03. 一本の弦 3-1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ドア口で数秒立ち尽くしてから、ゆっくりと部屋へ引き返した。
ドアを閉める。手は、ノブの上でしばらく止まったまま離れない。
さっきの音が、まだ耳の奥に残っていた。単なる「変な音」じゃない。もっと厄介な種類だ——ほんの少ししか聞こえていないのに、「これは建物の老朽化で出る音じゃない」と確信させてくる、そういう音。
ベッドの縁まで戻り、左手を下ろして指輪を見つめる。
もうすっかり、あの「冷たくて何も認めない」いつもの顔に戻っていた。さっき骨に沿って這い上がってきた寒気なんて、こちらの気のせいだったとでも言いたそうに。
「死んだふりしてんじゃねえよ……」
低く悪態をついて、水でも飲もうと立ち上がったところで、ドアの外からノックが二回。
コン、コン。
強くもなく、急いでもいない。
だが、この時間に、フロア全体が静まり返った後では、この二回がやけに「厄介事が自分から来た」みたいな音に聞こえる。
ドアを一瞥して、すぐには開けない。
「誰だ」
外が一秒、止まった。
「幽霊」
白目を剥きながら歩いていって、ドアを開ける。
葉綺安が外に立っていた。髪はもう下ろしていて、ゆったりしたTシャツに着替えている。ノーメイク。口元は相変わらず硬い。腕を組んで廊下の蛍光灯の白っぽい光の下に突っ立って、自分から来て自分からノックしたくせに、まるで俺が八百万円の借金を今日まで踏み倒しているかのような顔をしている。
俺はドア枠にもたれた。
「礼儀正しい幽霊だな。来る前にちゃんと名前を名乗るとは」
「気持ち悪いこと言わないで」彼女は眉をひそめて俺を見る。「たまたま通りかかっただけ」
「ほう」俺は頷く。「たまたま通りかかって、たまたま二回ノックした、と」
「周士達」声が冷たくなり始める。「そんなにいちいち嫌味言わないと死ぬの?」
「夜の十時過ぎてから聞くのは、少し遅いな」
彼女は俺を睨みつけた。最初から何か言うつもりで来たのに、俺の最初の数言で台詞の足場を崩されて、もう元のペースで話したくなくなっている——そういう顔だ。
その顔を見て、俺は部屋の方へ軽く顎をしゃくった。
「話があるなら中で。廊下で立ってるとこ誰かに見られたら、俺が何かしたと思われる」
「あんたにそんな度胸があるなら褒めてやるわ」
口ではそう言いながら、足はちゃんと中に入ってきた。
ドアを閉める。鍵はかけない。彼女は机の横に立ったまま、座りもしないし、きょろきょろもしない。ただ立っている。部屋に来たのは話をするためじゃなく、何かを確認するためで、でも俺にそれを悟られるのは早すぎる——そういう立ち方だ。
部屋に二秒ほど沈黙が落ちた。
俺は水を注ぎに行き、ついでに紙コップをもう一つ取り出す。
「飲む?」
「いらない」
「じゃあ何しに来た」
「何でもかんでも全部言葉にしないと分からないわけ、あんたって」
紙コップを机に戻し、自分の分を一口飲む。
「そういうわけでもない」彼女を見る。「ただ、深夜に来て、世界中に借りがあるみたいな顔してるから、喧嘩しに来たのか、トイレットペーパーを借りに来たのか、判断がつかないだけだ」
葉綺安は冷たく笑ったが、すぐには返さなかった。
視線がほんの少し上に逸れた。何気ない素振りで天井をかすめて、すぐ戻ってくる。
その一動作で、十分だった。
俺は水のコップを置いて、何も言わない。
彼女も言わない。
窓の隙間を時折通り抜ける風の音だけが残る。お互い、その薄い紙一枚を先に破りたくない、そういう沈黙だ。
最終的に先に口を開いたのは、彼女だった。
「あんた、さっき……」一拍置く。この訊き方が直接すぎると思ったのか、もっと嫌味な言い方に切り替える。「何をうろついてたの」
「散歩」
「深夜に二階で散歩?」
「だったら何だよ」俺は言う。「山の研修施設に泊まるなら、夜間アクティビティのひとつくらいあってもいいだろ」
「ごまかさないで」彼女は俺を見据える。「さっき水を取りに行ったとき、あんたが階段のところに立ってるの、見た」
