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第一期 最終章:ステッチ(Stitching)―― 縫い合わされた世界

パオロ神父の重厚な鎖の音が廊下の果てへと消えた。

残された乳香と聖油の残香は霧散せず、むしろ甘ったるい死臭を帯びて、経帷子(きょうかたびら)のように俺たちの肺を塞いでいく。

マリアの怒りに震えていた肩が、ゆっくりと弛緩した。彼女の喉から、震えるような低い乾いた笑い声が漏れる。

笑い終えた後、彼女は沈黙を選んだ。

「神父様は……狂おしいほどに、慈悲深いお方だわ」

――ドォォン!

彼女は大太刀を逆手に、容赦なく床へと突き立てた。弾け飛んだ石片が俺の頬を裂き、細い血筋が滲む。退避する時間ラグすら与えられない。

マリアが緩慢な動作で歩み寄る。黒い修道服が揺れるたび、冷や汗と錆びた鉄器の入り混じったなまぐさい臭いが鼻腔を突く。彼女が立ち止まった距離は、瞳孔に走る血走った不具合(ノイズ)を数えられるほどに近かった。

周士達ジョウ・シーダー……。私がSM好きの禁欲シスターだって?」

「それは――」

氷のように冷たく、狂暴な力が俺の顎を砕かんばかりに掴み上げた。鋼鉄のクランプじみた指の力が、強制的に俺の視線をその病的な潮紅を帯びた顔へと固定ロックさせる。

「聖母会には、舌の制御ができない罪人のための、特別な|クリーンアップ・プロトコル《浄化手順》があるの」

彼女は修道服の奥から、ずっしりと重い銀色の刑具を取り出した。そこには「沈黙」を強いる経文が、びっしりと刻まれている。

聖語鉗(せいごかん)」彼女の声は、おやすみの挨拶のように甘く、低い。

彼女は俺の背後へ回り込み、全身を密着させた。粗末な修道服の感触と、興奮で微かに震える熱が耳元に伝わる。「この鉗子かんしを、あんたの顎の骨に直接釘打ってあげる。汚らわしい戯言を吐こうとするたび、鋼の針が上顎を貫くわ。涙が枯れ果てるまで……ゆっくりと締め上げてあげる」

「動くな、異神(イレギュラー)

盲目の教士たちが構える散弾銃の銃口が、馬三娘マー・サンニャンとエリスリードの後頭部を冷酷にマークする。聖語鉗の冷たい感触が歯の隙間に割り込み、鋼板に刻まれた経文が、神経を焼き切るような熱を帯びて歯根へと侵食を始めた。

「感じてる……? これが天国へと続く、狭き門よ……」

マリアの指が、処刑ギミックの実行キー(トリガー)に触れた。

その瞬間、世界の色彩が消失デリートした。

フェードアウトではない。一瞬にして全てが吸い取られたのだ。

あらゆる色、音、マリアの喘ぎ声すら消え去り、そこにはグレースケールの静寂だけが残った。俺は同じ廊下に立っている。だが、周囲の人間はすべて静止画(静止画)のシルエットと化した。馬三娘の突進、エリスリードの抜刀、そして俺の口腔に食い込む銀の鉗子――すべてが、フリーズしている。

窓の外から、優雅な失笑が響いた。

「周先生、あなたの市場価値が……暴落クラッシュしかけていますよ」

いつの間にか防弾ガラスを透過した沈博文シェン・ボーウェンが、暗紅の残り火を放つ黒革のファイルを弄びながら立っていた。彼は一歩近づき、その声を直接俺の脳幹(カーネル)へと振動させた。

「この狂信者たちは、あなたの魂を求めてはいない。彼らが望むのは、あなたの意志を粉砕フォーマットすることだけだ」彼は一拍置き、「だが、私は資産の完全性を重視する。今ここで頷けば、この不条理な処刑は強制終了アボートさせましょう」

「代償は」

沈博文は、ウォール街の全銀行家を震え上がらせるような、テンプレート通りの完璧な微笑を浮かべた。

「すべて(All of you)だ」彼は言った。「代わりに、相応の保証金(マージン)を提示しましょう」

グレースケールの世界には音も時間も存在しない。

俺はこの停滞(フリーズ)した空間に、およそ三秒間立っていた。

馬三娘マー・サンニャンの側頭部を伝う汗の雫が、中空で凍りついている。エリスリードの手は剣の柄に掛かったまま。老高ラオグァンは目を閉じ、祈るか、あるいはただ疲弊しきっている。

