08. 憑依 8-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
俺と葉綺安は一列になって地下へ降りていった。 階段を下りれば下りるほど、空気がじわじわと湿っていく。
山の上でよくある、あの「普通の湿気」とは違う。 誰かが使い古しの雑巾を壁の中にねじ込んで、一晩中しぼり続けたのに、結局乾ききらなかった——そんな感じの湿り方だ。 手すりはやけに冷たくて固い。階段室に足音が響いて、一歩鳴らせば、三回返ってくる。この建物、まるで残響すらケチって、一回だけ返すなんてことはしないと言わんばかりだ。
B1の多目的リハーサル室は、昨日と同じだった。 鏡が壁一面にずらりと並び、床はやりすぎなくらいテカテカに光っている。 その脇に、とうの昔に使用中止になり、誰かに赤ペンキで大きくバツ印を描かれたプールがひとつ。縫い合わせの甘い傷口みたいな顔をして、空間の端っこに寝転がり、黙って誰かにもう一度見てもらえるのを待っている。
俺は武器バッグを床に下ろし、ファスナーを引いた。手を突っ込もうとしたところで、葉綺安が先に口を開く。
「それじゃないわよ」
顔を上げて彼女を見る。
彼女はドア枠に体を預けたまま、手はまだジャケットのポケットに突っ込んでいる。 表情の悪さは平常運転だが、声のトーンだけは、いつもより平らだった。
「左側の枠。その奥の赤いの。出して」
言われた通り、隠しポケットの中を探り、赤い魔法瓶を取り出す。
そいつは普段見た感じ、どう見てもただの安っぽい魔法瓶だ。 外側はくすんだ赤。塗装がところどころ剥げていて、側面には薄い擦り傷が一本。あちこちぶつけられてきたのが、そのまま刻まれている。 法具って呼ぶにはあまりにも地味だし、かといって「水筒」と呼ぶには、妙に重たい。 手に乗せた瞬間、掌に伝わってくる感触が、ちょっとおかしい。中に入っているのはお湯じゃなくて、口をきかない何かが丸ごとひとつ、沈んでいる——そんな重さだ。
俺は魔法瓶を彼女に差し出した。
「今日は自分で頼むのか?」
「じゃあ、あんたがフタ開けてくれる?」 彼女は俺を一瞥してから受け取り、指先で手慣れた様子でボトルの側面をコン、と二回叩く。 中の「お方」に向かって——起きて、出番よ——とでも言っているみたいに。
俺は口の端をちょっとだけ引っ張って、黙った。
こうじゃねえとな。
彼女は背筋をすっと伸ばし、肩をわずかに後ろへ引く。 呼吸を一度深く沈め、もう一度沈める。 それだけで、さっきまでの「何かあればいつでも噛みつくぞ」という尖った感じが、じわじわと畳まれていき、もっと安定して、もっと冷たいものへと変わっていく。
弱くなったわけじゃない。
自分を、空けている。
一目でわかる。今日は「お招き」する気だ。
「入口、先に封じておきなさい」
「へえ、おれにちゃんと指示くれるなんて、珍しいじゃねえか」
「あとで背中から何かに触られて、あんたにグチグチ言われるの、こっちがごめんだわ」
俺はバッグの中から鎮煞符を三枚つまみ出し、入り口のドア枠、鏡張りの両端、それからあの廃プールの縁に順に貼っていく。 左手の死神の指輪が、かすかに冷たくなった。 このフロアの何かが、もうこっちに意識を向け始めているって合図だ。
上等。 気づいてくれるなら、その方が話が早え。
葉綺安が赤い魔法瓶のフタをひねる。 キャップが、軽い音を立ててカチリと外れた。
次の瞬間、リハーサル室の「音」が、一枚、薄皮をはがされたみたいに変わった。
静かになったんじゃない。 雑音の外側に生えていた毛羽立った縁ごと、誰かがハサミで切り落とした感じだ。 空調はまだ風を吐き出しているし、蛍光灯も相変わらずジジジと鳴いている。 天井のずっと上では、誰かが椅子を引きずる音までしている。 なのにそれら全部が、ここに誰かが「話す」つもりでいるのを察したみたいに、自分から一歩、後ろへ下がった。
