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S2第八十八章 ただいま

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

松山空港 国際線到着ロビー|09:42

松山空港の到着ロビーは、成田ほど広大ではない。

天井は低く、動線は密。空間全体に言いようのない既視感(デジャヴ)が漂っている——何度も訪れた場所だが、その度に何かが微妙に異なっている、そんな感覚だ。俺は手荷物受取所のターンテーブルの傍らに立ち、鈍い音を立てて回るベルトコンベアを眺めていた。あの黒いスーツケースの山から、自分のバッグを見つけ出そうと目を凝らす。

その時、背後から声がした。

「わあ、台北ね。……ちっさ」

琉璃(ルリ)だ。

神代琉璃(じんだい るり)。百七十九センチの長身に、不釣り合いなほど巨大なバックパックを背負い、入国審査を終えたばかりの観光客のような眼差しでロビーを見渡している。弥生より五センチ高く、肩幅も広い。彼女がそこに立つだけで、周囲の空間が彼女のために譲歩しているかのような、奇妙な「体積感」が生じていた。

「台北は元々こういう所よ」隣で弥生(ヤよい)が応える。「……初めてじゃないでしょう」

「最後に来たのは八歳の時だもん」琉璃が言う。「もっと小さい記憶しかなかったわ」

「八歳の時点ですでに大柄だったじゃない、お姉ちゃん」

「……あんた、喧嘩売ってるの?」

弥生は答えなかった。彼女がこの手の問いに正面から向き合うことは稀だ。

俺は視線をターンテーブルに戻した。

神代琉璃。

機内でもずっと、この女のことを考えていた。壺を叩き割った話など、もはやどうでもいい。俺が思考を割いていたのは、彼女の「術式」だ。

弥生は広範囲・高精度の支援型(サポーター)だ。祝聖(しゅくせい)。東京湾での作戦中、彼女の結界は俺たちの実効戦闘力を少なくとも三割は引き上げていた。だが、弥生は前線には立てない。彼女が集中を欠けば、祝聖の術理が崩れるからだ。

だが、琉璃は違う。

俺は、彼女の「手」を盗み見た。

右手の薬指には古い傷跡がある。指の付け根から節にかけて走る、白く変色した古傷。訓練で付くような甘い傷じゃない。凄絶な実戦を潜り抜けてきた証だ。左手首には、墨で刻まれた符文がある。粗削りで、正規の術式刻印というよりは、修行時代に自ら刻みつけたような無骨なものだ。

——進攻型(アタッカー)

それも、自分自身の消耗すら計算に組み込んだ、苛烈な破壊を身上とするタイプだ。

「……さっきから私の手ばっかり見てるわね」

顔を上げると、いつの間にか横に立っていた琉璃が、すでにスーツケースを下ろして首を傾げていた。

「職業病だ」俺は言った。「……術式の査定をしてた」

「ふーん。で、評価は?」

「……まだ保留だ」

彼女は鼻を鳴らし、スーツケースのハンドルを引き出すと、出口へ向かって歩き出した。


宿泊先へ向かう車中|10:15

日本霊務局の台湾支部が手配した九人乗りの送迎車が、俺たちを運んでいた。

アピスは最後列に陣取り、どこで手に入れたのか台湾名物の牛軋糖(ヌガー)を器用に剥いて頬張っている。エリス(Astrid)は窓際に寄りかかり、バックパックを膝に乗せて瞳を閉じていた。中列に座る林雨瞳(リン・ユートン)は、ノートに何事かを書き留めている。ちらりと覗くと、空港出口の平面図のようだった。

隣には高國城(カオ・グオチョン)が座っている。

「帰ってきたな」彼が言った。

「ああ」

「気分はどうだ?」

「……酷く疲れてる」

彼は頷き、それ以上は何も訊かなかった。高國城の美点は、沈黙すべき時を心得ていることだ。

後部座席では、琉璃が窓を全開にして外を眺めていた。台北の朝。空は独特の白みがかったブルー。高速道路の防音壁が流れていき、時折、高層ビルや(びょう)の屋根が視界をよぎる。