沈博文シェン・ボーウェンは俺の目の前で、暗紅色の契約書(ドキュメント)を燃え上がらせ、俺の承認(YES)を待っていた。

奴が求めているのは「すべて(一切)」。

かつて「白のオヤジ」に三分六厘を無断で削り取られた時とは違う。他人に切り取られるのと、自ら売り渡すのとでは、損益計算(ロジック)は同じでも、その感触が致命的に異なる。

少なくとも今回は、俺が自ら実行キーを叩いたのだ。

「――成約ディールだ、クソッタレ! さっさとやりやがれ!」

『契約成立』

現実の色彩が爆発的に回帰した。

毛穴から噴き出したのは鮮血ではなく、墨汁のように不吉な黒煙。硫黄の腐食臭を孕んだその衝撃が、背後のマリアを壁まで弾き飛ばした。聖語鉗(せいごかん)が硬い床を転がり、虚しい金属音を立てる。

心臓の奥底で、何かが砕ける音がした。

代わりに、右半身には魂を凍らせるほどの酷寒(コールド)が、右手の甲には焼印を押し当てられたような激痛が走る。皮下で蠢き、形を成したのは紋章ではない。それは、魂の所有権を証明する資産登記(タトゥー)だった。

「アクマの刻印……」

俺は足元に転がっていたウィンチェスターM1897を無造作に掴み上げる。

銃身が牙を剥くような軋みを上げ、手の中で変質(リビルド)していく。木製のストックは焦げた骨のような質感に、銃身は地獄の業火を宿した深紅(クリムゾン)へと。

周士達ジョウ・シーダー

左側から届いた馬三娘の声。その視線に宿っていたのは、懸念でも計算でもなく――「恐怖」だった。

「あんた、一つの土地を二人のデベロッパーに売り払ったわね」彼女の声は、どんな警告よりも冷徹だった。「今頃、秦廣王(しんこうおう)の帳簿は火を吹いているわよ」

「それがどうした」俺は首を傾け、灰色のかげに染まった右目で廊下をスキャンする。聖なる血管が熱感知画像のように浮かび上がる。「借金まみれなら、あとは奴ら同士で裁判でもやらせればいい。俺は今、この狂信者たちを黙らせたいだけだ」

窓の外で、沈博文がこの所有権紛争(バグ)を察知し、一層鮮やかに微笑んだ。

「周先生、期待以上のクライアントだ。地府の代表者と交渉するのが今から楽しみですよ。ですが、その前に――」彼は教士たちへ顎をしゃくった。「彼らの魂は、私が頂戴しましょう」

俺はウィンチェスターの引き金を絞った。

放たれたのは散弾ではない。万千の哀哭を孕んだ「影の奔流」だ。最前方の教士がその黒い波に飲み込まれ、骨の砕ける音が絶叫にかき消された。

「異端が……!」床から這い起きたマリアの瞳に、抹殺(デリート)の意志が宿る。「私の目の前で、アクマに魂を売り渡すとは!」

「これを『クロス持株』って言うんだよ、シスター」

俺は一歩踏み出し、掌に伝わる人外の剛力を噛みしめる。「不満があるなら、地獄のカスタマーセンターにでもブチ込め」

――その瞬間、中山分局の廃墟を揺るがしたのは、雷鳴ではない。

数十条の強烈なサーチライトが夜を白く塗り潰し、まんじの黄金紋を刻んだ漆黒の武装ヘリが空を埋め尽くした。プロペラが巻き起こす暴風が、砕けたガラスを廊下へと掃き散らす。

そして、高出力のスピーカーを通じて、不可侵の重みを持った「真理」が台北の夜空に響き渡った。

『南・無・阿・彌・陀・佛――』

マリアの殺気が圧し戻される。俺の右手の黒煙も、強引に抑制(パッチ)を当てられた。

廊下にいた全員が、絶句したまま立ち尽くす。

俺は武装ヘリを見上げ、右手のコード(条碼)を見つめ、マリアを睨み、そして窓の外で笑う沈博文を見た。

その佛号ぶつごうは、人の喉から発せられたものではなかった。

空中母艦の底部に搭載された万ワット級拡声アレイメガ・オーディオ・アレイから放たれた音波は、廊下で唯一生き残っていたガラスを細かな破片へと変え、雨のように降らせた。俺の右手に絡みつく黒煙も、マリアの纏う聖力も、山のごとき質量を持ったそのエネルギーによって同時に制圧(パッチ)された。まるで蛇がその急所セブン・インチを力任せに踏みつけられたかのように。