葉綺安は魔法瓶の口を見下ろし、小さな声で言う。
「三娘、体を」
その言葉だけ。
長ったらしい呪文も、意味ありげなポーズもない。 ここにずっと住んでいる同居人に、「ちょっと仕事、手伝って」と声をかけるくらいの、慣れきった呼び方だ。
赤い魔法瓶の口から、まず、ごく淡い白い気がふっと浮かぶ。
それは熱気でも霧でもない。 冬の窓ガラスに、勝手にじわっと現れる白い曇りに近い。 続いて、紙灰と線香、それにごくかすかな鉄の匂いを混ぜたような気配が、ゆっくりと外へにじみ出してくる。 俺は第三の眼を全開にはしていないが、それでもその気配が立ち上っていくのが見えた。 薄い影のような筋が一本。 まず彼女の手首に絡みつき、そのまま腕に沿って、肩の方へと這い上がっていく。
葉綺安は震えない。腰を折ることもない。
ただ、一度、目を閉じた。
そして、もう一度目を開けたとき—— そこに立っている「誰か」は、まるで別人だった。
一番はっきり変わったのは、目つきでも、漂う圧でもない。
間だ。
葉綺安は普段、言葉の端っこ全部にトゲがついている。 早口なときは容赦なく早く、機嫌が悪ければもっと早い。 一つのセリフの中に、常に「人を刺すための半文」が待機している感じだ。 だが今。彼女がそのまぶたを持ち上げた瞬間から、呼吸のテンポまでが整っていた。 背筋は真っ直ぐに伸び、視線を上げるときも、焦りは一片もない。 彼女が見ているのは鏡でも、リハーサル室でも、この心霊別荘でもない。 とうの昔に精算されるべきだった、古い勘定書だ。
何かが瞳の奥で、カチリと噛み合った。 自分の掌をひと目見下ろし、その肉体の「具合」を確かめてから、ようやく俺へと顔を上げる。
「小僧」
響いている声帯は、たしかに葉綺安のものだ。
だが落ちるところが、まるで違う。
その瞬間だけでわかる。 ——馬三娘が来た。
俺は息を吐き、うなずいた。
「馬面将軍」
馬三娘の視線が、鏡の列を一瞥し、バツ印をつけられた廃プールへと流れ、最後に淡々と口を開く。
「この地は陰を積むこと久しうござるが、されどもここが元ではありませぬ」 「異国の声が隙間より落ち、元は散りおったものどもを、ここへ寄せ集めておるだけにございます」
「ドイツ語の歌だな」俺は言った。
馬三娘は俺を一瞥し、否定しなかった。
「まず場を定め、それから釘を抜く」魔法瓶を俺に押し返しながら言った。「持っておれ」
受け取って、俺は危うく吹き出しそうになった。 赤い魔法瓶。馬三娘の仮住まい。それを今、こんなツイてないハンターが抱えている。 絵面としては相当イカれてて、やけに台湾くさい。
けど、イカれてようが何だろうが——効きゃそれでいい。
馬三娘がリハーサル室の中央へ、一歩踏み出す。
たった一歩。
それだけで、床にほとんど見えないくらい薄く残っていた水痕が、誰かに呼び覚まされたみたいに、フローリングの継ぎ目に沿って一本一本浮かび上がってきた。鏡張りの壁の中で、昨日まで人の動きを盗み見ていた影たちも、一コマ一コマ表面にせり出し、鏡の内側にへばりついて彼女を見つめている。
馬三娘は意に介さない。
ただ片手を上げ、五指を広げ、掌を下に向けて——静かに押し下げた。
「定」
その一字が落ちた瞬間、B1全体が、上から鎚で一発叩かれたみたいになった。
揺れじゃない。 沈んだ。
空気が一気に重くなる。蛍光灯の瞬きが止まり、鏡の中でせり出しかけていた影が一斉に動きを止める。後ろから首根っこを掴まれたみたいに。廃プールの底でかすかに鳴っていた水音まで消えた。中にいた連中が全員、この一声で底へ叩き落とされた感じだ。