「……台北って、お寺が多いのね」

彼女が、独り言のように呟いた。

「ええ」弥生(ヤよい)が短く応える。

「日本の神社とは、何かが決定的に違うわね」

「建築体系が異なるからよ」弥生は淡々と解説を加える。「けれど底層の構造は類似している。龍脈の走り方は近いけれど、枝分かれの仕方が……」

彼女は言葉を切り、姉を横目で見た。

「……本当は、そんなこと訊きたいわけじゃないんでしょ?」

琉璃(ルリ)は答えなかった。

沈黙の後、彼女は重い口を開いた。

「……私が叩き割ったのは、清枝(キヨエ)の壺よ」

車内の空気が、一瞬にして凍りついた。

「知っているわ」弥生の声は、感情の起伏を失っていた。

「あの壺には分霊(わけみたま)が封印されていた。あいつ、自分の霊能の一部をそこにストックして、『万が一の備え』だなんて言ってたわ」琉璃が自嘲気味に鼻を鳴らす。「それを、私が壊した」

「……あなたが壊したのは、奴の力の欠片そのものよ」弥生が静かに告げる。「ただ腹を立てるだけで済むはずがないわ」

「分かってる」

「あいつ、追ってくるわよ」

「分かってるわ」琉璃は窓の外を見つめたまま言った。「……だから、あんたのところへ来たんじゃない」

弥生はさらに長い沈黙に沈んだ。窓外の高速道路は市街地へと降り、道は狭まり、信号機が目立ち始める。台北の喧騒に満ちた朝が、本格的に幕を開けていた。

「……歓迎するわ」弥生は最後に、平板な声で言った。「私のお姉ちゃん」


霊務局報告会議|13:30|信義区某所・地下三階

霊務局台湾支部の会議室は、東京のそれよりも遥かに「お役所」然としていた。

長いテーブル、十二脚の椅子、プロジェクタースクリーン。空調は無駄に効きすぎていて肌寒い。壁には台湾全土の地図が掲げられ、俺には判別不能なカテゴリー別のマーキングが施されている。

対面には三人の人物が座っていた。中央で進行を務めるのは、初対面の中年女性——ネームプレートには、霊務局台湾支部副局長・陳欣瑜(チェン・シンユ)とある。その隣には、一心不乱にキーボードを叩く若手分析官。そして三人目は、見覚えのある顔だ。国安局の官世恆(グァン・シーハン)が、相変わらず冷え切った死人のような面構えで座っている。

隣には高國城(カオ・グオチョン)

「東京任務について」陳欣瑜が口を開いた。「我々が受理した情報によれば、大日本護国結界の安定度は91.4%まで回復。アンカー二十三箇所の消去を確認。利維坦(リヴァイアサン)の封印も維持されています。日本側霊務局による評価は——A+」

彼女は俺を射抜くように見た。「これは奴らの出した評価よ。私が下したものではないけれど」

「分かってるさ」俺は熱も冷たさもない声で応えた。

「……もし俺が公務員だったら、今年の勤務評定(ボーナス)は『特優』間違いなしってところか?」

(ジョウ)さん。任務の結果について、何か補足はありますか?」

「ワイスマンを取り逃がした」俺は淡々と告げる。「奴は魂の精髄(エッセンス)の一部を持ち去ったはずだ。量は多くないが、当面食い繋ぐには十分だろう。現在の行方は不明だ」

陳欣瑜(チェン・シンユ)がタブレットに記号を書き込んだ。「日本側に追跡の意志は?」

「あるにはあるが」俺は肩をすくめる。「あいつは潜伏のプロだ。そう簡単には尻尾を出さないだろうよ」

「了解しました」彼女はページをめくる。「台日関係について——日本外務省の公式見解は『海底地質活動に起因する霊場異常であり、関係機関による処置は完了済み』。民間による目撃記録はランクCに指定され、非公開扱いとなりました」

「つまり、公的には何も起きなかったってわけだ」俺は隣の男を小突く。「聞いたか、老高(ラオガオ)。また骨折り損のくたびれ儲けだ」

「公式な視点では、そうなりますね」彼女は平然と続けた。「ですが、台日両局の間で覚書(メモランダム)が交わされました。今後十二ヶ月間、ランクC以上の霊場事案に関する情報共有を行うことが合意されています」彼女はタブレットを俺の方へ向けた。「これが今回の付随的成果——『台日霊務協力枠組み』。その初の正式文書です」

目を通す。確かに、前例のない一歩だ。

だが、俺は何も言わなかった。

「さて」陳欣瑜が声を低くする。「君たちに把握しておいてほしい新たな状況があります」

プロジェクターが起動した。映し出されたのは台湾北部の地図。基隆(キールン)沖に赤いマーキングが点灯している。

「過去三ヶ月間、七十二時間周期で発生している低周波の霊能異常です」分析官が、台本を読み上げるような速さで解説を加える。「パルスの持続時間は固定で、四分十七秒。強度は3.2から4.1の間で推移しており、上昇傾向はありませんが消失の気配もありません。座標は毎回微妙にズレていますが、すべて基隆沖半径十五キロ圏内に収まっています」

