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09.エピローグ 9-2

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

四日目の朝、山の霧はここ数日で一番濃かった。


俺が目を覚ましたのは、エンジン音のせいだ。


家の中で鳴るポンコツ家電の唸りでも、往生際の悪い霊がノックしてくる音でもねえ。もっと現実的で、うるさくて、嫌でも生きてる世界を思い出させる、車が坂道を上ってくる音。二台分。ワンボックスが一台と、七人乗りが一台。タイヤが別荘前の砂利道を踏みしめるジャリッという音が、まるで遅れてやってきた救援部隊みたいに、妙に現実味を帯びて聞こえた。


俺はカーテンを少しだけめくって、外を覗く。


「お前らのマネージャーが来たぞ」俺は言った。


部屋の中の残り五人は、一人としてシャキッと目覚めたやつがいなかった。当然だ。昨夜は怪異のラッシュと世界観の大崩壊のあと、二階のリビングで立ち位置とメンタルの再構築をやりきったんだ。これでぐっすり快眠できるほうがどうかしてる。


林晴夏は爆発したみてえな頭で布団から起き上がり、開口一番こうだった。


「お願いだから、外にいるのが人間だって言って」


「今のところ、人間に見える」


「よかった……あたし今、生きてる人間めちゃくちゃ不足してるから」


陳暁晴はすでに起き上がっていた。顔色こそ悪いが、動きは一番早い。窓のほうを一瞥すると、その眉間がすぐにきゅっと寄る。


「番組スタッフも来てる」


俺は「だろうな」と短く返した。


不思議でもなんでもねえ。こういう山奥の合宿企画なんざ、最初から「ロケの一環」という建前付きだ。たとえこの数日が正式な収録日じゃなかったとしても、マネージャーと番組サイドが完全ノータッチってことはありえねえ。ましてこっちの電波状況は最悪、返信もろくに返せねえ、スケジュールは押しまくり、おまけに山全体が今にも崩れそうな雰囲気を醸してる。今日様子見に来たのは、むしろ遅いくらいだ。


おかしいのは、今の俺たちの有様で、人前に出なきゃなんねえって事実のほうだ。


二十分後、一階のエントランスホールは、かろうじて「外部の大人」を迎えられるレベルまで取り繕われた。


鏡という鏡には布をかけ、ダイニング側で壊したものは動かせるものだけ端に寄せ、無理なものは全部「古い建物の備品トラブル」で押し通すつもりで隠す。葉綺安は赤い保温ボトルを自分のバッグにしまい、顔色こそまだ完全には戻ってねえが、「ついさっきまで冥界の役人と直通回線を繋いでました」って風ではなくなった。陳暁晴は髪を結び直し、林晴夏は「一目で睡眠不足と分かるタイプのむくみ」を必死で誤魔化し、蘇依依に至っては、わざわざ薄くリップまで重ねてきた。自分に言い聞かせてるんだろう――今から会うのは人間。幽霊じゃない。まずは顔を整えろってな。


方思琪が一番手間いらずだった。もともと半分死んでるみてえな静かな顔つきだから、今日が一番「普段通り」に見える。


ドアが開くと、マネージャーが先に飛び込んできた。


三十代そこそこの女だ。普段なら、現場の空気を読んで、スケジュールを回して、まだ売り切ってないこの小娘どもを「正しいポジション」に押し込むのが仕事ってタイプ。だが、ホールに整列した俺たち六人の「ボロ雑巾一歩手前」みてえな姿を目にして、彼女はまず足を止めた。


「ちょっと……」彼女は全員を見回す。「あんたたち、この数日ここで何してたわけ?」


いい質問だ。


だが、正直に答えられるタイプの質問じゃねえ。


彼女の後ろには番組スタッフが二人。サブディレクターと企画。手には資料ファイルとスマホ。顔には「進捗チェックついでに、使えそうな絵があれば少し回収しておこうか」という職業的な疲労感。だが、エントランスホールの「軽く戦場を通過しました」みてえな損壊っぷりを目の当たりにして、二人とも固まった。


「この設備、どうなってんの?」サブDが眉をひそめる。「ガラス、これ――」


「古い建物なんすよ」俺が先に口を挟み、話をさらう。「湿気もひでえし、配線もガタガタ。上には立ち入り禁止区画まであるし。ここ数日は夜中に変な音が何度かして、相当ビビらされましたしね。昨日はダイニングでショートして、危うく火事コースでしたよ」


