15. オーロラ・インペリア 15-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
D-1 香港——シンガポール
香港の**波止場**の風は塩の**匂**いがした。
顔に当たっても別に**不快**じゃねえが、この風には妙な**特技**がある——吹かれた人間を全員、何かに急かされているように見せてしまう特技が。
俺はキャリーケースを引きずりながらVIPタラップの前に立ち、**「極光号」**と刻まれた**化**け物を見上げた。
最初に浮かんだのは豪華だとかロマンチックだとかじゃない。
——こいつを都心のど真ん中に停めて「デパートです」って看板掲げても、誰も疑わねえだろうな。
バカみたいにでかい。
でかすぎて、こいつの足元に立つと、人間が一生かけて乗る「交通手段」って概念そのものが、急に**貧乏**くさく見えてくる。真っ白な船体が天を突くように伸び上がり、ラインは無機質なまでにクリーン。船首から舷側まで走る金色の船名は、まるで「金持ち」って二文字を物理的な建築として**顕現**させたみたいだ。
波止場には他にもクルーズ船や貨物船がそれなりにいるが、こいつの隣に並んだ瞬間、全部まとめて**脇役**扱い。
シキが俺の横で、首がもげそうな角度まで見上げて、最後にやけに真面目な声で言った。
「これ、本当に動くやつ?」
「動くよ」俺は答えた。「しかもチケット代がエグすぎて、飛行機より安定してくれねえと客がキレるレベル」
**林雨瞳**はサングラスを掛け、パスポート、チケット、スマホを手に持ち、波止場のどのスタッフよりもプロのツアコン然としていた。四人分の書類を一枚ずつきっちり揃え終える前に、横からスタッフがもう迎えに来ている。マニュアル通りどころか完璧すぎて気味が悪いレベルの笑顔で、俺たちをそのままVIP専用レーンへ案内した。
**蘇依依**が用意したあの四枚の**記名**なしVIPスイート券。普通のコネじゃ絶対に取れない**代物**だ。
チケット確認、本人確認、データ読み取り——全**工程**が出国手続きより滑らか。まるで誰かが最初から俺たちをシステムに放り込んでおいて、後は自分で歩いてハマりに行くのを待ってるみたいな気味の悪さ。
ブラックカードを一回スッと通しただけで、横で荷物を運んでたポーターの笑顔まで、明らかに**二割増**しで誠実になった。
**葉綺安**は一番後ろを歩いていた。帽子のつばを深く下げ、長い髪を肩の後ろに流している。クルーズ旅行というより、嫌々ながら連行された**超高級**ファッションイベントの参加者みたいだ。
ずっと黙っていた彼女だが、タラップに足を踏み入れた瞬間、ぼそりと口を開いた。
「この船のワインリストがクソだったら、あたし香港に帰るから」
「心配すんな」俺は言う。「こういう船で唯一裏切らないのは請求書**と酒のラインナップだけだ」
彼女は鼻でフンと笑って、それで了承とした。
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タラップの内側には、スタッフがずらりと並んでいた。制服はシャキッとして、笑顔はテンプレート通りに揃い、動き《うごき》は全行程を百回リハーサルした後みたいに無駄がない。
俺たちの番になると、一人ずつ小さな送受信機を渡された。銀白色で薄くて、耳の後ろに貼り付ける金属の鱗みたいなやつ。
説明係によれば、これは船内用のパーソナル・ガイド兼ライフサポート端末。ルームキー同期、翻訳、マップ、レストラン予約、イベント通知、さらにはAI執事の呼び出しまで全部これ一枚でできるらしい。
俺がそいつを耳の後ろに留めた瞬間、柔らかい女の声がすぐ耳元で響いた。
『周士達様、極光号へようこそ。お客様のスイートは十六階右舷側にご用意しております。お荷物はすでに優先配送済みです。八階スーパー寿司バーには現在お席の空きがございます。十九階スカイラウンジは本日二十一時より港夜景モードにてオープン予定です。ご希望であれば、極光号が本日分のご行程をプランニングいたします』
聞き終えて、俺が思ったのは一言だけ。
金持ち《かねもち》のテクノロジーってのは、「迷う」って行為そのものを殲滅するために存在してやがる。
シキの方からもすぐに驚いた声が上がった。耳の後ろのプレートに向かって、おっかなびっくり声を掛ける。
「ねえ、いちばんお肉がおいしいところって、どこ?」
オーロラはほとんど間をおかず、同じ柔らかさで答える。
『強めの炭火焼き《すみびやき》フレーバーをお好みでしたら、十二階炙火レストランをおすすめいたします。脂の香りとシーソルトのマリアージュをお求めでしたら、本日二十一時より九階オーシャン鉄板エリアにもお席のご用意がございます。ただいまお席をお取りいたしましょうか?』
シキの目が、その場でぱあっと光った。
「この船、好き」
林雨瞳は受信レベルを最小限の通知モードに切り替え、淡々と口を開いた。
「好きなのは、肉を探してくれる奴がいること」
「それでいいじゃん」シキは誠実に言う。「人生初だよ? AIが私のご飯の心配してくれるの」
