09.エピローグ 9-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
二階のリビングに戻ったとき、別荘全体がようやく「ひとまず一段落した」という空気を纏っていた。
安全になったわけじゃない。
ただ、これ以上暴れ回る気力も残ってねえ、そういう疲労困憊の静けさだ。
本来はメンバーの休憩や雑談、「仲良しアイドルの青春」を演出するための共用リビングは、今や激戦直後なのに無理して体裁を保とうとしてる避難所みてえな有り様だった。ソファは少し歪み、ローテーブルには昨日開けたままのクッキーと数本のミネラルウォーターが放置されてる。半分だけ閉まったカーテンの隙間から、灰白い空が重く押し込まれ、ここにいる全員の顔を実年齢より余計に疲れて見せていた。
俺は武器袋を壁際に放り投げ、葉綺安に目をやった。
あいつは赤い保温ボトルを抱えたまま、入口で立ち尽くしてる。呼吸はいつもより重く、顔色も蒼白だが、それでも「疲れてるなんて絶対に悟られたくない」という、いつもの意地っ張りな死に様を崩さねえ。馬三娘が退いた後、あいつはまたあの見慣れた刃のような鋭さを取り戻した。ただ今日のその鋭さは、いつもみてえに軽くない。本当の姿を完全に見透かされた後の、「もう隠すのも面倒くせえ」という冷たさが上乗せされてる。
他の四人は、すぐには口を開かなかった。
それで正常だ。
自分の世界観をぶち壊すもんを目撃したとき、人間の第一反応は悲鳴でも質問でもねえ。沈黙だ。脳みそが必死に、さっきの光景を自分の知ってる過去の論理に押し込もうとして、どうやっても入らねえことに気づくまでの、空白の処理時間。
最初に限界を迎えたのは林晴夏だった。
あいつはソファにドサッと座り込み、両手で顔を覆った。三秒ほど黙り込んでから、指の隙間からようやく声を絞り出す。
「……今すごく汚い言葉叫びたいんだけど、何から先にツッコめばいいのかわかんない」
「じゃあゆっくり順番決めろよ」俺は壁に寄りかかった。「どうせ今日は、罵倒すべき案件が山積みだからな」
あいつは顔から手を離した。目はまだ赤い。さっきの恐怖のせいか、それともずっと張り詰めてた糸がようやく切れたせいか。俺を見て、葉綺安を見て、最後に視線がその赤い保温ボトルに釘付けになった。
「つまりさ」声が少し上擦ってる。「あたし、この三年間、一体何者と一緒にレッスンしてたわけ?」
葉綺安は盛大に白目を剥き、ボトルを抱えたまま部屋に入ってきた。掠れた声で吐き捨てる。
「あんたのご先祖様よ」
「まだ人に悪態つく元気があるなら、逆に安心した」林晴夏は鼻をすすり、半分崩壊した乾いた笑いを漏らした。「てっきりこのままローテーブルに立って、人類審判でも始めるんじゃないかって本気で思ってたし」
「あんた、ドラマの見すぎ」
「あたしの妄想が激しいんじゃなくて、あんたが隠し事しすぎなの」
その一言で、リビングは再び静まり返った。
なぜなら、それは林晴夏だけが聞きたかったことじゃないからだ。
ここにいる全員の疑問だった。
陳暁晴は窓際に立ち、さっきからずっと握りしめていたお守りをまだ手に持っていた。あいつはさっきから一度も取り乱さなかった。世界観を根こそぎぶち壊された後でも、リーダーとしての本能が勝ってる。みんながちゃんと座ってるか、呼吸は整ってるか、誰か倒れそうじゃないか——まずそっちを確認してた。だが今ようやく振り返り、俺を見て、それから葉綺安を見た。その眼差しは重く、揺るぎなかった。
「一つだけ、確認させて」彼女が口を開いた。声は大きくないのに、リビング全体の空気をピタリと凍らせた。「さっきのあれは、あなただった。でも、あなたじゃなかった。そういうこと?」
葉綺安は二秒沈黙した。説明すべきかどうか迷ってるみてえに。
最後に、ひどく淡々と一言だけ返した。
「私が呼んで、仕事してもらった」
陳暁晴は短く頷いた。
「それは誰なの」とも「どうやって呼んだの」とも「なぜもっと早く言わなかったの」とも追及しねえ。ただ頷いた。こういう場面では、気の利いた質問を並べるより、まず事実を受け入れることのほうが先決だ。
だが蘇依依は違った。
リビングに戻ってからずっと、あいつは異様なほど静かだった。あいつらしくねえ静けさだ。普段こういう空気なら、いつ柔らかく出るべきか、いつ慰めを入れるべきか、いつ一見気遣いに見せかけて実は探りを入れる一言を差し込むべきか、誰よりもよく知ってるはずだ。なのに今は長いこと沈黙して、今日ばかりはついに大人しくする気になったのかと思った矢先——静かな声が落ちた。