俺はその数字を、脳内のログと照らし合わせた。

「——震源地(ソース)は?」

「不明。該当箇所に既知の霊場は存在しません」

俺はその数値を記憶に刻んだ。

四分十七秒。

東京でも目にした数字だ。……偶然であるはずがない。

「神代弥生および神代琉璃(じんだい るり)の処遇についてですが」陳欣瑜が話を戻す。「霊務局は六ヶ月の臨時居留許可を出します。延長も可能です。住居に関しては中山区に予備のマンションを用意しました。二LDKです。……ただ、琉璃氏については」彼女は言葉を濁した。「彼女が非公式な形で日本を離れたことは把握しています。現時点で日本側に正式な処置の動きはありませんが、神代家はあちらの局の協力家系です。もし、彼らが返還を要求してくれば——」

「……保留にしておけ」俺は遮った。

「問題が起きてから考えればいい」

陳欣瑜が鋭い視線を向けてくる。「本気ですか?」

「あいつらは俺の人間だ」俺は茶化すような態度を捨て、正面から彼女を見据えた。「何かあれば、俺が責任を取る」

彼女はタブレットに何かを書き込み、それ以上は追求してこなかった。


中山区某マンション|17:20

マンションは中山北路の近くにあった。地下鉄の駅まで徒歩五分。一階にはコンビニとパン屋がある。二LDKの室内は、いかにもIKEAといった感じの家具で統一されていた。窓は東に面しており、夕暮れ時になると独特の柔らかい光が差し込んでくる。

弥生は部屋の中央に立ち、しばらく無言で立ち尽くしていた。

「……広さは足りるか?」俺が訊く。

「ええ」彼女は言った。「十分すぎるわ。……ありがとう」

「霊務局の備品だ。俺のじゃない」

「知っているわ」彼女は俺の方を向き、静かに続けた。「……けれど、あなたが『責任を取る』と言ってくれたことも知っている」

彼女は一呼吸置き、少しだけ不安そうな色を瞳に宿した。

「……お姉ちゃんは、少し付き合いにくいところがあるけれど」

「見てれば分かるよ」

「……悪い人では、ないから」

「分かってるさ」俺は応えた。「進攻型(アタッカー)の術師は皆そんなもんだ。気性も術式も、最短距離を突き進むようにできてる」

弥生(ヤよい)は一秒の沈黙の後、静かに問いかけてきた。「……本当に、彼女を『査定』しているのね」

「ああ」俺は否定しなかった。「俺たちには、前衛(フロント)が足りない」

彼女は何も言わず、ただ一度だけ頷いた。

リビングでは、琉璃(ルリ)が巨大なバックパックをソファに広げ、中身を一つずつ並べていた。着替え、紙に包まれた正体不明の何か(俺は訊かなかった)、日本から持参した三つの護符、そして——半分に割れた木製の御守り。

彼女はその木札をしばらく見つめ、無造作にテーブルへ置いた。

「……それは、お母さんの?」

部屋から出てきた弥生が、それに気づいて足を止める。

「ああ、清枝(キヨエ)の親父がよこしたやつだ」琉璃が吐き捨てるように言った。「叩き割ってやろうと思ったけど……まあ、やめといたわ」

「……その方がいいわね」

「分かってるわよ」琉璃は鼻を鳴らす。「……ただの強がりだよ」

弥生はキッチンへ向かい、二つのグラスに水を注いで戻ってきた。一つを琉璃の前のテーブルに置く。琉璃はそれを手に取り、一口啜った。

「台北の水は、大阪とは違うわね」

「ええ」

「……美味しくはないけど、不味くもない」

「台湾の水は、だいたいそんなものよ」弥生が椅子に腰を下ろした。「慣れなきゃいけないことは山ほどあるわ。水だけじゃなくてね」

琉璃はグラスを置き、窓の外へと視線を投げた。「……おいおい考えるわよ」


その日の夜。俺は自分の仮住まいへ戻り、山口多聞(ヤマグチ・タモン)から託されたあの包みをテーブルに置いた。

懐中時計。

そして、真鍮製の古い鍵。

懐中時計の蓋を開ける。中身は空だった。動かぬ針が十二時三分を指して止まっているだけ。だが、そこには確かな「温感」があった——微かだが、確実にそこに在る。

ある種の詳細不明な分霊体(わけみたま)。温かく、呼吸のような律動。極小まで圧縮された霊識の残滓。

「……山口、そこにいるのか?」

応答はない。

俺は時計を閉じ、引き出しの奥へと収めた。

鍵の方は、また別の話だ。真鍮製、年代物。手にはずっしりと重く、龍の紋様が刻印されている。それ以上の手がかりは今のところない。

それが何を開くのか、俺にはまだ分からない。

だが、それが「何か」を開くためのものであることだけは、確信していた。

台北の夜には、独特の低周波ノイズが満ちている。遠くの喧騒と、さらにその奥にある「何か」が混ざり合った響き。うるさくはないが、それは絶え間なくそこに存在し続けている。

