10.隠れ家 10-2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
台北に戻ったとき、空はもう完全に暗くなっていた。
街の灯りが点くと、不思議と多くのことが「普通」に見え始める。高架橋の下を流れる車、コンビニの白い光、赤信号の前に並ぶバイクの列、路地の角から漂う塩酥鶏の揚げ油の匂い。全部ひどく日常的で、この三日間に山で起きたことが、眠れない夜にだけ見る悪い夢だったみてえに思えてくる。
残念ながら、市街地に戻ったからって、脳みそが一緒に戻るわけじゃない。
地下駐車場に車を入れ、エンジンを切った瞬間、俺は心底ベッドに自分を投げ込んで、明日の午後まで一切起きたくないと思った。だが、上にいる連中のことを考えると、それから今日一日ずっと張り詰めてきた帰り道の空気を思い返すと、今夜がそう簡単にいくとは思えなかった。
エレベーターのドアが開くと、部屋の灯りはついていた。
林雨瞳がリビングのソファに丸まり、薄いブランケットを羽織っていた。目の前のローテーブルには、とっくに冷めた熱茶が一杯。おそらく俺たちを待ちながら、うとうとしかけていたんだろう。ドアの音に顔を上げ、まず俺を見て、それから俺の後ろにいる連中を見た。その瞬間、目が八割方覚めた。
無理もない。一目でわかる有り様だった。
陳暁晴はまだリーダーの顔を保っていたが、その顔色は白い。林晴夏は半分抜け殻みてえで、口だけはまだ何か言いたそうにしてるが、実際には笑う気力すら残ってない。蘇依依はメイクがほぼ落ちて、薄い体裁だけがギリギリ顔に貼り付いている。方思琪は相変わらず静かだが、その静かさがいつもより「影」に近い。葉綺安は赤い保温ボトルを抱えたまま、顔色が紙みてえに白いくせに、「誰か一言でも聞いてきたら先に噛みつく」という顔を無理やり作ってた。
国民的アイドル候補生。
笑えるな。
今の見た目は、どこかの事故現場から引っ張り出されてきた集団のほうがよっぽど近い。
林雨瞳はブランケットを膝から外し、全員の顔を一度だけ見回した。すぐには「何があったの」と聞かなかった。
それが彼女の賢いところだ。
こういう状況で「どうしたの」と聞いたところで、誰もリビングで口に出せる完全な言葉なんか返せない。それが分かってる。
「お湯、沸かしてある」彼女は先に立ち上がり、声をひどく静かに保ちながら言う。「お風呂も空いてる。先に入りたい人はどうぞ。晩ご飯はお粥とスープを頼んだ。まだ温かいはず」
その数言が出た瞬間、山からずっと車に乗せてきた、張り詰めて今にも割れそうだった空気が、ようやく少しだけ解けた。
林晴夏が、その場で泣き出しそうになった。
声がもうかすれていた。「まるで避難所みたい」
林雨瞳は彼女を一瞥し、笑わず、ただ淡々と返した。
「必要そうだから」
正確な一言だ。
誰も否定しなかった。
そこから三十分ほど、家全体が奇妙な「戦後モード」に入った。
誰も本当に話す気力はない。かといって、一人でいたくもない。陳暁晴が先にシャワーを浴び、出てきたときはまだ髪が濡れたまま、ダイニングテーブルに座って全員分のお粥を器に分け始めた。何かしていないと、手が暇になって震え出しそうだから、という感じで。林晴夏はシャワーを終えてようやく少し生き返ったが、それでもソファの隅に丸まって器を持ったまま、ぼんやりしてるのが限界だった。蘇依依はスープを半分飲んだところで止まり、ずっとスプーンを握ったまま、目の焦点が山の上のどこかに飛んでいる。方思琪は一番手際がよかった。洗って、食べて、座る。終始三言と発せず、もうすでに自分の殻に戻り始めてる。
葉綺安が最後にシャワーを浴びに行った。
赤い保温ボトルを持ったまま部屋に向かおうとしたとき、林雨瞳がようやく静かに呼び止めた。
「綺安」
葉綺安が足を止めた。振り返らない。
林雨瞳は彼女を見つめ、声を揺らさずに言う。
「今日は無理しないで」
葉綺安は二秒立ち止まってから、低く返した。
「わかってる」
たった三文字。
それだけ言って、部屋に入った。
俺はダイニングテーブルの端に座り、味のしないお粥を一口ずつ飲み込んでいた。正直、食欲なんてどこにもない。だが食わないわけにいかない。今日の戦闘に加えて、帰り道ずっと張り詰めていた分、今や胃が空っぽで酸っぱくなってる。今のうちに何か詰め込んでおかないと、真夜中に頭痛が来て、誰も眠れなくなる。