「ほう」
「目は見えてるから」
「じゃあ、俺がそこで暇つぶしに内装を鑑賞してたわけじゃないことも、見えてるだろ」
彼女は唇をきゅっと結んで、答えない。
この女は、こういうやつだ。話の足が玄関口まで来ているのに、絶対に自分でドアを押し開けようとしない。
俺も、代わりに開けてやる気はない。
「で?」机の縁にもたれて彼女を見る。「わざわざ来たのは、俺が夜中にうろついてないか確認するため?」
「あんたがここで死んだら、警察に連絡しなきゃいけないのが面倒だから」
「良心的な言い方だな」
「良心があるかどうかは別の話」彼女は冷たく言う。「あんたが合宿先で死ぬのが、私には迷惑なの」
「なるほど」俺は頷く。「それで、こんな時間にわざわざ来てくれたわけか。なんか、ちょっと感動するな」
「どうして一言一言全部そんなに腹が立つ言い方しかできないの」
「できるよ」俺は言う。「条件が一つ。『何か聞こえたんじゃないか』を『あんたが死んだら迷惑』で包装して持ってくるのをやめてくれれば」
彼女の表情が、一瞬だけ固まった。
本当に一瞬だ。
でも、見えた。
葉綺安は俺を睨んだ。目の中に、まず「図星を突かれた」不機嫌が走って、次にもっと厄介なものが続く——まだ誤魔化せると思っていたのに、一言で台詞の足場を崩されたときの、あの顔だ。
「何か聞こえたなんて、いつ言った?」
「俺が、お前が何か聞こえたと言ったか?」
「周士達」
「葉綺安」
彼女は奥歯を噛んだ。手の届くものを全部投げつけてやりたそうな顔で。
でも、動かない。
俺も急かさない。
数秒後、彼女はようやく不承不承、視線を外した。低い声で、一言だけ吐き出す。
「……上で、音がした」
俺は「ああ」と短く返す。
「どんな音だ」
「知らない」また口調が硬くなる。ここまで話しただけで、自分に十分恥をかかせたとでも思っているようだ。「最初は何かを引きずるみたいな音で、それからなくなった。Auroraがまだ起きてそっちをうろついてるのかと思ったけど、浴場にいたし。Lunaも部屋にいた。Vegaは……」
そこで止まる。
「Vegaがどうした」俺は訊く。
「別に」彼女は眉をひそめる。「あいつは元々おかしいから」
それは否定できない。
それ以上は追わず、さっきの歌声と車輪の音を頭の中で再生する。彼女が今聞いたのは、おそらくまだほんの一部だ。封鎖エリアの前で俺が聞いたほど、はっきりしたものじゃない。それはそれで、まだ全員が一度に発狂しなくて済む分だけ、ありがたい。
葉綺安は俺が黙っているのを見て、顔色がさらに悪くなった。
「あんたも聞こえてたんでしょ」
俺は彼女を見る。
彼女がすかさず付け足す。
「意見を聞きたいわけじゃない。自分で考えるのが面倒なだけ」
「修辞に随分と苦労したな」
「いい加減にしてよ!」
「わかった」俺は少し姿勢を正して、声のトーンも落ち着かせる。「聞こえてた」
彼女は黙った。
さっきまで互いに突っ張り合っていた火が、その四文字に押し潰されて、部屋の中がしんと静まり返った。
いくら強がろうが、探り合いをしようが、相手も「聞こえた」と頷いた瞬間、話はもう「かもしれない」じゃなくなる。想像の中にしかなかった不快感が、重みを持った現実として、ドスンと足元に落ちてくる。
葉綺安は腕を組んだまま、指先を自分の上腕の布地にじわじわと食い込ませた。
「風じゃない、よね」
「違うな」
「誰かがイタズラしてるわけでも?」
「だとしたら、そいつはまず壁を抜けて三階に上がる方法を覚えないといけない」
彼女が顔を上げる。
「三階が、どうしたの」
「封鎖エリアの向こうに何かいる」俺は言う。
顔色がさらに沈む。
「見えたの?」
適当にごまかそうとして、口まで出かかった言葉を止めた。ここでまだ隠しても、こいつを余計にイラつかせるだけだ。
「はっきりした形は見てない」俺は言う。「だが、指輪が反応した。三階を塞いでるガラクタの向こうに、陰気の残滓がある。真っ二つに切られたお札も落ちてた。さっき確認に行ったら、また上から音がした」
葉綺安は俺を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
