05. 裂け目が広がる(きれつがひろがる) 5-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
午前の後半のリハーサルは、前半よりさらに見苦しいものになった。
と言っても、振りが崩れたわけでも、誰かが派手に転んでミスったわけでもない。本当にひどいのは、「全員が何もないふりをしているのに、全員のどこかに何かがこびりついている」あの状態だ。そういうやつが一番やっかいだ。ミスみたいにドカンと表面化しない。テンポに、視線に、「本来ならもっと綺麗に決まるはずのターン」やキメに、少しずつ、じわじわと染み込んでいく。
ルナは一声一声カウントを入れ続ける。声はまだ安定しているが、さっきよりも短く、鋭くなった。ロラは音楽を使わず、口でひたすら拍を刻み続けていて、最後の方は喉がかすれてきていた。葉綺安は、すべての動きを過剰なくらいにやりきろうとしている。一度でも止まったら、その瞬間に頭の中に別の何かが入り込んでくるのが分かっているみたいに。ノヴァはその逆だ。進めば進むほど、「何も問題ない人間」の顔になっていく。笑う余裕すら残っている。ぶん殴りたくなるくらいに、うまくやっている。
ベガは——
問題は、ポジションでもテンポでもない。
身体はここにあるのに、視線は「ここだけ」じゃない。
最初は、こっちの勘違いかと思った。昨夜のあれ以来、誰を見ても何か引っかかって見えるだけかもしれない、と。でも、まったく同じ場所で、三回続けて「おかしい」が出た。
一度目。鏡の右側からセンターへ戻る時、本来なら身体の動きと一緒に視線も滑ってくるはずなのに、その視線だけが半拍遅れた。何かが、目を引き留めたみたいに。
二度目。ロラが「七!」と数えた時、肩を回して次の動きに入るはずの瞬間——身体は回っているのに、目はまだ鏡の端に張り付いている。その食い込み具合は、足を踏み外しかけるほどだった。
三度目は、もっとはっきりしていた。
あの時、彼女は一番右側、バーの前に立っていた。背後の鏡には、プールの縁がぎりぎり映り込む位置だ。ロラが「もう一回最初から」と言い、全員が息を整えていたその時、ベガの肩が、何か熱いものに触れたみたいにビクッと跳ねた。そして、半歩分、左へずれた。
振付じゃない。
完全に、「避けた」。
俺は長椅子の横によりかかっていた身体を起こした。
「ちょっとストップ」声を出す。
ルナが俺を見て、眉をひそめる。
「何かあった?」
「まず水飲ませろ」俺は言った。「方思琪、ちょっと来てもらえる?」
地下室にいた全員の目が、同時に俺に向いた。
ベガ自身もこちらを見た。顔はまだ青い。その目は驚きというより、「ようやく呼ばれた」という色に近い。
理由は聞かず、ゆっくり歩いてくる。
葉綺安は少し離れた場所でタオルを首に当て、あからさまに不機嫌そうな目をしている。俺にじゃない。今の状況すべてに対してだ。ノヴァはミラーに寄りかかり、水のボトルを手にしながら、半分は野次馬、半分はメモを取るみたいな顔だ。
無視して、ベガをプール側、他の連中にあまり聞かれない位置まで連れていく。
立ち位置を決めて、彼女の方を見る前に——彼女の方が先に口を開いた。
「さっきのも、見てた?」
俺は彼女を見つめる。
「先に、あんたが見た方を言ってくれ」
すぐには答えず、まず鏡の方を見た。
今のミラーは、静かで、やけにきれいで、この地下室の誰の影もくっきり映している。でも、彼女の目は、自分を確認している目じゃない。あまり素直に映してくれない井戸を覗き込んでいるような目だった。
「毎回じゃない」彼女は、低い声で言った。「たまに、ちょっとだけずれる。たまに……わたしじゃない」
俺は口を挟まない。
彼女は、自分でも気に入っていない言い回しを探しているように、二秒ほど間を置いてから続けた。
「さっき三回目の時、右を見たら、鏡の中に映ってたのが、昨日わたしが着ていた服じゃなかった」
眉が自然と寄った。
「本気で?」
「本気じゃないから、言わなかったんだよ」彼女はきっぱり言う。「確信がない」
いかにも、彼女らしい。
感じていないわけじゃない。ただ、掴み切れていないものを、確定事項みたいに撒き散らすことをしない。それは、「ちょっとした音」にもすぐ「幽霊だ」と叫ぶタイプより、ずっと面倒で——同時に、ずっと信用できる。
まだ血の気が引ききっていないその顔を、俺は見た。
「昨夜は?」
彼女のまぶたが、わずかに動いた。
「音のこと? 夢のこと?」
「両方」
彼女は唇をきゅっと噛んだ。答えたくなさそうだったが、最終的には低く呟いた。
