11.アイドル陥落 11-2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
翌朝、俺はカーテンの隙間から漏れ入る光で目を覚ました。
台北の朝は、ひどく普通だ。車の音、階下の朝食屋のシャッター音、どこかで流れるニュース、隣のベランダでハンガーがぶつかる細かい音。普通すぎて、山の別荘も、三階の主戦も、ドイツ語の歌も、馬三娘も、赤い保温ボトルも、全部遠い昔の話みたいに思える。
だが、横を向けば、そうじゃないとすぐに分かる。
葉綺安が、まだそこにいた。
横向きに寝ていて、眠りはそれほど深くないが、眉間の皺がここ数日よりずっと緩んでいる。昨夜のことが彼女をさらに乱したわけじゃない。乱れるべきもの、言葉にすべきもの、言い争うべきものを、ひと通り吐き出したからだ。普段の彼女は寝ていても「おとなしい」という感じがしないが、今朝は少なくとも、前夜までの「何かの音で飛び起きそうな」緊張感はなかった。
俺は彼女を見つめ、急いで動こうとは思わなかった。
部屋は静かで、空気にはまだかすかにシャンプーの匂いと体温の余熱が残っている。ベッドサイドのランプは昨夜から点いていない。窓の外の光だけが正直で、すべてを少し明るく照らしすぎていた。
しばらくして、彼女のまつ毛が動き、ゆっくりと目を開いた。
最初の一瞬、まだ焦点が合っていない。深いところから浮上してきたばかりの顔だ。それから視線が俺に合って、一秒止まった。
俺が先に言った。
「おはよう」
彼女は二秒俺を見つめ、今日の最初の言葉を何にするか決めているみたいだった。最後に、ごく小さく眉をひそめた。
「……そんな何でもないみたいな顔するな」
俺は低く笑った。
「起き抜けにそれが出てくるなら、状態は悪くない」
彼女は薄く白目を剥き、声は寝起きの掠れを帯びていた。
「うるさい」
——よし。これでいい。
部屋の外から、微かな物音が聞こえ始めた。林雨瞳が起きたようだ。キッチンから水音もする。普通の一日が始まろうとしている。向き合うべき人、話すべき今後、片付けるべき尻尾。どれ一つとして減ってはいない。
だが少なくとも、この朝は山上のあの数日間とは違う。
歌はない。
ドアの向こうの足音もない。
真夜中に耳元で囁く声もない。
ただ彼女がここに横たわり、目を覚まし、生きていて、俺に「うるさい」と文句を言う気力が残っている。
それだけで、十分すぎるほどだ。
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葉綺安が完全に目を覚ましたとき、最初の反応は羞恥でも狼狽でもなかった。
確認だった。
彼女は布団の中でごく静かに身を動かし、呼吸を極限まで潜めて、自分自身の点呼を取るように。体はまだ自分のもの。気も乱れていない。そして何より重要なのは——あの「線」がまだそこにあること。馬三娘が降神するための道は歪められておらず、乱されてもおらず、制御を失った反動の兆候も一切ない。
——よし。
彼女はゆっくりと息を吐き出し、そこでようやく、昨夜が単なる感情の暴走で、後で命で埋め合わせなければならないような愚行ではなかったと、本当に実感できた。
だが、規矩が完全に守られているからこそ、彼女は余計に厄介だと思った。
なぜならそれは、周士達が口先だけじゃなかったという証明だからだ。彼は昨夜、本当に守り抜いた。はっきりと、明確に、半歩たりとも踏み外さなかった。それは単なる自制でも、気遣いのポーズでもなく、男がよくやる「俺は我慢できる」という自慢でもなかった。彼は本当に、馬三娘のあの規矩を重大事として扱い、彼女のこの体が神を承ける代償を、自分事として受け止めたのだ。
これは、制御を失うよりもよっぽど厄介だ。