半分本当で、半分フェイクな説明だが、こういう話は大抵よく効く。いかにもありそうだし、何より、「山の中の古い旅館、ちょっとヤバそうだけど、まずは設備トラブル扱いで片付ける」という、どこの地方でも共有されてるテンプレートをきっちり踏んでる。


マネージャーは俺を見て、それからメンバーたちに視線を移した。


「ケガした子はいない?」彼女が聞く。


「目立った外傷はないです」陳暁晴が答える。六人の中で、声のブレが一番少ない。「ただ、この状態で続けるのは無理です」


その一言はひどく簡潔で、感情もなければ涙声でもなく、礼儀だけはきちんと保たれていた。だがだからこそ、彼女が本気で限界まで追い詰められてるのがよくわかる。


マネージャーは二秒ほど彼女を見つめてから、他の四人に視線を滑らせる。


林晴夏は無理やり笑ってみせた。その笑いは、泣き顔よりよっぽど見ててつらい。「先に白状しとくけど、今のあたし、名前呼ばれた瞬間、テーブルひっくり返す自信ある」


いい。ちょっと盛ってはいるが、嘘ってほどでもない。


蘇依依はソファの端に腰掛け、背筋をぴんと伸ばしていた。だが指先は、掴んだコップから離れようとしない。顔を上げた彼女は、柔らかい声で、きちんと「見せられる言葉」を選ぶ。


「この場所、もう合宿に向いてないです」彼女は言った。「眠れないのもそうですけど、みんな精神的にかなり摩耗してて。このまま続けたら、何か取り返しのつかないことが起きると思います」


言い方はきれいだ。


同時に、薄い。


いつもの安定した柔らかさが、今日はひどく「上から貼ったガムテープ」みたいに見える。ひと目見れば、内側がぐちゃぐちゃなのが丸わかりだ。


方思琪は一番容赦なかった。最初から「芝居する気はねえ」って顔だ。


端っこに座ったまま、淡々と一言。


「夜、うるさすぎます」


サブDがキョトンとする。「どういう意味?」


「水の音と、椅子を引きずる音と、歌声です」


エントランスホールに、一瞬の沈黙が走る。


俺はすかさず咳払いを一つして、声をかぶせた。「って言っても、古い建物の音が響いてるだけですよ。防音もスカスカだし。こういうとこ、夜はちょっとの物音でも増幅されるんで」


企画がコクコク頷きながらも、顔には明らかにビビりが浮かんでる。


上等だ。こういうときはこっちから真相をバラすより、適当に材料だけ投げて、向こうに勝手にホラ話を補完してもらったほうがいい。


マネージャーはすぐに結論を出さなかった。窓辺まで歩いて行き、屋内を一度ぐるりと見回し、それから外の霧と山道を眺める。最後にこちらへ向き直った。


「正直に答えて」彼女は言う。「今のあんたたち、これ以上ここでやっていける状態じゃないんでしょ?」


今度は、誰も即答しなかった。


あまりにもストレートな問いだったからだ。


この問いに頷くってことは、即ちこの合宿企画の「失敗」を正式に認める、ってことになる。アイドル候補にとって、それは相当キツい。彼女たちは日頃から「耐えろ」「我慢しろ」「乱れを見せるな」「カメラが回ってないときでもプロでいろ」と叩き込まれている。今ここでマネージャーがその重しを机の上に置き、「プロとして続行するか、生身として撤退するか」を選ばせた。


最初に頷いたのは、陳暁晴だった。


ゆっくりと。


だが、迷いはなかった。


「はい」彼女は答えた。


その「はい」が落ちた瞬間、林晴夏の目に涙がにじんだ。それはみっともなさから来る涙じゃない。「もう頑張ってるフリしなくていい」と許された安堵の色だ。蘇依依も視線を落とし、ここ数日ずっと保ってきた「きれいな表面」が、ほんの少し崩れるのを自分に許した。葉綺安は横で黙っていたが、否定しなかった。それだけで十分だ。方思琪は、最初から答えを知っていたかのように、ほとんど表情を変えなかった。


マネージャーは一度目を閉じ、おそらく心の中で盛大に罵倒をひと通り完了させてから、短く告げた。


「わかった。合宿、前倒しで打ち切り」


サブDがすぐさま顔をしかめる。「でも、それだと番組の――」


「番組より大事なもんがあるでしょ」マネージャーはピシャリと言い切った。「それに、この状態の彼女たち撮って、何に使うの? 過労でぶっ倒れる生放送でもやる?」


やっと人間らしいことを言ったな、この人。


サブDは返す言葉を失い、それ以上食い下がらなかった。


そして、ここからが本当に厄介なパートだ。


外向けには、どう説明するか。


こんなもん、真相をそのまま外に流せるわけがねえ。


正直にブチまけたら、番組どころか企画自体が吹き飛ぶ。グループ丸ごとネットで晒されて、「怪力乱神スペシャル」みてえなバラエティに三ヶ月ローテーションで呼ばれ続けるのがオチだ。


