15. オーロラ・インペリア 15-2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
俺たちはサクッと午後の予定を分担した。
俺 → 八階スーパー寿司バー
林雨瞳 → シキを連れてブティックエリア巡り(カードはすでに彼女持ち)
葉綺安 → 夜になったら一人で八階奥の確率サロンへ
出かける直前、シキが真顔で俺に聞いてきた。
「周士達、ほんとに一緒に買い物行かないの?」
「行かない」
「なんで?」
「普通の男がだな、乗船初日の午後から『どのヒールなら踏んづけても滑らないか』って相談に付き合わされたら、夕飯の頃には食欲死んでるからな」
林雨瞳はサングラスを掛け直し、冷えた声で言った。
「安心して。私が聞くのは『どの店なら早く終わるか』だけ。オシャレの相談はしない」
三人がそれぞれ違う方向へ歩き出すのを見送りながら、金持ちの旅行スタイルって案外よくできてるのかもしれないな、という感覚が湧いてくる。
各自、自分好みの地獄に向かう。で、少し経ったら集合。
——合理的だ。
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八階のスーパー寿司バーは、さすがの一言だった。
カウンターは半円形。ネタケースとライティングの見せ方が、いちいち気合い入ってる。中央に立つ板前が包丁を振るうたび、脂の乗った身の光沢と刃の銀色が一緒にキラッと光る。
外側は一面の海。今はまだ船がゆっくりと港を離れているところで、寿司をつまみながら香港のビル群とネオンがゆっくり引き伸ばされていくのを眺められる。
店内は、金を使い慣れた人間でぎっしりだ。声は決して大きくないのに、服装の主張は一人一人がやたら強い。
俺が席に腰を下ろした途端、隣から明瞭な中国語が聞こえた。
「すみません。もし、この素材の本来の味わいを残しつつ、でもそこまで『本来のまま』じゃない方がいい場合、妥協的な処理方法はありますか?」
横目で見て、危うくお茶を吹き出すところだった。
白髪の老紳士が一人。ビシッとしたスーツ姿で、雰囲気はオペラハウスのボックス席から直行してきましたって感じ。目の前には超高級な刺身が三貫並んでいるのに、その顔は「文明間交渉」の真っ最中か何かみたいに、やけに厳粛だ。
板前の手が、思わず止まる。
俺は我慢できずに口を出した。
「おじさん、それ寿司食いに来たんだよな? 魚と会議しに来たんじゃないよな?」
老紳士はゆっくりこちらを向き、真面目な顔でメガネを押し上げて、コクンとうなずいた。
「もし、双方にとって最適な解決が得られるなら、それが一番ですからね」
吹いた。腹筋に悪い。
話してみると、その人はホフマン教授という名前で、ドイツ人。今は引退した学者で、専門は音楽史、オペラ、それから音響考古学らしい。
今回この船に乗ったのも、海を見に来たからじゃない。世間でやたら持ち上げられている、極光号のエンタメシステム狙いだ。
教授の説明によれば、この船の一番の価値は排水量でも内装でもなく、船全体を一つの巨大なステージとして設計した、あの音響・照明・演出システムだという。
シアター、ラウンジ、デッキショー、IMAXクラスのシアター、レストランのBGM——果てはパブリックスペースの音響のレイテンシ《ちえん》と残響コントロールに至るまで、異常なレベルで作り込まれている、と。
俺は寿司を頬張りつつ、学術的な口調で「金持ちはいかに金をバカみたいに正しく燃やすか」を語る老人の話を聞き、意外にも、けっこう楽しんでいた。
「つまり教授は、休暇で来たっていうより——」
「フィールドワーク」ホフマン教授はうなずく。「ついでに、ヴァカンス」
「じゃあ刺身の研究は、どこまで進みました?」
「現在は、理論段階に留まっています」
俺は教授と板前に炙りの盛り合わせを追加で頼んでやった。教授は一貫目を口に運んだ瞬間、表情の緊張が一気に半分くらい溶けた。
「周さん」彼はやけに誠実な顔で言った。「そちらの方が、友好ですから」
「だから言っただろ」俺はマグロの大トロを箸でつまみ上げる。「文明ってのはな、本来、人間と食い物の間の誤解を解くために発達したもんなんだよ」
俺たちは食いながら話し続けた。船内の設備から今夜のショーまで、話題はどんどん広がっていく。教授の話によれば、九階の大劇場では今夜、処女航海のウォーミングアップ公演がある。十九階のスカイラウンジでは港夜景パーティー。十二階には高級炙火レストラン。八階奥の確率サロンも、内装はかなり凝っているらしい。
教授の言い方だと、この船は普通のクルーズ船とは別物だ。移動する豪華エンタメ都市——カジノもショーステージも、全部、他所より何枚も多く「礼儀正しさ」の包装紙で巻いてあるだけ、と。
俺が返事をしようとした時、スマホが震えた。
雨瞳からの写真だった。
一枚目は、シキが全身鏡の前に立っている写真。値段を見ただけで庶民の心パック数が跳ね上がりそうなハイエンド機能ジャケットを着て、手には靴を二足握りしめ、表情は真剣そのもの——今後十年分のサバイバル人生の購買計画でも立ててるような顔だ。