制御を失うなら理解できる。無理やり踏み越えてくるのも理解できる。口では綺麗なことを言いながら手は勝手に動くのも理解できる。だが周士達は違う。普段は一番命知らずで、自分から危険に突っ込んでいくイカれた奴に見えるくせに、一番馬鹿になりそうな場面で、誰よりも「どこを動かしてはいけないか」をはっきりと理解している。
——こういう人間が、一番危険だ。
一時の衝動で終わる危険じゃない。ゆっくりと相手の認識を変えさせ、本来なら絶対に死守していたはずの場所を、少しずつ明け渡させてしまう、そういう種類の危険だ。
そして彼女が一番腹立たしいのは、自分自身が本当に、その認識を変えられつつあるという事実だった。
その考えが浮かんだ瞬間、彼女は眉をひそめた。朝から頭の中が不純なのが嫌になったように。だが眉をひそめた後も、すぐには起き上がらず、ただ静かに横たわったまま、カーテンの隙間から漏れる光と、隣で目を覚ましている男を見つめていた。
少なくとも、一つだけはっきりしていることがある。
昨夜、彼女は人を見る目を間違えなかった。
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俺は彼女が目を開けるのを見つめ、すぐには動かなかった。
彼女が目覚めた直後、その眼差しにはいつも一瞬だけ、あの刺々しさがない瞬間がある。その瞬間はひどく短く、瞬き一つすれば、すぐにあの「誰にも触らせない」仮面を被り直してしまう。だが今朝のその一瞬は、少しだけ長かった。単に寝ぼけているのではなく、心の中で何かをもう一度確認し直しているのが分かるほどに。
——よし。人間も爆発してないし、規矩も無事だ。
俺が先に口を開いた。「おはよう」
彼女は二秒俺を睨んだ。今日最初の一言で何を罵倒するか決めているように。最後に低く返した。
「……何、その暇そうな顔」
俺は笑い声を漏らした。
「起きて最初の一言がそれなら、まだ大丈夫そうだ」
彼女は薄く白目を剥き、体を支えて起き上がった。動作は遅くはないが、いつものキレはない。俺は手を貸さなかった。こういうときに手出しが早すぎると、先に睨まれる。
部屋の外からはすでに物音がしていた。
キッチンから食器が軽く触れ合う音、林雨瞳の静かなスリッパの音。もう少しすれば、リビングに「よく眠れなかった組」の第一号が現れるだろう。
葉綺安はベッドの端に座り、髪を後ろに掻き上げながら、淡々と口を開いた。
「あたし、部屋戻って着替える」
「ああ」
「その顔やめなさいよ」
「どの顔だ」
彼女は顔を上げて俺を睨んだ。眼差しはもうすっかり元通りだ。
「全部お見通しみたいな顔」
俺はゆっくりと返した。
「仕方ねえだろ。今日のお前は、ちゃんと寝た人間の顔してるからな」
彼女は一瞬詰まり、すぐに冷笑した。
「自意識過剰」
「わかった、やめとく」俺はドアの方へ顎をしゃくった。「先に出ろ。林晴夏がここにノックしに来る前に」
彼女も明らかにその光景を想像したのか、眉をひそめ、それ以上言い返すことなく立ち上がり、ドアへ向かった。ドアで一瞬立ち止まり、振り返らずに、ひどく低い声で一言だけ落とした。
「……昨夜のこと、あんたが先に記憶喪失のフリとかしたら、承知しないから」
俺は彼女の背中を見つめ、口の端を上げた。
「奇遇だな。俺も今、同じこと言おうと思ってた」
彼女は小さく鼻を鳴らし、ドアを開けて出て行った。
——よし。まだ取り立てができるなら、本当に戻ってきた証拠だ。
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着替えてリビングに出ると、家の中は大半が起きていた。
林雨瞳がキッチンで卵を焼き、テーブルにはトースト、温かい豆乳、炊き立ての粥が並んでいる。空気には、ひどく普通の朝食の匂いが漂っていた。普通すぎて、贅沢に思えるほどだ。