企画のやつが先に口を開いた。声のトーンはやけに慎重だ。


「対外的な説明としては……『会場設備の不具合が見つかり、安全面およびメンバーの体調を考慮して、クローズド合宿を前倒しで終了。今後は市内のスタジオで継続』――あたりで統一しておきましょうか」


テンプレ。


だが、十分筋は通る。


陳暁晴(チェン・シャオチン)がコクリと頷いた。「それで、いいです」


林晴夏(リン・チンシア)がすかさずかぶせる。「『山間部で電波状況が悪かったので、外野は変な勘繰りしないように』って一行も足して」


「お前、急に広報センス上がったな」俺は横目で見る。


「当たり前でしょ。まさか本当のこと――あたしたち、もうちょっとでドイツ――」


途中まで言いかけて、自分で言葉を力づくで飲み込み、そのままギュッと口を閉じた。


結構、分かってんじゃねえか。どこから先は口にしちゃいけねえか。


蘇依依(スー・イーイー)は、このタイミングでようやく本業の「一番人あしらいがうまい女」を、ほんの少し取り戻した。


「細かい事情は出さないほうがいい」彼女は言う。「安全面への配慮とコンディション調整。それだけ。情報を盛りすぎると、逆に隠してるみたいに見える」


正論だ。


こういう場面になると、やっぱり使える。昨日まではあの踏み込みすぎる探り合いも、ライン超えの遊びも、いいところ一つもねえって感じだったが、「外向けの体裁」を整える段になると、本能的に一番きれいなラインを選んでくる。


マネージャーは頷き、すでに頭の中でコメント文を組み立て始めてる顔になった。


「じゃ、こっちで文面まとめる。『老朽化した設備と環境面の問題により、メンバーの心身の安全を優先して合宿を中止。番組の今後の展開は追ってお知らせします』――こんな感じね」


それから、全員を見回す。「誰も勝手に発信しないこと。SNSも、ストーリーも、全部禁止。山の話題は一切出さない。『怖かった』とか、『出たかも』とか、そういう匂わせも――」


ここまで言って、自分で「匂わせ」って単語の生々しさに気づいたのか、一瞬言葉を切り、言い換える。


「とにかく、余計なこと言わないで」


危うく吹き出すところだった。


遅えよ、お姉さん。


今目の前にいるこの連中、昨日一緒に化け物の喉から生還したばっかなんだぞ。それを相手に「ストーリー上げるな」って釘刺してどうすんだ。


だが、これでいい。


普通の人間の問題は、結局こうして戻ってくる。


広報対応、番組の尺、契約、公式コメント、誰が責任取るか、誰が黙ってなきゃならねえか。どれだけえげつねえ怪異が起きても、日が昇れば、社会はちゃんと「この欄、記入漏れですけど?」って書類を突きつけてくる。


ようやく葉綺安(イェ・キアン)が口を開いた。声は極端に淡々としている。


「じゃあ、場所は?」


マネージャーが彼女を見る。「場所?」


「この別荘」葉綺安は顎をしゃくってみせた。「今後も、誰か使うんでしょ」


この一言で、その場の「外部の人間」たちは揃って固まった。


この場所が、青春だの夢だの追いかける合宿企画に、どれほど向いてないか――あいつらは、まだ何も知らねえからだ。


俺が代わりに話を拾う。


「しばらく、この施設は使わないほうがいい」俺は言った。「少なくとも、設備を総チェックし直して、安全性を確認するまでは、どんなクルーもここに上げないほうがいいっすね」


かなり抑えた言い方だ。


ただの「良心的な設備業者目線」レベル。


サブDはすぐ頷いた。「それは本当にそうですね。今のままじゃ、とても撮影どころじゃない」


上出来。こういうのは、こっちから真実のディテールを足すより、向こう自身が「この場所、なんかイヤだな」と思うように仕向けるほうが早い。


そのあと三十分ほどは、全員で荷造りだ。


マネージャーと番組スタッフは電話飛ばして車の手配を確認し、後続のスケジュールを組み替えながら、口調だけはいつもの仕事モードだが、その動きは誰より速い。少しでも長居したら、この建物が勝手に歌い出すんじゃないかとでも思ってるみてえに。