林雨瞳が熱いお茶を俺の手元に置いた。
「手、見せて」
「なんで」
「顔色が死にかけみたいなのに、手をそんな風に巻いてたら、そりゃ聞くでしょ」
俺は自分の右手の甲を見下ろした。三階のあの音核が最後に炸裂したとき、破片が一本線を引いていった。深くはない。ただ、かなり長い。シャワーの後でその赤さがかえって目立っていた。
「たいした傷じゃない」
「いつもそう言う」林雨瞳は眉をひそめ、救急箱を引き寄せた。「毎回『たいした傷じゃない』で済ませて、結局大ごとになる」
この言い方、もう耳に馴染みすぎてる。
馴染みすぎてて、周りにいた何人かが、思わず静かになった。
上等だ。この家に、俺を怒鳴りつける人間がいてくれて、本当によかった。
俺は言い返す気も起きず、素直に手を差し出した。林雨瞳が消毒と薬を塗り直しながら、顔を上げずに聞く。
「山の方は、片付いた?」
これは俺に向けた質問だ。俺にしか答えられない。
「大半は」俺は言う。「メインは終わった。残りは尻尾だ」
林雨瞳の手が、一瞬止まった。
「尻尾」の意味はわかってる。事が完全に終わったわけじゃない。ただ、今夜すぐに玄関まで追ってくる心配はない、そういうことだ。
それ以上は聞かなかった。短く「そう」と返して、最後の絆創膏を貼り終える。
「じゃあ今夜はみんなに寝てもらって」
俺は頷いた。「そのつもりだ」
ただ、寝かせようとすれば寝てくれる、なんて話じゃないことも、わかってた。
十一時近くになって、ようやく家の中が静かになった。
陳暁晴が林晴夏を引っ張って客間に連れて行った。理由は単純だ。今日のあいつの状態で一人で寝かせたら、真夜中に確実に飛び起きる。蘇依依は自分の部屋に戻り、ドアを閉める前に「おやすみ」とごく静かに言った。声はまだ柔らかかったが、いつも場の空気を和らげるために使ってる余裕は、もうそこにはなかった。方思琪は影みてえに部屋に消えた。ドアを閉める音すら、ほとんど聞こえなかった。林雨瞳は食卓を片付け、水、薬、湯たんぽを全部確認してから自分の部屋に戻り、ドアを閉める直前に一言だけ残した。
「今夜は遅くまで起きないで」
「わかった」と俺は返した。自分でも大して遅くならないとわかってたが、それは言わなかった。
リビングの灯りは一つだけ残した。
ダイニングテーブルに座り、山から持ち帰ったレコードの破片と封印袋を取り出して、もう一度確認しようとしたとき——廊下の奥から足音がした。
軽い。
でも、誰かは一瞬で分かった。
葉綺安だ。
シャワーを終えて、髪はまだ完全には乾いていない。ゆったりしたTシャツとショートパンツ、足元はサンダル。手に保温ボトルはない。
ということは、馬三娘の「仮住まい」は部屋に置いてきた。今ここにいるのは、彼女自身だ。
水を取りに来たわけでもない、ってことも。
彼女はダイニングテーブルのそばで足を止め、俺の手元の荷物を一瞥してから、開口一番こう言った。
「やっぱりまだ起きてた」
「その言い方、浮気現場押さえたみてえだな」
「そんな暇あるなら先に叩き潰す」
上出来。まだ噛みついてくる。まだ立ってる証拠だ。
俺は封印袋を少し横に動かし、彼女を見た。「何か用か?」
彼女は俺を見つめ、すぐには座らなかった。
その間合いは見覚えがある。葉綺安が本当は言いたくないことを言おうとするとき、必ずこうなる。心の中で自分と格闘して、このまま怒鳴り込むか、それとも少しだけ傷つかない言い方から始めるか、ギリギリまで決めかねてる。
最後に彼女は向かいの椅子を引いて、座った。
「眠れない」彼女は言った。
ひどく普通の一言だ。
でも彼女の口から出てきた以上、それはすでに、かなり多くのことを認めてることになる。
俺は短く「ああ」と返した。聞いたという意味で。
彼女は俺の顔を見て、すぐに眉をひそめた。「それだけ?」
「じゃあ何がよかった? 花火でも上げて『ようやく自分が生きてるって認めてくれた』ってお祝いするか?」
彼女は目を細め、鋭さが戻ってきた。「やっぱり犬の口から象牙は出ないな」
「お前が夜中に部屋を出て俺を探してきたのに、俺が急に優しくなったら、逆に何かに憑かれたと思うだろ」