陳暁晴は一番早く起きて、すでにダイニングテーブルでスマホを見ていた。昨日中断された仕事の連絡を片付けているのだろう。方思琪は窓際に座り、温かいお湯のカップを両手で包み、眼差しは相変わらず淡い。ぼんやりしているのか、下の路地の音を聞いているのか分からない。林晴夏は爆発したような寝癖でソファに丸まり、まだ魂の半分が夢に引っかかっているように、ひどく不本意そうに目を覚ましていた。
俺が近づくと、林晴夏が顔を上げて俺を一瞥した。
最初の一瞥は、ただの確認のつもりだった。なのに彼女の視線が、途中でふと止まった。何かが引っかかったらしい。でも言語化できないらしく、眉をひそめたまま俺を二秒ほど余計に見つめてきた。
「今日は少し、人間に見える」
「サンキュー。そっちは今日、モップに見えるけどな」
「はあ?」
一発で半分目が覚めたらしい。
——そのタイミングで、葉綺安が部屋から出てきた。
ゆったりした黒のTシャツにスポーツパンツ、髪は無造作に束ねてある。顔色はまだ淡いが、昨日帰ってきたときよりはだいぶマシだった。手に赤い保温ボトルはない。それは良かった——少なくとも朝一番から三娘の話を卓上に乗せるつもりはないということだ。
それでも彼女がリビングに踏み込んだ瞬間、空気が微妙に一拍止まった。
俺だけじゃない。他の全員も、気づいていた。
俺と綺安の間で、何かが変わっていることを。
露骨な親密さじゃない。一目でわかる色気でもない。むしろそっちのほうがまだ楽だった。問題は、ごく細かい部分にあった——彼女がリビングに入って最初に視線を向けたのは、テーブルの朝食じゃなく俺だった。俺はダイニングテーブルのそばに立っていたのに、なんとなく手が動いて、一番近くにあった湯飲みを彼女のほうへ一格分押しやっていた。そして彼女がそれを取るとき、「誰があんたのを飲むの」の一言すら出なかった。
その程度のことだ。
大したことじゃない。
だが、彼女を知る人間全員に、一瞬の引っかかりを与えるにはそれで十分だった。
オーロラ――林晴夏は、まず俺を見て、それから綺安に視線を移すと、喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。その瞬間、彼女の顔は今にも爆発しそうなほど真っ赤になっていた。
ルナ――陳暁晴は静かに目を上げ、俺たちをさっと一瞥しただけで何も言わなかった。ただ、その視線がいつもより、ほんの少しだけ長く留まった。
ベガ――方思琪の反応が一番わかりやすかった。綺安が手にしている湯飲みを見て、俺の顔を見て、その瞳の奥にごく薄い「了解」の色をにじませる。
最高だな。こういうときに限って、一番察してほしくない人間が、一番早く察しやがる。
綺安自身も、その微妙な空気に気づいていた。湯飲みを手にしたまま、ほんの半秒だけ足が止まる。だが、それからいつもの無表情に戻り、自分の席へとついた。
顔をこれでもかと不機嫌そうに歪めておけば、さっきの一幕はただの幻覚だったと思わせられる――そう計算しているのが、こちらからは丸見えだった。
残念ながら、手遅れ(・・・)だ。
ちょうどそのとき、ノヴァ――蘇依依が部屋から出てきた。
今日はフルメイクじゃなかった。目の下の疲れを薄く隠しただけで、それでも十分きれいだったが、いつもの完璧さとは少し違う。山での数日間が、一夜の睡眠では洗い落とせていないような顔だった。リビングに入るなり空気の異様さを察知して、視線が俺たちの顔を一周した。最後に止まったのは、綺安の手の湯飲みだった。それからゆっくりと、俺の顔へ。
すぐには何も言わなかった。
椅子を引いて座り、声はいつも通り柔らかかった。
「みんな、今日は早いじゃん」
表面上は何でもない一言だ。
実際は探りを入れている。
ルナが先に受けた。
「そんなに遅くまで起きてたわけじゃないから」
「そっか」ノヴァは伏し目がちに小さく笑った。笑みは薄かった。「見ればわかるよね」