左手の死神の指輪が、芯まで冷え切る。 第三の眼が、ほとんど勝手に開いた。
これだ。 ちゃんとした肉体に招かれた馬三娘ってのは、こういうもんだ。
爆ぜるんじゃない。鎮める。
俺が待ってたのは、この一撃だ。
「左の鏡、三枚目」馬三娘が淡々と言う。「斬れ」
無駄口叩いてる暇はねえ。刀を抜いてそのまま踏み込む。
その鏡には、昨夜絞りきれなかった何かが引っかかっていた。輪郭は女の形だが、髪がぐっしょり濡れて顔全体に張りつき、やたら白い口だけがぽっかり覗いている。一刀振り下ろすと、鏡面がパリンと割れ、そいつが針を刺すような細い悲鳴を上げた。横に逃げようとした瞬間、馬三娘の手が、もう一度すっと下りる。
「伏せよ」
そいつは鏡の中に押し戻された。
二刀目を鏡枠の中央から叩き込む。符の炎が亀裂に沿って走り、数秒で一枚の鏡を黒白まだらの砕けた銀片に変えた。
「池」馬三娘がまた言った。
バツ印のついた廃プールを振り返り、心の中で先に悪態をつく。 だろうな。こういう場所は、必ずプールを巣にしやがる。
底は乾いているはずだった。なのに第三の眼で覗くと、プール全体に薄い汚水が張っていて、その中に黒い影の塊がいくつも絡み合っている。水でふやけた人皮を何枚も丸めてボールにして、底に押し込んだみたいな感じ。近づいた人間の足首に絡みつこうと、ずっと待ち続けている。
今回は馬三娘が俺に先手を打たせなかった。
プールの縁まで歩き、底を見下ろして、冷え切った目で言った。
「声を借り、影を借り、形を借りて、かような場所で肥え太るとは——恥を知らぬか」
その一言が落ちた瞬間、底の塊がビクンと収縮した。恥部を突かれたみたいに、黒い水が一気にせり上がる。十数体の形の定まらない小鬼が一斉に底から這い上がってきた。肘、頭、背骨、牙——全部がでたらめに絡まり合って、見てるだけで頭皮が粟立つ。
銃を構えかけたところで、馬三娘が先に手を上げた。
指先が空中に一筆描く。速くはないが、どの線がどこへ落ちるべきか、最初からわかっているような迷いのなさだ。次の瞬間、プールの縁に描かれた赤いバツ印が、指一本で呼び覚まされたみたいに、ぱっと光った。
「すでに叉が刻まれておるなら」馬三娘は静かに言った。「掟に従うまでよ」
言い終わる前に、プールの縁を走る二本の斜めの赤線が下向きに燃え始め、まるで朱砂の火縄二筋で廃プール全体を釘付けにするみたいに広がった。這い上がりかけていた小鬼たちは、縁を越える前に一体ずつ押し戻され、ぬちゃぬちゃと湿った嫌な音を立てた。
「今よ」
俺への合図だ。
銃を上げ、プールの中心へ一発ぶち込む。
符弾が炸裂した瞬間、廃プール全体が底からひっくり返されたみたいに揺れた。黒い水、砕けた影、炎が一緒に吹き上がり、リハーサル室全体が濡れた布を焼くような異臭に包まれる。俺は半歩下がって飛沫を避け、底の塊が炎の中でしわくちゃな黒い核に縮んでいくのを見ていた。そいつはまだ亀裂の中へ逃げ込もうとしている。
馬三娘がプールの縁に片足を乗せた。
葉綺安が普段絶対にやらない動作だ。どれだけ気が強くても、彼女にはこういう「当然のように安定している」感じはない。縁の上に立ち、黒い核を見下ろした。灰皿の吸い殻でも見るような目で。
「散れ」
一文字。
黒い核はその場で粉々に砕けた。
B1全体の空気が、すっと軽くなった。
鏡の曇りが引いていく。照明が一段明るくなる。さっきまで鼻の奥に貼りついていた甘ったるい腐臭も、だいぶ薄まった。俺は銃口を下げ、息を吐いた。肩の辺りがようやく少しほぐれた気がする。
「地下室、とりあえず片付いたな」
「まだ早うございます」馬三娘は振り返り、階段口を見た。「上の方がよほど荒れておりまする」
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