けりゃそれでいい」と言い切るタイプのシキですら、十分も座っていないうちに「海の上の夜景に冷たい酒合わせるのは、たしかに説得力ある」と白旗を挙げ始めた。
十九階からの眺めは、文句なしに美しい。
海面は黒く光り、遠くの岸のライトベルトは、誰かがゆっくりと引き伸ばしているリボンみたいだ。港が遠ざかるにつれて、この船そのものが、一つの「水に浮かぶ小さな都市」になっていく。
ラウンジのDJは空気を読むのがうまい。会話の邪魔をしない音量で、でも夜の空気をほんの少しだけ緩めるビートを流している。
周りの客たちは、すでに完全にヴァカンスモードだ。欄干にもたれて写真を撮る者、グラスを持って話し込む者、テラスのソファに沈み込んだまま一切動かない者。
——まるで、今夜港に戻らない限り、人生の責任も少し棚上げにできる、と信じているみたいだ。
俺たちは二巡ほど飲み、自然と口もよく回るようになった。
シキはまず今日買った靴二足への満足感を語り、それから極めて真剣に「この船のアウトドアジャケットをデザインした人は、最低限『逃げるときに走りやすい服』って概念を知ってる」と述べた。
雨瞳はそれを聞きながら何度も白い目を向けていたが、結局、昼間買い込んだ品目をきっちり列挙してくれた。ライトジャケット、機能性シューズ、防水バックパック——完全に、この後のヨーロッパ行きを見据えた補給リストだ。
葉綺安の方は、今日の確率サロンのワインリストに「一応合格点」とだけ短くコメントし、その後はほとんどの時間を、海とグラスの中身に費やしていた。時々、何かのタイミングで俺を小突くように一言二言刺してくるのもセットで。
俺がホフマン教授の話をすると、案の定、一番ウケたのはシキだ。
「ほんとにいたの? 寿司カウンターで、生魚と交渉してるおじいちゃん?」
「いた」俺はうなずく。「しかも、ちゃんと文明的に交渉してた」
「明日、絶対見に行く」
雨瞳がグラスを持ったまま、淡々と口を開いた。
「私、今日あのアメリカ人夫婦に会った。男は退役した海軍情報将校で、女は元戦地記者。あれは、どっちもただの観光客じゃない」
「なんで情報将校だって分かったの?」
「立ち方」
「それだけで分かるもんか?」
「あなたは食事のとき、誰が先生か分からない?」
頭の中に、職員室感丸出しでカレー食ってる連中の姿が浮かぶ。俺は、素直にうなずいた。
その通りだ。ある種の仕事は骨の髄まで染み込んでいて、隠そうったって隠しきれるもんじゃねえ。
ラウンジでくつろいでいると、極光号がまた親切に夜のスケジュールをプッシュしてきやがった。
九階大劇場では処女航海ウォーミングアップショー、十二階炙火レストランはレイトディナー可能、船底ガラス観察室の人気時間帯は翌日午後にまだ空きがある、と。
シキは「船底ガラス観察室」の文字を見た瞬間、パッと目を輝かせた。
「それって、海底が直接見えるやつでしょ?」
雨瞳がガイドを開き、二回スワイプする。
「要予約」
「じゃあ予約して」
俺は背もたれに身を預け、だるそうにグラスを傾けた。
「せっかくこんな船に乗って、いちばん下のガラス観察室行かねえなんて、ただでぼったくられてるようなもんだろ」
葉綺安が淡々と返す。
「被害者意識が高くて結構なことね」
「チケット代、俺が払ったわけじゃねえし」
「なら、なおさら行くべきよ」
結局、雨瞳が四人分の翌日午後の枠を押さえた。オーロラは即座に予約完了を返し、ついでに前後の食事と休憩の動線まで完璧に組んできやがった。
このAIの本当にエグいところは、単発の予約を取るだけじゃなく、「楽しい時間の流れ」ごと一括パッケージで組み立ててくることだ。まるで、この船の上で五分でも退屈して自分自身と向き合う羽目になるのを、心底恐れてるみたいに。
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