うまい言い方だった。誰かを名指しするわけでもなく、「みんな眠れてなかった——でも単に落ち着かなかっただけじゃない」という層をそっとテーブルに置いた。
綺安は湯飲みを一口飲んで、何も返さなかった。
返さないほうが、かえって目立つ。
普段ならノヴァのこういう言い方に、綺安は必ず一言刺し返す。今日はそれがなかった。ただ俯いて湯飲みを飲んでいた。怠いのか、それとも何か別のものが、いつも外向きに尖っているあの棘を少しだけ押さえ込んでいるのか。
オーロラがついに我慢できなくなった。トーストを噛みながら、わざとらしいほど何でもない口調で聞いた。
「ねえ、ふたりって昨日のあと……また話したの?」
その一言で、テーブル全体の空気が誰かにフォークで叩かれたみたいに揺れた。
最高だ、オーロラらしい。
直球すぎて話にならないが、直球すぎるから却って使える。
林雨瞳は厨房のほうで手を止めたが、振り返らなかった。とりあえず自分を聾者にしておく判断をしたらしい。ルナはすぐ眉をひそめた——余計なことを聞くなと言いたいのに、自分もその答えを待っていることはわかっている。ノヴァは静かに豆乳をかき混ぜていた。目は上げない。耳は明らかに立てている。ベガは一番正直で、視線をこちらに移したまま、知らないふりをしようとすら思っていなかった。
俺はオーロラを一瞥した。
「昨日あんなに爆睡してたのに、まだ人の心配する余裕あったのかよ」
「べつに爆睡してたわけじゃ——」彼女は詰まって、それから開き直った。「もういいや、正直に言う。ふたりがやっと喧嘩しなくなったかどうか、それだけ知りたかっただけ」
この着地点は悪くなかった。
「喧嘩しなくなった」。
「どうなったの」より、ずっと賢い聞き方だ。
綺安がようやく目を上げた。いつもの、あまり愛想のない冷たい声で。
「がっかりした?」
オーロラが一瞬固まって、それから目を輝かせた。
「あ、ちょっと待って、今の返し方なんか違う」
「どこが」
「……なんか元気がある。本気で噛み殺そうとしてる感じじゃない」
綺安は白い目を向けた。「もう二言三言続けてみて。元に戻るかもしれないから」
「了解、わかった」オーロラはすぐ引いたが、口の端が抑えきれずに上がった。「少なくとも今日は昨日ほど機嫌悪くないってことは証明された」
その一言で、ルナまでもが小さく息を吐いたのがわかった。
コーヒーを一口飲んで、それからさらりと言った。
「聞かないほうがいいこともある」
オーロラに言っていた。
テーブル全員に言っていた。
オーロラは即座に何度も頷いた。「わかってる、めちゃくちゃわかってる、私いま超空気読める人間だから」
「そうだといいけど」綺安が冷たく一言添えた。
よし。
その一言で、テーブルの空気がようやくまた動き始めた。
そこへノヴァが、静かに一言落とした。
「で、昨日の夜、少しはちゃんと眠れた人いる?」
柔らかい声だった。そして、かなり性質が悪かった。
表向きは睡眠を気にかけているだけ。実際は、自分がもう見えているのに直接認めたくない何かの変化を、確かめようとしている。
俺が口を開く前に、綺安が先に返した。
「あんたが思うよりは」
たった六文字。
それだけだ。
でも、十分だった。
豆乳をかき混ぜていたノヴァの手が、一瞬止まった。それからゆっくり顔を上げて、綺安を見た。その目の中にあるものは多かった——驚き、探り、そしておそらく彼女自身も好きじゃないだろう、一拍遅れた収め方。
彼女は小さく笑った。柔らかい笑みのまま、それ以上は追わなかった。
「ならよかった」
その一言で、彼女が本当に理解したのがわかった。
何かを諦めたわけじゃない。ただ少なくとも今は、自分が思っていたよりずっと深く、ずっと硬い線があることを知った。こんなタイミングで無理に踏み越えても、見栄えがよくないだけだと。
ベガ——方思琪が口を開いたのは、そのときだった。
カップを両手で包んだまま、天気予報を読み上げるような平坦な声で言った。