「音は、あった」彼女は言った。「上で何か、車輪が付いてるものが動いてるみたいな……夢は……少しだけ」少し間を置いて、視線は俺を向かない。「ちゃんとした夢って感じじゃない。ただ、目が覚めかけてるとき、耳元でずっと、あの歌を誰かが口ずさんでた感じ」
そこまで聞いて、だいたい掴めた。
ベガは、ただの神経質じゃない。
ベガ(Vega)が厄介なのは、普段から陰気だから何でもかんでも変な方向に受け取る——そういうタイプだからじゃない。
彼女は本当に、「拾って」いる。
ただ、その拾い方が、「鏡の中にフルCGの幽霊が立って手を振ってくる」みたいな分かりやすいものじゃない。この建物の中の「おかしい何か」が、まず最初に、もともと皮膚の薄い彼女みたいな人間を選んで、そっと指先で触ってきている、そんな感じだ。
「前からこういうのあった?」俺は聞く。
「こういうのって?」
「他の人が見てないものとか、聞いてないものを、先にちょっとだけ拾う」
少しの沈黙。
「たまに」
「そのたまに、全部本物だったか?」
「全部じゃない」彼女は淡々と言う。「ただの疲れの時もある」
俺はうなずいた。
この返事もまた、面倒くさいが現実味がある。いちばん人を削るのは、「確かに見た」っていう確信じゃない。アレが本当に変なものなのか、自分の頭がおかしくなりかけてるだけなのか、その境目が分からないあの感じだ。
「で、今はどっち寄りだ?」俺は聞く。
答える前に、彼女は一度、俺の左手を見た。
「今日、何か持ってきてるよね」
「ああ」
「ってことは、あなただって『わたしの疲れ』だけじゃないと思ってる」
今度は俺の方が、半秒黙る番だった。
それから、うなずく。
「そうは思ってない」
彼女はゆっくり息を吐いた。肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。リラックスとは違う。「少なくとも、自分を頭のおかしい子扱いしない相手が一人はいる」という事実に、ちょっとだけ助けられた抜け方だ。
「まだ、言うな」俺は言う。
「分かってる」
「あんたがまた何か見たら、まずあいつらじゃなくて俺に報告しろ」
彼女は顔を上げる。その目は相変わらず淡々としているが、その奥にようやく、生きてる人間らしい色が少し戻った。
「勘違いだったら?」
「それが一番怖えよ」俺は言う。「でも、その勘違いが全部現実だった方が、もっと嫌だ」
口元がかすかに動いた。笑いと呼んでいいのか微妙なくらいに、ほんの少しだけ。
「周士達」か細い声で言う。「時々、ほんとに口悪い」
「褒め言葉として受け取っとく」
彼女はそれ以上何も言わず、軽くうなずいてから、みんなのところへ戻っていった。
その背中を見送りながら、さっきまで曖昧だった嫌な感触は、さらに色を濃くした。
今この場所でいちばん厄介なのは、「全員が問題に気づいているかどうか」じゃない。
この家が、すでに「誰に触るか」を選び始めている、ってことだ。
最初に触られたのがベガだとすると、次は誰か、まだ分からない。
くるりと振り向いた時、ちょうどノヴァ(Nova)が少し離れたところに立っていた。ボトルの水は半分ほど減っている。だが、彼女の目が追っているのはベガじゃない。
——俺だ。
正確に言えば、さっきの会話がどれくらい続いたか、どれくらい距離を詰めて話していたか、戻るときのベガの顔がどうだったか。
一秒も無駄にしてねえな、この女。
視線がぶつかっても、彼女はそらさない。むしろ、ほんのり笑った。その笑い自体は薄い。でも、その奥に含んでいる意味は、ちっとも薄くない——「見たよ。それに、ちょっと興味ある」というサインだ。
いい。
また一個、面倒ごとが増えた。
午前のリハが終わりに差し掛かる頃には、地下室の空気は「なんとなく噛み合わない」を通り越して、薄くて嫌なイラつきで満ちていた。誰かが本気で怒鳴りあったわけじゃない。ただ、全員の余裕のメーターが、いつもよりずっと早くゼロに近づいている。
ロラは最後のカウントを叫び終えると、タオルを床に叩きつけた。
「飯! このままだと、その前に本体ぶっ壊す!」
「壊したところで直せるとは限らないよ」ルナ(Luna)が言う。
「じゃあ壊れっぱなしでいい」
「あんた、最近問題の解決方法がだんだんStella寄りになってない?」
ちょうど通りかかった葉綺安が、その一言を拾って振り返る。
「何であたしの名前出すの」
「ほらね」ロラが彼女を指さす。「こういうとこ」
今度はルナですらツッコミをやめて、代わりに時間を確認した。