彼女はまだ何か言い返そうとしたが、疲れが勝ったのか、唇を少し動かした後、結局ひどく小さく吐き捨てた。
「……マジでイカれてる」
リビングが再び静まり返る。
窓の外を車が通り過ぎる音。冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸っている。ダイニングテーブルの小さな暖色の灯りが、彼女の顔をはっきりと照らし出していた。シャワーを浴びた後、戻ってきた直後よりは幾分か血の気が戻っている。少なくとも「次の瞬間に倒れそう」な死人の白さはない。だが目の下には疲労の影が残り、肩もまだ張っている。体はもう家に帰ってきてるのに、脳みそだけがまだ三階のあの廊下に置き去りにされてるみてえに。
俺は熱いお湯を一杯、彼女の前に押しやった。
彼女は受け取った。指先がカップの壁に触れた瞬間、動きが止まる。
「手、見せて」不意に彼女が言った。
俺は顔を上げた。「なんだよ、一晩中交代で見回りか?」
「うるさい」
俺は包帯を巻いた右手を差し出した。彼女はそれを引き寄せ、一瞥して、眉間の皺がさらに深くなる。
「これのどこが『たいした傷じゃない』わけ?」
「腕一本飛ぶのに比べりゃ、軽傷だろ」
「毎回そうやって『もっと最悪な状況』を引き合いに出して、今の自分はまだマシって言い張る」彼女の声は冷え切っていた。「その理屈、そんなに都合がいい?」
俺は彼女を見つめたまま、何も言わなかった。
——よし。来たな。
こいつはただ眠れなくて来たわけじゃない。
ちゃんと「ツケ」を持ってきてる。
葉綺安は俺の手を放したが、カップは引き寄せず、テーブルの面を二秒ほど見つめてから、口を開いた。
「今日、三階でのあの瞬間」声を極限まで落としている。「最初から、あんた一人で全部受けるつもりだったんでしょ」
どの瞬間のことか、すぐにわかった。
音核が最後に炸裂して、黒赤の音の奔流が外へ噴き出した、あの瞬間だ。
俺は椅子の背に寄りかかり、淡々と返した。「あそこで受けなかったら、廊下ごと全員持ってかれた」
「価値があったかどうかなんて聞いてない」彼女は目を上げ、俺を真っ直ぐ見据える。「最初から一人で背負い込むつもりだったかどうかを聞いてる」
前の言葉より、さらに直球だ。
ひどく疲れてるくせに、その眼差しだけは絶対に揺らさないと決めてる彼女の顔を見ながら、俺はしばらく経ってから答えた。
「そうだ」
彼女の呼吸が、一拍止まった。
これが葉綺安の一番面倒くせえところだ。嘘をついてくれた方が、その嘘を掴んで怒鳴り込める分、まだマシだと思ってることがある。だが俺が本当のことを言った瞬間、逆に彼女の方が詰まる。
彼女は俺を見つめた。その目の奥で、火がゆっくりと燃え上がっていく。
「つまり、あたしが見てるってわかってて、それでもやった」
「ああ」
「ふざけんな、あんた——」
声が出かかって、自分で押さえた。林雨瞳たちが寝てるのを気にしたんだろう。だがこの無理やりな抑制が、そのまま爆発するより、ずっとはっきりと何かを語っていた。
俺は彼女を見ながら、低く聞いた。「今お前が怒ってるのは、俺が自分を雑に扱ったことか。それとも、止められないってわかってて、ただ見てるしかなかった自分にムカついてんのか」
彼女の全身が、一瞬固まった。
——図星だ。
彼女が一番嫌いなのは、暴走そのものじゃない。
俺が突っ込むと分かってる。局面がそこまで来たら俺は絶対に退かないと分かってる。それでも彼女はそこに立って、俺が前に出るのを見ていなければならない。
その無力感が、彼女にとってはどんな怪異よりも不快なものだ。
彼女は歯を食いしばり、声がかすれるほど低くなった。
「一番ムカつくのはさ、あんたが毎回毎回、自分をそのポジションに置くことよ」
「どのポジション」
「『俺が行かなければ、他の全員が死ぬ』っていうポジション」
リビングが、重苦しい静寂に沈んだ。
俺は彼女を見ながら、無意識に指でテーブルを一度叩いた。
この言葉は、今日だけを指してるんじゃない。もっと前から、何度も積み重なってきたものだ。
俺は低く返した。「じゃあ、お前は?」
彼女が眉をひそめる。「あたしが何よ」
「今日、馬三娘を呼んだとき、迷いゼロだったろ」俺は彼女から目を逸らさない。「お前だって、自分を同じポジションに置いたんじゃないか」