陳暁晴はメンバーの荷物を一つずつ仕分けし、点呼を取り直していく。グループ全員が半分廃人寸前だってのに、彼女だけはいつのまにか「進行表」を引き戻してた。


林晴夏はあれこれ文句を言いながらも、手は止まらない。ついでに方思琪(ファン・スーチー)の荷物の入れ忘れまで二つ三つ拾って、勝手に詰め直してやってる。


蘇依依は、自分のコスメだのボトルだのを几帳面にバッグに収める。相変わらず無駄のない動きなのに、人自体はいつもより静かすぎる。まだ、さっきまでの光景を脳内で反芻してる。


葉綺安の荷物は、一番少なかった。赤い保温ボトルを抱えたまま、それだけは「誰にも触らせない」って線を引くみてえに腕を回している。


アイドルとしての体裁は、一応まだ生きてる。


だが、ペラペラだ。


上からファンデを塗ってひび割れを誤魔化しただけの壁みてえに、遠目には「まあまあ」でも、近づいて見りゃ、全部ヒビだらけ。


俺は二階の廊下に立ち、順番にバッグを抱えて出ていく彼女たちを見下ろしながら、内心じゃっかり理解してた。


この子たちは、この山を下りた時点で、もう元のグループには戻らねえ。


くっつき合うやつは前よりベッタリくっつくだろうし、逆に警戒心が増すやつも出てくる。距離の取り方を計算し直すやつもいれば、これまで現場を持たせるために被ってきた「キャラ」を一枚脱ぐやつもいる。全部、当たり前だ。一緒にこんなもんをくぐり抜けた人間同士の関係は、深くなるか、壊れるか、そのどっちかで、中途半端に「前と同じ」には絶対戻んねえ。


問題は、こいつらがどっち側に転がるかだ。


最後のダンボールを車に積み終えた頃には、山霧も少しずつ薄くなってきていた。


別荘は俺たちの背中のほうで、妙におとなしく立っている。この三日間に何一つ起きなかったみたいな顔で。ここで何があったか、本当に知ってるのは、実際には俺と葉綺安だけだ。


「何もなかった」んじゃない。こっちが先に、片付けるべきもんを片付けただけ。問題は、あのドイツ語の歌を、遠くからここまで引っ張ってきたラインのほう。


あれは、これからだ。


彼女は俺の隣に立ち、腕の中で赤い保温ボトルを抱きしめている。顔色はまだ白いくせに、口だけはいつも通りだ。


「さっきのあんた、マネージャーへの口の利き方、珍しくまともだったじゃん」


「ありがとよ。たまには人間のフリもする」


彼女はフンと鼻を鳴らし、俺を見上げる。「帰ってから、トボけて知らん顔する気はないでしょ」


俺は横目で見返した。


「どの件」


「全部」彼女は言い切る。「あんたが何者か、三娘のルート、この建物のことと、後ろにくっついてるあのクソみたいな歌。あんた、あたしに一台分――いや、一車線全部埋まるくらいの説明、借りてるから」


「その言い方、完全に取り立て屋な」


「だって取り立てだし」


俺は口の端を少しだけ持ち上げた。


上出来だ。この女、きちんと生きて戻ってきた。


請求書を突きつけてくる元気がある。悪態つく余裕もある。ってことは、今回の一件で、まだ魂まで擦り切れてはいねえ。


前のほうで、マネージャーが乗車を急かしていた。


陳暁晴はすでに真ん中の席に座り、林晴夏は企画と並んで、今後の公式コメントの文言を詰めている。


蘇依依は乗り込む寸前に一度だけ振り返り、葉綺安の顔に一秒視線を留めてから、静かに車内へ消えた。


方思琪は、一番先に席に落ち着いていた。あいつだけは、最初から「この章の終わり方」を予習してきたみてえな顔をしている。


俺は後部ドアを引き開けた。


「まずは下山だ」俺は言う。「残りの話は、台北戻ってから、じっくり精算する」


赤いボトルを抱えたまま、一歩足を車内に踏み込んだところで、葉綺安がぼそっと返した。


「あんた、自分で言ったこと、絶対反故にすんなよ」


奴の背中を見送りながら、俺は何も言わなかった。


あいつの言う「全部」が何を指してるか、わかってるからだ。


仕事の話だけじゃねえ。


少なくとも、それだけじゃない。


ドアが閉まる瞬間、山風が別荘前の空き地を抜けていった。湿り気を含んだ冷気が、最後の名残みてえに皮膚を撫でていく。


霧の向こうに沈むあの建物は、まるで、すでに読み終えたはずなのに、まだ白紙のページが残っている一冊の本みたいに、そこにじっと佇んでいた。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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