——すぐに、始まる。

そんな予感が、暗闇の中で静かに脈打っていた。






エピローグ




懐中時計(かいちゅうどけい)

灯りを消し、ベッドに横たわって天井を凝視する。

台北の夜には、独特の低周波ノイズが満ちている。遠くの喧騒と、さらにその奥にある「何か」が混ざり合った響き。うるさくはないが、それは絶え間なくそこに存在し続けていることを肌で感じる。

俺は、静かに瞳を閉じた。

その時だ。一つの「音」が耳を打った。

極めて小さな音。機械の歯車が噛み合うような音——金属と金属が触れ合う、硬質で精緻な響き。カチリと、たった一度だけ。

俺は目を見開いた。

引き出しは閉まったままだ。灯りも点いていない。部屋の中には、俺以外の気配は微塵もなかった。

三秒の沈黙の後、俺は身体を起こし、引き出しを引いた。

懐中時計は、そこにあった。あの真鍮製の、古びた懐中時計だ。掌に乗せると、それは「熱」を帯びていた——さっき触れた時の体温の残り香ではない。内側から発せられる、生き物の呼吸にも似た拍動を伴う熱だ。

俺は、その蓋を開けた。

針は、十二時四分を指して止まっていた。

さっきまでは、間違いなく十二時三分だった。

見間違いであるはずがない。

俺は時計を掌に置いたまま、そこでじっと座り続けた。一分、二分……。何も起きない。諦めて手を引こうとした、その瞬間だった——。

文字盤のガラスが、白く曇り始めた。

内側からだ。

霧がガラスを覆い、やがて誰かが指先でなぞるように、一画ずつ、ゆっくりと……。その曇りの中に、三つの文字が浮かび上がった。

中国語ではない。

日本語でもない。

それは、ドイツ語だった。

『Bald kommt er.』

俺はドイツ語なんて解さない。だが、その言語に精通している人物を一人知っている。

俺はその三つの単語を凝視した。それらは五秒ほどガラスの上に留まり、やがて霧が晴れるように消え去った。懐中時計は再び冷たくなり、針は——何事もなかったかのように十二時三分へと戻っていた。すべては元通りだ。

俺は時計を引き出しに戻して閉めると、灯りを点けてベッドの縁に腰掛けた。スマートフォンを取り出し、エリス(Astrid)へメッセージを飛ばす。

『ドイツ語で「Bald kommt er」、どういう意味だ?』

三分後、彼女から返信があった。

『——「彼はもうすぐ来る(He is coming soon)」。』

続けて、彼女からの問いが画面に踊る。

『誰が、あなたにそんなことを書いたの?』

俺はその問いを見つめたまま、答えることはなかった。

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不明海域・深度二百二十メートル

潜水艦のエンジン音は、重く低い地鳴りのように響いていた。それはまるで、巨大な怪物が平穏に呼吸を繰り返しているかのようだ。

船室の隔壁は古び、鋼板の溶接痕にはいくつかの錆が浮き出ている。深色の充填材で補修された跡は不格好だが、機能は果たしていた。この船は軍用でも、最新鋭でもない。改造された——移動式の実験室。元が何であったかはもはや無意味だ。重要なのは、今この船が何であるか。あらゆる海域に潜み、誰にも邪魔されぬ密閉空間としての機能である。

ワイスマンは円形の船室の中央、その床に直接座り込んでいた。

椅子は使わない。胡坐をかき、両手を膝に置く。瞑想のようにも見えるが、その唇は絶え間なく動いていた。極めて微かに、そして急き立てられるように。傍にいる者がいれば、それが興奮によるものか恐怖によるものか判別できず、ただただ不快な周波数を放っていた。

彼の目の前には、小さな容器が置かれている。

それは彼が東京から持ち出した唯一の「成果」だった。持ち出す手口は極めて単純。誰もが(リヴァイアサン)の巨躯に目を奪われていた隙に、彼は別のことをしていたのだ。大掛かりな動作は必要ない。特製の容器と、針の穴を通すような精密な術式。そして、この道に捧げた三十八年分の忍耐があれば事足りる。