俺は這いずるようにして窓の亀裂から外を覗き――そして、思考を停止させた。

雲が暴力的に押し開かれている。

中山区の上空に、数キロメートルに及ぶ黄金の巨艦が滞空していた。底部からは淡青色のイオン・スラスター(離子光焰)が噴射され、プロペラの暴風が地上の看板を紙屑のように吹き飛ばしている。そのフォルムは――。

あえて形容するなら、佛光山(ぶっこうざん)を丸ごとひっくり返して、巨大な飛行船の骨格に無理やり固定マウントしたかのような代物だった。艦首に鎮座する巨大な金色の仏像、その両眼から放たれるサーチライトの光柱は、昼間よりもなお眩しく街を焼き尽くしている。

「……ありえねえ」

老高ラオグァンが床にへたり込み、符布を巻いた警棒を力なく落とした。

「佛光山が……空を飛んでるっていうのか?」

直後、数十機の漆黒の攻撃ヘリが巨艦の両翼から滑り出した。機体側面のLEDパネルに、真っ赤な警告文字が流れる。

【宗教集会未申請・不法入国処分中】

一機のヘリが分局の破孔付近にホバリングし、ハッチが開かれた。

黒い袈裟けさを纏い、タクティカル・ゴーグルを装着した巨漢たちが、ファストロープで次々と内部へ降下(ドロップ)してくる。先頭の男は、手榴弾ほどもある黒い念珠を首にかけ、腰には「卍」の紋章が刻まれたグロックを差していた。

大悲咒だいひしゅうの重低音が廊下を転がる。低級の憑依者たちは、強制的に除霊されるか、あるいは泡を吹いてシステムダウン(昏倒)していった。


黒袈裟のリーダーが口を開く。首にかけたスピーカーから、機械的なほど精緻な発音の声が放たれた。

「パオロ神父。マリア。沈博文シェン・ボーウェン。そして――周士達ジョウ・シーダー

一人ずつ、名前を読み上げる。その度に、傍らの隊員が法的効力を持つ行政文書(ドキュメント)を掲げた。

「未申請の宗教集会。不法な魂の取引。マネーロンダリング。ならびに禁忌術法の使用による公共の危険――。本署は法に基づき、行政処分を執行する。協力願いたい」

マリアは大太刀を握りしめたまま、沈黙を守った。

パオロ神父は深く溜息を吐き、俺を見た。

俺は、迷わず両手を上げた。

「……ああ、喜んで協力(パッチ適用)してやるよ」


ヘリのダウンウォッシュが激しく叩きつける。俺は肘で乱暴に押し込まれ、締め付けられたワイヤーカフが手首に食い込む。うなじにはエンジンの排熱が絡みつき、それは紛れもなく「逮捕」の感触だった。

まあ、初めてじゃない。慣れっこだ。

眼下を眺めると、分局の破孔が急速に小さくなっていく。老高ラオグァン曉葳シャオウェイが立ち上がり、去り行くヘリに一礼し、戦場となった現場の片付け(デバッグ)へと戻っていくのが見えた。