彼女の口元がすぐに引き結ばれた。
「あれは違う」
「どこが違う」
「三娘のルートは、あたしが熟知してる」
「こっちだって、自分のやり方には慣れてる」
「慣れてたって、死ぬときは死ぬでしょ!」
これは勢いで出た言葉だ。考える間もなく、ただ反射的に投げ出した。
投げ出した瞬間、彼女自身もハッと止まった。
——よし。ようやく、一番奥の層まで届いた。
俺は彼女を見た。彼女も俺を見返す。いつも刃を帯びているあの目が、今は火と意地と不服を抱えながら、その底に、普段は絶対に見せない何かを押さえ込んでいた。
恐怖だ。
幽霊が怖いんじゃない。
俺が本当に死ぬかもしれない、その怖さだ。
俺は少し前に体を傾け、声を落とした。
「葉綺安」
「……何よ」
「ただ言い合いたいだけなら、夜明けまで付き合う」俺は彼女を見据える。「でも別のことを言いたいなら、その噛みつく顔で誤魔化すのは、そろそろやめた方がいい」
彼女の呼吸が、一瞬乱れた。
「思い上がらないでよ」
「思い上がってるかどうかは、お前が一番知ってるだろ」
「周士達」彼女は俺を睨み、目が険しくなる。「毎回そういう『全部お見通し』みたいな顔するな」
「じゃあ、わからないバージョンを教えてくれ」
彼女は一瞬言葉に詰まった。
しばらく、何も言わなかった。
俺も急かさない。
こういうときに急かすと、彼女はより硬くなる。蘇依依じゃない。流れに乗って都合のいい着地点を探せる人間じゃない。追い詰めれば追い詰めるほど、自分を壁に釘で打ちつけていくタイプだ。
数秒経って、彼女はようやく視線を横に逃がし、声が不本意そうに沈んだ。
「今日、三階で、あんたがあれに飛びかかられた瞬間」彼女は少し間を置いた。「マジで一瞬、頭が真っ白になった」
この一言が出た後、俺は何も返さなかった。
これが彼女にとって、もう十分すぎるほど直接的な言葉だとわかってるからだ。
葉綺安は「死ぬかと思った」とは言わない。頭が真っ白になったと言う。それが彼女の言える最大限だ。
彼女は指先でカップの縁を撫でながら、さらに声を落とした。
「あのとき考えてたのは、あんたがあれを倒せるかどうかじゃなかった」
「もしあんたが本当に倒れたら、あたしはどうすればいいんだろうって」
——クソ。
泣かれるより、ずっとタチが悪い。
俺は彼女を見つめ、しばらく動けず、喉の奥で何かがゆっくりと締まっていく感覚があった。
彼女も、言いすぎたと気づいたんだろう。耳の端がじわじわと熱くなっていき、すぐに殻を拾い直そうとした。
「誤解しないで」彼女は素早く付け加え、声がまた硬くなりかける。「別に告白とかそういうんじゃない。ただ——」
「ただ、ブチ切れそうなくらいムカついた」俺が代わりに続けた。
彼女が目を上げて俺を睨む。「そう。ブチ切れそうなくらいムカついた」
「他には?」
「ぶん殴りたくなった」
「それは信じる」
「あと——」彼女が詰まった。歯を食いしばって、言葉が喉の手前で引っかかってる。自分でも恥ずかしいと思ってるのか。
俺は彼女を見て、急かさなかった。
それがかえって彼女の機嫌を悪くした。
「そんな目で見るな」彼女が低く言う。
「どんな目だ」
「あたしが自分で認めるのを待ってる目」
「じゃあ代わりに逐語録でも書いてやろうか」
彼女は本気でカップを投げつけそうになり、実際に手が上がったが、最後の理性で止まった。
まだ自制心がある。上等だ。
俺は手を伸ばし、そのまま彼女の手首を掴んだ。
今度は、彼女はすぐに振り払わなかった。
ただ全身がビクッと固まり、眼差しが今より乱れた。
手はまだ少し冷たいが、山の上ほどじゃない。俺の指の下で、脈が速く打っている。今彼女が必死に保とうとしている顔と、まったく釣り合っていない速さで。
俺は彼女を見据え、声をひどく低くした。
「葉綺安。今ここに座ってるのは、俺に過去のツケを突きつけるためか。それとも、俺がまだ手の届く場所にいるか、確かめたかったからか」
彼女の息が止まった。
その一瞬、彼女の全身が後ろに引きたがっているのが見えた。でも、実際には引かなかった。
——よし。これでいい。
彼女はしばらく俺を睨み続け、最後に声が歯の隙間から絞り出された。
「……両方じゃ、ダメなの」
この一言で、場の空気が完全に変わった。
もう単なる清算じゃない。