二枚目は、雨瞳自身がソファエリアに座っているやつ。足元にはすでにショッピングバッグが三、四袋積み上がっているが、表情はほとんど動いていない。だが、あの「どうせ私の金じゃないし」という冷徹な冷静さが、この高級空間に妙にしっくり馴染んでいる。
三枚目は一番シンプルだった。
葉綺安が高級ゲームテーブルの端に座り、チップを指に挟んでいる。テーブルの向こうには数人が彼女を見つめていて、まるでこの船で今夜いちばんチケット代の元が取れるエンタメショーでも鑑賞しているような目つきだった。
俺は軽く笑って、三文字だけ返した。
ほどほどにな
十秒も経たないうちに、シキから返信が来る。
大丈夫、まだ全部は使ってないから
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寿司バーを出て、俺とホフマン教授は前後になって歩き出した。教授は夜に劇場へ行く予定で、俺はブティックエリアに連中を迎えに行く。
極光号は本当に気が利く。レストランを出た瞬間、耳元で雨瞳たちの現在位置、近くのバー、ディナーの待ち時間、最短ルートを全部まとめて報告してきやがった。
『お客様の同行者様は現在八階中央ブティックエリアにいらっしゃいます。近隣のバーラウンジ三店舗に空席がございます。本日のディナーは二十時より受付開始予定です』
まるで俺がこの船で人生の迷子になるのを心配してるみたいだ。
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八階中央からブティックエリアにかけての一帯は、もはや「ショッピングアーケード」なんて呼び方じゃ足りない。金持ちをなだめるためだけに設計された、一つの街だ。
ジュエリー、腕時計、オートクチュール、フレグランス、ブランドバッグ、アートオブジェ——どの店もそのまま広告撮影に使えそうな完璧さ。照明は柔らかく、ショーウィンドウは塵一つなく、床は人影が鏡みたいに映り込むほど磨き上げられている。
行き交う旅客は全員着替えを済ませていて、シャンパンを片手に歩く者、デザートプレートを持つ者、すでにショッピングバッグを提げている者。カートを押すスタッフだけが、この秩序だった光景の一部であるかのように、静かにその間をすり抜けていく。
林雨瞳は、ある店の入り口に立って、店員がシキに靴を説明するのを眺めていた。
今日の彼女は珍しく、そこまでテキトーな格好じゃない。シンプルで切れ味のある黒のトップスにロングパンツ。ただそこに突っ立っているだけで、「普段は手を出さないが、いざ動けば店長が直々に出てくる客」のオーラが自然に滲み出ている。
シキの方は、すでに完全にギアが入っていた。左手に靴一足、右手にジャケット一枚。登山隊全員分の装備補充を任されているような真剣さだ。
「周士達!」シキは俺を見つけた瞬間、手に持ったジャケットを掲げた。「これ、どう思う?」
「金持ちが山で『質素なフリ』する時に着るコスプレだな」
「それって最高じゃん?」
「問題は、これに泥が跳ねた瞬間、俺がお前じゃなくて服の方を先に心配することだ」
店員が保っていた上品な笑顔が、危うく崩れそうになった。
雨瞳がちらりと俺を見る。「食べ終わった?」
「腹一杯」
「じゃあ、袋持って」
「やっぱりそうなるよな。こういう場所で、男に本当の自由なんてねえんだ」
口では文句を言いながら、俺は素真面目に二袋を受け取った。
シキの買い物ロジックはバカみたいにシンプルだ。着られる、走れる、動きやすい、ポケットが多い。高級生地そのものへのこだわりはないが、試着して本当に快適だと分かると、カードを切るスピードが俺の想像よりはるかに早い。
雨瞳はブラックカードを手に横のソファに座り、値札をちらっと見ても眉ひとつ動かさない。彼女が切っているのは金じゃなく、上限なしの魔王の存在証明か何かみたいだ。
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ブティックエリアの向こう側で、一組の夫婦がハイエンドカメラショップから出てきた。
林雨瞳が先に気づいて、俺の方に軽く顎をしゃくる。挨拶代わりだ。
男は背が高く、背筋がピンと伸びている。グレーの髪はきっちり整えられ、立ち姿を見ただけで「若い頃から軍隊叩き上げコース」と自己紹介しているようなものだ。女の方はフィルムカメラを肩から提げ、表情はリラックスしていて、笑うと一気にジャーナリストの匂いが出る。
後で雨瞳から聞いた話だと、昼間、このフロアでこの夫婦と出会ったらしい。男は退役海軍情報将校、女は元戦地記者。だが、その場では互いに軽く会釈しただけ。
クルーズ船特有の、程よい社交距離感。——お互い「こいつら普通の観光客じゃねえな」と分かってはいるが、まだ履歴書を開示する段階でもない。
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