今度は不機嫌じゃない。消化している。
こいつは俺の口がどれだけ悪いか知っているし、わざと場を荒らすのが癖だということも知っている。だが同時に、俺が深夜の怪音やお札のことで冗談を言う人間じゃないことも、ちゃんと分かっている。
「で?」彼女はようやく口を開いた。声が少し低くなっている。「ここ、本当に何かいるの?」
俺は口の端を引いた。
「ずいぶん上品な訊き方だな。俺から見れば、『何かいる』どころじゃない。最初から綺麗じゃねえんだよ、この場所は」
「だったら、なんで夜のうちに言わなかったの」
「言って、何になる?」俺は彼女を見る。「お前ら、今夜すでに内輪揉め寸前だったんだぞ。そこに俺が『あ、そういえば三階に幽霊いるかも』って付け足したら、みんなぐっすり眠れると思うか?」
葉綺安は一瞬言葉に詰まり、最後にかなり不服そうに言い返してきた。
「その『俺だけ冷静です』みたいな言い方、やめてくれない? すっごくムカつく」
「俺だって大して冷静じゃねえよ」俺は言う。「ただ、今ここで発狂しても何の助けにもならないってだけだ」
彼女は鼻を鳴らしたが、珍しく反論しなかった。
今夜の葉綺安にしては、相当な譲歩だ。
俺は彼女を見て、少し可笑しくなった。
「つまり、自分が幻聴じゃないか確かめに来たわけか?」
「自意識過剰」即座に返ってくる。「ただ、ここのエアコンと防音が両方ポンコツだと思っただけ」
「へえ、幽霊の音まで設備の老朽化で説明するのか」
「幽霊なんて言ってない」
「じゃあ、こんな時間に俺の部屋に来た理由は?」
「……」
また黙り込む。
二秒待って、俺が代わりに続けた。
「お前も、おかしいと思ったからだろ」
葉綺安は俺を睨んだ。眼光は鋭いが、今回はその鋭さの後ろに芯がない。最後の一枚の目隠しを剥がされて、表情だけで持ちこたえようとしているような、そういう目だ。
「周士達」彼女はゆっくりと口を開く。「これを誰かに言ったら、先にあんたを殺す」
「安心しろ」俺は言う。「深夜に人の部屋に来て幽霊が怖いと認めた、なんて話を言いふらす趣味はない」
「認めてない!」
「そんな音量で言うと、むしろ図星だって聞こえるぞ」
彼女は深く息を吸い込んだ。飛びかかって噛みつくのを、全力で堪えているのが分かる。
最後は冷たい顔のままドアの方へ歩き出した。
途中で止まる。
「……今夜は、あまり深く眠らないで」
俺は眉を上げる。
「引きずられるのが心配か?」
「あんたが死んだら、警察に事情聴取されるのが面倒なの」背を向けたまま、声は相変わらず硬い。「それと、深夜にまた音がしても、真っ先に突っ込んでいく間抜けにはならないで」
「それ、心配してるってことじゃないか」
「考えすぎ」
「お前は?」俺は彼女の背中に向かって訊く。「また聞こえたら、どうするつもりだ」
少し間があって、面倒くさそうに一言だけ落とした。
「……まずあんたのドアを叩く」
俺は笑いそうになった。
彼女もたぶん聞こえた。耳のあたりの輪郭が、ほんの少しだけ強張る。自分で言っておいて、自分でも嫌になっているみたいに。
俺は笑いを追いかけなかった。ただ頷く。
「了解。俺も何か聞こえたら、先にお前のドアを叩く」
彼女が振り返った。まだ「今すぐ埋めてやる」みたいな顔をしているが、入ってきたときよりは、目の緊張が少し解けている。
「本当に何かあったときだけにして」
「じゃなかったら?」
「先にあんたを殴る」
「合理的だ」
彼女は鼻を鳴らして、ドアを開いた。
外の廊下は、相変わらずだ。白っぽく、静かで、何も起きていないような顔をしている。
でも俺たちは二人とも分かっている。そういうことじゃない、と。
葉綺安はドア口で止まった。すぐには出ていかない。まだ何か言いたそうで、結局、小さな声で一言だけ付け足した。
「……ここ、本当に気持ち悪い」
今度は俺も、言葉で刺し返さなかった。
ただ彼女を見て、一度だけ頷く。
「ああ」
俺は言った。
「分かってる」
彼女は何も言わず、踵を返した。
廊下を遠ざかる足音を、ドアの前に立ったまま聞いていた。音が突き当たりに消えてから、ゆっくりドアを閉める。