だが、逆側に視線を移す余裕はなかった。

沈博文シェン・ボーウェンが「変質」したのは、離陸からわずか三秒後のことだ。

顔が、崩れた。苦悶ではなく、弛緩(しかん)だ。人皮という名のパッケージが底から裂け、中身がドロリと漏れ出した。黒く、熱く、そして焦げ付いた悪意。

奴の手が刃へと変貌し、右側のパイロットを無慈悲に切り裂く。

機内は一瞬にして、足場すら存在しない乱戦(カオス)へと転落した。

その時だ。巨艦の艦首に鎮座する大仏のサーチライトが、機内を白く焼き切った。

『南無阿彌陀佛』

壁を震わせる咆哮と共に、ハッチが爆散した。火薬ではない。呪文(コード)による内圧破壊だ。

金剛外骨格ヴァジュラ・エクソスケルトンの駆動音が響き、着地の衝撃が機体を激しく揺らす。その男が背負っていた獲物は、あまりに不条理(アブノーマル)だった。

六本の銃身。黄金の鍍金。バレルの一つ一つに刻み込まれた金剛経ダイヤモンド・スートラ

俺の脳は、その物体を即座に定義した。

ガトリング砲だ。あいつ、ガトリングで佛光弾(エナジー・シェル)を撃つ気か。

「――六根清浄」

男が呟くと同時に、掃射(ダウンポア)が始まった。

それは銃声ではない。寺院の鐘を毎秒二千回の頻度で連打するような、荘厳な破壊音。

沈博文の黒炎が、初弾に触れた瞬間に――霧散した。

燃焼でも爆発でもない。消失(ロスト)だ。着弾した箇所の黒霧が、消しゴムで消されたデッサンのように削り取られていく。

沈博文は後退した。

悲鳴すら上げず、黄金の回転銃身の正前方に立ち、半壊した顔で自らの本体が「穴」だらけにされていく様を凝視している。

奴は機内の壁まで追い詰められ、止まった。

そして、俺を見た。

「……自分が今、何を売り渡したのか、理解しているか?」

黒炎が、消えた。

実体が完全にデリートされ、そこには何も残らなかった。

機内には金剛外骨格を纏った男が独り立ち、六本の銃身が淡金色の煙を吐きながら、余韻を刻むように回転を続けていた。

静寂が、三秒ほどスタック(停滞)した。

後部ハッチから老僧が歩み寄り、外骨格の肩を軽く叩いて言った。

「――よし、収めなさい」

老僧がどこからエントリーしたのか、俺には今も分からない。

彼は暴力を振るわず、術も行使しなかった。ただ俺の傍らに立ち、手甲に刻まれた「悪魔のバーコード」を二本の指で軽く剥ぎ取っただけだ――まるで、期限切れのスーパーのラベルを剥がすように。彼はそれを黒い数珠の一粒へと弾き飛ばし、袖口へと回収した。

ただ、それだけだった。

「お前の方は、処理が容易い」

彼はそう言い、俺の意識は強制終了(シャットダウン)された。


白い部屋。

壁には佛龕ぶつがんがあり、中の観音像は精巧な3Dプリンターによる造形物だった。傍らのモニターには衛星地図が映し出され、中山区の全域が赤い枠で囲まれている。移動する熱源ヒートソースが、幾つもの点を描いていた。

机の上には、湯気を立てる一杯の大悲水(だいひすい)が置かれている。

自分の右手を確認する。バーコードはまだそこにあるが、高周波の抑止パッチ(サプレッサー)が当てられ、微動だにしない。

対面に、あの老僧が座っていた。

「お前は『非売品』だ」彼は言った。「自分では気づいていないようだがな」

彼は一枚の書類を机に広げた。

《地府、地獄、ヴァチカン三方霊域共同開発備忘録》

署名欄には三つの印が押されている。日付は、すべて今日だ。

「現在、これら三つの勢力は、お前の存在を『合法的』なものとして同時承認した。お前の負債は新協定に従って再計算され、十二ヶ月の免責期間が与えられる」

彼は背もたれに身を預けた。

「当然、十二ヶ月後には処理パッチを当ててもらうがな」

机の上の何かが発光した。

見下ろすと、そこには|カウントダウン・タイマー《死の時計》があった。数字は正確に「365日」。それが、静かに動き出した。

俺はそれを見つめ、それは俺を見返していた。

俺はポケットに手を突っ込み、魔法瓶を取り出した。

それを机に置き、老僧と、そしてタイマーに向かって告げた。

「……ちょっと、待ってろ」

左の手首に触れる。

かつて削り取られ、そして「補填」された箇所。傷跡も、違和感も、痕跡すら残っていない。完璧な修復(リカバリ)だ。何事もなかったかのように、触感は正常そのものだった。

だが、俺は知っている。あそこに「手が加わった」ことを。

俺だけは、知っている。

タイマーは刻み続ける。365日、364日と23時間59分59秒。

それを見つめるうちに、心の中の何かが、不気味なほど静かに沈殿していった。

それは解脱でも、安堵でもない。

ただの、確認(コンファメーション)だ。

だが、少なくとも。今は、俺のものだ。


「これから第2シーズンに突入します!進いつくまでは、引き続き1日2回のペースで更新を続けていく予定です。」

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