依存心まで、一緒にテーブルの上に引きずり出してきた。
俺は手の力をごく軽く強め、放さなかった。
彼女も振り払わなかった。
ただ俺を見ている。いつも人を遠ざけるために使っている刃の鋭さが、今は全部別の何かにほぐれていた。火も意地も強情も健在だが、その底にあるものが、あまりにも明らかで、彼女自身が狼狽えている。
俺は低く聞いた。「じゃあ、どう答えてほしい」
彼女の喉が動いた。声がひどく小さくなる。
「せめて」彼女は言った。「次に一人で突っ込む前に、あたしを『もう死んでる人間』みたいに、最初から蚊帳の外に置くな」
この言葉は、何よりも重かった。
甘い愛の言葉なんかじゃない。
でも、甘い言葉よりずっと近い場所にある。
傷つかないでくれとは言っていない。前に出るなとも言っていない。ただ、一つのポジションを求めている。俺の後ろで守られて、後から結果だけ知らされる場所じゃなく、俺と一緒に踏み込める場所を。
これが葉綺安らしい。
そして、やっかいだ。
一度こう言った以上、一時の感情じゃない。本気だとわかってる。
俺は彼女を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「わかった」俺は言った。
彼女はこんなにあっさり返ってくるとは思っていなかったのか、一瞬固まった。
「……わかったって、何が」
「次は蚊帳の外に置かない」俺は彼女を見据える。「ただし、お前も『平気』な顔で誤魔化すのをやめろ」
彼女の眉がすぐに寄った。「誤魔化してなんかない」
「今日、三娘を送り返した後、顔が紙みたいに白かったのに、車の中で何でもないふりしてたろ」
「本当に何でもなかった」
「嘘つくな」
彼女は俺を睨み、俺も睨み返した。
二秒、互いに目を離さなかった後、彼女の口角が、ほんのわずかに動いた。笑いかけて、自分で押さえた。
——よし。こういうときに笑えるなら、一番張り詰めていた糸がようやく緩んだ証拠だ。
俺は彼女の手首を放さないまま、立ち上がり、テーブルの角を回って彼女の隣に立った。
彼女が顔を上げる。
距離が、急に近くなりすぎた。
シャワー上がりの微かな熱気、シャンプーの匂い、それから彼女の刺々しさの下に隠れている、彼女だけの、ごく薄い気配が、全部すぐそこにある。
彼女もそれに気づいたのか、呼吸が一拍止まった。
「周士達」声がわずかに掠れる。「近すぎる」
「先に来たのはお前だろ」
「来たのはそういう意味じゃない」
「わかってる」俺は彼女を見下ろす。「でも、まだ帰る気がないなら、俺が余計なことを考えても文句は言えない」
彼女の耳の端が、じわりと熱くなった。
——上出来。ようやく、俺だけがこの空気に振り回されてるわけじゃなくなった。
彼女はまだ強がって返す。「自意識過剰すぎ」
「じゃあ今すぐ立って帰れ」
彼女は動かなかった。
それで十分だ。
俺は彼女を見ながら、さらに声を落とした。
「葉綺安」
「……何」
「言い合いに来たなら、もうだいたい済んだだろ」俺は言う。「まだここに座ってるなら、それ以上のものが欲しいってことだ」
彼女は俺を見上げた。その目の中で、火と試し合いと強情と、彼女自身が認めきれない依存が全部混ざり合って、最後の一格まで張り詰めた弦みたいになっている。
このまま踏ん張っても、いろんなものが回収できなくなると、彼女自身もわかってるだろう。
それでも、動かなかった。
しばらく経って、ひどく低い声が落ちた。
「……今日、もしあんたが、またあたしを締め出すような真似をしたら」
「本気で許さないから」
俺は二秒、彼女を見つめた。喉仏がゆっくりと動く。
——よし。今度こそ、全部言葉になった。
俺は手を伸ばし、テーブルの上の少し明るすぎる灯りを消した。リビングの隅の、小さな暖色の灯りだけが残る。空間が半段暗くなり、静けさがさらに近づいてくる。玄関の棚の上に、赤い保温ボトルが静かに立っている。今夜この部屋で、誰かを起こしてはいけないものが全部、あれに押さえられているみてえに。
俺は顔を下げ、声を彼女のすぐ近くに落とした。
「なら今夜、後悔するなよ」
彼女は俺を見上げ、呼吸が完全に乱れた。
それでも、退かなかった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