「十二時半。二時まで休憩。午後はサビ抜きで、フォーメーションの調整だけ。Nova、ケータリングが着いてるか見てきて。Aurora、予備ケーブルの整理やり直し。Vega——」
「分かってる」ベガが言った。
相変わらず、口数は少ない。顔色も悪い。抱えてるものを、人に分け与える気なんてさらさらないって顔だ。
みんなが階段へ向かう。俺はわざと少し遅れて、武器バッグを長椅子の後ろに残したままにする。今すぐ何か起きる気配はないが、車の中よりはここに置いておいた方がまだマシだ。
バッグの位置を微調整していると、横で足音が止まった。
顔を上げなくても分かる。近づき方を散歩みたいに自然に見せながら、一秒で「通りすがりじゃない」と分からせられるのは、このフロアに一人しかいない。
「さっき、Vegaとずいぶん話してたね」
ノヴァが俺の隣に立っていた。声は抑え気味で、あくまでも二人だけの秘密をそっと共有する、みたいなトーンだ。
武器バッグを奥に押し込み、身体を起こす。
「だから?」
「別に」彼女は下を向き、黒いバッグを一瞥する。声は柔らかいまま。「ただ、ふと気づいただけ。あんた、誰かが何か抱えた時、最初に声かける相手になりやすいタイプなんだなって」
「あんまり褒め言葉には聞こえないな」
「他の人にとってはね」彼女は顔を上げ、目尻を少しだけ下げる。「でも頼られる側にとっては、悪くないでしょ?」
「それ、本当に褒めたいなら、もうちょっと心込めろよ」
「けっこう込めてるんだけどな」
彼女は半歩、前に出た。
今度の距離は、朝食の時の「同じテーブルにいるだけ」の近さでもなければ、さっきのリハ中の曖昧な探りでもない。もっと近い。汗とシャンプーの香りが混ざった匂いと、その下に、場違いなくらい清潔な香水のごく薄い匂いが混ざっているのが分かる位置。
よく計算された距離だ。
もう一歩近づけば、さすがに露骨すぎる。でも、これより遠いと意味がない。今のこの一歩が、一番誤解を生みやすくて、一番余計な想像をさせやすい距離。
「周士達」彼女は俺を見上げる。声は、人をくすぐるみたいに軽く。「実は結構、楽しんでたりする?」
「何を」
「みんながバラバラになりかけてても、最後はあんたのところに来るってやつ」彼女は言う。「口は悪いくせに、結局放っとかない。そういう人が一番タチ悪い」
「そんなに嫌いなら、もうちょい離れろよ」
「わたしも、あんまりまともじゃないから」
その一言を言う時の表情は、本当に「普通」だった。ふざけているようにも見えるし、本気にも見える。だが、俺は知っている。この女が言葉を軽くすればするほど、中身はまず間違いなく軽くない。
見下ろす。
「今のお前は、俺を口説いてんのか? それとも性格診断して遊んでんのか?」
目がわずかに輝いて、笑みが深くなった。
「どっちかしかダメ? 両方試すのが一番面白いのに」
いいねえ。
さっきより、ずっと露骨になってきた。
俺は半歩横にずれて、ミラー横の柱に背中を預ける。意図的に距離を戻す。
「蘇依依」俺は言う。「お前、人のものに触るの、好きだろ」
彼女は瞬きを一つ。
「その台詞、かなり危ないよ」
「危ないのが好きなんだろ?」
「全部が全部じゃない」彼女は俺を見つめ、笑いを少しだけ細くする。本当に「人」を見る目つきに近づけながら。「ちゃんと面白くないとダメ」
「ってことは、今の俺は『まあまあ面白い』枠か?」
「うん」彼女はこくりとうなずいた。「最初に想像してたよりはね」
「見る目ねえな」
「しょうがない」彼女は言う。「昔から、取りにくいものばっかり選んじゃうんだよね」
もう、含みでもなんでもなかった。
ナイフを鞘から抜いて、その刃を見せながら、「ほら、このナイフ、最初からあなた一人に向けたものじゃないって、もう気づいてる?」と笑ってるようなもんだ。
俺は笑わずに彼女を見る。
「そういうの、趣味でやってると、いつか本当に足元すくわれるぞ」
「でも、今のところ無事だし」彼女は小さく首を傾げる。「それに、危なくなりかけたときって、いつも誰かが先に止めてくれるんだよね」
言い方が、実にうまい。
俺をその「誰か」に引きずり込むようなニュアンスを滲ませつつも、「これは今までの人生の話です」と外枠を付けている。俺は、そのどっちにも乗りたくない。
何か言い返そうとした、その時——
ミラーの方から、小さな音がした。
コツン。
短い。
爪でガラスを一回だけ弾いたみたいな音。
俺とノヴァは同時にそっちを向いた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