「今日のふたり、息が合ってますね」
テーブルが一瞬で静まり返った。
オーロラはまず喉を詰まらせて、それから「頼むからそんなに的確に言わないで」という顔で彼女を見た。ルナは目を閉じた——聞かなかったことにしたいらしい。ノヴァは視線を落として、今度は愛想笑いを繕う気力すらなかった。
綺安の反応が一番直接的だった。
「方思琪、黙って」
ベガは彼女を一瞥して、怒りもせず、ただ淡々と返した。
「間違ってましたか?」
「少し黙るという選択肢もある」
「これでも十分少なくしてるつもりですけど」
この一往復で、リビングに漂っていた息苦しい気まずさが、かえって少しだけ散らされた。
俺は横でそれを眺めながら、ふいにおかしくなった。
誰が勝った負けたじゃない。全員が見えている。全員がだいたい察している。それでも誰も、その薄い紙を本気で破ろうとはしない。優しさからじゃない——この連中がようやく一つのことを学んだからだ。関係ってのは、見えたからって、すぐに言葉にしなきゃいけないもんじゃない。
特に、山での数日間のあとでは。
空白のまま残しておいたほうが、安全なものもある。
林雨瞳が最後の目玉焼きをテーブルに運んできた。この朝食にそろそろ幕を引くつもりらしい。
「食べて」彼女は言った。「豆乳を冷めるまで放っといた人は、今度こそ知らないから」
その一言で、全員がようやく自分の朝食に手を伸ばした。動作はまだ鈍く、空気もまだ少し張っていたが、さっきみたいに全員でテーブルの下に沈んでいる「言えないもの」を見つめ続けるよりはマシだった。
コーヒーを手に取って顔を上げたとき、ちょうど綺安の視線と合った。
彼女は俺を一瞥した。笑わない。嗔みもしない。ただ他の全員が俯いているその数秒の間に、ごく静かに——ほとんど気のせいと思えるほど小さく——手元の、俺がまだ手をつけていないトースト皿を、こちらへ少しだけ押してきた。
ほんの少し。
錯覚みたいな距離。
でも俺には見えた。
わざとだということも、わかった。
——いいじゃねえか。
昨夜のどんな強がりより、よっぽど綺安らしかった。
俺は何も言わず、隣にあった温め直したばかりの豆乳を、彼女の手元へ押し返した。彼女はちらりと俺を見て、今度は拒まなかった。
テーブルの他の連中が、誰一人盲目じゃないのは当然だ。
オーロラはトーストを齧りながら、俺たちふたりの手元で交わされた無言のやり取りを視線で追って、最後に空気を読んで何も言わず、黙って口を閉じた。ルナも見ていた。見ていなかった振りをした。ただコーヒーを持ち上げたとき、口の端がほんの一瞬だけ、かすかに緩んだ。ノヴァは静かに食べていた。睫毛を伏せたまま、自分が計算しやすいと思っていた距離感を、静かに組み直しているようだった。
ベガが一番厄介だった。
カップを包んだまま俺たちを見て、ふいに低く言った。
「そのほうがいい」
今度は綺安には罵る気力すら残っていなかった。ただ目を閉じて、堪えているようだった。
この卓を見渡しながら、ふと思った。
山での三日間が本当に残したものは、霊線が断たれたことでも、ドイツ語の歌が止んだことでも、別荘が清められたことでもないのかもしれない。
こういうものだ。
誰も口にしていないのに、全員がわかっている——もう元の位置には戻れないという、静かな了解。
普通の日々はまだ続く。朝食も食べなきゃいけない。マネージャーからはまたすぐ電話がかかってくるだろう。番組スタッフ、広報、今後のスケジュール、全部残っている。それでも少なくともこの朝、この連中はもう、互いが想像の中で作り上げた姿だけを見ているわけじゃなくなっていた。
アイドルのフィルターが砕けた後に残ったもののほうが、よっぽど本物に近かった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