部屋に静寂が戻ってから、左手の指輪を見下ろした。
まだ冷たい。
さっきみたいに急に噛みつくような冷たさじゃない。もっと安定していて、持続的で——まだ気を緩めるなよ、と静かに言い続けているような冷たさだ。
ドアにもたれたまま、しばらくそのままでいた。
最後に、静かに息を吐く。
よし。
少なくとも、一つだけ確かになった。
俺の気のせいじゃない。
葉綺安が神経過敏なわけでもない。
この別荘は、外も中も、マジで全部狂ってる。
葉綺安が去ってから、ベッドの頭側にもたれて、天井をしばらく眺めていた。
廊下はもう静かだ。建物全体が、「今夜はみんなちゃんと眠ります」という体裁を、ようやく整えたみたいに見える。
でも俺には分かる。こういう静けさが一番信用できない。本当に厄介なものは、こちらが「もう大丈夫」と思って緩んだ瞬間を、じっと待ってから、影の中からゆっくり頭を出してくる。
寝返りを打つ。やっぱり落ち着かない。
最終的に、堪えきれずに口を開いた。
「小雪、いるか?」
指輪がかすかに冷える。
次の瞬間、淡い寒気を帯びた白い影が、左手の側からふわりと浮かんだ。銀山温泉の雪女が、ベッドの縁に腰を下ろす。長い髪が静かに垂れて、表情は穏やかで、最初からずっとそこにいたのに、ただ出てくる必要がなかっただけ——そういう佇まいだ。
「妾はおそばに」
俺は彼女を見て、長く息を吐いた。
「上に行って、ちょっと見てきてくれないか」
冗談じゃない。指輪の中に雪女を住まわせているというのに、深夜に自分で突っ込んでいくなら、ここまで生き延びてきた意味が丸ごとなくなる。
小雪は小首を傾げた。その声は、屋根の軒先に雪が落ちるときのように軽やかで——それでいて、どこか逃げ場のない重さを秘めていた。
「周さん、妾身は午後にはもう確かめておりました」
一拍置いて、きっぱりと続ける。
「幽霊、おります」
俺は目を閉じて、指で眉間をぐいっと押した。
おう。
雪女の公式見解。
幽霊、確定。
「ただ——」と小雪は言った。俺の耳にあんまり刺さらない言い方を探すみたいに、ゆっくりと言葉を継ぐ。「妾身の見立てでは、あの霊どもは主様には手出しできません。中でいちばん強いのでも、先程のあの程度の騒音を起こすのが関の山。残りは、ほとんどが下級の騒霊でございます」
そこまで言って、声にうっすらと——本当にうっすらと——誇らしげなものが混じった。
「もし主様が、彼奴らの騒ぎを煩わしいとお思いであれば、妾身が上へ参って警告してまいりましょう。何しろ妾身は、上位種の霊でございますゆえ」
その妙に真剣な顔と、ズレた方向のプライドを眺めながら、俺はしばらく判断がつかなかった。まず褒めるべきか、それとも突っ込むべきか。
結局、咳払いでごまかす。
「……あー、うん。そのへんは信じとくわ」
小雪はこくりとうなずいて、その一言にそこそこ満足したような顔をした。
けど、すぐにまた静かになった。視線がすっと落ちる。まだ言い足りないことがある——そんな表情だった。
その顔を見た瞬間、胸のあたりが一段、沈んだ。
「……なんだよ」
小雪が顔を上げ、まっすぐ俺を見る。
「主様が今いちばん案じるべきは、あの下級霊どもではなく——あの歌でございます」
俺はベッドの上から、ガバッと上体を起こした。
「お前も聞こえてたのか?」
こくり。
「耳にいたしました」
それから、彼女は小さく口を開く。軽くて、平板で、なのに背筋がじわっと冷えてくるほど正確な発音で——あの旋律に紛れ込んでいた歌詞を、そのまま口にした。
「Wie immer wenn ich nach dem Leben griff
Blieb nichts in meiner Hand
Ich möchte Flamme sein und Asche werden
Und hab noch nie gebrannt」
(いつものように命に手を伸ばせば
この手には何も残らない
炎になり灰になりたいのに
一度たりとも燃えたことがない)
最後の音を小雪がすっと閉じる。部屋の中に、二秒ほど、静けさが降りた。