「じゃあ、ずっと前からできたってこと?」
葉綺安を見つめるその視線は凪いでいたが、「ずっと前から」という一言の刃は、恐ろしいほど正確に急所を突いていた。
今日のことを聞いてるんじゃない。
この三年間ずっと、と聞いてるんだ。
葉綺安も視線を逸らさずに見つめ返す。
「そうよ」
一言だけ。
補足も、言い訳も、誰かの気持ちを楽にしてやろうという気配も、一切なし。
蘇依依のまつ毛が、わずかに震えた。
あいつはきっと、葉綺安が隠してる「何か」について、いろんな可能性を計算してきたはずだ。気性、家庭環境、古傷、言えない過去、愛憎、意地、嫉妬。だが葉綺安が隠し持ってたのが「借身して働く冥界の大物」だなんて、しかもそれをあれほど自然に、ただの「性格のキツい女」だと思わせるほど隠し通してきたなんて——想像もしてなかっただろう。
その瞬間、あいつの表情はひどく薄かった。でも崩れるよりずっと、はっきりと何かが剥がれ落ちた顔だった。
常に他人を値踏みして生きてきた人間が、自分の目利きがここまで根本から外れてたことに、初めて気づいたときの顔だ。
方思琪は反対側の壁に寄りかかったまま、最初から最後まで大きな反応を見せなかった。しばらく床を見つめていた後、唐突にぽつりと呟いた。
「前から、彼女の気配は一人分じゃないと思ってました」
林晴夏が勢いよく振り向く。
「それ、二日前に言ってくれない?」
「二日前に言ったところで、また変なこと言ってるって笑われるだけだったでしょ」
「……それはそう」
妙に説得力のある返しだった。俺は危うく吹き出しそうになって、なんとか堪えた。
リビングはしばし静寂に包まれ、最後はやはり陳暁晴が場を仕切り直した。
「じゃあ、あなたは?」彼女は俺を見る。「あなたも普通の人じゃない。もう誤魔化す必要、ないでしょ?」
「最初から誤魔化す気なんてねえよ」俺は椅子を引き寄せて腰を下ろし、両肘を膝に突いた。「昨日もちゃんと言っただろ。俺はこういうヤバい案件を処理する人間だって。違いがあるとすれば、昨日まではお前らが俺の言葉を単なる与太話として処理できたが、今日はもうそうはいかねえってことだけだ」
林晴夏は虚ろな目でコクリと頷いた。
「そうね、今日は無理。今日なら、あんたが夜な夜な冥界まで出前配達してるって言われても、まずガソリン代は誰持ちなのか聞くレベル」
「もし本気で聞いてきたら、そのバイトは経費自腹だって答えてやるよ」
あいつは俺の返しに思わずプッと吹き出し、笑った直後にまた泣きそうになって、感情がぐちゃぐちゃになった表情を、やけに素直に晒した。
それでいい。
それでこそ、生きてる人間だ。
国民的アイドル候補生でもなけりゃ、完璧なメイクに支えられた「青春」「夢」「根性」の化身でもない。ステージの上でどれだけ疲れてても笑顔を崩さないよう仕込まれた、その訓練の成果でもねえ。ただの、ビビり倒して、くたくたで、それでもここに座って最後まで話をつけようとしてる、二十歳そこそこの普通のガキどもだ。
アイドルフィルターが粉々に砕け散った後のほうが、よっぽど人間の輪郭がはっきり見える。
蘇依依は自分の手を見下ろしたまま、不意にまた口を開いた。
「じゃあ、最初からここに問題があるって知ってたの?」
その言葉が出た瞬間、リビングの空気がわずかに変わった。
問いかけ自体は軽い。だが刃先は正確だ。
なぜなら、その質問の裏には、声に出されていないもう一つの意味が隠されているからだ——
私たち、ずっと蚊帳の外に置かれてたの?
俺はすぐには答えず、あいつを一瞥してから、葉綺安に視線をやった。
葉綺安は保温ボトルを抱えて一人掛けのソファに座り、全身から力が抜けてるくせに、目だけは冷え切っていた。
「ここまで腐りきってるとは思わなかった」あいつが先に口火を切る。「ただ、最初からここが『綺麗じゃない』ことくらいは分かってた」
蘇依依が顔を上げる。
「それでも来たの?」
「合宿に来たのよ。ピクニックじゃないの」
「でも、何も言わなかった」
「私が言ったら、あんた信じたわけ?」葉綺安は鼻で笑った。「それとも、私が目立ちたくてこんなこと言ってるって、真っ先に疑った?」
毒のある一言だ。
そして、図星だ。
蘇依依の唇が微かに動いたが、言葉は続かなかった。
返す言葉がないんじゃない。返せないんだ。もし時間を巻き戻して、出発前に葉綺安が突然「この別荘はヤバいから場所を変えよう」と言い出したとして、グループの中で何人があいつの言葉を信じたか?