葉綺安はもっと直球だった。片手で端末を留め直し、ひ言だけ聞く。
「カジノはどこ?」
スタッフの顔色は一ミリも変わらない。
「よりインタラクティブなエンターテインメントをご希望でしたら、八階後方の『確率サロン』が本日二十時よりスイートご宿泊のお客様向けにオープンいたします」
俺は思わず笑ってしまう。
確率サロンね。このご時世、カジノですらアート展みたいな名前付けねえと気が済まないのか。負けた金も、名前さえそれっぽければ文化的に散財した気になれるってか。
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極光号の内装は、俺の想像をはるかに超える異常さだった。
ロビーは三層吹き抜け《ふきぬけ》。シャンデリアは夜空一面の星を引き剝が《ひきはが》して天井から吊る《つる》したみたいで、床も壁も、海の上を走る《はしる》乗り物とは思えないほどピカピカ。どちらかというと中東の石油王が道楽で建て《たて》た新築ホテルって感じ《かんじ》だ。
フロントの後ろ《うしろ》には巨大なシームレススクリーンが一面に広がって《ひろがって》いて、極端にスローなスピードで航路と船内アクティビティのガイド映像を流して《ながして》いる。
周り《まわり》はそれなりに人が行き交って《いきかって》いるのに、うるさくない。
というか——人の流れ《ながれ》そのものが、見えない誰か《だれか》にうまく整理されてる。歩く《あるく》のが速い《はやい》連中は遅い《おそい》連中とぶつからないし、写真を撮り《とり》たい奴は、なぜかいつも背景がきれいに抜ける《ぬける》位置でカメラを構え《かまえ》られる。シャンパンカートを押して《おして》いるスタッフですら、ステージの上を歩いて《あるいて》るみたいにスムーズだ。
一通り《ひととおり》見回した《みまわした》俺の気分は、妙に落ち着いて《おちついて》いた。
地獄を一度見た《みた》人間は、その後のち《のち》どれだけの贅沢を見せ《みせ》られても、最初に出て《でて》くるのは羨まし《うらやまし》さじゃなくなる。
——この全部を維持するのに、一晩いくら燃え《もえ》てんだろうな。
頭に浮かぶ《うかぶ》のは、そっちだ。
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俺たち四人の部屋は同じエリアにまとまっていた。向かい合う二部屋のトップスイート。リビングのコネクティングドアを開ければ、中で行き来自由。
この船の連中は、同行客の習性をよく分かってる。プライバシーは確保しつつ、行き来はしやすい。少なくとも俺にとっては、真夜中に酔っぱらいを回収しに行くのに甲板半周しなくて済むってことだ。
俺の方のスイートのドアを開けた瞬間、シキが「うわあっ」と声を上げた。
これは責められねえ。
部屋はもはや「部屋」ってサイズじゃない。高級ホテルのエグゼクティブスイートを、そのまんま海の上に移植したみたいだ。
リビング、ベッドルーム、ウォークインクローゼット、バスルームはもちろんバストイレ別でシャワーブースも独立。バルコニー付きで、さらにミニパーティーが開けそうなバーカウンターまで完備。
フルフラットの窓の向こうには港と海面。ベッドは今夜寝たら逆に跳ね返されるんじゃねえかってくらいふかふかで、ワインセラーのボトルは俺の人生計画よりきっちり揃って整列してる。バスローブの肌触りなんか、現実なんか忘れちまえって囁いてるレベルだ。
シキは一直線にバルコニーへ突進し、手すりに身を乗り出して海を見下ろす。
「で、一泊いくら?」
俺は部屋のワインのラベルと家具のラインを一周見て、だいたいのレンジを口に出した。
シキは二秒黙ってから、やけに真剣な顔で振り返る。
「よし。じゃあ今夜はいっぱい食べなきゃ」
林雨瞳はスーツケースを壁際に押しやり、顔も上げない。
「今日一日で医務室送りになっても、元は取れない」
「じゃあ医務室も込みで使う」
「別料金」
「平気。カード、私のじゃないし」
俺は荷物をそこらに放り出し、ミニバーの方へ歩いて冷蔵庫を一瞥する。やっぱり、ボトルの顔ぶれは文句なしだ。
こういう場所が怖いのは、豪華だからじゃない。ここまで金をぶっ込んじまうと、人間は妙な勘違いをし始める。せっかくだから、って理由で羞恥心までドアの外に脱ぎ捨ててしまいたくなる。
雨瞳はブラックカードを小さなショルダーバッグに仕舞い込み、俺の方を振り返った。
「で、あなたは?」
「俺? まずはメシ」
「乗船して、いきなり?」
「他に何すんだよ。いきなりスパに籠もれってか?」
葉綺安はドア枠にだらっともたれ、気怠そうな声で言う。
「八階の寿司バー、まだ席あるわよ。さっきオーロラが教えてくれた」
俺は彼女を見た。「へえ、ちゃんと聞いてたんだ」
「要点だけ」
「要点ってのは、寿司バーの方? それとも、カジノの方?」
「カジノ」
そこまで言うと、彼女はあっさり踵を返して自分の部屋に引っ込み、着替えに向かった。あの手際の良さは、バカンスっていうより、徴収し忘れた娯楽税を取り立てに来た人間のそれだ。
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