普通の静けさじゃない。
ただベッドに座ってるだけなのに、背中がじわじわ冷えてくる。一度「ちゃんと」人の口から歌われてしまった途端、あの旋律の質が変わった。さっき階上から流れてきた時は、まだただの「どっかで聞いたことある」「たぶんドイツ語っぽい」「クソ不吉だろこれ」くらいの代物だったのに——今の一節で、急にそいつに、形と、骨と、来歴が生えた。
俺はベッドの上で彼女を見つめ、数秒置いてから口を開く。
「……マジで、それで合ってんのか?」
小雪は、また素直にうなずいた。
「妾身の記憶に狂いはないかと。ドイツ方面のオペラ曲。しかも、そこらで誰もが口ずさむ小唄などではございません。かようなものを霊の内側にまで引き込むような輩は、梁にぶら下がって脅かす程度の下っ端の鬼ではございますまい」
俺は舌打ちして、ベッドのヘッドボードに背中を預けた。
「はい出た。台湾ローカルの怪談すっ飛ばして、いきなり輸入品コースね」
小雪は、その悪態には乗ってこない。静かに俺を見ている。
俺が頭の中で組み立て終わるまで待ってやがるのは分かってる。
だから、急いで言葉を継がずに、さっきの出来事を一個ずつ並べ直した。
階上からのノイズ。三階で封鎖されてる通路。切られてた札。死神の指輪の反応。それと、こんな台中の山奥の廃れた訓練センターにいるはずのないドイツ語の歌。
ただの幽霊なら、まだ楽なんだ。
幽霊がいるってことは、基本的にまだこの建物の「理屈」の中に収まってる。どこで死んだ、どこに引っかかった、誰を恨んでる、この土地の風水がクソ——なんにせよ、話は「ここ」の話になる。面倒は面倒でも、とりあえず面倒の形は分かる。
今のは違う。
今は、たしかにこの建物には幽霊がいる。けど、本当におかしいのは幽霊そのものじゃない。
俺は小雪の方を見る。
「さっき、お前、あの下級の騒霊は俺には手出しできねえって言ってたよな」
「はい」
「じゃ、あいつら——今、何してんの?」
小雪は少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「どちらかと申しますと……吸い寄せられている、という感じにございます」
眉間が勝手に寄る。
「何に吸われてんだよ」
「あの歌、あるいは、あの歌を歌っている何者かに、でございます」彼女はそう言った。「主様が先程、三階の辺りで感じられたのは、一フロア全体が同じ種類の霊で満ちている感触ではありませぬ。元々は大した力もないものたちが、もっと深いところからのシグナルにかき混ぜられて、ひとところに集められている……そんな気配。彼奴ら自身、自分が何をしているか、はっきり自覚しておりませぬ。ただ、引っ張られるまま、動かされているだけ」
歯の奥がきゅっと軋んだ。
その説明、気に入らねえ。
三階の連中は本丸じゃない。ヘタすると共犯にすらなってねえ。ただ汚れた水に長く浸かって、いっしょくたに濁っただけの浮きカス。本当にタチが悪いのは、その「シグナル」の方——そういう話になる。
顔を片手でごしごしこすった。
「つまりあれか。この建物に地元の幽霊がいるのはいるけど——あの歌は、そいつらの持ち物じゃねえってことだな?」
「妾身は、そのように見ております」
「しかも、そいつはあいつらより格上」
「少なくとも、ずっと『形』が整っております」小雪は言った。「下級の霊は、多くの場合、執着と残像だけになり果てております。騒ぐ、脅かす、そこまでは致しましょうが——歌を選ぶほどの余裕は残っておりませぬ。ましてや、このような……主様の夢の中の線と、ぴたりと繋がり得るものなど」
俺は、すぐには返事をしなかった。
夢の中の廃病院。白衣の老人。車椅子。あのワイスマン(ワイスマン)の、耳にこびりついた「Ja, mein Führer」(イエス・マイン・フューラー/はっ、我が総統)。それから、目を覚ました時、ニュースで流れてた、見た瞬間に「ろくなことにならねえ」と分かるヨーロッパ情勢。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