容器は透明なガラス製で、薬瓶ほどのサイズしかない。

中には「何か」が入っていた。極めて少量の、無色に近い液体。だが、船室の照明の下で凝視すれば、その液体の中で何かが微かに流動しているのが見て取れる。それは光ではない。光よりもさらに根源的な「何か」が、自らの意志でどこかへ向かおうと蠢き、容器の壁に阻まれているのだ。

ワイスマンはその容器を凝視し、一つ息を吐き出すと、ふっと笑みを浮かべた。

誰に見せるための笑みでもない。船室には彼と、その容器と、エンジンの唸りしかないのだから。それは長く、孤独な旅路の果てに、唐突に終着点を見出した者だけが浮かべる表情だった。

「……もうすぐです」

密閉された空間に、彼の声が反響する。喘ぎを含んだ、安堵に近い吐息。

「……すぐに、あなたを救いに行きますから」

彼は容器に手を添えた。触れはしない。ただ、そのガラスの壁を透かして伝わってくる、彼にしか感じ取ることのできない極微な波動を享受していた。

カメラが、彼の顔からゆっくりと引いていく——。

円形船室の壁面。彼の背後には、黒い塗料で描かれた巨大な「記号(シンボル)」が鎮座していた。線は太く無骨だが、描いた者の迷いは一切感じられない。その構造は極めて古く、もはや歴史の闇に葬り去られたはずの代物。東洋の起源でも、日本の伝統でもない。二十一世紀のいかなる霊能学流派も扱わぬ、異質の術理。

それは、不吉だった。

一目見た瞬間に「この世に存在してはならない」という本能的な拒絶感を抱かせるほどに、禍々しい。

船室の空気は、外よりも常に二度低い。

あの記号が描かれたその日から、ずっとだ。


ワイスマンの瞳は、その不吉な記号の下で、容器の傍らに寄り添うように輝いていた。それは「希望」と「狂気」の境界を溶解させたような、異様な光。

彼は極めて微かな声で、最後の一節を紡いだ。

「……もう少し、もう少しだけお待ちください……」

一秒の静寂。彼は言葉を切り替え、自らの母語へと回帰した。三十八年前、まだ一篇の論文すら発表していなかった若き日の彼が語っていた、あの言語へと。

「——Mein Führer. (わたしの元首)」

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窓のない円形の小部屋。壁から突き出した電球が、病的な橙色の光を放ち、空間全体を黄疸にかかったように染め上げている。奴の膝の上には、例のガラス容器が置かれていた。液体は先ほどよりもわずかに減っている。——精髄(エッセンス)が徐々に消耗されているのだ。だが、構わない。次のステップへ、この「モノ」を再び覚醒させるためには、これで十分だ。

容器の中の液体が、不意に動いた。

ワイスマンが顔を寄せる。

透明で、どこか金属的な光沢を帯びた液体。それは通常、水草や海月のように静かに揺らめいているだけだ。だが今、それは旋回を始めていた。外部からの振動ではない。内側から湧き上がる自律的な渦。中心部には、極小の「暗点」が形成されていた。周囲よりも密度が高く、重く——。

そして、何よりも「清醒」していた。

ワイスマンの手が、目に見えて震え始める。

「……あなた様……」彼の声は、自分でも驚くほど掠れていた。「……私の声が、聞こえるのですか?」

暗点は動かない。だが、それは凝縮された。散漫だった意識が初めて焦点を結んだかのように。数十年の眠りに就いていた怪物が、たった今、光を感じ取ったかのように。

そして、それは「拍動」した。

たった一度。心音のように。呼吸のように。あるいは、問いかけのように。

ワイスマンは容器を胸に抱き、全身を震わせた。それは恐怖ではない。あまりにも長く抑圧され続けた狂喜が、ついに決壊したのだ。瞳からは涙が溢れ、唇は高速で祈りの言葉を刻む。ドイツ語。速く、低く。それは祈祷であり、確認であり、生涯をかけて待ち望んだ「その一言」への返答だった。

その時、壁の黒い記号が、黄電球の下で初めて「紅い光」を放った。

わずか一秒。

直後、紅光は消え去り、エンジンの低鳴だけが船内に残る。深海は依然として暗く、ワイスマンは床に座り込んだまま容器を愛おしそうに抱きしめていた。その顔には、見る者すべてに「異様」を確信させるような、歪な笑みが張り付いていた。

「Ich wusste es. Ich wusste es die ganze Zeit.」

(分かっていましたよ。ずっと、ずっと分かっていたのです)

──第二部 完──


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