一人もいねえだろうよ。
俺が話を引き取った。ここでまた第二ラウンドが爆発しても面倒くせえだけだ。
「この件に関してはさ、今日の時点で誰も『自分が一番の被害者』ヅラすんなよ」俺は口を開いた。「場所決めたやつは、好き好んで死地選んだわけじゃねえし、黙ってたやつも、わざと人を巻き込む気で黙ってたわけじゃねえ。問題はな――もう全員、この場所がおかしいって理解したうえで、生きてここにいて、メイン戦は終わったってことだ。その先で大事なのは、犯人探しじゃねえ。お前らが、これからどういう立ち位置で立つかだ」
林晴夏が顔を上げた。
「どーいう意味?」
「意味は簡単だよ」俺は全員の顔を順に見回す。「今この瞬間から、お前らのグループ内の関係性は、前みたいな『見せかけの平和』には一生戻んねえってことだ。誰かは、お前がずっと何を隠してたか知っちまった。誰かは、俺がただの運転手じゃねえって知っちまった。誰かは、自分が本気でビビってることを知っちまった。誰かは、自分の人を見る目が浅かったって思い知らされた。そういうもんは、宿に帰ったからって消えねえし、一晩寝りゃチャラってわけにもいかねえ」
ひどい言い方なのは自覚してる。
だが、誰も否定しなかった。
みんな、これが事実だってわかってる。
陳暁晴は話を聞き終えると、数秒黙り、それから先に腰を下ろした。
腰を下ろしただけなのに、「隊長」という立場に無理やりしがみついていた肩の力が、ようやく抜けたように見えた。
「なら、『なかったこと』にはしない」彼女は言った。
声は小さい。
けど、重みはあった。
林晴夏が彼女を見る。「ルナ?」
「言いたいのはね」彼女は顔を上げた。目の下にははっきりと疲労の影があるのに、その声は不思議なくらいブレていない。「ここまで全部見ちゃった以上、もう前みたいな芝居には戻らないってこと。怖いなら怖いでいい。ぐちゃぐちゃならぐちゃぐちゃでいい。隠してたなら、『隠してた』って事実ごと抱えて進むしかない。今さら誰が悪い、誰が間違ったって言い合っても意味ない。まず全員をここから連れて帰る。そのあとで、この先どうするか決めよう」
その言葉が落ちた瞬間、リビングに引っかかっていた何かが、ようやくほんの少しだけ解けた。
和解したわけじゃない。
ただ、立ち位置を引き直しただけだ。
彼女は相変わらず隊長だ。けどもう、レッスンメニューやフォーメーションや表情管理だけを気にしてる「現場監督」じゃない。今の彼女は、このグループを「生きてる人間」として拾い直そうとしてる。
林晴夏が真っ先に頷いた。やけに早い。
「あたし、ルナのとこに立つ」彼女は息を吸い込み、まだ少し震える声で言う。「今のあたし、単独じゃ怖くて立ってらんない」
おかしくもあり、情けなくもある一言だった。
蘇依依は、すぐには何も言わなかった。
しばらく間を置いてから、ようやく小さな声で言う。「あたしも、バラバラになりたくない」
この台詞が以前なら、どこか「演技」が混ざって聞こえただろう。
だが今は違う。
彼女は本当に疲れ切ってるし、本気で怖がってる。怖すぎて、いつものあの「人を転がす余裕」なんて一ミリも残ってない。ただ、ひどく原始的な、「一人だけ外に置いていかれたくない」という感情だけが残ってる。
方思琪は淡々と、一言だけ足した。
「バラけたほうが、また狙われやすいです」
いい指摘だ。愛想は一切ねえが、論理的で、そして何より役に立つ。
葉綺安はソファにもたれ、四人を一度ぐるりと見た。何か辛辣なことを吐き捨てたそうな顔をしていたが、結局、鼻を鳴らしただけだった。
「だったら足引っ張らないで」
その言葉で、逆に場の空気が安定した。
それが彼女なりの「どこに立つか」の表明だからだ。慰めでもなければ忠誠でも、寄り添いでもない。ひどく葉綺安らしいやり方でこう告げてる――自分はまだここにいる。ついて来るかどうかは、あんたたち次第だと。
俺はこの連中を眺めながら、妙な滑稽さすら感じていた。
三日前まで、こいつらは地下のレッスンスタジオで、立ち位置だのブロック分けだのセンターだの、感情の乗せ方だの歌詞のニュアンスだので、互いをすり減らしていた国民的アイドル候補生だった。それが今は、二階のリビングで初めて、「相手は自分の想像していた人物じゃない」ことを知り合いながら――皮肉なことに、前よりよっぽど「一つのグループ」に見える。
やっぱ人間、いっぺん一緒に怪異にぶつかっとかねえと、フィルターなんて剥がれねえもんだな。
俺は立ち上がって、ズボンの埃を払った。
「よし。立ち位置の確認が済んだなら、あとは一つだけだ」
「何?」林晴夏が聞く。
「寝ろ」俺は言った。「今のお前らの状態で話を続けたら、明日まとめてぶっ倒れてもおかしくねえ」
あいつは珍しく突っかかってこなかった。
上等だ。心底から消耗しきってる証拠だ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




